常陸の小野崎・那珂一族の系譜

(問い)小野崎・那珂氏の祖について、所見(註)では長幡部とされていますが、藤氏という所伝は信用の置けないものであるにしても、両氏の居住地(太田・国長)から、多氏の可能性も捨てきれないのではと思うのですが。あるいは別系統とされている「大中臣氏略系図」で有名な中郡那珂氏の分かれということはないものでしょうか?
  (茨城県在住の方より2)

 (註) 本HPの「藤原氏概観」の記述を参照。なお、『古代氏族系図集成』では、まだ小野崎・那珂一族を秀郷流藤原氏のなかに入れてあり、HPではこれを修正したもの。



(樹童からのお答え)

1 中世、北常陸の雄族であった小野崎・那珂一族(以下は単に「小野崎一族」とも記します)の系譜については、かなり難解であり、秀郷流藤原氏と称したものの、これは疑問が大きいと考えられます。すなわち、一般に流布する系図では、秀郷の曾孫文行の子公通を同一族の元祖とし、その子に太田大夫通延・河辺大夫通直の兄弟をあげ、前者が小野崎氏の祖、後者が那珂氏の祖とされます(『姓氏家系大辞典』等)。

  太田亮博士は、この一族を秀郷流とすることに疑問を持ち、那珂郡に起った那珂氏に着眼して、古代那珂国造(仲国造)の後裔であろうと推しており、この説に近藤安太郎氏も賛意を表しています(『系図研究の基礎知識』第1巻)。常陸には、那珂郡那珂郷に起り大中臣姓を称した中郡・那珂氏の一族もあり、のち支族が丹波国天田郡金山郷に移って金山・桐村氏となったことが網野善彦氏等の研究で知られます*1。ここでは後者のほうを、小野崎一族の那珂氏と区別する意味で、「中郡那珂氏」と記しますが、これら二つの那珂氏を同族であると太田博士は考えたものです。

  しかし、この太田博士見解は桐村家所蔵「大中臣氏略系図」が具体的に知られる以前のものであり、仔細に検討してみると、本拠地が小野崎一族は主に久慈郡(久慈川流域及び那珂川北岸の上中流域)、中郡那珂氏は主に那珂郡(那珂川南岸流域の中下流域)という相違もあって、ともに古族の末裔と考えれば疑問が大きいといわざるをえません。以下に、私見を記述することとします。

2 小野崎・那珂一族が秀郷流藤原氏ではなかったことは、中世系図として比較的信頼性の高い『尊卑分脈』に見えないことからも肯けます。同書には、文行の子には公通なる者を挙げませんが、「公通」の存在を傍証する資料は皆無といえます。おそらく、接合点の人物として、小野崎一族の通字「通」と文行の諸子の名に見える「公」を合成した名前ではないでしょうか。
  小野崎一族が秀郷流藤原氏でなければ、古来から常陸に居た古族の末裔と考えるのが自然となります。その場合、どう考えていけば良いのでしょうか。最も妥当な方法としては、一族から分出した苗字の分布地域と一族の奉斎神からみていくことではないかと考えられます。

3 小野崎一族の初期段階の系図を見ますと、久慈郡太田郷に起源を有していたことが知られます。初祖ともいえる太田大夫通延、その子佐都(薩都)荒大夫通成、その子小野崎新大夫通盛……と系図は続きます。
  太田郷(現常陸太田市)とその北隣の佐都(薩都)郷、同郷の西部の小野崎邑(現常陸太田市瑞龍町辺り)という地域が苗字の地となりますが、この一帯を中心として久慈川とその支流域の古代久慈郡等*2に、小野崎氏は多くの支族の苗字を分出します。『新編常陸国誌』等に拠りますと、具体的には、赤須〔赤津〕、根本、茅根、小野(少なくともここまでは常陸太田市域の地名)、大久保、石神、御代、小貫、滑川、額田、介川〔助川〕、相賀〔相河〕などです。

  一方、那珂氏の系統では、太田大夫通延の弟とされる河辺大夫通直の後で、その子の那珂太郎通資が出て以降、那珂氏が続き、南北朝期に瓜連城の戦で那珂氏の多くが滅ぼされたものの、那珂郡江戸郷を賜って江戸氏となります。この一族には、戸村、平沢、鯉淵〔小屋〕、武熊、春秋、枝川、須賀、金永、赤尾関などがあげられます。これら苗字の地のうち、河辺〔川野辺〕の地は、那珂川の上流の現那珂郡御前山村東部の野口平(その小字に川野辺がある)を中心とする地とされており、那珂はその北方近隣の那珂郡那賀村(現緒川村那賀)に因ったとされ、戸村は那珂郡戸村(現那珂町戸)、江戸郷は戸村の北方で現那珂町下江戸辺りとなりますから、この系統は那珂川北岸の上流部から中流部にかけて分布したことが分かります。

  小野崎及び那珂の両系統を考えるとき、那珂郡江戸郷の東北方近隣には、久慈郡式内大社の静神社が鎮座することに留意されます。同社の祠官家の瀧氏は、初期の小野崎老臣にもあげられます。また、小野崎一族の初期段階の分岐である小貫氏の苗字の地、久慈郡小貫村(現山方町南部の小貫)は、常陸太田市と緒川村の中程に位置します。こうして見ると、両系統の分布地はかなり異なり少し離れているようにも見えますが、地理的関連があり、所伝に拠り同一氏族としても、命名の通字等からは不自然性はありません。
  この両系統が同一古代氏族の出で平安後期に分岐したとすると、『和名抄』の郷名や式内社の分布等から各々の分出苗字を考えてみますと、兄と伝える小野崎系統のほうが古族後裔の宗族に相応しく、弟と伝える那珂系統が後発であることが推されます。そうすると、小野崎氏の本拠であった久慈郡佐都郷及び太田郷(ともに現常陸太田市域)の古族を検討する必要があることになります。

4 古代の久慈郡の佐都郷・太田郷で繁衍したとみられる氏族に長幡部があります。『常陸国風土記』には、崇神朝に長幡部の美濃から常陸の久慈郡太田郷への遷住を伝え、当地で長幡部神社を奉斎したことが記されます。長幡部と同族の倭文部は、古代の衣服繊維を管掌する氏族として著名ですが、古代久慈郡で大いに栄えた模様で、十世紀初頭の延喜式神名帳には長幡部・倭文部に関連する式内社が久慈郡で五社ないし六社あげられます。常陸国全体で式内社が28座あり*3、久慈郡と那賀郡が各々七座あげられますから、久慈郡におけるこの古代氏族の比重の大きさが知られます。

  小野崎及び那珂の両系統の元祖的な位置を占める人物が太田大夫通延といわれることに着目すれば、当時の久慈郡太田郷が起源の地と考えられます。しかも、当地の古社の奉斎(後述)からみて、それが古族の末裔ということであれば、古代長幡部とのつながりが重視され*4、他の地域の例も考え併せますと、長幡部末裔の宗家的存在であったのが問題の小野崎一族と推されます*5。

  鈴木真年翁は、何に拠ってか不明ですが、その著作『苗字尽略解』で、長幡部に「静宮、佐都、野沢」という苗字をあげて「常陸人」とが記します。このうち、「静宮」は静神社に由来する苗字とみられ、「佐都」は小野崎氏の初期段階に見られる苗字で、「野沢」については不明ですが、現在の那珂郡美和村の東南部(『和名抄』の久慈郡美和郷域か)に野沢という地名が見えます。真年翁は静神社奉斎氏族も長幡部と考えているようですが、それが長幡部同族の倭文部*6であれ、私見の小野崎一族が長幡部出自という見解と共通するものがあると思われます。

5 長幡部関連の久慈郡式内社は、長幡部・薩都・天之志良波・天速玉姫命及び静の各神社とみられますが、そのうち三社ないし四社が常陸太田市域の太田郷・佐都郷に鎮座します。
  長幡部神社は同市幡町に鎮座しますが、中世には衰退して社号まで失い鹿島明神と呼ばれた事情があって、古代からの祠官家は早くに絶えたようです。既に平安前期の貞観16年(874)の神階では、従四位下にあった薩都神社に越されています。
  天之志良波神社は薩都神社の鎮座地の東北近隣白羽町に鎮座して、天白羽神を祀ります。天白羽神は長白羽神とも呼ばれ、伊勢の麻績の祖とされますが、服部連の遠祖でもあり、また長幡部の遠祖・天葉槌命とも同神ではないかとみられます。
  次に、天速玉姫命神社は、論社があるものの、薩都神社の北方近隣の春友町に鎮座する鹿島神社に比定する可能性が考えられます。天速玉姫命の実体は不明ですが、『三代実録』貞観期の二度の神階昇叙が同郡の薩都神・天之白羽神とともに同日になされておりますので、お互いに深い関連があり、おそらく天之白羽神の妻神に当たるのではないかと考えられます。なお、天太玉命の后神、天比理刀当スともいわれ、いずれにせよ、近い同族関係にあると思われます。

  さて、問題は薩都神社です。長幡部神社の三キロほど北方の佐都郷(現里野宮町)に鎮座して、立速男命、またの名が速経和気命を祀ります。この祭神も『風土記』に見えて、天降りした天神で、もと松沢に居たが、清浄な地に遷座して薩都里の東の大山賀礼之高峯におられる(日立市入四間町の神峰山〔御岩山〕にある御岩山権現)、と記されます。
  この立速男命の実体についても、従来の学説では不明のままにされています。しかし、またの名が速経和気命であれば、これは伊豆国造や服部連の遠祖であり(三島大社東神主矢田部氏所蔵の「伊豆国造伊豆宿祢系図」)、おそらく少彦名神に当たると考えられます*7。
  速経和気命(またの名、麻刀方命)の子におかれる天御桙命(伊刀麻命)は服部連の遠祖ですが、長白羽神や倭文神建葉槌命に当たるものとみられ、伊豆国田方郡の式内社に倭文神社(現同郡修善寺町大野の倭文山に鎮座)があげられます。こうしてみれば、薩都神社も長幡部・倭文部により奉斎されたことが明白です。

  薩都神社の神主(古は長官ないし物申という)を現在まで世襲してきたのが赤須氏であり、同氏は小野崎氏の初期分岐で小野崎を初めて名乗ったとされる新大夫通盛の弟、彦四郎通頼が赤須氏初代とされます。その苗字の地は、同社鎮座地の北方二キロほどの久慈郡赤須邑(現茅根町のうち)です。赤須氏は小野崎氏の有力家臣であり、新大夫通盛の孫の小野崎通政の四天王のなかに赤津、その子通経の家老のなかに茅根・赤須と見られます。小野崎一族に奉斎されてきたのが薩都神社といえます。

6 次に、古代の仲国造について簡単に記します。仲国造は、「国造本紀」には成務天皇朝に伊予国造の同祖、建借間命を国造に定めると記され、『常陸国風土記』行方郡条にも建借間命が見えて那珂国造の初祖で行方郡の国栖の賊党を族滅したことが記されます。多臣の祖神八井耳命は常道仲国造の祖とされており(『古事記』神武段)、仲(那珂)国造が多臣の一族であったことは異伝がありません。
  仲国造一族の氏姓には壬生直・宇治部直・大舎人部などが史料に見えますが、のちに仲臣が本宗となっていたらしく、那珂郡を領域として、同郡式内社の大井神社・青山神社・吉田神社・藤内神社などを奉斎し、水戸市街地北部の愛宕山古墳(長径136Mの前方後円墳で、五世紀前葉の築造か)などを築造しました。その中心領域は、那珂川南岸の那珂郷・大井郷とみられます*8。具体的には水戸市西北部から東茨城郡の常北町東部・桂村東部にかけての地域です。
  大井神社の祭神は建借間命とされ、その鎮座地である水戸市飯富町の「飯富」は、於保・飫冨(いずれもオホで、「多・太」と同じ)あるいは大部の転訛であり、「大井」は於保井とも書かれたと伝えます。青山神社は常北町東部の上青山に鎮座し、藤内神社は飯富町の北近隣の同市藤井町に鎮座します。また、常北町東部には那珂西・仲郷(二箇所)・仲宿という地名があり、桂村東南部にも仲宿という地名が見えますから、この辺りが『和名抄』の那珂郷であったと考えられます*9。中世の中郡那珂氏一族の所領も、上掲「大中臣氏略系図」に拠ると那珂郡の藤井・青山・小坂(いずれも常北町域)、高久(桂村)にあったことが分かり、とくに藤井・青山には式内社があったことに注目されます。なお、中郡という苗字は新治郡に置かれた中郡荘に由来し*10、この地からは中郡那珂氏一族の大槻・大泉(現西茨城郡岩間町東部の大月、同町西北部の大泉)が挙げられます。

  こうしてみると、中郡那珂氏一族がまさしく古代仲国造の宗族後裔であることが分かります。『新編常陸国誌』に引く『丹波志』に「天田郡…金山城主金山大膳大夫大中臣那珂宗泰」という表記も、古伝を記したものと考えられます。

7 小野崎一族の那珂氏が起った緒川村の那賀は、おそらく『和名抄』の那珂郡川辺郷の郷域であり、小野崎支族の遷住により生じた地名ではないかと思われます。つまり、那珂郡の「那珂」ではなく、長幡部の「那賀」ではないかと考えられるわけです。那珂と那賀とは古来お互い通じ合い、『常陸国風土記』には現に那賀郡とも記されますが、長幡部から由来する可能性も無視してはならないということです。
  緒川村の那賀の少し北方に位置する同村の大字上小瀬字白幡山には、久慈郡の式内社であった立野神社が鎮座しており、この神社も「白幡」の地名からして長幡部に関係するものとみられます*11。その場合、那賀は中世は那珂郡に属しましたが、十世紀前葉の延喜頃には久慈郡に属したかか那珂郡でも久慈郡と接する境の地にあったことが分かります。当地には、那賀鹿島神社があることにも留意されます。緒川村北部地域とその北隣に位置する那珂郡美和村は、『和名抄』の久慈郡美和郷の地だとみられます*12。
  武蔵国北部の賀美郡には式内社として長幡部神社があげられ、全国で同名神社が見えるもう一つの例ですが、その鎮座の地が児玉郡長幡村で、これが長浜村(現児玉郡上里町長浜)となります。長浜が長幡に通じるとすれば、倭文神社のあった伊豆国田方郡には長浜神社(現沼津市長浜に鎮座)があって、その祭神が阿波比唐ナあることに留意されます。

8 古代常陸の那珂郡でも、那珂川上流部では左右両岸に、仲国造一族とは異なる部族が居住していたとみられます。というのは、那珂郷の北隣に位置した阿波郷、桂村東部の粟・阿波山辺りは、地名からみて粟島(淡島)明神たる少彦名神を奉斎する部族が居たとみられるからです。那珂郡の式内社、阿波山上神社がそれであり、『常陸国二十八社考』によると童子が手に粟穂を持って杉樹に降ってきたと伝え、祭神を少彦名命とするからです。那珂川の古名が粟川として風土記に見えるのも、こうした事情によるものと思われます。

  阿波山の西方二キロほどに鎮座する式内岩船神社(桂村岩船に鎮座)も、石神信仰をもつ少彦名神一族の流れが奉斎したものとみられます。同社の神体は船の形をした大きな花崗岩です。那珂川支流の緒川流域となる現那珂郡美和村(古代は久慈郡)には、上檜沢字仲平に静神社があり、緒川源流の地になる鷲子には天日鷲命(少彦名神と同神)を祀る鷲子山上神社があります。
  那珂川下流の磯崎(現ひたちなか市磯崎町)に鎮座の那珂郡式内名神大社の酒列磯前薬師菩薩神社も、祭神を少彦名命としています。従って、少彦名神一族系統の式内社が那珂郡にも三社あり、総じて那珂川の北岸辺りまでの地域には、長幡部とその同族が分布していたものとみられます。

9 (結論)
  以上、様々な視点から小野崎一族を見てきましたが、那珂氏が起った那珂川上流部の緒川村辺りは、長幡部同族の居住地で古代では久慈郡に属したかその郡境付近に位置したのではないかとみられます。所伝のように那珂氏が小野崎一族であり、那珂川中流北岸(東岸)の江戸・戸村氏がやはり長幡部に出自する小野崎一族であったことは自然であったと考えられます。
  室町前期には、江戸氏一族が力を伸ばして南遷し、更に応永年間にはそれまでの居城河和田(水戸市西部)から水戸への進出を果たすなど、那珂川下流の南岸地域に広く展開しても、それが那珂氏の出自につながるものではなかったということです。

 
 〔註〕

*1 網野善彦「桐村家所蔵「大中臣氏略系図」」(『茨城県史研究』48号所収。後に『日本中世史料学の課題』に所収)。福知山市瘤木の桐村家に伝来の古系図「大中臣氏略系図」の紹介と研究がなされる。
  ただ、網野氏の検討は、同系図のとりあえずの紹介・分析くらいの水準であって、系図研究としては不十分のきらいがあり、この「大中臣氏」の具体的な出自についての検討や系図に現れる地名の現代地名への比定などが殆どなされていないため、中郡一族の活動舞台などがあまり明確ではない。

*2 常陸国では、古代から郡域・郡名がかなり変化してきており、本稿では主に『常陸国風土記』『和名抄』に見える郡や郷を念頭に置いて記述した。
 概略を述べると、古代の久慈郡は、中世では佐都東・佐都西・久慈東・久慈西の四郡となるが、本稿では総じて久慈郡と記した。これらのうち前の三郡が江戸期の久慈郡となり、いまは久慈郡と常陸太田市となる。一方、久慈西郡は、江戸期は那珂郡に入り、いまは那珂郡とひたちなか市となる。
  古代の那賀郡は、中世では那珂東・吉田・那珂西の三郡となるが、総じて那珂郡と記した。この三郡は、江戸期には隣郡域を少し取り込んで那珂・茨城の二郡となり、いまは前者が那珂郡とひたちなか市となり、後者が東茨城郡・西茨城郡と水戸市となる。また、古代の茨城郡は、中世以降は隣郡の新治・那珂郡等との間で複雑な離合が見られる。

*3 ここで取り上げた常陸国の式内社については、個別に出典をあげないが、『式内社調査報告』第11巻や志賀剛著『式内社の研究』第六巻の記事等に拠っている。

*4 久慈郡の古族としては、この地域の国造であった久自国造のほうが勢力が強かった上古の時期もあったと考えられるが、中世の小野崎一族につながるとは考えられない。
  すなわち、物部氏族の久自国造は、根拠地を太田郷の西南近隣の久米郷・佐竹郷・志麻郷辺りにおき、治所を郡衙のあった久米郷(とくに金砂郷村大里辺り。奈良期の久慈郷)におき、式内社の稲村神社(常陸太田市天神林町)を奉斎し、梵天山古墳群(同市島町)を築造したと考えられる。梵天山一号墳は長径151Mの前方後円墳で、常陸でも屈指の規模の大古墳であって四世紀末〜五世紀前葉に築造されたとみられている。
  久自国造の一族は後世まで久慈郡に残ったものもあったろうが、明らかな後孫は管見に入らず、その有力支族が奈良時代初頭頃に同国筑波郡に移遷し、平安初期には有道宿祢姓を賜り、のちに武蔵国児玉郡に定着して武蔵七党の一、児玉党を出したことで知られる。

*5 古代の衣服繊維管掌部族たる長幡部の後裔に武家雄族が出たとみることに疑問をもつ向きもあろうが、服部・長幡部などは物部連の同族であり、伊賀の服部党や伊豆国造後裔の武士を考えれば、自然である。神代紀には、出雲平定の時に武甕槌神が降服させ得なかった邪神を服させるため、倭文神建葉槌命を遣わしたことが見え、強力な武神であったことが知られる。

*6 常陸国衙の置かれた石岡市の鹿の子C遺跡から出土した漆紙文書のなかに、久慈郡(その大田郷か久米郷か)の戸籍断簡と推定される文書があり、そこには戸長長幡部で寄口倭文部の戸が見える。断簡のため、詳細は不明であるが、長幡部□□自売など、倭文部真□刀自売などの名前が見えている。『万葉集』巻20には、常陸国から出た防人に倭文部可良麻呂が見える。

*7 立速男命の実体について、『篠崎筆記』等には、里宮村明神(薩都明神)が毎年秋に入四間の尾岩(奥院という岩窟)に籠り、翌年春まで神酒を醸すことが見える。御岩山頂上には巨岩林立して土器などの祭祀遺跡が確認され、そこに石神信仰が見られるとともに、『釈日本紀』等に造酒祖神とされる少彦名神に通じるものがあることも留意される。

*8 太田亮博士は、那珂郡那珂郷が仲国造の治所のあった地で、「大部邑の地ならんと」と記すが(『姓氏家系大辞典』仲条)、大井神社の記事からいって、後半部分は少しズレがあると考えられる。大部郷の地名は「親鸞伝」に見え、これが飯富に当たることは『特選神名牒』に見える。

*9 那珂郡那珂郷の比定地については、緒川村那賀とみる説(中山信名『新編常陸国誌』など)が唱えられたが、吉田東伍は『大日本地名辞書』で、地理的な観点から水戸市の渡里・飯富付近をこの郷の所在地と考え、那珂郡衙もそこに求めようとした。渡里は飯富の少し下流で、愛宕山古墳の少し上流に位置する地である。
  那珂郷に古代郡衙が置かれたかどうかは不明だが、名前からいって那珂(仲)国造の所在地とみてよく、その場合、那珂郡の辺境の緒川村那賀とみる説は疑問が大きい。藤原京出土の木簡に「仲郡吉田里人」という記事があることも留意される。

*10 中郡那珂氏の祖とされる上総介頼継が新治郡の中郡荘六十六郷を与えられ、その子頼経はこれを譲られて中郡を名字とし、その子経高は保元・平治の乱に参加した。鎌倉前期には、中郡荘地頭として中郡氏は幕府の有力御家人となり、承久の乱等で出雲や丹波・山城・安芸等に恩賞地を得た、と系図に記される。中郡荘の下司で中郡氏を称する経高は、『吉記』に見えており、承安四年(1174)には乱行で京に召喚されている。
  しかし、系図で祖の上総介頼継を摂関家の藤原師通の子とするのは、明らかに仮冒であり、大中臣姓を称するはずがない。こうした出自検討ぬきには、中郡一族の実態把握ができないのではなかろうか。また、鎌倉初期の那珂実久が十一年間京都守護職を務め、丹波・摂津・山城の守護人であったと記載されており、網野氏は十分肯けるとするも、その職掌には誇張があるのではなかろうか。

*11 緒川村上小瀬の立野神社の鎮座地の字が白幡山ということで、長幡部との関連が考えられることに関連して、静神社のある瓜連の古徳沼の側にも、同じ白幡山(白羽の森)という地名があるという情報がある。

*12 いま那珂郡美和村には小田野という大字があり、この地に中世は佐竹一族の小田野氏が起こるが、薩都神社の本の神主とされる別姓の小田野氏の起源の地ではなかろうか。『諸社縁起文書』所収の赤須遠江守文書には、「佐都之宮之神主本ハ小田野長兵衛ト申候」と記される。なお、小田野の東南近隣には、野沢という地名が見え、あるいは鈴木真年翁が長幡部姓とする野沢氏の起源の地か。

 (03.1.18掲上。2.2及び3.23に記事追加)


 (質問者からの返信)03.1.27

  小野崎氏と長幡部とのつながりについての上記の記述が理解できるという旨のほか、次の記載がありました。

1 少名彦神と石神信仰について、それと関連するのかどうかわかりませんが、那珂氏族戸村氏の居城・戸村城には、かつて日天・月天と呼ばれる二つの巨石があり、地元民の崇敬を集めていたそうです。現地に行ってみましたが、今はもう見当たりませんでした。
2 中郡那珂氏こそが多氏系であるとの事についても一つ。
  大井神社の西・朝房山の北に、古内という地があり、昔は鹿島郷と呼ばれ、鹿島神宮の二十年に一度の修造の用材を採っていた地だといいます。鹿島神宮の宮司も大中臣氏ですから古代においてはずいぶん行き来があった事が伺われて興味深いです。


 (樹童からのお答え)

  ご教示ありがとうございます。貴信に関連して、仲国造について少し補足しておきます。

1 那珂郡の式内社のうち、吉田郷の吉田神社が唯一の名神大社とされましたが、同社は仲国造一族の大舎人部氏が古来、奉斎してきて、中世の田所などの祠官家となっています。
  同社は水戸市の千波湖の東南岸に位置しますが、千波湖に注ぐ桜川の水源地が朝房山です。水戸市と笠間市の市境に位置する朝房山は、水戸市の最高峰(標高201m)であり,『常陸国風土記』に見えるクレフシ山に比定されていて、同書に三輪山型蛇神伝説が記されますが、頂上には、蛇神を祭る朝房権現があります。

  大和の意富(多臣の本拠で、現田原本町多)は三輪山型蛇神伝説の発祥地・三輪山の真西に位置しますが、常陸では逆に朝房山の真西に意富と大井神社があります。大井神社(=鹿島明神)の祭神には、「建借馬命、木花開耶姫命」があげられます。多臣氏は、神武天皇の皇子神八井耳命の後裔と称しましたが、実際には竜蛇神信仰をもつ和邇氏族の出であったことに留意したいものです。「那賀」は長で、蛇の意味の「ナーガ」に通じますし、「那珂」だと和邇氏族の起源地・筑前国那珂郡にも通じます。この辺りの事情は、宝賀会長の論考「猿女君の意義−稗田阿禮の周辺−」(『東アジアの古代文化』106〜108号、とくに107号所収部分)に記述されています。

2 私見で那珂郷の所在地と考えた常北町の町域には、入野郷(上入野辺り)、鹿島郷(上・下古内辺り)なども置かれておりましたが、『新編常陸国誌』がほかに石上・日下の二郷をあげるのは疑問な点もあります。
  この常北町には、鹿島神社が多く、現在は上入野・上古内・下古内・増井・勝見沢など八社(全体十三社という)があるほか、青山神社がかって鹿島明神と呼ばれ、那珂西には鹿島神を合祀する神社があると『常北町史』に記されます。この鹿島神社の祭神は、中臣連が奉斎の武甕槌神ではなく仲国造の初代とされる建借間命とみられます。建借間命は、『常陸国風土記』行方郡の板来村条に見えて、この地の荒賊を討滅したことが記されますが、鹿島・行方両郡も仲国造の領域であったとが知られます。
  また、『常北町史』に拠ると、同町の小字には「富士山・富士山下」など「フジ(富士・藤)」という語幹を含む地名が合計で18個と最も多いことが記されますが、これは、多臣氏が出自した海神族和邇氏族の富士神(木花開耶姫命)信仰と関係するものではなかろうかと考えています。

3 小野崎一族那珂氏、とくに南北朝期に活動した那珂通辰の居住地について、常北町の那珂西城とする説(天保の豊田天功の『常州義軍考』や『新編常陸国誌』に補筆の栗田寛の説)が一般的でしたが、吉田一徳は諸江戸氏系図を研究してこの説を否定し、緒川村那賀説を強力に主張した(『常陸南北朝史研究』)、とされます。この辺の事情は、『常北町史』の第三章の「第三節 那珂氏と那珂西城」に詳述されています。『那珂町史』中世・近世編でも、那珂通辰など那珂氏累代の居城は緒川村那賀であった可能性が高いという説が有力であると記述し、「那珂西郡に属する那珂西城の地は大中臣姓那珂氏の支配地にあり、藤原姓那珂氏の那珂通辰の居城地にはふさわしくないということになる」としています(86〜87頁)。
  私は、これら先学の業績をよく調べずに上記の記述をしましたが、結論的には良く符合していると思われます。
 (03.2.2掲上)


 (質問者からの再返信) 03.2.5

1 小野崎一族那珂氏の居住地については、那珂通辰の長男・常泰(四郎盛通)の子・千代太郎(那珂一族滅亡時、幼少であったため赦され、のち母方の姓をとり、石川光通となる)の系が代々、那賀鹿島神社(緒川村)の祭祀を務めた事からも、その地であろうかと思います。

2 久自国造の後裔についてなのですが、天神林刑部丞正恒などはどうでしょうか?
 1133年、源昌義(佐竹氏)・平清幹(大掾氏)によって滅ぼされたとされる人物です。彼の居城・馬坂城は、ニギハヤヒ命を祭神とする稲村神社(天神林)と隣合せにあり、名前も小野崎氏の通字「通」とは異なります。
  ある本には、秀郷流で、小野崎氏と同族とありました。創作の人物の可能性もあるかもしれません。これ以上の事はちょっとわかりませんが、御参考までに。


 (樹童からのお答え)

1について 
  那珂通辰の孫に石川光通が出たことは、石川豊著『中世常総名家譜』(上・下2冊、暁印書館、1991・92)で承知していましたが、その系が「代々、那賀鹿島神社(緒川村)の祭祀を務めた」ことは知りませんでした。ご教示ありがとうございます。

2について
 久慈郡に藤原姓秀郷流という天神林氏があって、佐竹氏により滅ぼされたという所伝もあったと紹介されており、これが史実であった場合には、ご指摘のように、久自国造の後裔であった可能性はあるものと考えられます。佐竹前史関係の史料が乏しいことが残念に思われます。

 (03.2.8 掲上)

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