讃岐の佐伯直とその一族

(問い) 讃岐の佐伯直について調べていますが、次の二点について質問があります。
 (1) 伴善男が藤原氏との勢力争いに際し讃岐の佐伯氏を味方につける為、讃岐の佐伯氏に大伴氏の末裔であると名乗ることを許したという説があります。佐伯有清著「伴善男」から「姓氏家系大辞典」の太田亮氏の説のようですが、この説を裏付ける文書等があるのでしょうか。
 (2) 讃岐の佐伯氏と阿刀氏とはかなり密接な関係にあった様に思われますが、その関係を示唆するような系図等はありませんか。
 
  (あまのや様より、05.4.16受け)
 

 (樹童からのお答え)

1 佐伯直豊雄らの系譜主張と伴善男の関与

  (1)については、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』サヘキ条の記事にありますが、その基礎となっているのが『三代実録』貞観三年十一月十一日条の記事です。
 すなわち、讃岐国多度郡人の故佐伯直田公(空海の父)の子や孫、故従五位下鈴伎麻呂・書博士豊雄らの故人を含む一族十一人に対し佐伯宿祢姓を賜り、左京に移貫したという記事ですが、この賜姓にあたり、当時正三位中納言兼民部卿の地位にあったあった伴善男が、正六位下書博士佐伯直豊雄の系譜の主張を家記に照らして検討するに偽りではないと奏言したので、これに従った措置であると同書に記されております。
 
 伴善男は、貞観二年に中納言となり、同六年には大納言となって、この頃から左大臣源信らと対立を深め、同八年には応天門事件が起きていますので、様々な勢力拡大策を講じていたことは考えられますし、讃岐の佐伯直氏の本来の系譜は播磨国造と同じく稲背入彦命(景行天皇の皇子と称していた)の子孫に当たりますので、善男の奏言は明らかに虚偽であったわけです。

 
2 讃岐の佐伯直一族の系譜

  上記貞観三年の記事では、佐伯直豊雄らの系譜は、先祖を大伴健日連とし、この者が景行天皇の御世に倭武命に随行して東国平定に勲功があったことで讃岐国を賜り私宅としたが、その子孫の室屋大連の第一男御物宿祢の子孫の倭胡連が允恭天皇の御世に讃岐国造となったと主張し、同族の玄蕃頭真持等(讃岐佐伯直の本宗たる道長〔田公の兄〕の子・孫か)が既に京兆に貫し宿祢姓を賜っているので、この例にならい田公の子・孫も同様に改姓改居の待遇を求めたものと記されています。
しかし、大伴健日連が讃岐国を賜ったことは事実ではなく、室屋大連は允恭〜雄略・顕宗朝の重臣であり、その子の御物宿祢は佐伯連・林連の祖となったものの、讃岐の佐伯直とは無関係であって、允恭天皇の御世の人とされる倭胡連とは年代が逆転しています。ここには明らかに系譜仮冒があるわけで、倭胡「連」についても疑問です。
 
讃岐の佐伯直は播磨の佐伯直の分岐ですが、これについては、『姓氏録』右京皇別の佐伯直条の記事が参考になります。同書によると、景行天皇の皇子、稲背入彦命の後であり、「男・御諸別命」が稚足彦天皇(謚は成務)の御代に、針間(播磨)国を中ばに分けて給わったので、針間別と号づけられ、さらに「男・阿良都命(訓はアラツ。一名は伊許自別)」が、誉田(応神)天皇に命じられ日本武尊の東国平定の際に俘(とりこ)にした蝦夷の後裔(佐伯)の管掌者となって氏を針間別佐伯直と賜ったと記されます。佐伯は針間のほか、安芸や阿波・讃岐・伊予の五国に分散して配置されたとありますので、播磨の支族が四国各地の佐伯を管掌したことが考えられます。播磨国内では、印南・揖保郡等に佐伯直の分布が見えますが、河内皇別の佐伯直も稲背入彦命の後と『姓氏録』に記されます。
ただ、この『姓氏録』の右京皇別の記事にも乱調・誤記の疑いがあり、御諸別命は毛野一族の針間鴨国造の祖であって、この御諸別命と、稲背入彦命の男で針間国造の祖である阿良都命とが針間を中分したものではないかと思われます。阿良都命が『播磨国風土記』神前郡多駝里条に見える品太(応神)天皇のときの佐伯部らの始祖阿我乃古と同人とすれば、世代的に御諸別命を入れる必要もなく、こう考えたほうが文意が通ります。仁徳紀四十年条には、播磨佐伯直阿俄能古らが隼別皇子を討ったと見えますが、『古事記』は山部大楯連という別人の名をあげますから、仁徳紀の記事は疑問があります。「国造本紀」では、成務朝に稲背入彦命の「孫」伊許自別命が針間国造を賜るとあり、御穂別命(御諸別命に当たる)の児・市入別命が針間鴨国造を賜るとあります。
 
播磨や讃岐の佐伯直の系譜については、良本はありません。『続群書類従』に見える「伴氏系図」に若干の記述があることは有名ですが、大伴金村の弟の歌連から出たように記し、疑問であることは言うまでもありません。管見に入ったところでは、中田憲信が編纂した『皇胤志』や『諸系譜』第33冊所収の「佐伯直」がありますが、これらも信頼性が相当低いものとみられます。一応、紹介しておきますと、阿良都命の曾孫の那賀児の子に善通という者がおり、八釣宮朝庭(顕宗天皇朝)二年に讃岐国多度郡に移住したとされますが(『古代氏族系譜集成』642頁に記載)、なんら確認できません。
 
  なお、松原弘宣著『古代の地方豪族』(吉川弘文館、1988年刊)にも、讃岐の佐伯氏が取り上げられていますし、空海の縁戚に当たる円珍(空海の姪の子)の系譜について佐伯有清氏が『古代氏族の系図』所収の「和気公氏の系図」で分析しておられますので、併せてご参照ください。

 例えば、東大史料編纂所所蔵の謄写本『白国系譜』では、稲背彦命に始まり、御諸別命−阿層武命−阿良都命−狭穂都命(佐伯直)−速足−伊須枳弥……と続け、姓氏も佐伯直→佐伯連→白国宿祢と変遷を見せるが、内容的に極めて疑問が大きく、後世の偽作系図である。

 
3 讃岐佐伯直と阿刀氏との関係

(2)については、空海の母が阿刀氏とされますが、それ以外に通婚などの関係があったかどうかは不明です。京都国立博物館に東寺執行職を代々世襲して伝えてきた「阿刀家文書」が所蔵されており、そのなかに無題の一枚紙に空海関係系図が記されております。しかし、同系図は何時書かれた者か不明であるうえ、空海の父系を大伴連系佐伯連の後裔に記し、母系の阿刀氏についても、物部嫡宗家の名前に阿刀氏の人を数名あげて続けたものであり、父系母系ともあまり信頼するに足らないものです。

空海の母については、八世紀後半に伊予親王の侍講を務めた阿刀宿祢大足の姉妹といわれますが、このことは、『続日本後紀』の承和二年三月二三日条に空海の遷化記事に「舅従五位下阿刀宿祢大足」と見えます。後世の『元亨釈書』にも釈空海の父は佐伯氏の田公で、母は阿刀氏と見えます。上記空海関係系図では、真足の子に空海母をあげ、その弟に大足をあげますが、『百家系図』巻46所収の阿刀宿祢系図では、弓張の兄弟姉妹として大足・空海母をあげます。このように諸伝ありますが、年代や名前・職掌などから考えると、弓張の子が真足で、その下に空海母・大足をあげるのが妥当なようです。
阿刀大足の子孫は高野山の慈尊院政所中橋氏になったと伝え、中橋系図も『百家系図』巻47に所収されますが、ごく簡単なものです。

以上の史料・系図からは、佐伯直田公と阿刀氏の婚姻事情は不明であり、これ以外に両氏の間に通婚があったかどうかも不明です。
なお、阿刀氏は、物部連一族の早い分れで、河内国阿都(渋河郡跡部郷)に起こりますが、左京・山城・摂津・和泉や大和に分布したことは知られるものの、讃岐にあったことは史料に見えないので、この関係からも不明なことが分かるだけです。
 
  (05.6.5掲上)

 (あまのや様より返信 1) 05.6.6受け
 
  私がこのことを調べだしたきっかけは、茨城県常陸大宮市(旧御前山村)に佐伯神社があり、明治29年に祭神を稲背入彦命・景行天皇・五十河媛から忍日命・道臣命・健日命に変更されていることに疑問をもったからです。
 
  当時提出された「祭神訂正之件聞届」にも『三代実録』貞観三年十一月十一日条の記事が添付されており、当時お調べになった宮司さんは事実と誤認されたようです。
  佐伯神社は、大同元年(806)讃岐僧、玄海(法相宗)により金剛山密蔵院蓮覚寺建立の際に玄海の氏神を祭る為に建てられました。玄海について調べてみましたが、今のところどこからも玄海の名は出てきません。法相宗といえば阿刀氏の玄ムがいますが、つながりがあるかもしれないと考えておりましたが、なかなか難しいです。
 

 (樹童からのお答え 1)

 讃岐の佐伯直氏は、六国史を見ると、平安前期に空海(贈大僧正)のほか、その実弟の真雅(法師大和尚)や道雅(少僧都)、真然(僧正)、守寵(伝灯大法師)、実恵(大法師)、道雄(大法師)などの当時高名な僧を輩出しており、他の系統の佐伯氏とは大きな差異があります。讃岐僧の玄海(法相宗)については、これまで管見に入っておりませんが、上記の僧侶たちに先立つもので、出身地の伝承からいえば、讃岐の佐伯直氏の出としてよいものと考えられます。
そうすると、明治の祭神変更は疑問が大きいところだといえましょう。
 
 佐伯神社という名の神社は、式内社には出雲国神門郡(現出雲市神西沖町)に鎮座の佐伯神社一社しかありませんが、『風土記』所載の波加佐社に当てられており、従って実は「伯佐」なのだといわれるので、佐伯氏との関連はないとみられます。その祭神も日御埼神社と同じであって天照大神、須佐之男命とその五男神・三女神とするものです。

   これ以外では、佐伯神社として次の諸社があげられます。
(1) 播磨国飾磨郡(現兵庫県姫路市白国)に鎮座の佐伯神社……祭神を阿良津命とし、播磨国造一族の佐伯直氏(苗字を白国)が歴代奉斎した。
 その系図については、上記の註を参照されたい。
(2) 常陸国久慈郡の佐伯神社(ご指摘の神社で、茨城県常陸大宮市〔旧・東茨城郡御前山村〕)
(3) 丹波国桑田郡(現京都府亀岡市)の佐伯神社
(4) 美作国真庭郡の佐伯神社(現岡山県真庭市〔旧・湯原町〕見明戸の見明戸八幡神社の摂社)
これら神社は何らかの形で佐伯氏が関与したとみられ、また(3)を除いてそのように伝えるとされますが、その沿革の詳細は不明です。

  (05.6.19掲上)



(あまのや様より返信 2) 05.6.20受け

 
 佐伯神社について知っている範囲で若干の補足をします。
 
>(1) 播磨国飾磨郡に鎮座の佐伯神社……播磨国造一族の佐伯直氏(苗字を白国)が歴代奉斎した。
 
  白国氏は播磨国造宗家ではなく、分家筋のようです。宗家は京に移住し、その後越中国司として赴任し現地にそのまま住みついたようです。富山県新川郡立山町に雄山神社がありますが、やはり稲背入彦命も祭られています。
 
>(3) 丹波国桑田郡の佐伯神社、(4) 美作国真庭郡の佐伯神社
 
  (3)(4)については、まだ祭神を確認してません。というか亀山の佐伯神社は知りませんでした。
 
 これ以外にも、現存はしてませんが、和歌山県那賀郡岩出町にも佐伯神社がありました。現在は同町山崎神社にて合祀。祭神は、稲背入彦命。
 
  ちなみに播磨と讃岐の佐伯直の系統が共通して祭っている稲背入彦命ですが、滋賀県野洲郡中主町にある兵主神社の摂社乙殿神社に祭られています。
 以上、ご参考までに。


  (樹童からのお答え 2)

 
 ご連絡ありがとうございます。これを受けて、若干補足しておきます。

(1) 播磨の白国神社はもと新羅訓神社(しらくに)と書き、現姫路市白国町、旧地名では枚野里新羅訓村にあります。その由来書によると、祭神は神吾田津日売命(=木花咲耶媛)で、相殿に稲背入彦命、阿曽武命(前者の子で、針間国造の祖)を祀ります。
稲背入彦命は、韓地から渡来した五十猛神(兵主神、八千矛神)の後裔にあたりますので、針間国造家がこの祖神を祀るのは自然だといえます。古代から白国神社を奉斎してきたという白国氏の現存する系図は、後世の偽作でありますので、この家がどのように針間国造家から分岐したのか不明です。
 
(2) 越中の雄山神社は、富山県中新川郡立山町の雄山山頂と岩峅寺・芦峅寺にあり、宮司は歴代、立山の開祖と伝える佐伯有頼(慈興上人。越中国司佐伯有若の嫡男とされる)の後裔という佐伯氏が務めてきました。現在、中宮祈願殿の本殿では、立山大宮の主祭神として伊邪那岐神(立山大権現雄山神)を、その相殿神として佐伯宿禰有若らを祀り、立山若宮の主祭神として天手力雄神(刀尾天神剣岳神)を、相殿神として稲背入彦命を祀るとされます。
しかし、この辺は系譜伝承に疑問があるのではないかとも考えられます。というのは、立山の神は天手力雄神とされ、この神は山祇族系の大伴連・佐伯連らの祖神です。一方、立山開山伝説で鷹を追って立山に入り熊(実は仏だという)を射たということは、鷹追いは天孫族系の伝承で、熊は山祇族に関係深そうな動物となります。
また、佐伯宿禰有若は実在の人物とされますが、その系譜は不明であって、大伴連支族佐伯連一族か針間国造・讃岐佐伯直一族かは分かりません。京都随心院伝来の延喜五年(905)七月付の「佐伯院附属状」には、「越中守従五位下佐伯宿禰有若」の署名があるのですが、この者が立山開山の祖と実際にどのような関係にあったかは不明です。『越中国官倉納穀交替記』には元慶七年(883)の史生従七位下佐伯宿禰河雄、寛平九年(897)の医師従七位下佐伯宿禰宅主が見えており、彼らは万葉歌人の佐伯宿禰赤麻呂の後裔であって佐伯連の出となります(『諸系譜』第八冊佐伯宿祢系図)。
これらの事情から考えますと、越中の佐伯氏は、佐伯宿禰有若の後裔かどうかは不明であっても、佐伯連の流れであったとみるほうがやや自然です。その場合には、稲背入彦命が立山の雄山神社の相殿神として祀られるのは疑問となります。あるいは、佐伯宿禰有若は稲背入彦命後裔の佐伯氏で、この一族がもともと越中にあった佐伯連後裔の佐伯氏と融合して、立山の佐伯氏が生まれたのでしょうか。この問題についての解答は、富山在住時代を通じて、またそれ以降も見出すことができませんでした。 
 
(3) 近江の兵主神社(ひょうず)は式内の名神大社で、現在滋賀県野洲郡中主町五条に鎮座します。この兵主大社を中心に、現在の中主町のほぼ全域と守山市の一部地域を氏子区域として、「兵主十八郷」と呼ばれる地域に総氏神と末社二十二社(現在数)が鎮座しております。この末社のなかの乙殿神社(中主町五条)が稲背入彦命を祀るとされます。
上記のように、兵主神社は八千矛神を祀り、兵主の神は延喜式で21座(19社)あるなか、この神社の社格(神位)が最も高いものですが、なぜ稲背入彦命が近江の地に祀られるのかは不明です。
その由緒としては、当社は景行天皇の御代、皇子稲背入彦命により大和国穴師(奈良県桜井市)に奉斎されたのを創祀とし、近江高穴穂宮遷都に伴い、宮域近き穴太(大津市坂本)に遷座になり、その後の欽明天皇の御代に琵琶湖上を渡り、現在の地に御鎮座されたと伝えますから、稲背入彦命は創祀のときだけ関係したのかもしれません。
普通は鎮座地の野洲郡に稲背入彦命の子孫が居た由縁によるほうが自然ですが、同人の子孫は息長君などで、主に江北の坂田郡にありました。また、兵主十八郷は野洲郡服部郷を主としており、服部氏も、また近隣の御上神社を奉斎した三上祝氏もともに兵主神の流れを引きますが、これら関係者だったのでしょうか。所伝では地元の豪族五条氏が祀ったとされますが、その姓氏は不明であり、この兵主神社に高い神位をもたらした奉斎氏族の姓氏は何だったのか、その奉斎氏族と稲背入彦命との関係はどうだったのか、よく分かりません。いずれにせよ、近江国野洲郡は佐伯氏との関係がなかったものと考えられます。

  (05.7.11掲上)



(あまのや様より返信 3) 05.7.19受け

  雄山神社については大変参考になりました。越中と大伴氏との関係は深そうですね。
  大伴家持も越中国司として赴任してますし、大伴氏の利権があったのかもしれません。播磨の佐伯直は大伴氏の力添えで越中国司になれた可能性もありますね。
 
  亀岡市の佐伯神社についてですが、ちょっと特定できませんでした。ただ丹波桑田の佐伯郷ですが、仁徳朝に今の兵庫県猪名川あたりの佐伯部が移り住んだのが始めとされています。
  ちなみに北摂の佐伯部は池田市に五月山があり昔は佐伯山とよばれており、山頂の愛宕神社に佐伯部の祖が祭られています。ご祭神は経津主命です。どうも忌部のようです。近くに木部神社があり、あるいは紀伊忌部の流れかもしれません。
 
  兵主神社の奉斎氏族についてですが、神社のあった地名の穴師・穴太からやはり新羅系の帰化人の末裔と考えるのが自然だと思います。景行天皇はそうした一族のバックアップで政権を維持していたのでしょう。近江への遷都がそれを物語っています。
 
  そして兵主神社を創祀した稲背入彦命ですが、景行天皇の皇子の中でも極めて重要な地位にいたのではないかと考えます。やはり皇位継承者ではなかったか?案外、ヤマトタケルのモデルだったかもしれません。
 
  個人的には、播磨・讃岐の国造の祖は稲背入彦命ではないのではないかと考えています。無論、播磨の古代史を調べるうちにそいう印象をもったという段階で、それを明確に立証できるわけではありませんが。
 
  今後とも、お力添えの程よろしくお願いします。
 

 (樹童からのお答え 3)

池田市の五月山については、『大日本地名辞書』の記事を引いて、『大阪府の地名 T』(日本歴史地名体系28)307頁に記事があり、佐伯部に由来するとのことですね。
  愛宕神社の祭神は火神火産霊神(カグツチ神)とされており、この神は山祇族の祖神ですから、この佐伯部は大伴氏族と同族ないし関係の深いものとみられます。貴信にある「ご祭神は経津主命」というのはなんらかの誤伝か(経津主命は物部氏族の祖神で、系統が異なる)と思われます。
紀伊忌部は、大伴氏族と同族の紀国造族から出ていますから、やはり火神奉斎があったものとみられます。
 
稲背入彦命の系譜の原型と思われるのは、景行天皇の皇子ではなく、垂仁天皇の女婿で、応神天皇や稚渟毛二俣命(継体天皇の先祖、息長氏族の祖)等の父であり、針間国造の祖ですが、讃岐国造は稲背彦命の弟・千摩大別命から出ています。
  このように、稲背彦命は古代において重要な人物ですが、その足跡は四国北部から播磨にかけての地域に残るのが自然であり、近江については、その子孫となる息長氏族関係者が伝えたのかもしれません。

  (05.7.27 掲上)

 <追伸> 05.7.19に古代氏族の研究者佐伯有清博士がご逝去となりましたが、氏は越中佐伯氏の出で、その祖父は富山藩の学者でもあった方です。生前の様々なご教示に深く感謝し、その逝去に哀悼の念を禁じ得ません。



  以上の続編がありますので、 稲背入彦命の系譜 をご覧下さい。

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