稲背入彦命の系譜

(問い) 「稲背入彦命の系譜の原型と思われるのは、景行天皇の皇子ではなく、垂仁天皇の女婿で、応神天皇や稚渟毛二俣命(継体天皇の先祖、息長>氏族の祖)等の父であり、針間国造の祖ですが、讃岐国造は稲背彦命の弟・千摩大別命から出ています。」という記事について、もう少し詳しく説明してください。

* この問は、讃岐や播磨の佐伯の関連として出されたものでもありますので、讃岐の佐伯直とその一族 も併せご覧下さい。

  
(あまのや様より) 05.8.15受け


 (質問の詳細及び関連記事)

1 稲背入彦命の系譜の原型と思われるのは、景行天皇の皇子ではなく、垂仁天皇の女婿で、応神天皇や稚渟毛二俣命(継体天皇の先祖、息長>氏族の祖)等の父であり、針間国造の祖ですが、讃岐国造は稲背彦命の弟・千摩大別命から出ています。」
 
 上記の記事について、もう少し詳しくレクチャーしていただけないでしょうか?
もしくは参考になる書籍・文献等を教えていただけると助かります。
 
 稲背入彦命(稲瀬毘古命)が渡来人(新羅系)の末裔であれば、大和の穴師坐兵主神社を創祀したのは納得できます。
 
 以下は、姫路における渡来人の足跡です。
 
(1) 宮山古墳 姫路市四郷町(市川東岸
5世紀後半に築かれた首長級墳墓。石室が上下2段に造られており、その構造から朝鮮式(加耶系)古墳とされている。
副葬品についても特徴がみられ、土器(初期須恵器・陶質土器)は畿内において最も早い例になり、環頭大刀(かんとうたち)2本に至っては日本列島で最も早い例になります。
この地に有力な渡来人が移住してきたと思われます。
 
(2) 新羅神社 姫路市四郷町明田
  祭神 応神天皇、神功皇后を主神とする八幡三神。
神功皇后西征の凱旋を祝い、三韓の一つの国であった新羅の名を取り、新羅神社と呼ばれるようになったそうです。
白国神社は既出故、割愛。



 (樹童からのお答え)

 お答えがたいへん遅れたことをお詫びいたします。
 問い合わせにきちんと答えるのがたいへん難しいのですが(それ故に回答も遅れた事情にありますが)、お答えの概要を次に記します。ものによっては、結論的になっているのをお許し下さい。
 
 さて、稲背入彦命については、『古事記』垂仁段に皇女阿邪美都比売命について、稲瀬毘古王に嫁したとありますが、稲瀬毘古王にせよ稲背入彦命にせよ、同書には景行天皇の皇子としては記されません(『旧事本紀』天皇本紀にも垂仁の皇子としてあげられていません)。一方、『書紀』垂仁段には、薊瓊入媛(あざみにいりひめ)は池速別命・稚浅津姫命を生むとあり、後者が阿邪美都比売に当たりそうですが、嫁ぎ先は見えません。また、景行紀四年条には、妃の五十河媛が神櫛皇子(讃岐国造の始祖)・稲背入彦皇子(播磨別の始祖)の生母と見えますが、神櫛王は景行記に小碓命(倭建命)の同母弟と見えて、記紀が合致しません。
これらも含めて、垂仁天皇及び景行天皇周辺の人物は、記・紀や『旧事本紀』で一致しないことが多く、その皇子・皇女について多くの矛盾する所伝が記載されています。この矛盾がなぜ生じたのかというと、結論的にいえば、本来別系であった応神天皇とその祖先の系譜を両天皇の周辺人物に取り込んだからだと推されます。
稲背入彦命(稲瀬毘古命)については、記と紀とでは、記のほうが古伝であって、原型ではないかと考えられるところです。すなわち、稲瀬毘古命は本来王族ではなく、垂仁皇女との婚姻(垂仁女婿となること)により皇子として皇室系譜に取り込まれたと考えるものです。
 
 記紀では、皇室系譜はかなり整理された形になっていますが、『旧事本紀』の「天皇本紀」の景行段の諸皇子についての記事は、きわめて粗雑であって整理のない混乱した記事になっています。逆に、だからこそ、これを記紀の他の記事と照合させ、うまく整理することにより、応神天皇一族の系譜がかなり整理されることになるものと考えられます。
整理の手がかりをあげますと、@同人が多少とも異なる名前で重複してあげられる(例えば、豊国別命、豊門入彦命、豊門別命、豊津彦命はみな同人など)、A同じ姓氏が多少とも異なる表記で重複してあげられる(例えば、武国皇別命を祖とする添御杖君と大稲背別命を祖とする御杖君は同じなど)、B宇佐国造の祖となる稚屋彦命が景行天皇の皇子としてあげられる、C上記の諸点を踏まえて、景行の皇子とされる人々が世代(時代)の古いものから順に配列されうる、などです。
ほかにも、考慮すべき要素はありますが、結論的には、応神天皇の祖先は、宇佐国造一族の支流で、火()国造からでて四国に渡り、伊予・讃岐→播磨と遷って畿内に入ったことが推されます。
この一族とみられる大江王(彦人大兄)が生んだ大中比売命(大中姫)が仲哀天皇に嫁して香坂王・忍熊王を生んだことも記紀に記されております。大江王は仲哀の「叔父」だと仲哀紀に見えますが、それが父・倭建命の弟という位置づけだと、景行紀に景行の皇子とされる稲背入彦命に重なりあいます。この者の別名を息長彦人大兄水城命とも咋俣長日子命(くいまたながひこ)ともいい、息長田別命(武貝児命)の子であって、息長君の祖・稚渟毛二俣命の父に位置づけられます。

  このように、皇室との重なる婚姻などにより応神が皇室系譜に入り込んだと推測するのが自然だとみられます。宇佐神宮で祀られる八幡神に応神天皇が当てられることがあるのも、応神の実際の出自が宇佐に関係することを強く示唆します。
なお、応神の父や兄弟の系譜については、宝賀会長の著『巨大古墳と古代王統譜』所載の系譜(298〜300頁)もご参考にして下さい。
 
3 讃岐国造の系譜も、上記の記事や考察点を踏まえて考える必要があり、景行の皇子のなかにあげる神櫛別命、櫛角別命や、倭建命の子にあげる綾県主の祖・武卵王(たけかいこのみこ)は同人です。景行記に、神櫛王は宇陀酒部等の祖とあることで、宇陀の御杖君につながります。神櫛王や武卵王は伝説上の讃留霊王(さるれいおう)にも当たる人物であり、讃岐国造は『百家系図』巻9等に系図が見えますが、神櫛命の子にあげる千摩大別命の子孫として記載されます。また、五十河彦命は、神櫛王か千摩大別命とに重複する者とみられます。
 
以上に記してきたことは、おそらく難解だと思われますが、記・紀・旧事本紀のほか、中田憲信編『皇胤志』や宝賀編著『古代氏族系譜集成』などを参考にしていただければ、推測の手がかりがえられるのではないかと思われます。
 
4 宇佐国造は早くに分岐した天孫族の一派ですが、天孫族は中国東北部から朝鮮半島を経て日本列島に到来しており、その列島における始祖素盞嗚神(実質は五十猛神)が新羅から渡来したという所伝を『書紀』に残している事情にもあります。ただし、「新羅から来た」というより、任那の安羅辺りから列島に渡来してきたもので、新羅へはその分岐が行ったものではないかとみられます。
 
 (06.5.14掲上)

   (前の問へ戻る)         (応答板トップへ戻る)      
    ホームへ     古代史トップへ    系譜部トップへ   ようこそへ