□ 野与党・村山党と千葉一族との関係 (問い) <長くなりますが、以下は基本的に原文のままです> 武蔵七党系図や浅羽本千葉系図などでは、野与党の祖を胤宗とし、この者と平忠常(多治経明を祖とする秩父国造系−樹童論考)を兄弟あるいは親子として、野与党と秩父党(特に千葉氏)とを関連づけています。 「西角井系図」には、畠山氏・葛西氏らの祖とされる将常の妻として、武蔵武芝(武蔵国造系)の娘を、その兄弟として武宗(野与二郎)をあげています。さらに、この武宗の娘が、忠頼の子孫の元宗(父は胤宗とされる)なる者の妻となり、基永(野与党の祖)、頼任(村山党の祖)兄弟を産んだとしています。従って、野与党は本来、武蔵国造に連なる系譜を持つ氏族であって、後に、多治経明を祖とする秩父党のうち、特に忠常の系譜に何らかの形で連なった可能性があるかと愚考しております。 そういった視点で、野与党や村山党の系図を検討してみますと、一般に流布されている元宗の子が基永・頼任兄弟であり、彼らからそれぞれ、重政(多賀谷氏)、家忠(金子氏)に連なるとされる系図は、家忠が保元の乱の折に19才で参戦したこと、重政の所領譲状が1281年に発せられていることなどから、年代的に問題があるかと考えます。 家忠(金子氏)、重政(多賀谷氏)、常胤(千葉氏)および重忠(畠山氏)などの活動年代と彼らの系譜を総合的に検討すると、野与党の祖とされる基永なる者の活動年代は、千葉氏系の常永の年代に重なると考えられ、この者は「永」という通字の点で、常永と兄弟であった者が武蔵国造系の武宗なる者の系に連なる際に、基宗(元宗)と改名した可能性がないかと推測しております。 そうしますと、一般に流布されている野与党や村山党の系図にも、前述した家忠(金子)、重政(多賀谷)などの活動年代の点で問題があり、元宗の子が基永、その後が頼意、その子頼基という系譜、基永の兄弟である頼任の子が頼家という系譜は、年代的に成立が困難と思われます。前述のように、基永を元宗(基宗)と同一人とみて、その子を頼意、頼任兄弟とし、それぞれから、頼基−光基(野与系多賀谷氏)へ、また、頼家−家範(村山系金子氏)へと連なると考えると「頼」という通字の上からも考えやすいように思いました。このような点からも、基永は常永と兄弟であって、この者が武蔵国造の系に連なる際に、基宗(元宗へと改名し、野与党、村山党へ連なるという可能性があろうかと考えております。 いくつかの系図や実録人物の活動年代の検討からの推測ですが、野与党と秩父系の忠常との系譜関連について御教示ください。 (安部川様より 05.11.21受け) |
(樹童からのお答え) 1 古代後期から中世にかけて、武蔵に繁衍した野与党・村山党と両総の千葉一族との関連では、実系と養猶子関係、通婚が入れ混じってきわめて難解なものとなっております。
桓武平氏を称する千葉一族自体は、妙見信仰をもち、一族に秩父六郎将恒から秩父・畠山などの諸氏を出すなどで知々夫国造の末流とみられますが、これに限らず、系譜仮冒ではないかとみられるものが坂東武士の系図には多々見えます。そのため、地域的に考えていくと、野与党は武蔵国埼玉郡を中心として分布した武蔵国造系、村山党は同国入間・多摩郡を中心とした知々夫国造系となると思われますが、男系的にはともに千葉一族と深い関連があったと伝えます。
具体的に、両国造系をみてみます。
2 武蔵国造系では、その嫡統にあたるとおもわれる武蔵宿祢武芝は、足立郡司判官代として平将門の乱の遠因となった事件に関連して『将門記』に見えますが、その子孫は数代のうちに系図史料に見えなくなります。おそらく、頼朝時の足立遠元や安達藤九郎盛長が後裔ではないかとみられますが、そうした系譜としては伝わりません。
中田憲信編の『皇胤志』書込みの系図等に拠ると、武蔵宿祢武芝の子(実際には孫の可能性もあろう)が足立郡野与(現在地は不明も、一説に大宮の付近の与野ではないかとみられる)に住んで野与二郎武宗と名乗ったとされますが、その「外孫ないし外曾孫」(武宗かその子武行かの女婿とされる周防八郎元宗の子)の野与六郎基永が武蔵七党の一、野与党の祖とされますから、ここで男系が変わった可能性も考えられます。周防八郎元宗の父とされる胤宗(恒宗)は、周防権大掾と称し、野与八郎とも武蔵四郎、平五郎とも号したとされますから、千葉氏族の祖・平忠頼の子、忠常の弟とされるものの、あるいは実系としては野与二郎武宗の子弟(武蔵四郎)であって、平忠頼(ないし忠常)の猶子となったこともありえます。この蓋然性が高いのではないかと私は考えています。
3 次に、村山党は野与六郎基永の弟の村山七郎頼任(頼恒)を祖とすると伝えますが、一に平忠常の孫の藤橋(村岡)太郎恒仲(入間押領使たる三郎恒親の子)の子にあげられます。この辺の関係も推測となりますが、頼任(頼恒)については、「七郎」の号から六郎(野与党祖基永)の弟だと考え、これが実系であって、主要分布地の入間郡は藤橋太郎恒仲の猶子としてその跡を継いだ故ではないかと思われます。
そうすると、村山党の男系は、先祖の胤宗(恒宗)が千葉一族の出である場合には知々夫国造系となり、武蔵武芝一族の出である場合には武蔵国造系となります。この辺が現存史料からは判然としないところです。
4 野与六郎基永と弟の村山七郎頼任には、「奥州従軍」という譜があり、この奥州合戦が源頼義の前九年の役(1051〜62)か源義家の後三年の役(1083〜87)かが問題になります。
野与基永の三世孫の小二郎助基・多賀谷二郎光基兄弟が『東鑑』建久元年(1190)十一月条の将軍頼朝第一次上洛記事に見える随行武士の道智次郎・多加谷小三郎・道後小次郎かその近親にあたるとみられること、村山頼任の三世孫が金子十郎家忠(1138〜1216)であること等の観点から考えると、後三年の役とみるほうが自然です。野与基永の甥の野与小四郎恒永について、「陸奥合戦被誅」と記されるのも同じ後三年の役でしょう。
前九年の役ころの千葉一族の祖としては、忠常(976生〜1031没と伝)の子の恒将(1010生〜76没と伝)の世代にあたるとみられます。恒将の従兄弟にあたる平経貞(山辺禅師房頼尊の子)には、「奥州合戦従頼義朝臣」という譜が「開基金子家系譜」に見え、康平五年(1062)の頼義の小松柵攻めにはその麾下に平経貞の名が見えます。前九年役の三十数年後に起きた次の奥州合戦、後三年の役には、千葉一族から恒永(恒将の子)・恒兼親子が従軍したとされます。
こうしてみると、野与六郎基永と弟の村山七郎頼任と同世代に当たる千葉一族の者としては、恒永(常永)となると考えられ、これは貴見と同様になります。ただし、こうした世代対応だと、野与党の遠祖に当たる胤宗(基永の祖父とされる)が平忠常と同世代となりますから、胤宗と基永の中間世代の元宗(基宗)についてはその存在が必要となり、基永を元宗(基宗)と同一人とみることには不自然になります。また、頼意と頼任を兄弟とみるのは、後裔の世代対応や野与党の支族苗字の分出から考えて不自然だと思われます。
(06.1.29掲載)
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