扶桑国の歴史的地理的な位置づけ
               宝賀 寿男    


  本稿は、2004年扶桑国シンポジウム〔04.11.6〕におけるパネラーとしての説明及び説明準備用メモを基礎に敷衍して記述したものであるが、その後に多少の修補も加えている。こうした性格上、内容的に「御井神の系譜」にも関連し、一部重複するものであることをお断りしておく。

  また、いき一郎著『扶桑国は関西にあった』を読む も併せて見ていただきたい。

  

 
 1 はじめに−なぜ扶桑国問題に関わることになったか?

  もともと、いき一郎氏が扶桑国問題を取り上げてきたことは承知していたが、あまり深くは考えていなかった。それが、関心を持つようになったのは、『梁書』東夷伝に見える「乙祁」という名の扶桑国王に着目してからのことである。結論から先に言えば、私は扶桑国実在説であり、かつ、いき氏の説とはおおいに異なる点もいくつかあるが、その所在地(主要地域)については同じであり、『梁書』の記事を安易に切り捨てる姿勢は疑問が大きいという立場でも同じある。
  総じて言えば、古代史学界の大勢には反対であるが、いき氏の立場についても、必ずしも全てには同調できないということである。その意味で、本日のシンポジウムのご案内には「再吟味」と記載されたものであろう。

<備考> 中国の古代史書に見える「扶桑国」については、南朝・斉の永元元年(西暦499。以下は原則として「西暦」を省略する)に荊州に居た僧慧深(えしん)の供述に基づく記事が著名であるが、記事には荒唐無稽な内容も多いことから、明治〜昭和戦前の東洋史の大家・白鳥庫吉が慧深を大詐欺師と断罪し、その供述中の扶桑国を架空とし(「扶桑国に就いて」)、それ以降、わが国学界の大勢にあっては切捨てないし無視という立場が踏襲されてきた。
残念なことに、わが国古代史関係では「扶桑国」自体の史料すら紹介されず、例えば石原道博著『訳註中国正史伝』や井上秀雄他訳注『東アジア民族史1 正史東夷伝』でもそうした取扱いとなっている。

  いき一郎氏は、1979年にこの問題を発掘し、爾来精力的に扶桑国について論じてこられており、その活動を私は高く評価するものである。いき氏が、この国が関西を主領域として実在したとみる基本点については、私と同じだが、その前提は私と相当に異なる。例えば、記紀の位置づけ(ただし、私も『古事記』序文は偽書とみる)、記紀から導かれる歴史観のほか、いわゆる「古田史学」の影響が大きい九州王朝説・日本列島分国並立説などの点で、いき氏とは私の見解が異なる。しかし、ここで言いたいのは、「九州王朝説」という特殊・奇怪な立論からでなければ、扶桑国の存在を主張できないものではないということである。

 
 2 扶桑国の実在を裏付ける国王「乙祁」の存在

  慧深が荊州(湖北省襄樊市一帯)に来たのは、南朝の斉の永元元年(499)と記されるから、まったく個人の自力で様々な苦労しながら、琉球諸島を島沿いに小舟を乗り継ぎ、当地にやって来たものであろう。倭五王の遣使等に関する中国史書の記事からも、最後の倭王武の遣使が宋の昇明二年(478)のことであり、その使者が翌年、斉の建元元年(479)まで中国に滞在していたとしても、帰国は同年中のことであって、それ以降、両国間の外交交渉は絶えてなかった事情にある。その後の西暦502年の梁による倭王武の将軍進号は、倭国の遣使なしに一方的に梁側でなされたものに過ぎない。
  慧深が近畿地方を出発して南朝に着くまで、どのくらいの歳月が経過したかは不明であるが、その所要期間(下式の「α」)は普通には数ヶ月、せいぜいでも数年であろうか。 そうすると、国王の「乙祁」の没後3年間はその後嗣が国事を見なかったと『梁書』の記事にあるから、扶桑国王の「乙祁」は西暦496年の少し前(499−(3+α))頃まで在位していたことになる。
 
  いき氏は、この「乙祁」について「いつき、おけ」と読んで、記紀の顕宗天皇(弘計・ヲケ)はこの扶桑国王の名に基づき創作された、と当初は考えた(その後のシンポジウムでは、オケ・ヲケ兄弟、すなわち仁賢・顕宗天皇兄弟にあたるとされる)。
  しかし、記紀を根本から否定しない限り、創作・捏造というのは、やはり考えが逆であろう。記紀は、戦後の古代史学界にあってはいとも簡単に否定されることが多いが、それは年代の受取り方(具体的な年代比定)が誤解に基づいたり、系譜や地理を合理的に解釈・比定しない故に因るもので、基本的に信頼できる内容が多いと考えられる。
 当時の実年齢は、雄略天皇あるいは安康天皇より前の時代では、『書紀』に記載の治世年数について、4倍年暦(仁徳天皇以前の時期)・2倍年暦(履中天皇以降、雄略の前くらいまで)を基に考えざるをえないことに留意される。すなわち、『書紀』記載の各天皇の治世年数を1/2あるいは1/4した年数が実年数となる(貝田禎造著『古代天皇長寿の謎』参照)ということで、顕宗天皇・仁賢天皇の時代は倍数年暦の時代ではなかったこと(普通の年暦)になる。
 
  私も、「乙祁」が顕宗天皇を指すとみることには同感である。顕宗が兄の仁賢天皇とともに、「祁」を共通にして大・小を付け、「オケ・ヲケ」と呼ばれたことは記紀等に見え、『古事記』では「意祁祁」と兄弟が表記される(なお、『書紀』では億計、弘計と表記)。
  古代の皇統譜でいえば、大碓・小碓兄弟(倭建命の兄弟で、弟のほうが倭建命。碓〔ウス〕は米をつく農具の臼か)、大ホト・小ホト兄弟(継体天皇の兄弟で、弟のほうが継体天皇。「ホト」は溶鉱炉か)に類例がある。「祁」は「弘計」「袁奚」とも書くので、語幹は「ケ」とされるが、その意は「笥(食べ物の容器)」か。ただ、「祁」の訓みが「キ」なら、「杵」の意とみられ、「小杵」という人名は、武蔵国造笠原直使主の同族の者として『書紀』安閑元年閏十二月条に見える。
 「乙祁」の「乙」は、弟と同義であるので、「乙祁」=「祁」とみて全く問題ない(表記からも、仁賢天皇に比定を考えるのは無理がある)。

  この関係でも、神武紀に見える兄猾・弟猾、兄磯城・弟磯城等の例がある。
  また、倭建命の后妃に大橘比売命・弟橘比売命の姉妹が穂積臣氏の系図(『亀井家譜』)に見えており、前者には「尋乙姫下坐東国矣」と註がつけられる。「乙姫」とは、日本武尊東征に随行したものの、海神の怒りを鎮めるため相模から上総への渡海中に身を投じたと『書紀』(景行四十年是歳条)に見える妃の弟橘媛である。これに符合するように、『常陸国風土記』行方郡には「倭武天皇の后の大橘比売命が倭から降ってきて、この地でめぐり逢った」という記事があり、この命名では「大」と「弟()」とが対応していることが分かる。
 
  顕宗天皇の在位年代については、私は、西暦493〜495年頃とみており(その根拠は拙稿「隅田八幡画像鏡の銘文についての一試論」『季刊/古代史の海』第30号、2002年12月に記載)、『梁書』の記事とまったく符合している。
  顕宗天皇の後継となった兄の仁賢が十一年間在位したことは、『書紀』に見えており、三年以上在位したという慧深の供述と符合する。問題の「乙祁」が顕宗天皇のことだとすると、慧深は中国南朝の人々との間で、「乙祁」などと漢字を用いて筆談で表現したことが考えられる(ただし、同人が中国人の可能性も残るが)。なお、上記年代観は、隅田八幡所蔵鏡の銘文解釈とつながるものがあり、この銅鏡の作製年代たる「癸未年」について、通説の西暦503年とも443年とも取るべきではない。私見では、492年頃ではないかとみており、同鏡銘文に現れる「男王」も顕宗天皇(即位前の王子)とみている。
  こうしてみると、僧・慧深の供述は、顕宗天皇在位とその時期の確認のための貴重な同時代資料と言えよう。(この関連で考えるとき、同じ供述にある宋の大明二年(458)の仏教伝来という『梁書』の記事も、同様に無視できなくなることに留意しておきたい。
  なお、国王名の記事に続けて、「大対盧」などの三官職があげられ、「名国王為乙祁」(国王を名づけて乙祁となす)という表現から、「乙祁」を国王の一般呼称(歴代の呼称)とする見方もあろうが、「乙」の用い方など特別の尊称ともみられない表記を考えると無理な解釈というほかなく、やはり国王の名が乙祁とするほうが自然であり、十干の名を用いるほうが殷族に通じる太陽信仰があった扶桑国にふさわしい。
 
  五世紀末の段階で日本列島が統一国家のもとにまだ置かれていなかったという説(九州倭国・近畿扶桑国の並立説)は、文献的には勿論のこと、考古学的な知見からいってもありえない。扶桑国についての認識も、平安期以降に現れる認識と符合するといえよう。すなわち、当時の日本列島の大部分を支配圏とした「大和朝廷」と同じ王権と考えてよかろう。いき氏が言うような「関西地方の一盆地、一平野の国」で、「北陸の文身国を視野に入れたせいぜい関西ブロックの代表的政権であったといえる程度」という小規模では、決してない(北陸・越に文身の習俗が特にあったことは、なんら資料に見えない。景行紀27年条の武内宿祢の報告で、蝦夷に文身の習俗があったと見えるが)。そもそも、この越のような小地域の国家なら、太陽が宿る巨樹である扶桑の根元のなかに埋没してしまうのではなかろうか。もっと広域的なニュアンスをもつ「扶桑」の本来の名義を忘れてはならない。
  こうした地域観は、更に早い三世紀代前半頃の卑弥呼の邪馬台国時代においては、九州に邪馬台国(倭国)、近畿に「大和朝廷」(崇神天皇のときに強大化して列島の主要域を版図とした国家で、崇神以降を「大和朝廷」というのなら、その前身的な国家にあたる)の並立説を否定するものではない(ただし、近畿の国家のほうは、かなり狭小か)。なお、邪馬台国東遷説は、私はとらないし、神武天皇は実在とみるが、卑弥呼以前の二世紀後葉の人であったと考えている。

 
 3 扶桑国の位置

  扶桑国の位置については、沙門慧深の供述では、「扶桑在大漢国東二万余里、地在中国之東」と記される。
  この記事の解釈としては、@直列式に「中国属領としての帯方郡→倭国→文身国→大漢国→扶桑国」と進むと一般に考えられて、この場合、扶桑国は倭国から三万里以上もの遠方となるが、同書の距離表示「里」の解釈(長里か短里かの問題)ともあいまって、扶桑国の所在地が関東とか東北とかあるいは遠く海外(メキシコ、樺太〔サハリン〕、鬱陵島など)とみられていた。
  これに対して、A並列式に考える読み方があり、とくにいき一カ氏は、二つの「大漢国」が混同されたこと(a中国南朝側の意識としての日本列島内のもの、一方、b慧深の意識としての中国南朝を指すもの、が混同)の結果だとみて、『梁書』の記事に見える行路を並列式に考え(すなわち、a上掲の大漢国までの行路と、b「中国南朝→扶桑国」という行路の二つ)、中国南朝から「短里」でみて二万余里の地にあるのが扶桑国として、これが近畿の地にあったと考える。
  この直列式と並列式とでは、並列式が妥当と考える。当時の実態を考えれば、倭国(「大和朝廷」)の外域、すなわち勢力圏外にはエゾ(蝦夷)の住む地域しかなく、この勢力圏外に国家的な形態が成立していたとは考えられないこと、蝦夷には入れ墨の風習があり、これが「文身国」として表現されたとみられること(上述)などからいえる。
 
  文身国に関連して、『書紀』景行27年2月条に、東国から帰った武内宿祢の奏言に、「東夷のなかに日高見国(おそらく北上川流域をさす)あり、その国人、男女ともに髪を分け(椎結)、文身(入れ墨)で、ひととなりが勇敢であって、これを総て蝦夷という。また、国土は肥沃で広大である」と記される。
  「文身」は、魏志倭人伝では倭人の漁民の風習として見えるが(この関係の入れ墨では、履中紀元年四月条に見える海神族系の阿曇連浜子の「阿曇目」の記事にも留意)、もともと縄文人系統の山祇種族の風習でもあった。山祇種族の流れをくむ大久米命(道臣命と同人であって、大伴連・久米直等の祖)が目の周辺に入れ墨をしていたことは、神武天皇の皇后選定についての『古事記』(中巻の神武天皇段)の記事に見える。蝦夷もアイヌも、日本列島原住の山祇種族の流れをひき、アイヌ女性の入れ墨も著名で、優秀な技術を持っていたとみられている。山祇種族が現代のクメール人と同祖の関係にあり、「久米」の名もクメールに通じる。
  文身国について、いき氏の言う北陸地方とみる根拠はない。氏の説は、『梁書』の記事から大漢国との位置関係で、短里により地域比定をした結果のようである。しかし、地域呼称とみられる「大漢国」以下の国名を厳密に短里に基づき実在の地域に比定することには、疑問を感じる。四,五世紀以降の国造配置の実例を考えると、その配置北限は福島県北部あるいは宮城県南部とみられるから、それより北の地域で大和朝廷の領域外にある地を、その習俗に因み、蝦夷の国(地域)を「文身国」と呼んだものであろう。
  この文身国について、『梁書』は「倭国の東北七千余里の地」にあると記すが、その記事の直前には晋の安帝のときの倭王賛と以下五人の倭王が見えるから、文身国の西南七千余里にある「倭国」とは、地理的にも文脈的にも畿内地方にあった大和朝廷を指すことになる。そうすると、同じ『梁書』の一連の記事の中にあって、「倭国」が卑弥呼の居た北九州を指す場合(とくにその筑前沿岸部)と、倭五王の居た近畿を指す場合の二通りの意味があることも分かり、その記事がつぎはぎであって、各々時代を異にすることも分かってくる。

 
 4 扶桑国名の発生と意義

  その国が、歴史的に国際通用してきた「倭」ではなく、対外的に自ら「扶桑」を名乗ったのだとしたら、おそらく次のような意味があったものと思われる。
  第一に、本来、北九州にあった倭国とはまったく違った地域に都邑をもち広域を支配した国家であるという認識が扶桑を名乗った側にあり、『旧唐書』倭国日本国伝に、倭国自体が「倭」という漢字名の雅やかでないことを嫌った事情があげられる。五世紀当時の大和朝廷の軍事及び外交の直接の対象であった朝鮮半島の古い国名「朝鮮」(朝日の鮮やかな国)に対する国際的な対抗意識もあったのではなかろうか。
  第二に、五世紀の約七〇年間ほどの中国南朝との国際交流を通じて、『山海経』などの中国古典などにも接し、そのなかで、扶桑という巨樹が生えそこから日が昇るという地であるという中国人の知識を認識したこともあげられよう。
  これと併せて、当時の扶桑国王などの統治階層(天孫族が主体)は日神信仰をもち、杉などの樹木を日本列島にもたらしたという伝承をもつ五十猛神(素盞嗚神)の流れを引くという神統譜を持つ事情もあったものと思われる。つまり、扶桑という名には、日本と言う名の先駆け的な要素が感じられる。
 
  西暦478年の倭王武の遣使が、記録に残る限り中国南朝への遣使の最後となったが、倭王武すなわち雄略天皇の治世がさらに十年ほども続いた(487年頃までが治世時期か)、とみられるため、「大和国家が中国の冊封体制を拒絶して、ヤマト文化にアイデンティティーを見いだしていく流れのなかで」(工藤隆氏の表現)、中国への遣使がなされなかった可能性もないでもない。
  しかし、実際には、雄略のあとは、吉備などによる兵乱のうえ清寧・飯豊青尊(この女帝〔ないし女性の執政〕の存在を認める方が合理的)・顕宗と短期間治世の大王が続いたことで、中国への遣使のための余裕・体力が時間的にも財政的にも持てなかった事情があると考えられる。当時の古墳をみても、雄略の陵墓とみられる河内大塚古墳(墳丘長335M)までは巨大であるが、それより後には規模が急激に小さくなっている。このため、「冊封体制の拒絶」とまで言うのは疑問であるが、工藤隆氏のようにまで言い切れないとしても、中国王朝との国際交流や朝鮮半島での外交軍事活動を通じて、当時の日本人が国家なり民族なりに次第にアイデンティティーを感じていくことはあったものと思われる。
 
  僧慧深が中国南朝の地に達して約百年経過した隋の開皇20年(西暦600)に、大和朝廷は中国王朝への遣使を再開したが、そのときまでには日神信仰・天の子思想をさらに強めていた。次の大業3年(607)の遣使において、その国書に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや(日出処天子致書日没処天子恙無)」と記すまでに至っている。倭国側には、「日没処」の表現について没落のイメージを持たす意向はなく、むしろ隋の領土大地の広大さを表したのではないかと思われる。あるいは、扶桑に対置されるような太陽の降りる巨樹「若木」が生える地という意味があったのかもしれない。いずれにせよ、「日出処」「天子」には国ないし民族としての倭人の誇り・気概が込められていたことは確かであろう。
  この「日出処」の表現は、扶桑国の思想を受け継いでいたものといえよう。そして、これが後の「日本」という国名につながっていく。やはり、「扶桑の生える地=日本」でなければならないのである。国王としての「天子」は、天孫族として「天上」(遠い先祖が住んだ地の崇称で、抽象的な地ではない)から降臨してきたという伝承に基づくものであろう。
  それらがゆえに、扶桑という国名は日本の別称として永く伝わってゆく。そのような「扶桑」の語義・使用が史料等で確認されるのは、わが国では平安前期以降だとしても、『梁書』を無視しない限り、五世紀以降のわが国の名称として「扶桑」を認識しなければならないものであろう。「扶桑」という語は、唐詩をはじめとして、史料の対外関係記事のなかに現れることが多いことにも留意される。
  以上に見てきたように、扶桑国問題は、空白の日本古代の外交・政治動向を考える意味で重要であることが確認できるものと思われる。

 
 5 中国の『山海経』と扶桑国との関係

  扶桑の木が記される『山海経』には、史実かそれに近い記録も含まれる。それを、中国四川省の三星堆遺跡1986年夏に発見)などの考古学遺物は立証する。その遺跡の時期的には、炭素14測定年代と考古学遺物分析により、その終焉が西周前期後半(中頃、BC850年頃)に当たるといわれる。(なお、個人的な見解ではあるが、中国の上古年代の比定がかなり遡上される傾向があるとみており、実際には年代がもう少し繰り下げられるのではなかろうか
  同遺跡から「神樹」と呼ばれる遺物が発見されており、これが太陽柱という物理現象を形にとって表したという考証がある(林巳奈夫京大名誉教授)。中国の東と西の遥か遠い所に、扶桑若木(建木と呼ばれる恐ろしく高い木が各々の地にあって、それを伝って日が天に昇り、また天から降ったとされるのである。
 
  わが国の皇統(天孫族)の祖神として、五十猛神(素盞嗚神)、御井神(すなわち高木神)の親子が考えられる。そのうち、 五十猛神はわが国に杉などを伝えた樹木の神とされるが、樹木を涵養する水(井泉)の神でもあり、樹木に宿る鳥の神であった。この樹木が東海に生える伝説の「扶桑」の神樹なら、天帝の子の十個の太陽(十日)の住処であって太陽神に通じる。
  帝堯の時代に天空に現れた十個の太陽は、酷暑に苦しむ人々を救うため、弓の名手(「ゲイ」という名)によりその九個が射落とされたが、その実体は三本足で黄金色の烏であったと中国神話に伝える。熊野神の使いである三本足の烏(カラスこと「熊野烏」は、神武東征の先導を務めたという伝説の「八咫烏」のこととされ、実体が鴨県主の祖・鴨健角身命に比定される。これも、天孫族の出である。
 大元の 「熊野神」については、その実体は素盞嗚神(五十猛神のこと)とされており、紀伊国南部で同神を奉斎したのは天孫族系の物部連一族の熊野国造や穂積臣であり、出雲では出雲国造一族が同神を奉斎した。出雲国造も物部同族であることは、拙稿「出雲国造家の起源−天穂日命は出雲国造の祖か?−」(『季刊/古代史の海』第22号(2000/12)に掲載され、拙著『越と出雲の夜明け』に所収)を参照されたい。
  古来、太陽神「天照大神」は、男性たる高木神(高魂命、高御産霊尊)かその近親(天活玉命)であったが(今は後者のほうを考えている)、これが後になって女性神に転訛した。そこには、太陽神の巫女で女王たる卑弥呼の影響があったのだろうか(拙見では、この辺はあまり重視しない)。あるいは神功皇后や飯豊青尊(女帝となったか。オケ・ヲケの叔母で、清寧皇后とみられる)の影響もあったのかもしれず、最終的には推古天皇の影響も大きかったものか。匈奴や東北アジアのツングース系種族においては、総じて女性の地位が高かったという事情もあろう。
 
 上記「神樹」について、もうすこし敷衍しておく。
 中国人研究家の徐朝龍氏は、長江上流の中国四川省の三星堆遺跡から出土した樹木状の巨大な青銅器(「神樹」と呼ばれる)こそ、『山海経』に見える「扶桑」を象ったものであるとする。神樹は太陽が宿る樹であり、これは太陽信仰の証しとされる。三星堆遺跡の文明を担った民族だと私がみているのが、古代の羌族(あるいはその同族の)か殷王朝を建てた殷族の同族かであり、わが国の天孫族も後者の系統を引くものであった。羌族には、太陽神、石、柏樹への信仰が強いとされる。ただ、この柏はわが国の柏と異なり、ヒノキ科の針葉樹である。わが国の樹木神五十猛神が杉をもたらしたと伝えたことで、武蔵の式内社杉山神社等に祀られることに留意される。
  三星堆から出土した巨大な神樹には、太陽に比定される九羽の鳥がとまっており、もう一羽が天空を運行中とされるが、林巳奈夫氏著『中国古代の神がみ』によると、この鳥は体型的にイヌワシ(鳥類の王者といわれるタカ科の大型ワシ)とされる。そして、イヌワシ形の火の神は竈神であったとのことである。徐朝龍氏は、これを「カラス」と表現しているが、いずれにせよ、これら鳥類である。
 
  天孫族は、西戎の・羌と呼ばれる種族あるいは殷族と同系統であり、とくに殷王朝を建設した種族とも同じであって、この種族は東夷の色彩が濃厚だった。その特徴は、鍛冶部族で鷹・白鳥・烏などの鳥トーテムとも関係深かった(倭建命の白鳥伝説などを想起)。この流れを引く者の名前や部族構成などには、特に「五」という数字が頻出すること(関連して、「三、五、八」という数字が重視され、上記のほか、崇神の名の五十瓊殖〔イニエ〕、垂仁の同・五十狭茅〔イサチ〕、景行の同・五十瓊敷〔イニシキ〕、成務の同・五百城〔イホキ〕などに見える)に留意される。
  この部族は、もともと中国の中原の西北方にあたる黄河上中流域の森林牧草地帯(内モンゴル自治区のオルドス地方)にその遠い故地を有し、そこで鍛冶技術ももち、牧羊や農業などもしていた。それが、山西→山東→遼西→朝鮮半島という経路で、かなりの時間をかけて紀元一世紀前半頃に日本列島に入って来たものであったとみられる。そうであっても、遠い昔の先祖以来の習俗・トーテミズムやゆかりの地名(羌族や殷族の聖地たる「嵩山」など)を列島に伝えてきた。

  その意味で、江上波夫氏の「騎馬民族征服説」は、時期的に限定した範囲では、否定されるべきである。江上氏の想定した「騎馬民族」の故地は北満州地域であるが、これも疑問が大きい。とはいえ、大陸にあったツングース系の種族が上古に日本列島に渡来してきて、ついには「大和朝廷」を築き上げたというのが骨格・基本としての考えだとしたら、これはほぼ是認されるべきである。
 
  要は、『山海経』の思想を古くから保持していたのが中国大陸に起源を有するわが国の皇統であり、国名を扶桑と名乗ったのも、その風習の延長にあったものとみられる。
                                            (以上)

 
 当日の応答等を通じる説明の補足・追加など

○隅田八幡鏡銘文に見える「日十大王」の意味

  パネラーの清水守民氏は、当日の配付資料において、「注目すべきは「十個の太陽伝説にちなんだ扶桑国であれば、その王が日十大王を称しても一向に不思議ではない」ことで、むしろ「ふさわしい」と言えるでしょう」と記述される。この見解は、つくづく考えるに実に正鵠を得た指摘だと思われる。
  また、「日十」は素直に読めば「ヒソ」だとされるが、これらに示唆されて以下の考えが出てきた。
  従来、隅田八幡鏡銘文に見える「日十大王」の意味・読み方については、きわめて難解であり、「日下(くさか)」という見解も管見に入っていたものの、私としても不明なままであった。

  いま清水氏の示唆を受けて考えてみると、「日十」とは「十個の太陽」の意義で、その住処たる扶桑樹でもあり、その意味で、二字で「フソウ」と呼ぶのが最適ではなかろうか。『梁書』と『山海経』を併せ考えると、五世紀の九十年代の日本列島には扶桑国という別称があり、十個の太陽が扶桑樹から登ることから導かれるものである。いわば「飛ぶ鳥のアスカ」「日下の草香」に通じる表現であろう。そうすると、「扶桑」→「日十」「日下」の樹で、ひいては「日本」につながることになる。従って、扶桑という地域は、まさに日本のことである。
  なお、「日十大王」の具体的な比定としては、これが当時の大王(ないし執政)・飯豊青尊を指すことは上記拙稿作成当時から考えていたことであって、これに変化はないが。
 
  「十個の太陽」は殷の国王の名に見える十干(甲乙丙丁……)に通じるが、扶桑国王の名の「乙祁」の「乙」が兄弟のうちの弟であるとともに、十干の乙でもあって、太陽神信仰を持つ天孫族の国王にふさわしい。天孫族が殷を建国した種族と同系であったことは先に述べた。殷における太陽信仰は顕著であり、その王族は十個の太陽の末裔と主張して、十支族があったとされる。天皇一族では、殷支族の箕子朝鮮王族の流れを汲んだと秘かに伝えていた可能性も考えられる。※この辺は、拙著『天皇氏族』でも記述した。

 
○桑に群れる蚕との密接な関係

  扶桑は桑の巨樹であり、古来、蚕との密接な関係が見られる。
  三星堆を中心とする古代蜀の初代王は「蚕叢」と伝えられ(『華陽国史』)、蚕が群れるということは、桑の木(扶桑)に通じるものか。「蚕叢」なる王は養蚕を発明し「民に蚕桑を教えた」(馮堅『続事始』)ことから「蚕の神」として尊ばれ、四川省は古来絹織物の産地として知られてきた
  わが国にも蚕神がおり、山城国葛野郡の式内社、木島坐天照御魂神社(京都市右京区太秦森ケ東町に鎮座)の境内に蚕養神社(いわゆる「蚕の社」)がある。丹波国桑田郡の大原社も蚕飼いするものの信仰する神社といい、これら神社は、当初は鴨一族葛野県主が奉斎し、後に遷住してきた秦氏も同じく蚕養神社を奉斎したものであろう。鴨氏の遠祖・少彦名神には、蚕神の要素がある。
  中国の秦(姓)も、鳥トーテムをもち、その同族分布から考えると、東夷(ないし西戎)系の羌族と広い意味での同種族の一支ではないかとみられる。その故地ともされる甘粛省天水は、いったん西遷した可能性もあるが。わが国の秦氏は、秦の始皇帝の末裔と称したが、この系譜が直系としては必ずしも信頼できないとしても、秦王統を出した種族の遠い末裔という系譜自体は、鳥トーテムなどからほぼ信頼してよいと考えられる。
 
  木島坐天照御魂神社がその名の通り太陽神奉斎であれば、有名な「三柱の鳥居」は三本足の烏や三星堆出土の神樹の根本が三つに分かれていることに通じるものであろう。この鳥居には、方位的に太陽祭祀の意味が読みとれるとされる。
  このほか、わが国では、陸奥の会津郡式内社として蚕養国神社、常陸国筑波郡にも蚕飼神社があるが、ともに天孫族三上氏族系(天若日子の後裔系統)の諸国造たちの奉斎にかかるものであったとみられる。
  なお、『魏志倭人伝には、当時すでに日本で養蚕が行われ絹織物が製作されていたことが記されており、西暦243年には倭王が「倭錦」「絳青の」を魏に献じたこと、さらに女王台与が「異文の雑錦」二十匹を貢献したことを伝える。三世紀の日本列島には、錦織がなかったとして、この記事に見える「倭錦」とは錦に似た倭人の織物とみる見方もあるが、邪馬台国の王統はすでに倭地に渡来していた天孫族系統から出ており、上記記事を信頼してよいと考える。

 
と羌の関係

  古代中国の種族を、人種的特徴や習俗祭祀などから大掴みにとらえて、北方型1の代表例として苗族(ミャオ族)、北方型2として同、泰族(タイ族)、西方型1として同、羌族、西方型2として同、族をあげられよう。
  羌ととは、中国の甘粛東南部・陝西西南部から四川北部にかけての地域に居住し、人の首長はみずから「姜、羌」ということが多い(白川静氏)とのことである。両者はかなりの近縁で明確に区別しがたい部分もあって、北方型1の種族及び北方型2の種族に対応するものとして、西方型(広義の羌)があり、それが・羌の二つに分けられるとしておいたほうが実態に近いものと思われる。のほうが羌に比して農耕化への進行が早かったという特徴がある。
  羌は、五胡十六国時代におおいに活動し、いくつかの国を華北に建てたが、一時華北の大部分を勢力圏とした前秦(苻堅のとき最盛も、西暦383年の水の戦いに東晋に敗れて衰えた)は族の建てた国であった。
  なお、古代の羌をチベット系の種族とする見方が多いが、これは現代の使用言語から導かれる説のようであり、保持するトーテムから考えると、この見方には肯けない面もあるものの、なかなか複雑であって明確には判じがたい。

 
○扶桑という地名の現れるわが国の史料

  中国では唐詩のなかに「扶桑」という語がかなり見えるが、わが国ではその史料初出が遅れる。六国史では、『三代実録』貞観元年(859)六月二三日条に、渤海国王からの国書に対し、中台省の牒に「扶桑崇浪。日域遐邦」とあり、また元慶八年(884)三月二六日条の僧宗叡の伝記記事に見える。後者の記事では、僧宗叡が渡海して中国に渡り、明州に至ったところで、遙か「扶桑」を目指す李延孝にめぐり会い、同舟して本朝に帰着したと記される。
  また、平安前期の漢詩にあるくらいで、あとは平安中期の漢詩の『扶桑集』、同後期の『扶桑略記』に日本と同義で見える。鎌倉期には、日蓮遺文や『神皇正統記』『夫木和歌集』などに見える。
  『扶桑集』は紀朝臣斉名の編纂した漢詩集である。紀朝臣斉名(生没が957〜999)は、平安中期の儒者・官人で能文の文人として当時著名であり、従五位上式部大輔兼大内記に至ったが、「宋への返牒」などの文章が残っている。『扶桑略記』も、仏教に重点をおいた編年体の歴史書とされる。
 そうすると、「扶桑」は、対外的に意識して漢詩や外交・仏教関係に多く使われた地名ということがはっきりしてくるように思われる。

 (04.12.22 掲上。その後、20.12などに修補)


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