「扶桑」概念の伝播
        
−扶桑と箕子朝鮮を結ぶもの−
                 宝賀 寿男


 本HPでは、先に「扶桑国の歴史的地理的な位置づけ」を掲載していますが、この記事と関連しますので、併せてご覧いただけたらと思います


 一 問題提起としての序説
 
 扶桑の樹とは、『山海経』第九の「海外東経」などに登場する神木、天帝の子の十個の太陽が泊まって、そこから天空に上がる巨樹であり、扶木ともいう(一方、太陽が天空から降りる巨樹は西の涯にあって「若木」という)。東海の海上にあって、その生える地を「暘谷(ようこく)といい、木と同じく「扶桑」ともいう。これに関連して、十個の太陽のうち九個をゲイ()なる弓の名手が射落としたら三本足の烏が九羽落ちてきたという「射日神話」があり、これにおそれをなし一個だけ残った太陽が岩屋(ないし西山)に閉じこもって出てこないことで、これを招き出すという「招日神話」が伴う。
 こうした一連の太陽関連神話は、日本列島に天孫族(天皇家一族)が伝えた概念かとも考えられ、五世紀末頃の日本は「扶桑国」と自称した。『梁書』に見える扶桑国の王の名を「乙祁」といい、十干を使った王名は殷王朝の王名に通じる。

 扶桑の思想は、大業三年(607)の倭国王から隋王朝への有名な国書に見える「日出処天子(日の出る地の天子)」という語に現れ、奈良・平安期以降の日本の別名として定着する。わが国の記紀神話を見ても、「招日神話」としての太陽神たる天照大神の岩屋籠りがあり、三本足の八咫烏(ヤタガラス)による神武行軍の道案内伝承があるなど、扶桑と太陽に関連する神話が顔を見せる。しかし、九個の太陽を射落すという「射日神話」そのものは見えず、遥か後代に見える十干の名の王は、九個ないし複数の太陽がそのまま残ったことを示唆する。「九個の太陽」とは、九つの系統の部族(王族?)を意味するともみられるから、日本では、殷の王族思想が滅びずに残ったものかともいう。
 ところで、「扶桑」という記事を載せる『山海経や『淮南子』(射日神話も見える)の成立年代が紀元前二世紀代頃(それよりも後代の追補もあろうが)であり、一方、わが国の古代王統を担った天孫族は、西暦紀元後の一世紀代前半頃になって日本列島に到来したとみられるから、天孫族到来の前から「扶桑」という概念が、倭地・日本列島に既にとりついていたことになる。そうすると、天孫族が来なくとも、日本列島が扶桑と呼ばれていたことになるが、上記の一連の太陽神話をこの種族がどこでもつようになったのだろうか。

山海経(せんがいきょう)』とは戦国時代から秦・漢期にかけて徐々に付加執筆されて成立したとみられる中国最古の地理書であり、『淮南子』の主著者・淮南王劉安(紀元前179年〜紀元前122年)は、中国前漢時代の皇族、学者である。
 
 朝鮮半島にも扶桑樹に関連するとみられる伝承がある。それが、太陽神の桓雄が地上に降りる通路としての巨樹「神檀樹(シンダンス)」であり、桓雄がその地の熊女と結婚して生まれた檀君は、古朝鮮の始祖となったと伝える。
 神檀樹の生える地を「暘谷」といい、それが朝鮮の名の起源になったとする。こうした諸事情から、「神檀樹=扶桑樹・若木」ともみられる。この檀君神話が記される現存最古の史料が『三国遺事』であり、十四世紀頃の民間伝承の書だから、高麗の時代には檀君はまだ受け入れられていなかった。それまでは、朝鮮の起源として『史記』などに見える「箕子朝鮮」があり、これが史上最古の朝鮮国とみられていた。それが、李氏朝鮮の時代から民族主義的思考の高まりで次第に「檀君朝鮮」という比重が大きくなったとされる。
 箕子朝鮮とは、殷末期の紂王のときの王の一族、三賢人のひとりで、大師の箕子が殷の滅亡後に周王朝の武王により封ぜられたと伝える国(侯国)であり、紀元前二世紀初め頃に燕からの亡命者・衛満により箕準王が国を乗っ取られるまで続いたとされる。最近までの殷墟などの遺跡発掘や甲骨文解読の研究が進展したことで、『史記』に記される殷王朝の王()の殆どについて実在性が確認されてきた。そうすると、箕子の実在性もまず否定できないし、中国遼西地方あたりの考古遺物などからも、箕子朝鮮ないし「箕侯の国」の存在も認められることになる。

 とはいっても、これに関連する問題がまだ多く残る。朝鮮半島では、箕子朝鮮は当然のことのように、朝鮮半島にあった朝鮮民族の国と考えるが、中国では所在地はともかく、中国古代の地方王権としてしか評価されない事情にある。この主張の対立は、現代国際政治や民族的主張のきな臭い側面にもつながりかねないが、冷静に科学的に判断する必要がある。
 こうした関連で、箕子とはどういう人物だったか、その系譜(子孫を含めての系譜)はどうか、その活動時期は何時か、これに先立つ王朝とされる檀君朝鮮との関係はどうだったのか、等々の問題が出てくる。
 日本の歴史学界では、初代天皇(大王)としての神武天皇の存在を否定する立場が大多数だから、紀元前2330年に即位して1500年もの長寿を保ったと伝える檀君の存在など認める学究はいない。ところが、朝鮮半島では別の意味づけ(民族主義的な思想・志向)をもっていて、むしろ檀君の実在性を前提とした議論がなされてきた。歴史研究を行う場合には、総じて日本の学界の姿勢が合理的で正しいようだが、様々な面から検討を加えていくと、どうもここでも「真理は中間にあり」というのが妥当なようでもある(日本のほうの見方も、否定論にやや傾きすぎるのではないかということである)。

 以下では、檀君朝鮮と箕子朝鮮との関係を中心にして具体的に論ずることで、「扶桑」やこれに通じる「暘谷」などという概念の担い手や比定されるべき地域がどのように移遷したのかを考えていきたい。
 
 
 二 檀君朝鮮とその後裔たち
 
 檀君伝承が見える『三国遺事』は、新羅史を中心とした古代朝鮮についての私撰の歴史書であり、高麗時代の高僧一然(1206生〜89没)が、1280年代に編纂し、弟子の無極が補筆したとされる(平凡社『世界大百科事典』)。そこで初めて見える記事なのだから、上古の話とはいえ、檀君伝承が新しいものであり、朝鮮民族意識の発揚のためのもので学問的な意義はないとするのが、日本の歴史学界の大勢なのだろう。
 しかし、この思考には大きな疑問がある。というのは、扶余、高句麗、百済や渤海などの朝鮮半島から北東アジアにかけての地域の古代王家が、みな檀君の子孫を称したと伝えるからである。また、高句麗末期の大実力者の蓋(淵蓋・泉蓋)蘇文の系図を鈴木真年翁が採録したものが『百家系図稿』のなかに見えており(巻8の「朝鮮系図」など)、この者も檀君の子孫という系譜を伝えた事情がある。こうした系譜が後世の架上・造作による信頼性のないものだと安易に決めつけられないし、その観点からも「檀君系譜」の持つ意味を十分考えてみたい。そして、檀君が生まれた地、太陽神桓雄が降臨した神檀樹の生える地とはどこだったのか。この辺を、もう少し具体的に見ていこう。

 
 檀君神話と天孫降臨

 高句麗王室にも他の朝鮮半島古代の諸王家と同様、古朝鮮の始祖・檀君王儉の末裔という伝承があった。『三国遺事』では、その王暦第一で高句麗第一の東明王について、檀君の子であると記述する。十三世紀後半に成立した『帝王韻記』でも、帝釈の孫・檀君は、「朝鮮の領域に拠って王となった。だから、尸羅(新羅のこと)、高礼(同、高句麗)、南・北沃沮、東・北扶餘、、貊はみな檀君の後裔である」と記される。そうすると、貊族系統の民族・国家の大祖神として、檀君(「とその一族・種族」ということか)が位置づけられていることになる。
 檀君が太白山(一般に、朝鮮・中国の国境地帯にある長白山に比定されることが多いか)の頂上に生えていた巨樹「神檀樹」の下に降りてきた桓雄天王の子だという伝承がある。この始祖神伝承は、日本における天孫族の祖で高天原に住む高木高皇産霊尊)に通じそうでもある。崔南善氏の説によると、檀君は巫(ムタン)の別名、「タングル」の写音であり、「タングル」とは蒙古語のテングリ(天・拝天者と共通する語で、馬韓諸国における神邑の長・司祭者の「天君」も同一だという。檀君が住したという都、白岳山の「阿斯達」を漢字で雅訳したのが朝鮮であり、これが暘谷(陽谷、湯谷)や日本の「日向」にも通じる(李丙Z著『韓国古代史』)。

 「暘谷」に関する伝承では、太古中国の東海にあった異形の国のうちに、東方の天帝たる帝俊(帝舜と同じといわれる殷の祖神)の子孫が住む黒歯国があり、その北方には十個の太陽が住む湯谷(暘谷) があって、そこに扶桑という大木が生えていて、それが天帝の子である太陽の住み処であったとされる。扶桑樹の頂には一年中、玉鶏が止まっていたともいう。 あるとき、十個の太陽は一斉に天空に出て、これによる酷暑・旱魃で人々をおおいに苦しめたので、弓射の名手・ゲイ)により九個の太陽が射落とされたが、地上に落ちてき たのは射抜かれた「三本足で黄金色の烏九羽」であり、これが太陽の精魂の化身であったと伝える。
 檀君伝承の白岳山についても、白山(太白山、長白山)・朴山と同様に「明るい山」の意とされるが、新羅王家の朴氏(初代の赫居世等の王をだす)の名にも通じる。現在の韓国では、わが国の天皇家は朴氏に出たという所伝が密かに通行しているともいわれ、神武の兄・稲飯命が韓地の朴氏一流の祖となったという系譜も、鈴木真年の『朝鮮歴代系図』『百家系図稿』(巻六の「朴姓」系図)に掲載される。北扶余の祖についても、天帝の子・解慕漱(ヘモス)が天降りして建国したと伝え、扶余などの王族には「解」姓が多く見られるが、「解」は朝鮮語で太陽・日の意とされる。
 卵生神話型の天孫降臨神話も、高句麗の始祖・朱蒙や新羅の始祖・朴赫居世、のちの新羅王家の始祖・金閼智、さらに安羅も含む六伽耶王家の始祖・金首露たちについて見える。
 檀君以来、韓国の建国神話の始祖は例外なく天孫であると金両基氏は指摘する。崔南善氏の『三国遺事解題』では、新羅の昔氏脱解王の鵲や金閼智の白鶏などを鳥トーテムの痕跡とみることにも留意される(近世でも、満州族の王族の祖先は金海金氏に出て、金に同義の愛新覚羅を名乗り、先祖が鵲の卵生という)。昔脱解の七宝櫃や金閼智の黄金の箱、扶余王金蛙の金色蛙なども、「卵で表象される太陽である」とみられている。

 古朝鮮の始祖を檀君王儉とする伝承については、高麗時代の十三世紀後半に編纂の『三国遺事』に初見だと先に触れた。これより遡る根拠・史料が見当たらないということで、その伝承の新しさ等から、民間信仰にすぎないとか民族主義的な歴史観だとして、簡単に否定する見解が日本の学界では多い。檀君朝鮮については、1920年代の今西龍の論考「檀君考」以来、後世的な所伝で民族主義史観の現れとして日本の殆どの学者が否定的であった。
 逆に、朝鮮半島では、北朝鮮の学者が紀元前八、九世紀頃における実在性の主張をかなり強く行い、韓国でもそうした主張が見られる。管見に入ったところでは、金両基氏は「信仰的事実」といい、文定昌氏は、「夫余・高句麗・穢などはみなBC2300〜1200年間に旧=満州・河北省地方において燦然たる文化の花を咲かせた檀君朝鮮の王侯国であった」という指摘もする。韓国の歴史教科書では、総じて歴史上の史実として檀君を扱う姿勢がある。
 これらの立場に対して、李丙Z著『韓国古代史』では、夫余や高句麗の始祖降臨伝承が檀君神話に通じるものとする。このほうが、神話として全く否定するよりも、また単純な肯定をするよりも、説得力が強い。今西龍「檀君考」でも、檀君神話と高句麗始祖神話との類似性を指摘する。前掲『朝鮮歴代系図』では、檀君に始まる高句麗の蓋氏や弁韓王家、新羅王家の昔氏(脱解王など)の系譜を記載している。
 これら檀君関係の見解を総じて見れば、わが国での否定的見方を皇国史観の影響とみる金両基氏の見解は、妥当とはいい難い。その主張する「信仰的事実」という表現も意味不明であって、これが歴史的実態がなかったということであれば、否定的見方とかわらない。檀君朝鮮を全く実態がないとして簡単に無視するのも、同様に疑問な姿勢であり、その内容の是非を個別に検討する必要があろう。

 檀君関係の地理を考えると、その王朝が都したという白岳山の「阿斯達(アサダル)」について、比定地が現在の平壌というのは疑問がある。平壌に都した国としては、高句麗(それも、長寿王治世の五世紀前葉に集安の国内城からの遷都である)が最初ではなかろうか。金両基氏監修の『図説 韓国の歴史』でも、「かっての平壌界隈説は否定され、現在の中国の遼東半島や山東半島付近に求める説が強い」と記述する。
 鈴木真年編『朝鮮歴代系図』によると、檀君の後裔の宇陀麻は、周武王の元年に箕子を避けて蔵唐京に遷り、このとき弟の倶婁が蓋牟に遷って蓋氏(及び高句麗王室も含むか)の祖となったと記される。『三国遺事』では「檀君」が阿斯達から遷住した地が蔵唐京とされるが、この「檀君」とは年代的にみて、「檀君の後代」の意とみられよう。「蔵唐京」は平壌南方近隣の安岳・九月山付近とみられるから(李丙Z氏)、檀君後裔という系統と平壌地方とは密接な関係があったものとみられる。
 檀君朝鮮という国の実在性が直ちに認めがたいのは、その歴代の王名が朝鮮半島の資料に全く伝わらない事情にあるからである。檀君の異例な長寿は別としても、檀君以外の王名が、滅亡(隠退)時の王でさえ知られない。檀君には夫婁という子があったともいうが、せいぜいがその限りであり、神話的な始祖だけの国は存在が信じられない。
 ところが、鈴木真年は何に拠ってか、『朝鮮歴代系図』には檀君の朝鮮が廿九世で一千百十二年の治世とし、檀君から箕子と同時代の人とされる宇陀麻までの二十九代の人名が全て直系で記される。こうした内容の系図は、管見では朝鮮半島に残らないようだが、真年翁が勝手に自作したものだとも考え難い。何らかの所伝があって、それに拠って記したものではないかと推せられるが、全て直系で一世代平均治世が三十八年超となる系図も、内容的にまた疑問が大きい。宇陀麻の先の五代の名についても、真年翁の『百家系図稿』(巻八「朝鮮」系図)には別伝の記載があって固定しておらず、総じて宇陀麻・倶婁兄弟より先の系図は信を置きがたいとみられる。

 檀君の活動年代については、朝鮮半島関係の学者の多くは即位年代を前2333年とみている。前掲した文定昌氏の見解もその一例であり、『三国遺事』では、檀君(及びその子孫も含む意味か)が千五百年間も国を治めて、周の虎王(武王)が即位した己卯年に箕子を朝鮮に封じ檀君は隠退した、と記述する。しかし、古くに延ばされる傾向のある中国・朝鮮関係文献の紀年を、朝鮮の檀君関係所伝にそのまま当てはめて、BC2300年頃〜BC1200年(ないしBC800年)頃という期間に檀君の朝鮮があったとみるのは、これまた合理的ではなく、疑問が大きい。考古学的にも、これを裏付けるものは全く見られない。
 箕子朝鮮の建国という己卯年について、金思Y氏は前813年(=BC2333−1500余)とみており、前九世紀ごろが箕子朝鮮の開始時期であったとみる見解が朝鮮半島関係学者に多い。これは偶々の合致かもしれないが、箕子の朝鮮到来の時期、すなわち「殷周革命」(殷王朝と周王朝との王朝交替)の時期が実際には前九世紀代であったとみることは、遼寧省の考古学的事実等からみても、中国・春秋時代の諸王家の世代からの逆算という推計からいっても、あまり不自然ではないと考えられる。
 最近、中国では「夏商周断代工程」という国家プロジェクトで、殷周革命の時期が前1046年だという結論を出した。しかし、同プロジェクトにより算出された年代が、総じて『史記』等の紀年記事に依拠しすぎるきらいがあって、その結論のまま受け取るには疑問が大きく残る。古くは、中国史の碩学・宮崎市定が中国上古の紀年はかなり間延びしていることを指摘した。最近では、落合淳思氏も殷王朝の系譜分析を通じて『史記』に依拠した殷の紀年が長すぎると指摘する。私自身も、春秋時代の諸氏・諸王家などの系譜分析を通じて、前七世紀が治世の晋の文公重耳の頃より前の時代については、紀年延長を強く感じるものである。だから、中国及び朝鮮半島の国家的な事業だとは言え、その年代観・国家観に無批判で従うのは、問題が大きい。

 以上に見てきたように、古朝鮮について初期段階の系譜や年代等には疑問が多くあって、檀君朝鮮そのものの存在は直ちに認められない。ただ、そうだとしても、これら朝鮮関係諸王家に遠祖を同じくする伝承があったことは認められよう(このことは、檀君朝鮮がほかの何者かに重複する可能性を示唆する)。朝鮮半島には古い時代の文献が現存しないという事情を考えるとき、『三国遺事』が最初の檀君関係文献だったとも断定しがたい。檀君神話には、熊信仰とシャマニズムの入信儀礼と聖林降臨信仰等との結合が基本的な要素となっており(『朝鮮を知る辞典』での井上秀雄氏の記述)、こうした要素に注目される。また、檀君神話が朝鮮民族の統合シンボル・プライドや精神エネルギーの源泉となってきた事実も、同様に看過しがたい。
 檀君の天降り伝承についても触れておくと、北方アジア系の騎馬民族においては、天から高山・神山に神や始祖が降りてくることはごく普通のことであった。建国者たる支配氏族が天神の子孫という観念も広く見られる。実際には水平的地理移動であっても、両者が合わさって「天孫降臨」という垂直型の伝承になったと考えられる。建国者の渡来を表現するときに、天からの降臨の形をとるのは、朝鮮南部の駕洛国の場合でも、突厥の場合でも同じである、と江上氏はいわれる。これはもっともな指摘であり、「天降り伝承」があるからといって、檀君の史実性が直ちに否定されるわけではない。これは、わが国の「天孫降臨」伝承についても同様に言えることであり、こんな素朴すぎる単純な否定思考はもう止めにする必要がある。
 大林太良氏は、天孫降臨神話の本質的な部分はアルタイ系の遊牧民文化と関係があるとみる。すなわち、「天神が、その子や孫を地上の統治者として山上に天降らせるというモチーフは、古代朝鮮諸国の開国神話や蒙古のゲゼル・ボグドゥ神話と関係し、そのほか、天浮橋、五伴緒、真床追衾、クシフルとかソホリのような降下地の名なども、みな、朝鮮半島から内陸アジアにかけてあとを辿ることのできるものばかりである」と指摘する。壇君の天降りと「朝鮮」の名は、わが国の天孫降臨と天孫たちが居た「日向」の地に通じるという李丙Z氏の指摘もある。

 
 箕子の国

 檀君朝鮮に続くという伝承をもつ「箕子朝鮮」について、具体的に考えてみよう。
 箕子朝鮮の初期ないし中期頃以降の領域は、中国の旧・熱河省(遼寧省西部、河北省東北部、内蒙古東部にかかる一帯)にあって、その都域は当初は、考古遺物等からみて遼寧省朝陽県の辺りと推される。「朝陽」はもと営州といい、清朝の乾隆年間に改名されたと見えるが、その名はアサダル・朝鮮の意に通じるものか。のちに、その東南方の遼河中・下流域に王都が移り(都城の王儉城の所在地について、遼寧省の遼河河口の営口付近とか遼陽とかの説がある)、この国を乗っ取って、中国の燕からの亡命者・衛満が衛氏朝鮮を建てた。熱河地方には鉄鉱の産出が豊かであったことも留意される。
 後世にこの熱河地域を領した「契丹」の名が「賓鉄」の意だとされるが、『元一統志』には、河及び大凌河(朝陽を流れる河)の流域の州県には鉄治のあるものが少なくないと記される。わが国天孫族諸氏や新羅の脱解王には、鍛冶部族の出であったという所伝や職掌があり、わが国に出土する多鈕細文鏡は大陸の遼寧省・朝鮮半島系の鏡である。

 箕子の子孫という朝鮮王準の一族後裔は、韓氏を名乗ったという所伝がある(『三国志』所引の『魏略』)。その後裔は韓氏のほか百済の答本氏ともなり、日本に渡来して『姓氏録』右京諸蕃に見える広海連や麻田連となった。古代の楽浪郡では韓氏は王氏に次ぐ有力者であり、後に忠清道清州を本貫とした清州韓氏の族譜では遠祖を箕子としており、中国の黄帝を始祖として殷の王系を経て、箕子以来の歴代王名も伝える。しかし、これら王名で箕否より前の箕子までの清州韓氏の系譜はまったく後世の偽造であって、箕子以降の系譜については鈴木真年が採録して『朝鮮歴代系図』に記載した系図のほうが妥当である。
 『詩経』『山海経』等の記事からは、韓侯の国が燕の北東辺境部にあったとみられる(田中勝也著『環東シナ海の神話学』も同じ)。この韓侯が箕侯、朝鮮侯(箕子朝鮮)に当たるものと考えられる。韓侯の国が同じく檀君朝鮮にも当たるというのなら、この意味で檀君朝鮮の存在は十分ありうる。檀君朝鮮が「平壌」を都としたとして、この都が現在の平壌とする見方以外では、地域的にも箕子朝鮮とは重なりあうとみられるし、それがまた、匈奴の冒頓単于により衰滅されたという東胡の国も含むのかもしれない。それより先、前三世紀前半に燕の将軍秦開によって討伐された対象について、『史記』匈奴伝では東胡と記されるが、『三国志』韓伝では箕子の後裔たる朝鮮侯の子孫と記される。箕子朝鮮のすぐ北には東胡(これも朝鮮と同系統の民族か)が在り、それが朝鮮に服属していたことも考えられる。田村晃一氏は、前掲した遼西中心の遼寧式銅剣の荷担者については、「東胡・東夷説」が最も妥当ではないかとみている。

 箕子朝鮮の王は四十数世といわれ、王は中国史料に見える否・準親子ばかりではなかった。少なくとも彼らより先代からの存在は十分考えられるが、その具体的な歴代は、前掲『朝鮮歴代系図』に二十九世代にわたって(鈴木真年翁によると、王の代数としては四十一世で八百四十余年とされる)、傍系の王ともども見えており、簡単には否定はできない。殷王朝の諸帝王については、少なくとも第二十二代(『史記』の数え方による)武丁以降は甲骨文に見える祭祀から存在がほぼ認められており、最近では殷王朝初代の成湯より遡る上甲微から後はほぼ認めてよい状況である(落合淳思『甲骨文字に歴史をよむ』等)。殷の最後第三十代の王・紂(帝辛)は甲骨文に見えていないが、殷周革命などを事実としてこの者の存在も同様に認められれば、その同族ないし関係者で『史記』宋微子世家に見える太師(三公)の箕子も実在したとみるのが自然である。

 箕子については、「諸父」と記述され、これを殷の王族(「紂王の父」の兄弟とか従兄弟)とみる説や所伝もあるが、真年翁のいうように、紂の外戚で殷と同祖同族の関係にあったとするのが妥当なようである。真年前掲書によると、箕氏は帝舜の庶子・商均より出て、遂という者が成湯(殷の初代王)のとき箕伯に封ぜられて、その子孫が箕子胥餘とされる。殷は、帝舜の子で司徒となり商(河南省東部の商丘県付近。この辺りにも稷という地名がある)に封ぜられた契(セツ。商均と同人か)を祖として子姓とされ、一方、箕氏は舜の生まれたという地名・姚虚(河南省東北部の濮県の南という)に因む姚姓とされるが、いずれにせよ、殷王の同族とみられる。箕子の活動年代については、先に殷周革命の時点に関して記述したように、前九世紀代が実際の活動時期ではなかったかと私はみている。
 箕子の先祖の箕伯が封ぜられていたという箕の地については、『左氏伝』(僖公三十三年、前六二七年)の記事に有名な箕の戦いがあり、「狄、晋を伐ち箕に及び、晋侯、狄を箕に敗る」とある。このとき、冀に在った冀缺(郤缺)が活躍して白狄子を獲たと記される。晋の文公〜霊公のときに軍の将・大夫として箕鄭がいたことも見え、晋では有力者であった。箕は当時の晋都、絳から二百数十里(当時の一里は約〇・四KM)の地だといい、『姓氏詞典』によると箕氏の郡望(原籍地)は山西省太原とされており、中国社会科学院後援で譚其驤主編の『簡明中国歴史地図帳』では、太原の南方近隣(太谷・陽邑辺りか)に箕の地名を記している。太谷辺りを箕とする説も見える。
 山西という場合に、「箕」と同音(ji)で四声が異なる「冀」の地、山西省西南部の河津市の一帯も興味深い。この地は、太原を流れる汾河の下流で、それが黄河と合流する地の三角州にあり、近隣に稷山・通化・解店・太陽村という地名が見えるからである。晋には姫姓解氏もあり、晋の初祖・唐叔虞の 子の良が解(解池の付近)を采邑としたことに因むが、前掲の箕鄭とほぼ同時期の人で、少し遅れて『左氏伝』に登場する解揚という者もいる。
 河津県の黄河対岸にあたる西側は陝西省韓城県であるが、この地は往時、韓原といい、姫姓の晋の公族(桓叔の子の武子万の後)から出たという戦国七雄の一、韓の王室の故地であった。これらの事情から推すると、箕子の故地ないし関係地は河津・韓城の辺りではなかったろうか。箕伯とは風伯・風の神の意味とされるから、箕氏は鍛冶氏族であったものか。これに関して、檀君が太白山に天降りしたとき風伯・雨師・雲師等を伴ったという檀君神話も想起される。「箕」は周王室の姫姓の姫と同音(ji)かつ同声であるが、冀氏も晋公族郤氏の支流や唐堯の後に見え、後者の郡望は渤海(河北省滄県)とされる。
 前掲の韓城県辺りには、戦国時代の韓に先立ち、周と同姓の封国として韓という古国があった。『竹書紀年』には、周の第十三代平王のとき(現在の時代比定では前771〜前720に在位。幽王の子)、晋が韓を滅ぼすと見える。これより先、周第十一代で中興の王とされる宣王(同、前827〜前782)は、「一族の韓王に追(たい)・貊の占領を命じ、韓王はこれを遂行して徳政を施した」と『孟子』告子篇に見える。『墨子』兼愛篇には、禹が天下を治めるや、黄河の険所・竜門(韓原のすぐ北に位置)を改修して燕、代、胡、貊の民を利したと見え、韓王の貊族への支配が宣王の時に始まったことが伝えられる。『元和姓纂』には、周の宣王は韓侯に錫命して(侯に任じて)、子孫は韓侯氏となった、とも記すので、韓としての封国は周宣王の時代とみられる。渡辺光敏氏によると、「この支配者となった韓侯は周に亡ぼされた殷の箕氏であったので改修(治水)の功があったが重く用いられなかった。箕氏韓王が東へ勢力を拡大し移動すると貊族はこれに従い集まった」ということになる。
 『詩経』韓奕篇にも、韓侯についての興味深い記述がある。すなわち、「先祖、命を受け、百蛮に因りしをもって、王は韓侯に錫(たま)う、その追と貊。北国に奄受して伯たらしむ」という部分である。「百()、貊」は貊族のことであり、「追」も同様な夷狄とみられる。韓の地の説明として最初にあげられる「梁山」は、禹が治水をした地であるから、陝西の韓原西北の梁山にちがいなく、この辺りが韓侯の起源・出身の地とされよう。一方、韓侯は、受封した韓城を燕の衆人が築き、追と貊が居住した北国を治め、領域には鹿・熊・羆・虎などがいて、川沢も大きいというのだから、こちらは、燕に接して中国東北地方まで勢力下においた韓のことと思われる。しかも、周の宣王のときの韓侯より前の先祖から、燕の近辺に居たことが推される。『詩経』のいう韓侯の地は遼西方面と考えられるが、燕の都であった河北省薊県(北京市の東方)の近く、唐山市の西近隣にも韓城の地名もあるので、この韓城から少し東北方の遼西に遷ったのかもしれない。
 『春秋左氏伝』魯の僖公二十四年(前636)の記事には、「晋応韓は武の穆なり」と記されており、これに拠ると、韓は周の武王の子が封じられた国ということになる。『集伝』にも「韓は国名、侯は爵、武王の後なり」とあるので、一般に周の一族とみられる。こちらの韓は武王の子の子孫、晋公室と同族であって(ただ、始祖をはじめ、系譜は不明)、後のほうの韓の可能性もあろう。戦国時代の韓は、前八世紀後葉頃に初祖が晋公室から分れたものの、国としての成立は前五世紀の後葉とかなり後のことであり、以上のように、「韓」という名の国が時代と地域でいくつか存在したことに留意したい

後のほうの韓氏・韓宣子の一族とみられるものに、箕襄という者が『左氏伝』に見えており(昭公五年条)、同書には晋の重臣で公室一族の欒懐子の一味にも 箕遺が見える(襄公二十一年条)。さらに、『国語』晋語四には、文公の新政のなかで、「胥、籍、狐、箕、欒、郤、柏、先、羊舌、董、韓の諸氏は実に近官 (宮中の官か)を掌り、晋と同姓たる諸姫姓の賢良は中官(朝廷の官か)を掌り、異姓の賢能は遠官(地方の官)を掌った」と記される。ここにあげられる箕以 外の諸氏は王の近臣であって殆どみな姫姓とみられるので、箕氏もまた晋の公室一族関係者だと推される。以上のことから、韓氏と箕氏との密接な関係が推され る。
 
 韓奕篇に詠われる韓とは、はじめの韓のほうとされよう。この韓侯が箕子の後裔たる箕侯の跡をなんらかの形で承けたか、同族だったか、という可能性が考えられる。すなわち、遼西の同じ地域をほぼ同じ一族系統が支配していて、国(侯国)の名のほうが「箕侯→韓侯→朝鮮侯()」と変化したものではないかと推される。
 周王が侯王たちに与えた青銅器が山東省寿光県(の約三十キロ東方)で出土した。それによると、「周貊、貉子、白貉」((き)」は穀物を盛る祭器、「(よう)」は酒壺)と見え、白、貊、貉の族名の器を周初期の第二代康王、第三代昭王が作ったとある。
 山東省は中国大陸でも最も東に位置し東海(東シナ海)に面していることもあって、「暘谷・朝陽」とされる地も元はこの地域にあったとみられる。『尚書』(堯典)には、「嵎夷に宅して暘谷という」と見え、「嵎夷」は山東半島にあった東夷を指したとみられる。漢代の侯国名の朝陽も、今の山東省竜邱県東北にあったと李丙Z氏がいう。竜邱県が竜崗にあたるのなら、その東北約三十キロに上記の寿光県があるから、青銅器の話と符合する。

  (続く)  
        


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