常陸国久慈郡助川郷と助川氏一族


   

  いま日立製作所の名前とその本拠工場のある日立市の名を知らない人は殆どいない。しかし、「日立」という名前が幕末に水戸藩主だった徳川斉昭によって命名された新しい地名であり、この辺りがもとは「助川」と呼ばれたことを知る人は多くない。この斉昭公によって、海防目的のため助川海防城が天保7年(1836年)に築かれている。
  日立市の沿革を見ると、明治22年(1989)に多賀郡宮田村と滑川村とが合併して日立村となったが、この地域では日本鉱業が経営する日立鉱山(赤沢銅山)とそこで働いていた社員が独立して起こした日立製作所の発展により人口が増加していき、昭和14年(1939)には多賀郡の日立町と助川村が合併し、JR日立駅を中心とする地域に日立市が誕生した。その後、昭和30年(1955)に南方近隣の多賀郡多賀町及び久慈郡の久慈町ほか三村を、その翌年には北隣の多賀郡豊浦町を合併し、現在の日立市となっている。
  三十年ほど昔、日立市で暮らした想い出や当時の同僚たちの苗字も踏まえて、当地の古代及び中世の豪族について考えてみたい。
 
   

  「助川」の名前は古代の『風土記』の時代から見られ、『常陸国風土記』の久慈郡には密筑里(日立市水木が遺称地)から北東三十里の位置に助川の駅家があると記載される。古老の言い伝えでは、昔、倭武天皇(倭建命)がここに皇后(妃のことで、大橘比売命。穂積氏の出で弟橘比売の姉)が来てお遇いしたので、「遇鹿(アフカ)」と命名されたが、国宰久米大夫のときに河から鮭を取ったために名を助川と改めた、土地の人の言葉では大きい鮭のことを「須介(スケ)」と呼んでいる、と記述がある。十世紀前葉の『和名抄』では久慈郡に「助川郷」があげられており、七世紀後半以降、助川(介川)の名が続いていたことが分かる。
  助川は、鮭の取れる川そのものの名前でもあり、日立市街地を流れる現在の宮田川の旧名であった。宮田川は日立市西部の高鈴山・神峰山の谷間を東流し、市街地中心部を貫流して太平洋に注いでいる。助川郷は久慈郡の北端に位置しており、助川を挟む北側は多珂(多賀)郡に属する道口郷であった。『風土記』の多珂郡条には、成務天皇の御代に建御狭日命を多珂国造に任じたが、出雲臣の同族でいま多珂・石城といっていると記される。建御狭日命は久慈(久自国造領域)との堺の助川をもって道前(みちのくち)とし、陸奥国石城郡苦麻の村を道後(みちのしり)としたが、孝徳天皇の御代に分けて多珂・石城の二郡を置いたと続ける。この文章の意義は分かり難い点もあるが、「多珂国造=石城国造」ということである
  その後、助川は中世になって多賀郡に属するようになった。いま助川の遺称地は日立市助川町となっており、日立駅から西方の山地に向かって道路を進むとぶつかる辺りで、そこに日立市役所が立地している。この東北近隣の神峰町に居住したことのある筆者としては、日立で暮らした経験を懐かしく思い出している。
                                              
                               
 
  遇鹿のほうは、のち相賀と書かれたが、いま相賀町・会瀬(おうせ)町となっている。この地域は日立駅南方の海岸部であり、両町に跨って会瀬漁港がある。市役所から会瀬漁港まで東南に約二キロであり、この両地点を含む地域が古代の助川郷となるものであろう。
(右の地図を参照のこと。なお、同図は「マピオン」掲載のものを若干加工したものであることをお断りしておく)

    助川の語源については、吉田東伍などが上記『風土記』の説に従うが、楠原佑介等編著の『古代地名語源辞典』では異論を出していて、地形地名で「スキ(剥)・カハ(川)」、すなわち「(両岸が)崖をなした川」の意とみるのが妥当であろうとし、遇鹿もほぼ同義の「アブ(崩)・カ(処)」(崖となったところ)と考えている。しかし、現実に日立市の該当地域を見ると、助川・相賀とも崖地はなく、ここは素直に『風土記』の説に従っておいてよかろう。
    助川の地名は珍しく、ほかには出羽国に見られるくらいである。出羽の雄勝・平鹿の両郡内に置かれた駅家に助川があり、現在は山形県東田川郡三川村助川となっている(上記辞典)。常陸も出羽も鮭が獲れる地であり、その意味でも「助=鮭」でよかろう。この地の助川館には、館主の助川図書頭がおり、文亀元年(1501)に死んだとされる(『姓氏家系大辞典』に所引の「風土略記」)。

  太田亮博士は、『姓氏家系大辞典』で「多珂、石城の両国国造家が同族にして、もと石城国造家は多珂国造家から分かれたものなれば同一氏姓(註;石城直のこと)」と考えると記すが、これは誤解である。また、「国造本紀」も高国造と石城国造とを別立てにして異なる初祖を記すが、これも同様な誤解である。
 最近では、工藤雅樹福島大学教授が『福島県の歴史』(山川出版社、1997年)第2章40頁で、「ある時期には多珂国造の領域は孝徳朝ほど大きなものではなく、多珂国造とは別に石城国造や道奥菊多国造も存在した時期があるのであろう。また多珂国造の名前が石城直であることからすれば、もともとは石城地方を勢力基盤としていた石城直の勢力がある時期に多珂地方にひろがり、石城地方と多珂地方がひとつの国造のクニにまとまることになったのかもしれない」と記述するが、これは「国造本紀」の記事の性格を誤解していることに起因する。同書には多くの重複記載があることを忘れてはならない。
なお、多珂(石城)国造を出した氏族は天津彦根命の子の天目一箇命の後裔で、まさに出雲国造家と同族であり、神武東遷の頃に分岐して畿内から東遷し武蔵国造など多くの東国国造を出している。
 
  

  助川郷の古代豪族については、まったく知られる史料はなく、残念ながら検討の対象外とせざるを得ない。ただ、『風土記』作成の時代には助川の駅家は密筑里に属しており、同里には延喜式内社で久慈郡所属の天速玉姫命神社に比定される泉神社があることから、この地に有力な豪族が居たことが窺われる。祭神の天速玉姫命は天太玉命の后神、天比理刀当スともいわれるので、この夫婦の後裔に当たる物部氏族ないし忌部氏族の在住が考えられる。常陸風土記には密筑里の浄泉を俗に「大井」と呼び、『常陸二十八社号』には泉川、霊玉を以て神体とすと記されている。この霊妙なる浄泉が湧き神域を泉ケ森といい、その流れは泉川と呼ばれた。水木町には甕の原古墳などの古墳がある。
 久慈郡を領域とした久自国造は、物部氏族で伊香色雄命の三世孫船瀬足尼が任命されたと「国造本紀」に伝え、常陸太田市天神林町に鎮座の式内社稲村神社は同国造が奉斎して大祖饒速日命を祀つたといわれる。この地は、もとは物部の一派・狭竹物部がおり、その居住によつて佐竹郷の起因となったが、佐竹氏の起源の地でもあった。こうしてみると、これら物部の同族が久慈郡密筑里(のち多賀郡水木)に居て泉神社を奉斎していたことが考えられる。

 平安前期、九世紀前葉頃の人に藤原朝臣助川という者がいる。助川は藤原南家仲麻呂の弟・参議巨勢麻呂の子の従五位下左兵衛佐弓主の子であり、正六位上になったことが『文徳実録』の記事から知られる。すなわち、助川の長男右京大夫従四位下諸成の卒去記事が斉衡三年(856)四月十六日条にあってその父祖を記しており、これとほぼ符合する記事が『尊卑分脈』にも見える。
  後者に拠ると、助川の母は常陸国久慈郡人と記すから、それに因んで助川と名づけられたことが分かる。同書には、助川の兄に置かれる宮田について、母常陸鹿島郡人と記し、同郡には宮田郷があるから、同様な命名方法であり、この兄弟の父弓主は若い頃常陸国司として同地に赴任したことが推される。その場合、助川郷には国司の妻妾にあがるような女性を出す豪族の存在が知られる。おそらく助川駅家の運営に当たったものであろう。

  助川町と宮田川を挟んだ北岸の日立市滑川町には、横穴群があり、道口郷か助川郷の支配者に関係ある者たちの墳墓とみられている(日立市史)。

 
  

  平安後期に常陸太田市域に起った清和源氏義光流の佐竹氏は、古代から同市域の近隣太田郷に先住の小野崎一族を配下にして常陸北部に勢力を張り、中世には日立市域もその圏内におかれたようである。佐竹氏に属した諸氏の活動が知られるところである(追記1を参照)。
  室町期〜戦国期では、助川は介河とも書かれ、佐都東郡大窪郷に属したが、文禄三年(1394)の太閤検地を機に多賀郡に属するようになった。近年、日立市やその北隣の多賀郡十王町で確認された応永20年(1413)を上限とする棟札群から、多珂荘(多賀郡)における佐竹氏重臣小野崎氏の「政所」「地頭」を通じての在地基盤が知られるとのことである(『茨城県の歴史』山川出版社、83頁)。
それでも、助川を苗字とするものは南北朝期までは見られない。史料に助川の苗字が現れるのは室町中期頃からであり、小野崎一族のなかに見られるが、これは上記棟札とも符合している。『新編常陸国誌』には、「中世小野崎ココニ居リ、助川氏トナル」と記されている。以下に、助川〔介川〕氏の概要を挙げることにしたい。
 
小野崎氏は久慈郡小野崎邑より起った氏で、この一族の系図では秀郷流藤原氏と称し、秀郷の四世文行(あるいは三世〔孫のこと〕文修)の子に公通をおいて祖とするが、公通は『尊卑分脈』にも見えず、まったくの仮冒である。その実系は、久慈郡太田郷に古代から居住した長幡部の後裔とみられる。公通の子におかれる通延は太田郷に居り、承暦中(1077〜81)、太田に築城して太田大夫と号したというから、この辺から系図は信頼できるのかも知れない。
 通延の曾孫通長は佐竹昌義に属したといい、その子通政は治承中に佐竹隆義に従って上京したとあるから、この頃に鎌倉殿頼朝将軍の時代を迎えたことになる。通政の五世孫の孫二郎常通のときに建武の中興を迎え、常通ら小野崎一門は佐竹義篤に仕えて足利尊氏のため忠節を尽くしたといわれる。常通の弟・兼通は大久保(大窪)を名乗っている。
小野崎十代甲斐守通胤のとき、多賀郡友部(現十王町友部)に移り、城を櫛形に築いたが、その子下野守通春はさらに同郡山尾に築城して移った。

  ※このほか、小野崎・那珂一族の先祖や分布については、 小野崎・那珂一族の系譜 で記していますので、こちらも併せてご覧下さい。
 

  5 (介川氏の系図)

  小野崎通春の曾孫に介川三郎将監通定(第十三代山城守通綱の子)があげられ、これが介川氏の初出であるが、年代的に室町中期、十五世紀中葉の人である。通定の子とも甥(この場合は、兄憲通の子)ともされる者には相賀又三郎直通が見える(追記2を参照)。
  介川氏は、通定の子の通秀、次いでその弟の二郎四郎(二郎右衛門尉)通高が継いだが、根本石見守が逆心したときに害された。主君佐竹義治(生没1443〜90)が根本石見守親子を討ち取った後、通高の子の通満が根本の所領をもらって根本姓となったが、後に元の介川となると伝える。根本も小野崎一族で、通延の孫・盛通がその祖となっている。

  通満の子には滑川出羽守通本がおり、その子の助川右衛門尉通繁は主君佐竹義舜(義治の子で、生没1470〜1517)を助けて山入氏義を滅ぼし本拠の太田城を回復させた。通繁の子の出羽守通厚も主君佐竹義舜を補佐して功績があり、その四世孫(−通広−通利−通定−通高)となる周防守通高は久慈郡大門村の大門城に居城したが、慶長七年(1602)に廃城したと伝える。このとき、主君佐竹氏は常陸国を収公され、出羽秋田に遷されている。助川通高及びその兄・右衛門の子孫は佐竹家に仕えていて、「御家譜」の滑川条に見える。
  介川の苗字は通満の弟・新兵衛通景の子孫にも伝えられた。系図では、通景の子・新右衛門の後は、「通徳−通弘−通兼−通長−左門」と続けられ、左門について「大山孫左衛門二男、此代ニ断絶」と記される。助川周防守通長は天正の頃、主君佐竹義重の使者として陸奥田村氏のもとに赴き、文禄二年(1593)の朝鮮派兵のときは主君義宣に従い、肥前名護屋に在陣している(『戦国人名事典』)。
『新編常陸国誌』には、「佐竹氏の臣助川兵部あり、後小野崎義昌に仕ふ。永禄天正(註;1558〜92)の人なり」と見える。小野崎義昌とは小野崎本宗山城守政通の養嗣となった者で、佐竹本宗義篤の子であった。

  以上に見るように、小野崎・助川一族から大窪・相賀・滑川など日立市内の地名を苗字の地とする諸氏が出たことが分かり、この一族の日立市域に有していた勢力が窺われる。

(03.11.30 掲上、12.21追記)


 <追記>

 大窪郷辺りは鎌倉期には、鹿島社の大禰宜羽生氏の一族(中臣鹿島連姓)の領有になっており、鎌倉初期建保の頃の大禰宜中臣則長が佐都東郡大窪郷の給主で、その三男季則に北方の相賀村を譲ったことを記す文書がある。その一族には久慈郡世谷の神領を預かった則盛(則長の伯父)もあって、子孫は世谷(瀬谷を苗字として多珂郡成沢村の鹿島明神祠官で会瀬鹿島明神祠官を兼帯したとされる(『新編常陸国誌』)。
  また、武家では、室町期の応永頃、介川村半分が佐竹民部丞跡とされ、宍戸弥四郎入道も領したとされる。この頃から、奥州石川郡泉城主の石川氏の一族治部少輔茂光が佐竹氏に仕えて大窪村に居住し大窪氏を名乗ったが、その八代久光の時主君の秋田転封を迎えた。

 相賀氏は、小野崎第十四代山城守憲通の二子又三郎直通が相賀館に住んだことに因んで名乗ったとするのが妥当な模様であり、直通は兄第十五代山城守朝通の子の通行(新三郎、宮内大輔)を養嗣とし、その子が通孝で、その子に通清・通久・通治がいたと伝える。相賀氏はのちに滑川村に移住したとされる。

  (03.12.5 掲上)


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