石城国造の出自

(問い) 中世の岩城氏は、石城国造の末裔である事は確かなように思われますが、石城国造の出所(出自)はどう考えるとよいのでしょうか?
 大国魂神社は岩城氏の氏神の様ですが、そうすると流れとしては、「大物主−神武天皇−神八井耳・・・」といった流れを連想するのですが、天目一箇命の末裔という事になると出所がよく解らないのですが、・・・・。
 「大国魂」の割りに、岩城氏族は神武天皇系の末裔には当たらないのでしょうか?
 謎の岩城氏の出自を教えてください。
 
 (追伸)岩城氏の出所については、次のHP、福島市の若槻武雄様による「蝦夷・陸奥・歌枕」(可刃利乙女の万葉歌)もあって、混乱しています。
 
 (やもすけ様より、05.9.20受け)
 

 (樹童からのお答え)

 古代の石城国造については様々な混乱が見られて難解な点が多々あり、私としても迷うところが何度もありましたが、現段階(05年10月)での見解を以下に記しておきます。
   ※本見解はその後に再考しており、 石城の大国魂神 もご覧下さい。
 
1 結論の先行提示
 石城国造の出自・系譜については、「国造本紀」や『風土記』(常陸、陸奥の逸文)、『古事記』などで記される記事を踏まえて考えていくことになります。具体的に、常陸国多賀郡から陸奥国磐城郡標葉郡にかけての地域については、石城国造をはじめ、道尻岐閉、高、道奥菊多の諸国造が置かれたと伝え、それぞれが別の国造とも受け取られますが、それは所伝の混乱にすぎず、かりに国造の治所の変遷があったとしても、一つの石城国造が形を変えて見られているにすぎないとも考えられます。
 その系譜は、天孫族系の天目一箇命の後裔で(三上氏族、出雲国造と同族)、近隣の石背国造・那須国造などと同族関係にあったものとみられます。ただ、多氏や阿倍氏の系統とも伝えて、決め手に欠き、様々に難解なものとなっている。

 
2 系譜と国造設置についての伝承の混乱
 
 諸書を通じてみると、石城国造の系譜については、大きな混乱が見られます。代表的な「国造本紀」には、「石城国造 志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に建許侶命を国造に定めた」と記されますから、天照大神の子の天津彦根命の後裔で茨城国造の祖でもある建許侶命が国造初代となります。これに対して、『古事記』神武段では、神武天皇の子の神八井耳命について、意冨臣・道奥石城国造等の祖と記されており、石城国造は皇別で多臣の一族という系譜を持つことになります。
 この二つの石城国造をどう考えたらよいのでしょうか。二つが別流で、別の国造(地域ないし存続時期が別)と考えれば、単純明解であり、こうした立場で太田亮博士は合計三流の磐城(石城)氏を考えています(『姓氏家系大辞典』)。すなわち、@最初、天孫族なる石城氏が常陸多珂()より入って石城国造の地位を占め、A次に、多臣(於保)氏が海道諸国を総管し、鹿島神を奉じて勢あり、Bその後、奥羽第一の強族阿倍氏の一族が勢力を占めて郡領の地位を獲得したもの、と想像されると記しています。
 しかし、地域的に見て、石城国造と陸奥石城国造という似た名前の二国造が併立する余地はかなり乏しいうえに、三流のように見えても、本来の姓氏はいずれも石城直か丈部とみられるので、やはり石城国造自体は一国造一流のものと考えざるをえません(※この辺も再考を要する)。こうした事情を検討するために、順を追ってもう少し詳しく見てみましょう。
 
 鈴木真年翁は、石城国造を一つと考え、その系統を多臣一族とみており、神八井耳命六世孫武男組命の子の建借間命、その弟の建黒坂命という系譜を考えています(『日本事物原始』)。阿蘇家蔵の『阿蘇家略系譜』には、多臣一族の建借間命の兄弟の武稲背命の子に建許呂阪命をあげて、「志賀高穴穂大宮朝定賜石城国造」と譜註が付けられております。また、『続日本紀』では、神護景雲三年(769)三月条に、磐城郡人外正六位上丈部山際に於保磐城臣が賜姓されたことが記されます。そうすると、「国造本紀」の建許侶命は建許呂命の脱字とも考えられ、石城国造は多臣一族に収束されることになります。私もかなり長い間そのように考えてきました。
 ところが、仔細に考えていくと疑問な点が多々出てきました。それは、『常陸国風土記』茨城郡条に黒坂命が見えて、茨城国造の祖・多祁許呂命(建許侶命)と同じ人物と考えられるからです。同条によると、大臣族の黒坂命が茨城郡の佐伯という原住民を茨蕀をもって滅ぼしたので、この地の地名としたと記し、その下に「茨城国造初祖多祁許呂命……に子八人あり。中の男、筑波使主は茨城郡の湯坐連等の初祖なり」と割註があります。ここで見える「大臣族」が多臣一族の可能性があるものの、その意味だけととらえることには疑問がありますし、その場合には「於保磐城臣」という表現も、「大磐城臣」で磐城臣の宗族を意味するものではなかろうかと思われます。
 こう考えると、石城国造は一系で、茨城国造と同族であって、天津彦根命の後裔である建許呂命の流れであるとみることが割合自然ではないかとも思われます。ところが、建許呂命を初祖とする茨城国造の系と相容れない『常陸国風土記』などの記事があります。

 
3 『常陸国風土記』多珂郡条などの所伝
 
 その一方、『常陸国風土記』多珂郡条には、上記と相容れない記事があります。
 まず、志賀高穴穂宮天皇(成務)の御世に、出雲臣と同族の建御狭日命が多珂国造として任ぜられて、郡の境界を定め、南(道前)は久慈郡の境の助川(日立市内を流れる宮田川か)、北(道後)は陸奥国石城郡苦麻村(福島県双葉郡大熊町熊)までとしたとあり、領域はいま多珂・石城という地域であると記されます。
 それが、のち難波長柄豊前宮の天皇(孝徳)の御世の癸丑年(653)に、多珂国造の石城直美夜部、石城評造(ママ)志許赤らが、東国惣領の高向大夫に申請して、この郡(領域)が広すぎて往来に不便なので、多珂と石城の二つの郡()に分割されたが、石城郡は今は陸奥国に属すると記されます。
 
 この『風土記』の記事を「国造本紀」等や系譜資料に照らして意味するところを列挙してみると、次のようなものと考えられます。
(1) 成務朝に初めて国造が置かれたとき、常陸の多珂郡から陸奥の菊多・磐城郡までを含む広い地域であった。→ 石城(多珂)国造の初代は建御狭日命と考えられるが、建許呂阪命(黒坂命)という名でも伝えられ、茨城国造の祖・建許呂命と混同されてた。
 
(2) 当初の多珂国造が応神朝に分割されて、高(多珂)・道尻岐閉・菊多・石城の四国造となったとみるのは疑問が大きい。吉田東伍博士などの言う石城国造大国造説のほうが妥当性が大きいようでもあり、高と菊多に同質性も感じるので、おそらく後に分れて二国造となったものか。
 
(3) 多珂国造が石城直という姓氏を持っていたことからみて、これら四国造は同一であった(同一国造の管掌下にあった)とみられる。→ 「国造本紀」では、高国造は志賀高穴穂朝(成務朝)に彌都呂岐命の孫の彌佐比命が、道尻岐閉国造は軽島豊明朝(応神朝)に建許呂命の子の宇佐比乃禰が、菊多国造は軽島豊明朝に建許呂命の子の屋主乃禰(ともに「乃」は「刀」の誤記か)が、各々国造に定められたと記されるが、みな一系とみられる。
 宇佐比乃禰と屋主乃禰とはおそらく兄弟であって、両者の後裔が孝徳朝の石城直美夜部及び石城評造志許赤(その姓氏は、後の磐城郡領の姓氏からみて、おそらく丈部か大部で、『風土記』は「丈、大」が脱落か)につながるものか。
 
(4) 承和十一年正月紀に陸奥国磐城郡大領の磐城臣(=大磐城臣か)雄公が一族とともに阿倍磐城臣の賜姓を受けたのは、阿倍臣一族に因るものではなく(太田亮博士説に反対)、その旧姓が丈部で、阿倍臣の配下にあるなど阿倍氏と深い縁由にあったことに起因すると考えられる。ただ、阿倍臣氏が実は多臣の支族であったとみれば、阿倍を冠しようが於保(大、多)を冠しようが、同族ということになる。
 
(5) 石城国造の実質的な初祖は、『陸奥国風土記』逸文の八槻郷(福島県東白川郡棚倉町八槻)条に見える国造磐城彦とみられるが、磐城彦は、「那須直系図」(『諸系譜』第15冊所収)には天津彦根命・天目比止都祢命(天目一箇命)の後で崇神前代の人として記載される。那須国造の同族として、磐城国造、磐瀬国造が同系図に見える。磐城彦(岩木彦)の存在を認めたとき、石城国造の系譜は茨城国造の祖・建許呂命の後としては考えられなくなる。
 
(6) 「国造本紀」に成務朝に建許侶命の子の建彌依米命が定められたと記す石背国造も、石城国造の同族として考えて問題ないとみられる(その系譜には疑問が残るが)。その姓氏は吉弥侯部で、後に陸奥磐瀬臣、磐瀬朝臣を賜った。石城・石背・那須の三国造の領域には、共通する神社(石城・那須の式内社たる温泉神社、岩瀬郡の温泉八幡神社)や地名(高久、仁井田、塩田など)が見られる。この辺の合致は無視できない面もある。

 
4 その他の問題点

 これまでに触れなかった点について、簡単に順不同であげておきます。
(1) 磐城彦は、その遠祖を天目一箇命として、茨城国造の祖・建許呂命と同族の系譜をもつが、建許呂命の系統は、『常陸国風土記』には崇神朝に東国に派遣された筑箪命の後裔であったのに対し、磐城彦の系統は、神武東遷時に諏訪神建御名方命とともに東国に移遷した武蔵国造(出雲国造と同族)の祖などと同族であった可能性があるとみられる。このため、高国造について、出雲国造と同族という伝承も残ったものとみられる。
 
(2) 磐城郡の式内社七座のうち筆頭にあげられる大国魂神社(菅波明神)は石城国造一族により奉斎されたとみられ、中世も称平姓岩城一族の国魂氏により奉斎が続けられた。国魂氏はのちに大江姓山名氏となるが、国魂氏の後裔であることは、その所蔵系図(東大史料編纂所蔵「山名系図」)から分かる。
 同族の武蔵国造も多摩郡府中に同名の大国魂神社を奉斎している。
 
(3) 大国魂神社の鎮座地たる菅波は石城国造の置かれた地と伝えられており(『神道大辞典』227頁)、その東近隣で、高久の北にあたる地は、磐城郡衙跡とみられる根岸遺跡(いわき市平下大越字根岸)もある。鎌倉初期の岩城一族について記述する「国魂系図」には、岩城・好島・岩崎・荒河・国魂などの諸氏が高久三郎忠衡を祖とすることが見える。
 この一族から菅波氏や菊多郡の菊田・境(酒井)なども出ており、室町中期に支族の白土氏が岩城本宗家の跡に入って、これが戦国大名となり、幕藩大名家につながった。おそらく、幕藩大名田村氏も、実際の系譜は田村郡に分かれた支族門沢氏(称平姓)の後か。
 
(4) 天津彦根命の後裔には伊豆国造や服部連も出ており、その同族であった石城国造一族にも機織りなどの衣服製作技術が伝えられたものとみられる。『万葉集』の「可刃利(かとり、香取)乙女」の歌(巻第14の歌番3427)で、「陸奥の香取乙女の結ひし紐」は、香取(磐城郡片依郷、現いわき市四倉町片寄一帯)の地で織られた紐で、それを結んだ紐と解される。南北朝期ごろの岩城本宗・岩城照衡の弟ないし子に片寄五郎義次(一に義忠)が見え、岩城一族がこの地にもあったことが知られる。
 貴メールに引かれるHPに見える記事、すなわち、「かとり」とは堅織りの事で上質の細い絹糸で織った絹織物(細やかに織れる絹布)のこと、この可刃利は古代石城国の片依(かたより)郷に比定されており、ここはその主産地であったと言うことは優れた見解といえよう。上記の岩城照衡の叔父に絹谷四郎秀清が見えるのも偶然ではないのかもしれない。この絹谷氏は磐城郡絹谷邑に起った苗字である。
 
 なお、本HPの関連する個所、石城国造一族とその末裔 、常陸国久慈郡助川郷と助川氏一族  も参照してください。

  (05.10.31 掲上、07.6.18補訂)


 (質問者からの返信)05.11.3受け
 石城国造の出自にかんする御回答、参考になります。
 
 石城国造がやはり天目一箇命の末裔になるとすると、饒速日命の末裔という事になるのでしょうか? だとすると大国魂神社や岩木山神社などの由縁と一致し、大変納得がいくように思います。この辺について、どう考えますか。
 
 (樹童からのお答え)
1 東国の天目一箇命の流れは、先祖の名前の所伝が異なっていて、なかなか明確にできません。例えば、武蔵・海上・新治などの諸国造の系統は、天夷鳥命の子の伊佐我命(出雲国造の祖)の弟・出雲建子命(伊勢都彦)の後とされており、「神狭命−身狭耳命−五十根彦命……」と続くとされますが、崇神朝に比古曽乃凝命(伊甚・安房国造の祖。高国造もこの流れという系譜あり)、忍立化多比命(武蔵・海上・相模国造の祖)、比奈良珠命(新治国造の祖)に分れたとされます。石城国造(高国造)の祖となる磐城彦は、崇神前代までにこの流れと分かれたとみられますが、天目一箇命と磐城彦との間の世代の者の名前がまったく一致せず、両系統の関係は不明です。
 また、天目一箇命の子の意富伊我都命(三上祝・凡河内国造など三上氏族の祖)の系統でも、崇神朝の筑箪命の後が筑波・茨城などの諸国造となっております。
 ところで、天夷鳥命は一般に天穂日命の子とされますが、実態は天津彦根命の子の天目一箇命(天御影命、櫛明玉命)と合致するとみられます。また、その子の伊佐我命については、櫛八玉命の別名をもち、その弟とされる出雲建子命が櫛玉命の別名をもつとされますから、櫛八玉命と櫛玉命とは所伝通りの兄弟なのか同人なのかも判断がつきにくいところです。さらに、出雲建子命は玉作部の祖の天湯津彦との関係も不明で、近親一族か同人の可能性があります。
 
2 物部連の系統もかなり複雑であって、一般に祖神の饒速日命は天火明命の子とされますが、これは疑問で、櫛玉饒速日命の名のとおり、天目一箇命の子におかれるのが実態であったとみられ、兄弟とされる意富伊我都命、天湯津彦、伊佐我命との関係も不明です。あるいは、これらの誰かと同人の可能性があります。
 このように、なかなか分かり難い関係ですが、物部連と武蔵国造や石城国造が同系統の天孫族であったことは、お分かりいただけるのではないかと思われます。
 
3 岩木山神社は陸奥の津軽郡(現青森県中津軽郡岩木町百沢)にあって津軽一ノ宮とされ、津軽富士と呼ばれる名山・岩木山に奥宮が鎮座し、宇都志国玉命を祀るといわれます。宇都志国玉命は顕国玉命とも書き、大己貴命の別名とされることが多いようですが、実態は不明です。 貴信にある「岩木山神社などの由縁と一致」という意味は分かりませんが、同じ「磐城、岩木、岩城」はなんらかの由縁を感じさせます。
 物部氏族とイハキとの関係についていえば、天孫族には巨石崇拝(祭祀)が見られますが、物部氏族の小千国造の領域の伊予国越智郡には岩城村があり、越智一族から出た村上氏が当地の岩城八幡神社を累代崇敬したとされます(『神道大辞典』)。

  (05.11.3 掲上。以上について18.4.15に補訂)
  なお、つくづく考えてみても、これら石城国造と同族諸氏に関する系譜は、きわめて難解であり、なんども考え方が変遷していることを補記しておきます。


  ※本稿の一部は再考・補訂により若干変化しておりますので、 石城の大国魂神 もご覧下さい。
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