『陸奥話記』所載の藤原景通と鎌倉権大夫景道との関係

(問い) かねてから、『陸奥話記』に記述のある修理少進藤原景通と、鎌倉党の一族とされる鎌倉権大夫景道の関係について、興味を持っております。
  既に、『吾妻鏡』には、利仁将軍の末裔として藤原景通が記載されています。また、建武四年(1337)以前の成立が想定される、千葉氏の手になるとされる『源平闘争録』には、『陸奥話記』では藤原氏と記載される前九年の役に従軍した景通を、平良文後裔として鎌倉権大夫景道として記載しています。すなわち、鎌倉時代後期には既に、藤原景通を平忠道の子とされる鎌倉権大夫景道と同一視していることになります。また、現代のある歴史関係の専門書でも、両者を同一人物とする記載が少なくありません。安田元久氏の「日本初期封建制の基礎研究」でも、両者を同一人物とする可能性を記述しています。
  しかし、これらの同一人物説は仮説にとどまり、これまでに明快な論証はなされていないように思います。藤原氏と称坂東平氏との間に婚姻関係など、何らかの関係があったのでしょうか。その場合、藤原景通の末裔とされる加藤氏と称坂東平氏との関係はどのように考えられるでしょうか。あるいは、両者は全くの別人物と考えるべきでしょうか。
 以上の点について、見解を示していただきたく存じます。
  (安部川様より。05.3.22受け)

 (樹童からのお答え)

 歴史と系譜を考える場合に、WHO(すなわち、同一人か別人か)の問題は大きな要素であり、とくに同名異人、異名同人が問題になります。このため、何時、どのような場所で活動したのか、先祖や子孫はどうか、など総合的な判断が必要とされます。 
 本件の場合、同じ「景通」という名でも、藤原姓と(称)平姓鎌倉党という差異が外見的にもありますので、比較的別人性がみてとれるところですが、それでも丁寧に検討することが望ましい問題です。それぞれについて、個別具体的にに見ていくことが必要です。
なお、既に太田亮博士が『姓氏家系大辞典』カマクラ条で、陸奥話記の藤原景通・景季親子をあげ、「これ或は、此の氏の祖先なるべし。然らば藤姓を冒せし事もあるか。」と記しておりますから、この辺に両者の混同が起きる要素があります。

 
2 加藤氏の系図

 まず修理少進藤原景通については、次のような事績で『陸奥話記』等の史料に見えますが、加藤氏の起源にも関係します。
(1)『陸奥話記』では、将軍源頼義が安倍貞任軍に大敗して死者数百人となって敗走したときに、残った従兵がわずか六騎となり、長男義家・修理少進藤原景通・大宅光任・清原貞廣・藤原範季・同則明等で、賊衆二百余騎が左右翼から攻めてきて矢は雨の如く飛びかい、将軍の馬が矢に当たって斃死したので、景通は将軍に馬をあたえて扶けたこと、景通の長子に藤原景季があり、年二十余で騎射にすぐれたが奮戦して討死したことが記されます。前九年の役(1051〜62)のうちの鳥海の戦いでのことです。このことから、1051年頃に藤原景通は四十代であったことが推されます。

(2) 次ぎに、『吾妻鏡』(『東鑑』)には、頼朝の若君貞暁の乳母となった長門江太景国の記事で、鎮守府将軍利仁の四世、修理少進景通(伊予守源頼義朝臣、貞任等を攻むる時、七騎武者の随一なり)の三代の孫なり、父景遠は大学頭大江通国の猶子となり藤氏を大江に改む、と記してあります。

(3)『尊卑分脈』藤原姓時長孫(利仁流)には、利仁の五世孫・正重の子に景道をあげ、「頼義朝臣郎等七騎其一、修理少進、加賀介、依為加賀介号加藤」と記し、その子に景季・景清をあげ、景清(貞カ)に加藤五として、その子に頼朝旗揚げ以来の功臣光員・景廉兄弟をあげています。
ただ、この系図には若干の脱漏や記載省略があるようであり、景清と景員の二世代が一人になっているほか、実際の系譜としては、景清かその子の景員は、歌人橘能因法師の子孫であったようで、藤原氏(柳馬入道とも伝える)に養子に入り伊勢に住んで加藤を名乗ったが(従って、景清が修理少進藤原景通の子という点について疑問も残る)、五郎景員(イに景貞)の時に伊勢を追われて伊豆に遷って工藤氏の婿となり、景員がその二子とともに頼朝の旗揚げ・幕府創業に参加し努めたことが『東鑑』等から知られます。
なかでも加藤次景廉の功績が大きく、景廉は、承久三年(1221)年八月三日に「検非違使従五位下行左衛尉藤原朝臣景廉法師、法名覚蓮房妙法卒す」と同書に見えますから、六十六才卒去説に拠れば1156年に生まれたことになります。また、『保元物語』には、安元二年(1176)三月に後白河院の命により、狩野介茂光(工藤氏、景員の妻の兄)が伊豆大島配流中の為朝を討つたとき、これに従つて加藤景員が加藤太・加藤次を伴つたことが記されています。景員の弟が長門江七景遠で、これが上記の長門江太景国の父となります。

以上のことから、修理少進景通の曾孫(三世孫)に頼朝に仕えて活動した加藤次景廉兄弟や長門江太景国がでたことが知られます。修理少進景通の居住地は不明ですが、父祖の地の越前か、加賀介に任じたという所伝が正しければその末期は加賀であった可能性があります。

 
3 梶原氏の系図

次ぎに、鎌倉権大夫景道についてですが、この者は管見に入ったかぎりでは相模国鎌倉郡に繁衍した鎌倉党関係の系図にしか見えません。この一族では、源頼義・義家親子の奥州合戦において、主に鎌倉権五郎景正(景政)が義家の後三年役(1083〜87)に従軍し、わずか十六歳の時に右目を矢で射られたものの武功を立てたと『奥州後三年記』に見えます。
鎌倉党の系図では、権五郎景正は鎌倉権大夫景道の甥(弟の鎌倉五郎景成の子。「香川系図」などに景道の子〔猶子か〕という所伝もある)とされますから、これら事情に基づけばこの当時に権大夫景道は四十代であったのではないかと推されます。そうすれば、権大夫景道は修理少進景通よりも若干後代(一世代後ほどか)の人としてみられます。「長尾正統系図」には、梶原権大夫景通の兄弟にあたる人物が十一世紀後葉に活動しており、とくに村岡四郎景村(長尾氏の祖)が寛治七年(1093)に御霊を長尾郷に祀り承徳七年(1103)二月に卒去したと見えますから、鎌倉権大夫景道の主な活動時期も十一世紀後葉ではないかとみられます。
 
とはいえ、鎌倉党関係の系図は、系譜仮冒や養子関係が多かった模様などの事情で、年代や血縁関係がきわめて錯綜して伝わっており、あまり確定的なことはいえません。多くの系図・諸伝を総合すると、鎌倉権大夫景道の子が梶原太郎景久で、その子の太郎景長−五郎景清−平三景時とされますが(「長尾正統系図」など)、五郎景清については歴代に入れない系図(東大史料編纂所所蔵の「梶原系図」)もあることから、この者は景長の弟であって、景時の父は景長であった可能性があります。梶原景時も頼朝の功臣で、正治二年(1200)に駿河で一族とともに討ち取られますが、享年六十一と伝えられますから、これに拠れば1140年の生まれとなります。
権大夫景道の祖先の系譜については、中世では桓武平氏村岡五郎平良文の後裔と称されますが、これは系譜仮冒であり、おそらくは相模の古族で相模国造の族裔ではないかとみられます。また、景道の父については、良文流平氏に繋げられてからは村岡小五郎忠道とされることが多いようですが、原型は忠道の子の甲斐権守章名とするのが妥当なようです。

 
4 結論
以上に見てきたように、修理少進藤原景通と鎌倉権大夫景道とでは、姓氏が前者は藤原姓で後者は称桓武平氏、居住地が同じく北陸(?)と相模、子孫が同じく加藤次景廉と梶原平三景時、という差異があり、どうみても別人です。また、活動時期も若干異なることをあげています。

  (05.6.19 掲上)
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