奥羽の芦立氏の起源試論  鮎貝氏の系譜
                  奥羽の鳥取部とオシラサマ
                  湯立神楽


(問い) 当方の系統である宮城・山形県の芦立氏について分かることは何かないか、という点について教示願えればと思います。また、貴HPの物部氏族概観で伯耆・因幡地方の物部連一族のなかにあげられている日野郡の芦立などとの関係があるとしたら、どのようなものでしょうか。

 以下は、今後の御研究の参考になればと思い、記述したものです。
 @ 当方の江戸時代の言い伝えとしては、
   ・仙台伊達家に仕えていたこと。
   ・山形から宮城へ移り住んだとのこと。
   ・地元においては、いづこかの神社の奉斎に関与したこと。
    (伊達家に仕えていながら?神社の奉斎?
 A 宮城県鳴子温泉の温泉神社の宮司様も芦立であり、15代前まで系図が判るらしいとのことです。現段階で判る限りでは、当方との関係は不明です。

 (芦立敏之様よりの問い合わせ〔ご趣旨を踏まえた表現に改定〕。05.4.16受け)
 

 (樹童からのお答え)

 
  これまで多くの系図を見てきましたが、「芦立・蘆立」に直接に関係する系図は管見に入っておりません。実は、現存する鈴木真年翁関係の系図資料集のなかに1個所だけ、「芦立」の語が見えるようであり、それは、『百家系図』第三九冊所収の「芳村系図」にあるとされます。
 同系図は、美作国大庭郡にあった恩地神主氏(オンチカンヌシ。中臣連の一族)の系図であり、その内容は『古代氏族系譜集成』中巻792頁に記載されております。ところが、「芳村系図」について私の見落としがあるかも知れないのですが、「芳村、芦立」という派生した苗字がどのような形で出てきたのか、誰が何に因んで名乗ったのか、などの事情が不明であり、これらの点が『集成』には記載がありません。
(従って、実際に「芳村、芦立」という苗字が、恩地神主氏から出たかの確認はできないのですが、芳村氏について大中臣の流れという伝えがあるようです)
 
 こうした事情なので、奥羽の芦立氏についても、その由来は他の地理・歴史事情などをもとに総合的に考察して行かねばならないことになります。この2以下は、こうした立場に立った考察の試論です。
 (1) まず、「芦立・蘆立」という表記は珍しいのですが、起源的にはもっと一般的に見られます。すなわち、その訓については、「あしたて 、あしだて」のほか、「あだち」とも読まれます。「あだち」という苗字は、一般に安達・足立と表記されることが多く、鎌倉期の武蔵の大族に安達氏・足立氏があったことは『東鑑』などに見えて著名ですが、ほかに「芦達・芦立・安立・足達」という表記も「あだち」と訓まれました。
また、足立のほうも「あしたて」と訓まれたと『姓氏家系大辞典』に記されており、同書にはアダチ(足立)の項に、「伯耆国日野郡の名社楽々福神社の旧社家、三河国宝飯郡赤日子神社の旧神主に此の氏あり」と記されます。
いいかえれば、芦立の語の起源は「安達・足立」にあったとみられるということです。さらに、その起源があり、究極的には射立(射楯)神・伊達神ともいわれる五十猛神(イタケルの神。素盞嗚神に通じるわが国天孫族の遠祖)に至ります。同神を祀るのが紀州一宮の伊達神社で、延喜式の名神大社伊太祁曽神社のことです。伊達も安達も語源が同じということですが、福島県にあった安達郡に近隣して信夫郡があり、同郡が後に分かれて伊達郡となった事情にも通じるものです。五十猛神の子孫神には温泉神・弓矢や鳥類の神である少彦名神もあります。
 
(2) こうした事情からいって、五十猛神の裔孫の分布する地域には、「芦立・蘆立、安達・足立」の地名が多く分布することになり、上記の武蔵や出雲・伯耆などの古代国造家や物部連一族はみな五十猛神の神系を引くものとなっております。
ところで、上古代の奥羽地方は、主に玉作部〔タマツクリベ。玉造部〕、丈部〔ハセツカベ〕及び吉弥侯部〔キミコベ〕という部族が先住して地域開発に当たったものとみられます。このうち、前二者は五十猛神の後裔であり、武蔵国造などと同族でした。
 
芦立・蘆立の現存地名としては、岩手県紫波郡紫波町紫野字芦立だけのようですが、『姓氏家系大辞典』には陸前国柴田郡蘆立(足立)をあげて、この地から起ったのが蘆立氏だと記します。
 
(3) 『姓氏家系大辞典』には、これに続けて、「伊達配下の士にして永正十五年稙宗の判書に上蘆立宗右衛門なる人あり。世次考に見え、同十七年の判書には足立宗右衛門と見ゆ」と記されます。ここに見える上蘆立(足立)宗右衛門の身元事情が具体的に分かりかねますが、柴田郡に起った芦立氏かもしれません。柴田郡蘆立はいま柴田郡村田町足立(あしたて)となっており、この地名は足立氏が古くから居たことに因む(『宮城県地名辞書』)とされますが、やはり地名が先のはずです。伊達政宗の代に芦立総右衛門が柴田郡芦立郷を賜ったとも伝えられますから、これら「宗()右衛門」は皆、同一人としてよさそうです。
  その子孫の芦立氏は、仙台藩家臣にあり藤原姓といい、総右衛門の子の小太郎−景広−景永……と続いたとされます(『宮城県姓氏家系大辞典』)。なお、同家が居宅した宮城郡下馬村(現多賀城市)には、その氏神として鎌倉権五郎を祀った鎌倉神社があるとされますが、その奉斎事情は不明です。

  また、仙台藩家臣には柴田郡足立村に代々居住し、頼朝に仕えた足立右馬丞遠元を祖とすると伝える足立氏があり、伊達稙宗に仕えた足立大炊助を祖とするといいますが、これも上記芦立氏と同族ではないかとみられます。大炊助の子孫の半左衛門は寛永・寛文頃の人ですが、その弟・十三郎は別家を立てて芦立(あだち)を号したと伊達家の家臣録に見えます。
 

3 羽前の鮎貝氏とその重臣芦立氏など

(1) 仙台藩主伊達家の御一家筆頭であった鮎貝氏の重臣として芦立氏があり、宮城県気仙沼市松崎の同家に伝わる史料を翻刻した『仙台伊達氏一家鮎貝家録芦立家伝文書』という書が出版されています。同書は、以下の史料などを収録すると紹介されます。
  すなわち、十九世紀中葉頃に仙台伊達家若年寄であった鮎貝盛成に従った家老芦立三左衛門が手記した史料を中心としており、@「御記録編集」(鮎貝家が松崎村に所領を持った寛文年間から天明七年まで(1666-1787)121年間の重要文書)、A「弘化二年御用留」(弘化二年(1845)の参勤交代に当たり、江戸詰め一年間の行事・報告、金品出納等主要業務の記録)や、B「鮎貝家中俸禄名籍録」( 鮎貝家及び家士29名、足軽・医師について、知行高・役職・通称・諱・年齢及び家族の名と年齢を記す。

(2) 質問者の芦立様の伝えでは、「山形から宮城へ移り住んだ」ということでもありますので、以下は、鮎貝氏を中心に考察を加えます。私見では、山形県起源の鮎貝氏と同族ではないかと考えられるからでもあります。
気仙沼市字松崎片浜の『煙雲館』は、江戸期の鮎貝氏歴代の居館であり、その庭園は江戸初期、寛文年間仙台藩茶道頭、石州流二代目「清水動閑」の作庭と伝えられ、気宇極めて広大で県内有数の庭園とされています。この鮎貝一族からは、著名な国文学者・歌人の「落合直文」(幼名を鮎貝亀次郎盛光といい、盛房の子で、落合直亮の養子)、弟・槐園(鮎貝房之進で、著名な東洋史学者)を出し、彼らの長兄・鮎貝盛徳は気仙沼町の初代町長として、明治〜昭和の三代にわたり、地域振興に大いに貢献されたとのことです。また、かつて壱岐一郎氏と扶桑国論を語ったとき、鮎貝房之進はその大伯父だと伺ったこともありますが、房之進の弟の寅之進が壱岐家を継いでおられます。
この鮎貝氏は、もともと羽前国置賜郡下長井荘鮎貝(現山形県西置賜郡白鷹町大字鮎貝)の城主で、戦国後期から歴史に登場し、伊達氏の有力家臣として活動したことが知られます。
 
(3) 鮎貝氏は伊達氏の被官になってからは、代々家臣の上座にあり、江戸期は御一家の第一座という待遇をうけましたが、これほどの名家でありながら、その系譜は藤原姓と称するだけではっきりしません。『伊達世臣系譜』には、藤原姓も、その先を知らずと書いたうえで、鮎貝定宗を祖とし、代々鮎貝城に居したが、その子の兵庫頭盛宗が天文中に保山公(伊達晴宗のことで、政宗の祖父)に従ったと記されます。伊達晴宗は、天文十七年(1548)に居城を先祖代々の伊達郡から置賜郡長井荘米沢に遷したから、その時以来、鮎貝氏は伊達氏に臣従したということか、と思われます。
その系譜は、一伝(『鮎貝氏伝承』に拠り西田耕三氏が『鮎貝累代記』に記す)には藤原北家山蔭流の藤原安親(山蔭の孫)の後裔と称し、安親は置賜郡下長井荘の荘官となり、その子孫は土着して武士化し、置賜郡横越郷に居住して横越氏を号したといいます。安親の後裔ということであれば、伊達氏とは遠い同族と称したということになりますが、この所伝自体、安親の居住等の諸点で信じられない要素が多くあります。御一家筆頭という待遇は鮎貝氏から系図をもらった伊達家の壊柔策であろう、ないしは伊達氏が鮎貝氏の系図を自己の家系に組み入れた、という見方もあるようですが、ともに疑問が大きいところです。実際のところは、両氏とも山蔭流藤原氏ではありません。

応永三年(1396)、成宗は横越から下長井荘鮎貝に移って鮎貝城を築き、 鮎貝氏を称したともいわれ、以後、その子宗盛−定宗−盛宗−盛次(宗重)と続いたとされます。この世代数が若干少ないような感もありますが、成宗の応永三年(1396)遷住という年代や鮎貝氏歴代の名前が正しければ、伊達宗遠が康暦二年(1380)に長井氏を追っ払って置賜地方を奪ったとされますから、歴代の通字「宗」等から考えて、鮎貝氏は伊達宗遠の近親から分岐した可能性もあります。あるいは、こうした伊達庶流が古代以来の当地の豪族の家に養子に入ったのかもしれません(この辺がほぼ穏当なところか)。同じ長井地方では、荒砥に拠った大立目氏が伊達庶流であっても、鮎貝氏同様に独立性の強い地方領主であったことも留意されます。いずれにせよ、伊達氏の室町期前半における詳細な系図は不明であるため、明確にはいい難いところです。
天正十五年春には、鮎貝安房守盛次の嫡子摂津守忠旨(宗信)は山形の最上義光に通じたとして伊達政宗に攻められ、鮎貝城は落城し忠旨は山形に出奔しました。一方、盛次とその次男の宗益は政宗に従い、宗益が鮎貝家を相続して以後、伊達氏の重臣として気仙沼に遷り、明治に及んだものです。安房守盛次の弟として、高玉茂兵衛という者がいたことにも留意されます。
 
(4) 鮎貝氏を歴史地理環境から見ると、白鷹町とその近隣に興味深い地名があります。
具体的には、玉作部に関係する地名(高玉、荒砥〔粗砥のことか〕)及びその同族の鳥取部関係の地名(白鷹山、鷹山、鷹戸屋山、大鷹山、黒鴨、横越)ですが、蚕桑の地名は同系統の養蚕職掌に関係しているとみられ、そうすると肝腎の「鮎貝」も鮎養から来たもので、鳥取部の鵜飼に関係しそうです。
  鮎貝が最上川の上流域に位置していることは、その傍証となりましょう。菖蒲には最近まで最上川の狭隘部を利用した鮎の簗漁が行われ、「荒砥のアユ」として著名であったものです。高玉には養蚕神として置賜一円の信仰を集める稲荷神社が鎮座します。近世以降になりますが、荒砥や横田尻は養蚕が盛んであった事情にあります。(この辺の歴史地理環境は、中国四川省の古代族を想起させるものがある。扶桑国の歴史的地理的位置づけ を参照のこと
  なお、仙台藩家臣には、荒砥氏も見えておりますが(「仙台人名大辞書」)、その祖先・系譜については不明です。

白鷹町の歴史地理環境と類似する地域として、岩代の安達郡高玉(現福島県郡山市熱海町高玉)付近があげられますが、高玉の小字には荒戸沢という地名もあり、近隣に菖蒲根という地名もあります。その近隣には大玉村の玉井・岩玉、猪苗代町蚕養や安達太良山が見えます。安達郡を領域とした古代の国造家については、同郡が安積郡から分かれたとされる(延喜式)から、安積郡に居た阿尺国造とみられますが、その北に隣接する信夫郡に居た信夫国造と阿尺国造の両国造家は、「国造本紀」に見えるように同族であり、阿岐(安芸)国造の分岐で玉作部・玉祖連の同族という系譜をもっていました。郡山市には、もう1個所高玉という地名があり(三穂田町八幡字北高玉)があり、こちらも阿尺国造の領域とみられます。
 
(5) 古代出羽には玉作一族が有勢でおり、六国史を見ると、天平宝字四年正月紀に出羽掾正六位上玉作金弓が見えており、時代が下って元慶二年六月紀には「最上郡擬大領伴貞道、俘魁玉作宇奈麻呂」が見えますから、これら一族が置賜郡高玉辺りに住んでいたことが考えられます。置賜も当初は「うきたみ」「おいたみ」と訓んだとされていますが、本来は置玉ではなかったかとさえ思われます。実際、老玉郡、置玉郡と書かれた文書もあります。
こうして見ていくと、高玉・鮎貝辺りに勢力をもった鮎貝氏とは、古代玉作の末裔(あるいは、なんらかの形でこの血脈を伝えるもの)ではなかったかとみるのが自然な模様です。横越の地名は置賜郡には現存しませんが、高玉と鮎貝との中間に横田尻がありますから、この地が中世の横越郷とされています(角川地名大辞典 山形県)。
また、芦立の地名もこの地域に現存しませんが、高玉の最上川対岸南側に「浅立」(あさだち)が見えますので、これが芦立の転訛である可能性があります。芦立が安達に通じることは先に述べましたが、地域環境や鮎貝氏の重臣に芦立氏があったということも考え併せると、両者は同族関係にあったとみるのが自然です。そして、古族後裔であったからこそ、起源地の付近で神社(具体的な名は不明も、鮎貝城址にある八幡神社か)の奉斎をしていたものと考えられます。
 
(6) 鳴子温泉神社の芦立氏についても次ぎに付言しますが、これも玉作(玉造)に密接に関係することが明白です。すなわち、同社は玉造郡の延喜式内小社で、現宮城県玉造郡鳴子町字湯元に鎮座しています。その祭神として、大己貴命及び少彦名命を祀っていますが、前者の祭神には疑問があります。
玉造郡の隣の色麻郡(のちに加美郡)の式内大社として伊達(いだて)神社があって、現宮城県加美郡色麻町四釜に鎮座し、五十猛神を祀っております。両式内社のほぼ中間にあたる玉造郡岩出山町にも式内社の荒雄河神社があり、「大物忌神」を祀っておりますから、これら式内社は同一氏族により奉斎された可能性があります。荒雄河神社の祭神は瀬織津姫神ともされますが、五十猛神の祭神で汚れを払い凶事を除き去る女神ですから、「大物忌神」にも通じます。その奉斎氏族がこの地の玉作部とみられ、羽前の玉作部と同族の関係にあったものとみられます。その両地域に芦立氏が出たとみるわけです。
もう少し、事情を敷衍しておきますと、岩出山町には蝦夷対応の要衝であった玉造柵があり、玉造郡玉造郷の地とされておりますが、玉造郡には信夫郷もあり、岩代の信夫郡関係者の遷住がうかがえます。とすると、福島県の岩代地方(信夫・安達・安積などの諸郡)から出た人々が、羽前の置賜郡や陸中の玉造郡辺りに遷住して開拓に当たったとみられ、置賜郡と玉造郡との間でも交流があったと考えられます。
また、「大物忌神」については、山形・秋田県境にそびえる鳥海山頂には、同神が鎮座しており(式内名神大社で、出羽一宮)、度重なる噴火を繰り返しておりましたから、この神が温泉神に通じるものとみられます。

  (05.5.29 掲上)


 (芦立様からの返信1−おそろがみさん−) 05.6.3受け
 お答えで地形・同族の関連性、さらに奉祭関連まで取り上げていただき、ありがとうございました。
 
 現在でも、一族のものは仏事よりも神事に対して反応を示している状態です。
 文中に「五十猛神」との記述がありましたが、当地(宮城県白石・刈田郡・柴田郡)の方言においては、「おそろがみさん」と同一と思われます。当方の先祖は「おそろがみさん」の奉祭に関与していたそうです。

 
 (芦立様からの返信2−多賀城出土の木簡に人名−) 05.6.14受け
 宮城県の多賀城付近の遺跡から人名を記した木簡が出土したとの新聞報道(河北新報6月2日)がありました。
その木簡に書かれた人名は以下の通りで、
  鳥取部
  丈部
  阿刀部
  磯部
  矢田部
  占部
  大伴
 が判読可能で、05年6月8日〜10月2日までの期間、多賀城市埋蔵文化調査センターの速報展「発掘された遺跡」で展示されるそうです。物部(一族)が多そうですね。
 火長(隊長)が鳥取部の姓とは、おおっ!そうきましたかと...
 


 (樹童からのお答え)   奥羽の鳥取部とオシラサマ

 「おそろがみさん」は、東北地方一般に広く見られる「おしろ神」(オシラサマ)につながる神ではないでしょうか。前者は「恐ろ神」の意で除疫病神たる素盞嗚神、後者は「お斯羅(新羅)神」の意でやはり新羅渡来の素盞嗚神として、いずれも五十猛神に通じます。
  素盞嗚神が(除)疫病神であることは、『備後国風土記』逸文の蘇民将来の条に疫隅(えのくま)の国社に関して記述があります。神代紀には、五十猛神は父素盞嗚神とともに新羅に降り、そこから日本列島に渡来したと記されますが、両神は同一神としてみてよいものと考えられます。
 
オシラサマ(大白神様)は、東北地方とくに青森・岩手・秋田の三県を中心に、関東の西部にも分布しておりますが、『遠野物語』及び拾遺等によりますと、蚕の神とか眼の神、馬の神、子供の神、農耕の神、お知らせ(予言)の神、家の守り神といわれる他に、狩人の信仰する神でもありました。古代中国晋代に書かれた「捜神記」(干宝撰)巻十四に掲載の「馬頭娘(蚕神)」に極めて類似した物語「馬娘婚姻譚(ばろうこんいんたん)」は、四川省のみならず岩手県の『遠野物語』に見えます。
従って、オシラサマは、なかでも馬と蚕に関連する神といえそうですが、四川省の古代文明を築いた種族(羌)との関連、そうすると鵜飼にも関連する神ではないかとみられます。桑の木は「扶桑」と呼び、この神の宿る木として大切にされたといいます。先にも述べましたが、四川省の三星堆古代文明関係の資料に通じるものが多くあることに驚きます。

金山神は、岩手県でも九戸地方で祀られており、金山神社が種市町八木や久慈市長内などにあって、その信仰形態もオシラサマと習合するなど、特徴的な内容を持っているとされます。五十猛神の後裔は、金属鍛冶に優れた技術をもった天孫族であり、金山神天目一箇命はその有力な分派の祖先でした。鳥取部の祖神天湯川田奈命の名に見える「湯」とは鉄や銅の溶解して流れる状態をさし、鳥取部は金属精錬に関わったと推定されています。山本昭氏は、『謎の古代氏族 鳥取氏』(1987年、大和書房)を著し、「新技術を駆使する新進の金属関係(鉄、銅)の管掌者として、ヤマト政権を支えた重要氏族の一つであったと思われる」と記しており、概ね妥当な見解であろう。
なお、「オシラサマ」という神様は、映画「千と千尋の神隠し」にも出てくるようですね。
 
 木簡発掘の新聞報道について、ご連絡ありがとうございます。
 (1) この新聞記事に拠りますと、多賀城政庁跡から南方近隣の市川橋遺跡から出土した木簡には、「修理所 兵士を馬庭に送るの事」から始まって、長さ35.7cm、幅6.9cmの木簡の両面に墨で書かれた十五名の名前、すなわち表面に「火長 鳥取部敷成」「丈部子醜麻呂」「阿刀部広成」「磯部□」「矢田部田公」など七名、裏面に「鳥取部□□」「大伴□□」「□部綿麻呂」「占部浦子麻呂」など八名、が確認できるとされます。馬庭(ばば。馬の訓練や競技を行う場所)の改修、造営のために派遣されたとみられます。
 
(2) 奥羽の古代豪族については、その系図が全くと言っていいくらい中世以降に残っておらず、その結果、残念なことに鈴木真年翁も系図採集がありません。この辺の事情はよく分かりませんが、おそらく打ち続く古代の戦乱の影響かも知れません。
その意味で、木簡などに残された史料が手がかりとなるものですが、今回の木簡出土姓氏を見ると、『万葉集』の防人歌等に見える東国関係者の姓氏に通じるものがあるようです。
 
また、鳥取部については、本HPの「越の白鳥伝承と鳥追う人々
でも触れていますので、ご覧下さい。
 
 奥羽地方では、鳥取という地名は、伊達郡に鳥取邑、胆沢郡に都鳥邑があるのみですが、この地域に白鳥が多く渡来することもあって、鳥取部の分布が広くあったようです。金石文等に見える鳥取部としては、平安末期の伊具荘(宮城県角田市)に分布がしられます。すなわち、同荘の勝楽山高蔵寺を治承元年(1177)に奥州国司藤原秀衡の妻女が修造したときに銭貨で助力した人衆として、同寺の棟札に鳥取直真、同永友、同安清が見えます(「奥羽観蹟聞老志」)。

『岩手県姓氏歴史人物大辞典』にも興味深い記事があります。同書の鳥取の項には、下閉伊郡新里村刈屋北山に家号を「沢口」とする鳥取家があり、氏神は大山祇神社で「聖観音」を祀り、家伝によれば先祖を平安末期の平家の武将鳥取因幡守といわれること、家号を「斉太家(せいだいえ)」と称する鳥取家は、岩手県最古かとされるオシラサマを伝えることが記載されます。
聖観音」については、福島県田村郡小野町小戸神(おどがみ)にある神奈備型の独立峰たる東堂山の頂上付近に聖観音菩薩を祀る観音堂があって、馬の守護神として古くから広域にわたる信仰を集めてきたとのことです(『日本の神々12』42頁の和田文夫氏の記述)。和田氏は、白鳥大明神と呼ばれる刈田嶺神社(宮城県刈田郡蔵王町馬場)の鎮座する刈田郡は白鳥の飛来地で、刈田郡から柴田郡にかけては白鳥伝説と白鳥信仰が色濃く分布するとも指摘します。志田諄一氏は、「大化前代の鳥取部・鳥養部の分布と、現在のオオハクチョウ・ハクチョウの渡来棲息の分布が一致する」と結論しています(『古代氏族の性格と伝承』鳥取造の項)。

  以上の事情から見ると、ご指摘の「当地(宮城県白石・刈田郡・柴田郡)の方言において「おそろがみさん」」と呼ばれる神は、白鳥神でもあるようです。多賀城の馬庭に鳥取部が多く関与したのは、興味深い事実ですね。
 
なお、多少付言しておきますと、
(1) 東京都日野市の落川遺跡で、「和銅七年十一月二日 鳥取部直六手縄」の文字を刻んだ火山岩製の紡錘車が発見されたことを伝えられます(1995年8月4日 朝日新聞)。武蔵でも、金石文で鳥取部が見えることが興味深く、直姓から見て、鳥取部直は武蔵国造の一族とみられ、同国造は天孫族出雲国造の一支流という系譜を持っています。

(2) 秋田県仙北郡協和町の唐松神社(天日宮)の起源について、崇峻朝の崇仏排仏戦争に敗れた物部守屋の戦死後に、その子の那加世が鳥取男速という臣下に守られ、蝦夷の地へと落ちのび、現在の唐松神社宮司家はこの那加世の子孫であることを伝えます。これを記す『物部文献』自体は疑問な文書ですが、物部・鳥取部がこの地域に関係したことが窺われます。
 
5 一応の結論として、「おそろがみさん」「おしろ神」(オシラサマ)については、天孫族の遠祖神たる性格が濃く、五十猛神一神に集約するよりは、五十猛神から始まり天目一箇命、少彦名神あたりまでの天孫族の遠祖神グループの総括としてとらえたほうが良さそうです。ただ、白山神たる瀬織津姫神(豊受大神)の性格もあることに留意されます。
書物にはほとんど現れない奥羽の鳥取部が、古代においてかなり重要な役割を果たしたとみることができそうで、民俗学的あるいは神祇的アプローチも面白いと感じるものです。
 
   (05.6.21掲上)



 (芦立様からの返信3−玉作の名が記載の木簡−) 05.6.24受け

 今後の御参考になればと思い下記の情報をお知らせします。
 
 玉造(玉作)部に関しての記述がありましたので、当方の情報を確認したところ、木簡に玉作の名が書かれている新聞記事(2005.03.02)が見つかり、発掘場所の教育委員会がHP上で公開している事を確認しましたのでURLをお送りします。木簡は重要な物的証拠(過去の事実)ですから。
 
秋田県北秋田郡鷹巣町(たかのす町。現在は北秋田市)坊沢の胡桃館遺跡平安時代中期の古代家屋遺跡)の遺物から、貴重な発見がありました。胡桃館木簡から、「玉作麻呂/米一升」の文字や、他に「玉作」「建マ(部)」と読める可能性のある人名も見えます。

  (紹介記事)  ※ご連絡を受けたページがなくなったので、差し替えました。
 
西暦915年8月、十和田火山が噴火し、大量のシラス洪水が米代川を下り、下流の村々を埋めてしまいます。胡桃館遺跡や小ケ田遺跡はそのような集落の一つであったようです。 (旧鷹巣町HPから転載
「玉作麻呂」については、蝦夷が秋田城を襲撃した878年の元慶の乱で、朝廷側について戦果を挙げた蝦夷の有力者「玉作宇奈麿」や「玉作正月麿」と同姓であることから、関連が注目されるところです。〔以上の木簡関連記事は、若干追補しました〕
 
またこちらの新聞等に古代人名に関する記事・発掘出土がありましたら、お送りしたいと思います。
 
 当方居住の白石市にも鳥の地名があります
  大鷹沢(おおたかさわ
  鷹巣(たかのす) − 県HPから検索出来る様に古墳群です。
            埋葬者は鳥取部なのか? 隣は角田市だし...
    形状は円墳と前方後円墳です。前方後円墳なので、新大和政権系なのでしょうね。
    *当方としては、旧大和政権系と思われる方墳が気になるところです。
     (蔵王町円田には、一辺30mオバーの方墳が1基あるので



 (樹童からのお答え)   湯立神楽など

   ご連絡ありがとうございました。ご指摘をうけて調べてみますと、興味深い事情が浮上してきましたので、多少大胆な推論を含めて、以下に記述してみます。
 
1 綴子神社の沿革

胡桃館遺跡は綴子川流域にありますが、綴子(つづれこ)には、国無形民俗文化財記録保存事業指定の大太鼓行事で有名な綴子神社があり、いま祭神を八幡山大神・天照大神・須佐之男命・少彦名神、他九柱となっていますが、 もと綴子八幡宮、八幡神社といい、明治四十三年(1910)に十五社を合併して現社名の綴子神社と改称した経緯があるとのことです。
 
その沿革は、斉明五年(659)、阿倍比羅夫が蝦夷征伐の帰途、肉入籠(ししりこ)の地にやって来て、白鳥の留まる所をもって地主神(おそらく温泉神関連か)を祀り神社を創建したと、伝えられています。平安時代になって、九州豊後の宇佐八幡宮を分祀し、祭祀の神域として崇敬されるようになりました。延暦十六年(797)征夷大将軍坂上田村麻呂が、この社に幣を奉じたと伝えます。
以後の変遷では、永禄二年(1559)七集落が合併して八幡山に社殿を再建し、中世の地頭浅利氏、秋田藩主佐竹氏より社領の寄進があり、明治六年(1873)に社名を八幡神社と改めましたが、さらに十五社を合併して綴子神社と改め今日に至っているとされます。綴子神社には、太鼓祭り・大名出陣行列・御湯立神楽など古い神事が脈脈と残されています。

 
2 湯立神楽の意味するもの

「湯立神楽」とは、「神社境内、拝殿の階前にミ菰を布き、大釜に熱湯を沸かして、巫女が竹の葉を持って熱湯を我身に振りかける式」で、「巫女が神懸りして神託を述ぶる為にも湯立をする」と『神道大辞典』に記されます。また、湯立は「ユダチ」「ユタテ」とも訓み,忌みや穢れを祓い清める神事として古くから行われてきたこと、この湯立が神楽に組み入れられたのが湯立神楽であるとされます。宮中行事にも,貞観の『儀式』「園井韓の神祭儀」の項に「湯立の舞を供ふ」と見えます。
この神事は、あるいは古代の盟神探湯の遺風かともいわれますが、おそらくそうではなく、不浄・災厄を払うこと、さらには、そのうえで温泉神(=除災神。その実体は少彦名神などの天孫族の神か。後述)の神託を受けるための神事ではないかと推されます。出羽には出羽三山のなかに湯殿山神社があり、湯殿山大神(これも温泉神)を祀りますが、熱湯湧出の霊巌があるといわれます。新野直吉氏も、「湯殿山は大地から湧出する霊泉による地の神である」と記しています(『日本の神々 12』出羽三山神社の項)。

羽黒山の西方近隣に位置する鶴岡市湯田川温泉には出羽国田川郡の式内社、由豆佐売ゆずさめ)神社があり、祭神は溝杙姫命・大己貴命・少彦名命とされますが、「由豆佐売」が「湯津沢女」を指すことは新野直吉氏の記すところでもあります。氏は、それが女神であるところに、この温泉の柔らかな効能が推察できると記しますが、私は、神託のために熱湯を我身に振りかける巫女をイメージします。というのは、『三代実録』仁和元年(885)十一月二十一日条には、出羽国の飽海郡大物忌・月山神、田川郡由豆佐乃売神がともにこの怪(石鏃が降ったこと、凶狄陰謀兵乱の事)を現していると神祇官が述べた、と記されるからです。つまり由豆佐乃売神が、凶兆を告げるか祟りで凶兆を現すということです。
また、大物忌神とは鳥海山頂上に鎮座する鳥海山大物忌神社のことです。これより少し前の貞観十三年(871)の鳥海山大噴火に際して、出羽権守藤原保則は、「大物忌神上古の時より、征戦ある毎に奇験を顕し給へり」と奏言しています(『三代実録』)。
 
「湯立神楽」で今日伝承されていてその古風をよく残しているものに,秋田県平鹿郡大森町八木沢の保呂羽山御神楽(霜月神楽)があげられます。
  これは、式内の波宇志別(はうしわけ)神社に関する神楽で、わが国でも最古のものとされています。同社の祭神については、必ずしも明確ではないものの、菅江真澄の『雪の出羽路』のなかで、「保呂羽」は「脇羽・幌羽」で、「波宇志」は「羽伏か羽節」とみていて、これに拠れば、「保呂羽山の猛禽についての太古からの土着信仰のようなものが神格と関わりをもっており」という新野直吉氏の解釈はわりあい穏当であろうと思われます。波宇志別神社のかなり古くからの主神は天日鷲命ではないかと新野氏はみておられますが、この神こそ少彦名神の別名と私はみております。
同社の神主を世襲した大友氏は、近隣の式内社塩湯彦神社の社家も兼ねていました。塩湯彦神社は、平鹿郡山内村の御獄山にあって、もと塩泉が湧出していた七釜という地があり、同山の三つの峯には大己貴、少彦名の二神などが祀られています。御獄山も天孫族や中国の羌族に関係深い山でした。岩手県には下閉伊郡普代村の鳥居地区の鵜鳥神社に伝わる鵜鳥神楽もあり、「権現舞」や「清祓」というスサノオノミコトの舞などがあります。
 
以上の事情に加え、地域的に考えても、綴子神社の御湯立神楽は、保呂羽山御神楽、ひいては湯殿山神社や由豆佐売神社に関係するものではなかったでしょうか。
なお、温泉神社は、関東以北では福島県いわき市湯本と栃木県那須の同名社が式内の古社で著名ですが、これらは天孫族系統の石城国造と那須国造(いずれも姓氏は丈部か)が奉斎したものとみられます。陸奥の玉造郡の式内社であった温泉神社及び温泉石神社については、すでに述べました。
 
ここまで記述してきたように、奥羽の白鳥・鷹や温泉などの由来・地名・神社は天孫族に関係し、その後裔で当地に広く分布した鳥取部・玉作部・丈部などの一族がこれら神事・奉斎を永く後世まで伝えたのではないでしょうか。
八幡神の実体がわが国天孫族の遠祖・五十猛神であることは、繰り返し述べておりますが、温泉神が一般に「大己貴神・少彦名神」とされるうち、この大己貴神とは海神族の神ではなく、本来は八千矛神(=八幡神・五十猛神)の転訛ではないかとも思われるところです。上記の「園神韓神」とは、宮中の宮内省のなかで奉斎された神であって、『延喜式』神名帳にもあげられ、とくに「韓神は大己貴、少彦名の二神で、疫病を守る神であるとも伝えている」ものです(『神道大辞典』)。こうしてみると、韓地からきた素盞嗚神の一統(五十猛神、少彦名神)が「韓神」にあたるもので、それがすなわち温泉神でもあったわけです。

  (05.7.13 掲上。07.7.16などに追補)

      (応答板トップへ戻る)      
   ホームへ     古代史トップへ    系譜部トップへ   ようこそへ