□ 土岐頼武と政頼、頼純との関係 (問い) 美濃守護の土岐氏家督に関して、土岐頼武の問題が、どうしてもはっきりしません。 『岐阜県史』は横山住雄説の「土岐頼武−頼純」(親子説)をとっていますが、すでに樹童氏指摘のごとく、私も土岐政頼、盛頼、頼純、頼武は同一人物であろうと考えております。また、地元岐阜県の方でも、考え方は二分されております。
どのように考えれば良いのか、ご教示頂きたいと思います。
<追伸> 南泉寺(高富町)には天澤宗清居士(朝倉貞景)の三十三回忌之香語山縣郡居住奉三寳弟子孝女が残されており、この女性は朝倉貞景の娘であり斎藤利国の室利貞尼の孫にあたる人であろうと考えられます。利貞尼の寺または近くの汾陽寺に住んでいたであろうとも思われます。
香語の仁岫和尚(南泉寺)が土岐、斎藤氏の盛衰を全て知っていると考えられますが、今となってはわかりません。朝倉貞景の娘が武芸川町谷口近辺に居住していたのであれば、土岐、朝倉氏の深い関係が推測されますが、それ以上わかりません。
伝明智光秀の墓も山県市中洞にあります。(荒深氏の説は荒唐無稽のように考えています)。この墓は見に行ったことがありますが、この墓こそ斎藤道三に憚って建てられたような感じがあり、土岐政頼、頼武の墓のような気がします。
(林正啓様より。05.6.17受け) |
(樹童からのお答え) 1 土岐頼武という名前については、『岐阜県史』『岐阜市史』などを見て、初めて知りましたが、また林様から届いた資料のなかに土岐頼武の名前を見て、さらに認識した次第です。横山住雄氏の主張以来、地元では「頼武−頼純」親子説(以下「親子説」という。これに対して、これまでの見方を「同人説」という)がかなり有力のようですね。
土岐頼武の実体については、管見に入った資料を総合的に考える限り、結論的には最後の守護頼芸の兄の土岐二郎政頼であり、頼純もその別名の一つとする(同人説)のが妥当と思われます。
本件問題は、別名としては、盛頼や頼純が通用していて、頼武という名は文書や辞典類では殆ど見ませんが、頼武の名を記す資料も僅かながらあり、それと他の名前との関係をどうみるかということになります。具体的には、この問題は、@土岐政房の長子で、頼芸の兄にあたる者の名はどうだったか、Aその頼芸の当該兄に子がいたか、いた場合にはその名はどうだったか、という二点に帰着すると思われます。以下に、具体的に検討を加えてみます。
2 これまで多くの系図及び関係資料を見てきましたが、中世及び近世の系図史料には頼武の名は見えません。また、多くの書でも、『姓氏家系大辞典』や『日本史総覧V』所載「武家系図」、『土岐市史』などのように、頼武の名を記さないものが殆どすべてであって、中央で発行された書物のなかでは『日本史大事典』(平凡社、1993年刊)で記述文中に言及がないものの附載の系図に政房の子として頼武・頼芸をあげる(勝俣鎮夫氏執筆)のが眼に着くくらいです。
もう少し例をあげると、「土岐斎藤由来記」(『軍記類纂』所収)では、濃州の太守土岐美濃守政房に子息数多ありとして、長男森(ママ)頼、二男頼芸、三男治頼……とあげ、さらに「長男盛頼は、家臣西村勘九郎が逆心に依りて越前へ行く。二度西村退治の為め濃州に来り、天文十六年未十一月十七日に卒す。南泉寺殿玄珪大居士と追号す。」と記されます。『新撰美濃志』山県郡大桑村古城条には、「土岐右衛門尉頼純。はじめ美濃守政頼といひて、当国の守護なり。……同年(天文十六年)十一月十七日病卒、年四十九。法号を南泉寺玉岑玄珪居士といひ、其の墳は当村南泉寺にあるよし」と記されます。
また、辞書等の例では、阿部猛等編『戦国人名事典』は、頼純で見出しを立て、政頼・盛頼の別名をあげますが、頼武の名はあげません。そこでは、生年不詳で、永正十四年(1517)に家を継ぎ、その十年後の大永七年(1527)に西村勘九郎(斎藤道三)に擁立された弟・頼芸に追われて越前朝倉氏を頼ったことが記されます。しかし、この両方の年代について異説があり、とくに後者の年代にはもう少し遅い時期の享禄元年(1528)とも同四年(1531)頃、天文のはじめ頃(同元年が1932)ともされています。
『日本人名大辞典』(平凡社刊)でも、土岐頼純の名であげ、生没が1499〜1547として永正十四年に家を継ぎ、美濃を追い出されてから従兄弟の朝倉義景を頼ったと記されており、また、『日本歴史大辞典』(日置弥三郎執筆、1985年河出書房新社刊)や小和田哲男監修『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年刊)でもほぼ同様で天文十六年(1547)十一月十七日に四九歳で病没したと記されます。
さらに、川部正武氏は、ネット上にHP「武将系譜辞典」という膨大な資料を提示しておられますが、そこでは
政頼1498〜1547 政房子二郎盛頼頼武頼純美濃左衛門革手城主
頼芸1502〜1582 政房子二郎左京美濃宗芸鷺山革手大桑城主
(その一方、政頼の子として二郎頼純をあげている事情にもある)
とされています。
3 といって、頼武の名が資料にまったく見えないわけでもありません。
多治見市虎渓山町の臨済宗南禅寺派・永保寺には、土岐氏の触書き「美濃国第十代守護職土岐頼武禁制」があります。また、「徳山氏系図」(東大史料編纂所に謄写本が所蔵)には、年未詳の八月二四日付け土岐頼武書状写が書き入れられてあります(『岐阜県史 史料編 古代・中世補遺』にも所収)。ほかにも「頼武」と名乗った書状が数通あるようですが、現在まで管見に入ったところではこれくらいです。なお、上記の勝俣鎮夫氏は東大助教授の時代に『岐阜市史』に執筆され、のち東京大学名誉教授ともなっている事情もあります。
これらのことから、土岐政頼が守護でいた時期に頼武とも名乗ったことがあったと考えられますが、ごく短い期間であったのではないでしょうか。
4 次ぎに頼純ですが、これが最後に現れる名前のようです。岐阜県立図書館に所蔵の「土岐系」は比較的良本の系図ですが、そこには、頼芸の兄を政頼であげ、「土岐美濃守、又盛頼」として、「蟄居後改右衛門尉頼純」と記し、永正十四年家督を継承し美濃守となり天文十六年十一月十七日に四九歳で病に因り卒したと記されます。美濃を追われた後には、「美濃守」の呼称を止め「右衛門尉」とし、それとともに実名のほうも改めたものとみられます。
郷土史家の横山住雄氏は、『美濃の土岐・斎藤氏』(教育出版文化協会、1992年刊)を著して、そのなかで土岐頼芸や斎藤道三と戦っている「土岐二郎」の名を頼純として、頼武とは別人で、頼武の子とみました。頼武は政頼、盛頼と同人として、その者と頼純は別人だとみたわけです。
しかし、そう言えるのでしょうか。守護政房の末期、守護政頼の初期となる永正十四年(1517)頃から約三十年ほどの美濃の動向を丁寧に見ていく必要がありますが、斎藤道三の出自の例にみられるように、この頃の美濃の資料は必ずしも完備しているとはいえません。 5 そこで、勝俣鎮夫氏執筆の『岐阜市史』などに基づき、美濃国内の政治動向を追ってみます。
(その第一四章は、勝俣氏が東大助教授時代の執筆であり、多くの史料を的確に引用されており、たいへん参考になるものです。ただし、その結論にすべて同意するわけではありませんが。) 一般に政頼が土岐家督を継いだのが永正十四年(1517)とされますが、翌十五年に斎藤新四郎利良と土岐氏(政房か頼芸か)・他の斎藤一族(彦四郎利隆か)との合戦があり、敗けた斎藤新四郎利良は土岐政房嫡子の土岐二郎(政房の長男政頼としてよい)を伴って血縁関係のある越前の朝倉孝景(その母・祥山禎公大姉は斎藤新四郎利国〔持是院妙純〕の娘。従って、孝景は新四郎利良の従兄弟)のもとへ退きました(『東寺過去帳』『宣胤卿記』)。同年十二月、室町幕府は朝倉氏のもとにあった土岐二郎を参洛させるように朝倉氏に命じています(「室町幕府御内書案」)。なお、朝倉孝景の妹は土岐政頼の妻になっており、この縁から朝倉氏は斎藤氏や土岐氏と連合し、土岐氏の内紛が起きるたびに越前から兵を送った事情にあったとされます。
さらにその翌年の永正十六年(1519)七月になると、政房が急死したので(『仁岫語録』)、土岐二郎と斎藤新四郎は朝倉氏の支援(孝景の弟・景高を大将とする越前軍勢三千の美濃派遣)のもとで美濃入国を果たして、政頼は守護として美濃を把握したようです。このとき、政頼が土岐家督を継いだともされますが、このときまで「土岐二郎」と史料に見えますから、このほうがよいのかもしれません。しかし、次の代の頼芸にいたるまで、現在この間の守護土岐氏の発給文書はまったく残らないといわれています。
その後しばらくは守護政頼の政権が続いたものの、総じて世情は不安定であったようです。大永五年(1525)には、「長井一類」(長井藤左衛門尉長弘、同新左衛門尉)がクーデターを起こすという美濃の内乱が起き、長良川北岸の守護の本拠地を占領、「土岐殿・斎藤名字中同心ニ山入」と当時の史料は記しますが、まだ守護政頼の時代は続いていました。
ところが、大永七年(1527)になると、守護政頼は、斎藤道三に擁立された弟・頼芸に追われて再び越前朝倉氏を頼ったとされますが、この時期にはもう少し遅い享禄元年(1528)とも同四年(1531)〜五年(1932=天文元年)頃ともされて、なかなか確定し難いものがあります。
大永八年(1528)二月に幕府の武儀郡東山口に対する遵行命令が土岐二郎宛で出されておりますから(「秋田藩採集文書」)、このときの実質的な守護は土岐二郎とみられます。この土岐二郎は、官職名でないことから長井新九郎規秀(斎藤道三)により追放された守護ではなく、正式な守護になっていない頼芸を指すのではないかと私はみております。「土岐二郎」は土岐頼益以来の土岐嫡宗の呼称であり、政頼も頼芸もともに土岐二郎を名乗っております。土岐二郎が追放された守護を指すのなら、土岐美濃守とあるべきであり、政頼の男子が生まれていたとしても、まだ幼少にすぎず守護になっていたはずがないからです。
政頼の追放時期が大永七年(1527)だとすると、天文五年(1536)に美濃守護が出家し恵胤と称したという記事(『後奈良天皇宸記』)の意味が不明となりますが、政頼が美濃追放されてもこの時期まで形式上は美濃守護であったのかもしれません。ともあれ、同年六月には土岐頼芸が父政房の十七回忌の法要を務め(『仁岫語録』)、翌七月には美濃守任官を申請し許可されています(『後奈良天皇宸記』『御湯の上の日記』)。それに先立つ、天文四年(1535)七月に枝広の洪水の時に当時の美濃政治の中心地・福光(岐阜市)の屋敷にまで水が入ったので、頼芸は大桑に築城して移ったと伝えられます(「中島両以記文」)。この文書に拠れば、このときには既に頼芸が美濃の支配者になっていたと考えられます。
頼芸は天文十一年(1542)五月には道三に攻められて尾張の織田信秀のもとに逃れたといわれますが(『美濃国諸旧記』)、同十二年(1543)に大桑で行われた激しい戦(『仁岫語録』)が道三の頼芸追放戦だともいわれます。ただ、頼芸は天文十二年以降も依然として守護職を保持しています(『天文日記』)。同十六,七年になって、頼芸は斎藤・織田の講和成立により帰国しましたが、同二十一年(1552)には再度追放され近江の六角氏を頼っています。また、同十六年(1547)の頼芸追放のときの十一月十七日に当屋形の次郎頼充が神戸の渡りで道三方に討たれ享年二十四歳であったと伝えます(『江濃記』)。頼芸は天文十九年(1550)十月まで守護職にあったともされます。
次ぎに政頼が美濃に入るのは、弟の頼芸と手を組んで共通の敵・斎藤道三(利政)に対して起こした天文十三年(1544)からの一連の戦乱のなかのことです。
同年八月に土岐頼芸を庇護した尾張の織田信秀が、美濃国内の反道三勢力と越前の朝倉孝景・土岐二郎(おそらく頼純としてよい)と呼応して、美濃に出陣しましたが、まず反道三勢力が大垣城を奪取するなど道三軍を破ったものの、加納口の戦いでは大敗し、その後の戦況は膠着しています。
天文十五年(1546)には頼純が朝倉義景とともに美濃に入ろうとしたが、それも直ちには果たせず、織田・斎藤両氏の講和成立により頼純・頼芸兄弟は美濃大桑城に迎えられたものの、頼純は翌十六年(1547)十一月十七日には没したといいます。また、斎藤道三が天文十六年八月に大桑城にあった頼純・頼芸兄弟を攻撃し、このときに頼純は討死し、頼芸は本巣郡まで落ち延びたという説もあり、頼純には毒殺説もあるようです。
土岐頼純、頼芸と斎藤道三との戦において、集合離散の動きもあった模様です。井口城下の戦では利政(道三)と頼芸(?)とが一体化して土岐二郎の軍と戦っている(『古今消息案』)とのことであり、先の大桑の戦は利政とこの二郎との戦であり、「頼充のあと頼芸が大桑城に入った」(『天文日記』)とされ、その後も土岐二郎を中心とする土岐一族が道三の敵であったとされます。しかし、「この二郎は、同年一一月一七日、二十四才の若さで早世してしまった(『仁岫宗寿・快川紹喜拈香・下火頌写』)」と勝俣鎮夫氏は記述しています(『岐阜市史』)。
以上に見るように、政頼・頼芸の時代は不確定な年代・事件が多くあるうえに、関係者も不明確であることに留意しておきたいと思われます。頼純と頼充とが、死亡年月日・院号などで混同されている事情も読みとれます。
6 土岐家督の生没年から考えてみましょう。政頼・頼芸兄弟の祖父・成頼の生年が1442年、その子の政房の同1467年とされますから、政頼の生年が1499年とされてもとくに問題ではなく、概ね妥当ではないかと考えられます。政頼に子があったなら、1520年前半以降の生まれとするのが自然だと考えられます。なお、頼芸の生年は1501ないしは1502年であって、いずれにせよ大差はありません。
研究者多数の与する説が正しいとは限りませんが、政頼の活躍年代やその美濃から二度目に追い出された時期(政頼が二十代後半から三十代前半の頃)などを考えると、「頼武」と名乗った書状が数通あるとされるものの、頼武は政頼や頼純と同人とするのが自然です。政頼の年齢からみても、頼武(=政頼)の子として成人した「土岐二郎」があって、頼純として美濃国内で政治的に活動したとみる余地は殆どないように考えられます。越前にあったときに政頼が子をなしたことはありえましょうが、とくに史料には見えません。
また、斎藤道三の敵方として活動した「土岐二郎」について、勝俣鎮夫氏は、「頼芸の子か、先代守護二郎の子か明らかにしえない」と記しますが、『江濃記』と『天文日記』とを併せ考えると、頼芸の子の土岐二郎頼充に比定されることになります。なお、頼芸の子には、やはり「土岐二郎」という呼称をもつ左馬助頼次(子孫が高家・旗本にある)がおりますが、この者は天文十四年(1545)生まれという時期からいって頼芸(1502頃生)の多くの諸子(頼秀〔又、頼栄〕、頼充、頼宗、頼元〔又、頼重〕、頼次〔又、頼師〕、頼昌などがあげられるか)のなかでも末子に近いものとみられますので、頼充没後に頼芸の嫡子になったものでしょう。〔追補参照〕
頼純について、もう少し述べます。頼純の墓は南泉寺に現存します。しかし、頼武の墓については不明です。これは、成頼の墓が岐阜市瑞龍寺に、次の政房の墓が岐阜市承隆寺(廃)にあった(成頼以前でも、先祖の頼貞までの歴代について墓所が知られる)のに、頼武の墓だけが知られないのは不自然です。これも、「頼武=頼純」だからこそ、そうだったと言えるのではないでしょうか。南泉寺は、現在の山県市(旧山県郡高富町大桑)にありますが、その起源は、永正十四年(1517)に土岐頼純が岐阜の崇福寺から僧・仁岫宗寿を招いて開基(一説に再建)し、頼純が「南泉一株花」の公案に徹した因縁により寺名としたと伝えます。
同寺には、土岐頼純肖像があり、仁岫宗寿が賛を加えておりますが、「天文十八年伸冬」という時期が知られますから、頼純の没後遠からずして描かれたことが分かります。頼純の南泉寺開基に係る伝承が事実であれば、「政頼=頼純」しかありえません。また、肖像画が二十代前半の若い人物でなければ、頼純は頼武の子のはずがありません。
そもそも、問題の「天文十六年十一月十七日」に死んだのは誰だったのでしょうか。私は、上記の資料・記述を総合的・整合的に考えて、このときに死んだのは頼芸の嫡子たる土岐二郎頼充であり、頼純が実際に死んだのは同年八月(一説に六月)の大桑での合戦か、あるいは「天文十八年伸冬」前後ではなかったのか、と考えています。いずれにせよ、政頼(頼武)には子と確認される人物は資料にまったく見えません。〔追補参照〕
7 以上の結論を以下にあげておきます。ただ、今後新たな資料に気づいたときに考え方が変わる可能性も留保しておきます。
(1) 「土岐二郎」は土岐家督の嫡子の名乗る呼称であり、戦国時代後期においても時期によって比定される者が異なり、はじめの頃は政頼(頼武、盛頼)に、次ぎに頼芸に、さらに頼充や頼次(頼師。号見松)に比定されることになる。
(2)
朝倉・織田両氏と組んで斎藤道三に対抗した「土岐二郎」とは、頼芸の嫡子頼充である。
(3) 政頼(頼武、盛頼)には、その確実な子とされる者は資料に見えない。
(4) 政頼(頼武、盛頼)と頼純とは同人である。
(05.6.26 掲上、同年8.12追加補充)
〔追補〕 1 最近気づいたことですが、鈴木真年翁編の『百家系図稿』巻12に土岐系図が所収されており、出典等は不明ですが、頼忠に始まり、頼芸の諸子の世代まで記されます。 それに拠ると、政房の子には、頼純太郎、頼芸二郎、治頼大須三郎、光高梅戸四郎、光周揖斐五郎、光敦鷲巣六郎、頼充七郎、頼香八郎をあげ、頼純の子には頼秀太郎宮内少輔、元頼二郎を、頼芸の子には頼栄太郎宮内大輔、頼師二郎、頼重七郎、頼宗四郎左衛門尉、頼元主水をあげています。 しかし、この系図にはいくつかの混乱が見られます。例えば、頼芸の弟にあげる頼充七郎、頼香八郎 は多く頼芸の子とされますし(ただし、頼香は頼芸の末弟か)、頼秀 太郎宮内少輔と頼栄 太郎宮内大輔 とは同人で、頼芸の子とされます。また、頼重七郎 と頼元主水 とは同人とされます。 また、頼芸の兄弟の名についても異伝があり、光高梅戸四郎は光尚とも見え、光周揖斐五郎は光親という名で知られ、光敦鷲巣六郎については、光達、光建、光就とも記されます。 したがって、どこまで上記系図が信頼できるか分かりませんが、頼純の子に元頼二郎 がいたことは系図の一伝として記しておきます。 (05.8.8 掲上) 2 土岐系図のなかで、比較的信頼性が大きい「土岐章本」にも「依田・山名・土岐系図」(ともに東大史料編纂所蔵)には、頼芸の兄をまったく記さないことに驚きます。これは、頼芸の子孫が系図を伝えたことに因るのかもしれません。 3 「依田・山名・土岐系図」には、頼芸の子の二郎頼充について、「法名宗m玉岑 天文十六年十一月十七日卒 廿四才」(従って、1524生〜47没)とあります。同じ「二郎」を名乗る頼次と21年も生年が違うことが分かります。 また、「土岐家伝大系図」には、政頼について、「天文十六丁未十一〔イ六〕十七日於大桑卒、又越前ヨリ美濃江責入斎藤道三与合戦討死共イエリ 法名南泉院殿玉峯玄理」と記されています。 頼充と政頼(頼純)とは、同じ「玉峯」という法名をもったと伝え、このため、没年日時も混同されたことが考えられます。しかし、この法名は頼純のものなのでしょう。 (05.8.12 掲上) <林正啓様からのご連絡・ご指摘> 土岐頼武「恵胤」 07.9.17〜9.21受け
1 土岐頼武の件ですが、 畠山氏のHPに尋ねておりましたところ回答があり、@畠山義総は、出家し、「徳胤」(悳胤)と号した。A土岐頼武が出家し「恵胤」と号した? 「恵」は「悳」の字の誤字ではないか? 「悳胤」を「恵胤」と読み誤った可能性もある、
ということでした。
また、B畠山義総も蘭麝待切り取りの申請をしたとの史料をどこかで見た気がするということでした。
岐阜市史を編纂した際、畠山義総の史料を誤って使用した可能性があり、更に、横山住雄氏が「恵胤」に対応する守護土岐頼武を作り上げてしまい、問題が複雑になったようにも思われます。
2 先日の能登守護畠山義総(徳胤・悳胤)につきましては、「徳」をくずす場合、「彳」をはぶく場合もあるそうで、その場合「恵」に酷似しています。
土岐頼芸と斎藤道三との攻防に明け暮れていた土岐頼武に、正倉院の蘭麝待の切り取りを天皇に申請する余裕があったとは思われません。それに比して、畠山義総は能州守護として磐石の基盤であったようです。
岐阜市史編纂者の読み誤りか、「後奈良天皇宸記」自体の書き誤りか、原本を確認する必要があると思います。
3 そこで、豊田いづみさんから、「続史料大成21」の「後奈良天皇宸記」天文五年六月二十日条の濃州守護恵胤の箇所の提示をうけ、また、岐阜市史でも同様の内容でした。
それによりますと、濃州守護恵胤は、蘭麝待切り取りの御礼として海産物を進上しております。美濃のような海に接していない山国ではありえないことだと思います。
また、「宸記」には、天文五年七月一日に、土岐頼芸が美濃守の勅許を受けたとも書かれています。この頃、土岐頼武とされる人物は、実力で守護の地位も追われているようで、蘭麝待切り取りどころではなかったと考えられます。
「宸記」自体が、能州と書かなければならないところを、音読みで濃州と書き誤ったのではないかと考えられます。美濃の歴代守護で、法名に「胤」を使用している人はありません。
以上の諸事情からみて、「濃州守護恵胤」は、「能州守護悳胤」の誤りであることは確実であると考えられます。
<樹童の感触>
史料には、それが信頼性が高そうなものであっても、誤記は往々に見られます。そのため、全体的な文脈のなかで考えることが必要であり、ご連絡の記事からみると、妥当な読解だと考えられます。ご教示ありがとうございました。
(07.9.22 掲上)
|
(応答板トップへ戻る) |
ホームへ 古代史トップへ 系譜部トップへ ようこそへ |