□ 石城の大国魂神 附. 諸国の大国魂神 (問い) 岩城国造が奉祭する大国魂神社の祭神の正体(実体)は、誰とみるのが妥当なのでしょうか?これについて納得のいく説明に出会った事がありません。見解の提示を願います。 (鬼太郎様より、07.6.13受け) |
(樹童からのお答え) 古代の石城国造とその関連する諸国造については、異伝が多く、そこに様々な混乱が見られてきわめて難解です。かつて本HPでその段階(05年10月)での私見を示したことがありましたが、今回再考して、おおいに迷いながらも現段階(07年6月)での見解を以下に記しておきます。ただ、こうした事情からさらに変わる可能性もありますことを予めお断りしておきます。
1 石城国造の変遷とその出自
石城国造の出自・系譜については、「国造本紀」や『風土記』(常陸、陸奥逸文)、『古事記』などで記される記事では多くの混乱が見られますが、これは地域概念としての「石城」が変遷していることに因む事情も考えられます。
具体的に、常陸国北部の多賀郡から北方の陸奥国南部の菊多郡・磐城郡(往時の石城郡苦麻村が北限)にかけての地域(以下、「当該地域」と記します)については、石城国造をはじめ、高、道奥菊多、道尻岐閉の諸国造が置かれたように受け取られます。先に私は、それぞれが別の国造とも受け取られそうでも、それは所伝の混乱にすぎず、かりに国造の治所の変遷があったとしても、一つの石城国造が形を変えて見られたものと考えました。そして、その系譜は、天孫族系の天目一箇命の後裔で(三上氏族、出雲国造と同族)、近隣の石背国造・那須国造などと同族関係にあったものとみていました。 ところが、再考してみて、「石城」という地理概念には変遷があるとみられること、後世に遺った氏族を考えると、多賀郡・菊多郡あたりに高階朝臣姓を称した大高一族が居て、磐城郡を中心とする地域には平朝臣姓常陸大掾一族を称した「海道平氏」の岩城一族(のちの幕藩大名)が繁居していたことという事情を考えると、これら二つの氏族系統に応じて(ともに姓氏は仮冒と思われるが)、当該地域には主に二つの国造設置があったのではないかと考え直すようになりました(なお、菊多郡の菊田・境(酒井)などの諸氏が岩城一族というのは、系図の付会か後に岩城一族が菊多郡に勢力を伸ばした結果か)。
これに対応するように、「国魂神社」が菊多郡窪田(いわき市勿来町窪田馬場)と磐城郡菅波(菅波明神。同市平菅波)に存在します。ただ、前者のほうは菊多国造が創祀したと伝えますが、奉斎氏族が衰えたか退転したことなどの事情で、式内社にはなっていませんし、近隣で北方十キロほどの同市遠野町滝字西ノ内にも同名社があります。
これらの事情をうまく説明できるように、当該地域に置かれた国造を推測してみると、一つの仮説として次のように考えられます。
「まず、成務天皇朝に当該地域を括ってこれを領域とする「石城国造」が置かれ、その国造としては、弥佐比命(建御狭日命)が任じられた。この者が建許呂阪命(黒坂命)という別名でも伝えられ、茨城国造等の祖・建許呂命と混同された。
次に、応神朝頃には、当該地域が二分されて、南方が石城国造(高国造、道奥菊多国造)、北方が道尻岐閉国造の領域とされ、前者の国造に弥佐比命の子の屋主刀祢が、後者の国造にその兄弟の宇佐比刀祢が任じた。しかし、道尻岐閉国造のほうは永続せず、大化前代のどこかの時点で消滅していた。このため、全国の諸国造が姓氏を負うようになった時期に、後の高国造につながる系統が当該地域全体を管掌して石城直という姓氏をもった。
さらに、白雉四年(653)には、当該地域がまた二分されて、南方が多珂(高)国造、北方が石城評造の管掌することになった。これが養老二年(718)には、常陸国に属していた菊多郡と陸奥国の石城・標葉・行方・宇太・亘理の五郡がまとめて石城国とされたが、この「石城国」に国造がおかれたとしたら、これも石城国造といい、石城評造の後となろう。
多珂国造の姓氏は大化当時は石城直で、後に高直(推定)に変わったとみられ、石城評造・国造のそれは、大化当時は丈部で、後に於保磐城臣(大磐城臣)になった。氏族系統としては、南方の石城直・高直のほうは天孫族系統の武蔵国造の一族であって崇神朝以降に分かれたものであり、北方の丈部・大磐城臣のほうは同じように武蔵国造の同族でも崇神前代の早い時期に分岐したもので、「国造本紀」に見える天湯津彦命や『陸奥国風土記』逸文に見える磐木彦の後裔となり、石背(磐瀬)国造や那須国造と同族に位置づけられると推される。」
〔註〕難解なのは、石背や那須から石城・多珂までの地域の諸国造が阿倍氏や多氏の流れを汲んだ可能性もあり、この辺の判別がどうもよくわからない事情にある。 2 石城評造・国造の奉斎神
『延喜式』では磐城郡の式内社にあげられる大国魂神社は、「海道平氏」岩城一族により奉斎されたことは確かです。『国魂文書』に見えるように、鎌倉後期に国魂十郎泰秀、南北朝争乱時には岩城国魂太郎兵衛尉行泰が祠官・国魂村地頭の関係者のなかに見え、それが後に大江姓あるいは源姓と称する山名氏と変わりますが、実態を見れば両者は同じ流れであることが山名氏の系図(東大史料編纂所蔵の「山名系図」。いわき市の大国魂神社原蔵)から知られます。そうすると、「国魂」として石城国の最高の守護神に崇められた神とは、石城評造・国造家すなわち天孫族の遠祖神の誰かということになります。
その場合、候補としてとりあえず考えうるのは、@日本列島に到来した素盞嗚神(その実体が五十猛神)、A長年抗争していた奴国を屈服させて北九州をほぼ統一させた高天原の主・天照大神(同、生国魂神。大阪の生国魂神社の例、男性神であることに注意)、B天孫族の分岐系統の先祖、なかでも鍛冶部族の祖の天目一箇命(天御影神、天明玉命)か衣服管掌部族の祖の少彦名神(天日鷲命)、などがあげられます。なお、山陰道の出雲一帯を押さえた大国主神にあたるとみられるのは、海神族の大己貴命(三輪・安曇などの氏族の祖)ではなく、天孫族の天目一箇命にあたる場合があることに留意したいものです。古代の出雲には大己貴命の後裔氏族が殆ど存在しない事情も(伝来の系図による場合。ただ、実質的に出雲国造一族のなかに混合した可能性も残るが)、これを傍証するといえます。
菅波の大国魂神社は、祭神を大己貴命、事代主命、少彦名命とされており、石城国造の氏族系統を考えると、大己貴命は「出雲の大国主神」すなわち天目一箇命が転訛した可能性があるものとみるのが自然です。陸奥で繁衍した玉造部族の祖・天湯津彦命も、天目一箇命(天明玉命)の子に位置づけられます。
ところで、石城国造の同族の武蔵国造も、武蔵府中で同名の大国魂神社(六所明神)を奉斎しました。同社の摂末社には坪宮(国造神社ともいう)があり、武蔵国造の祖・兄多毛比命を祀ります。大国魂神社は後に武蔵国の主な神社も併せて祀り、これにより同国惣社とされる同社では、武蔵一宮(国司が巡行する際の順番)とされる小野大神が宮乃盗_(瀬織津姫)、三宮とされる氷川大神(名神大社で、一般には武蔵一宮)及び六宮とされる杉山大神がその夫の五十猛神を祀ることを考えると、武蔵大国魂神とは五十猛神かその後裔神とするのが妥当なようにも思われます。もっとも五宮の金佐奈大神(名神大社で、一般には武蔵二宮)は天目一箇命を祀るとみられるから、これが武蔵大国魂神に当てられる可能性も残りますが。
(附説) 諸国の国魂神
「国魂」とは国の守護霊の意で、その地域の開拓や発展、守護は国魂神の加護恩寵によるとみられていました。そのため、全国各地にいくつかの国魂(国玉)神社があり、『延喜式』神名帳には全国十七国にわたって記載されています。
これら諸社を概観してみると、@当地域の古代国造一族が奉斎してきた神社と、A平安期以降に国司がその国の総社(惣社)として国の主な神社を集めて祭祀させた神社、この二つの性格を併せ持つ神社があります。@は殆どが式内社ですが、Aは式内社にはなっておりません。
すでに取り上げた神社以外の主な国魂神を見てみると、概略次のように整理(推定)されると思われます。
(1)大和国 山辺郡に大和坐大国魂神社(大和神社)があり、式内名神大社で、奈良県天理市新泉町に鎮座し、倭国造が祖神の大己貴神を奉斎した。この神社を淡路に勧請した神社が淡路国三原郡の大和大国魂神社であり、兵庫県南あわじ市榎列上幡多に鎮座し、式内名神大社で淡路二ノ宮とされたが、淡路の国造家が奉斎したものではない。
(2)摂津国 東生郡に難波坐生国咲国魂神社(生国魂神社)があり、式内名神大社で大阪市天王寺区生玉町に鎮座する。その創祀に凡河内国造が関係したとは伝えないが、祭神の生国魂神からいって、同国造が関与しなかったものでもなかろう。
摂津には莵原郡に式内社の河内国魂神社(五毛天神)があり、神戸市灘区国玉通に鎮座して、凡河内国造の祖神の天御影命(天目一箇命)が祀られる。
(3)能登国 能登郡に式内社の能登生国玉比古神社(気多本宮)があり、石川県七尾市所口町に鎮座して、大己貴神を祀るから、能登国造一族の奉斎とみられる。
なお、七尾市古府町には能登国魂神社があり、能登国総社とされるが、この総社は、能登守源順が大穴持命(大己貴神)を祀っていた神社に国内の有力神社43社の神を勧請・合祀して総社としたものである。
(4)尾張国 中島郡に式内社の尾張大国霊神社があり、愛知県稲沢市国府宮にあって、国府宮、尾張総社といわれるが、これは同地の古族が大己貴命を祀る神社に対して総社としての位置づけをしたものである。
なお、海部郡にも国玉神社があり、名古屋市中川区富田町弓場にあって、尾張国造一族が祖神の大己貴命を祀ったものとみられる。春日部郡にも国霊社(北名古屋市徳重)があり、『国内神名帳』の従三位上国玉天神と見える。
(5)遠江国 磐田郡に式内社の淡海国玉神社(総社明神)があり、静岡県磐田市見附にあって大国主命を祀る。遠江の総社ともいわれるが、もとは当地の古族が祖神を祀ったとみられ、そうすると、この祭神・大国主命とは、この地域に治所を置いた遠江国造が奉斎した祖神となるとみられるので、物部氏族の祖の天目一箇命(饒速日命の父神)か。
(6)その他 伊勢にも松阪市六根町に大国玉神社があり、多気郡式内社の同名社に当てられるかというが、定説はない。常陸国真壁郡に式内社の大国玉神社があり、茨城県桜川市大国玉に鎮座する。
和泉国日根郡にも式内社の国玉神社(大阪府泉南郡岬町深日)があり、豊前の豊前市(もと築上郡)岩屋にも国玉神社(求菩提権現)が鎮座する。また、山城国相楽郡の式内社、岡田国神社も国魂神を祀る神社といえよう。これらの祭神の実体は、必ずしも明らかにはなっていない。
(07.6.16 掲上。18.4.15追補)
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