(「扶桑」概念の伝播 2)



 中国史料に見える朝鮮

 扶余の祖先も遼西に深い関係がある。『三国遺事』には、北扶余の祖・解慕漱は天帝が「訖升骨城」に降りてきて自ら名乗ったものだと記し、訖升骨城を大遼医州の地にあると割註する。「大遼医州」が現在の遼寧省西部の医巫閭山の一帯とすれば、これも遼河下流部の西方にあり、高句麗の地がもと孤竹国だというのと符合する。医巫閭山は、遼寧省北鎮県の西北(朝陽から見れば東方)にある遼西でも珍しい高山(最高地の望海山が標高867M)であって、奇岩を天空高く聳えさせている山であり、戦国期の燕が山神を祀ったと『周礼』に見える。その山容は、中国の中原で洛陽近隣にある嵩山(中国の聖山五嶽のなかでも中央の中嶽とされ、奇異な峻峰をもつ)に似通うが、嵩山を殷や羌族などが尊崇した。
※孤竹国: 旧唐書の「「矩伝」には、その奏言に、「高麗(高句麗)の地はもと孤竹国であったが、周が箕子を封じて朝鮮とし、漢代には三郡に分けた、……蠻貊の郷と なすべきや」と見える。この文意はやや微妙で、孤竹の領域が広大であったと想定されるし、箕子の封地が当初から孤竹の地であったかについても疑問がある。ともあ れ、孤竹と高句麗との所縁は思わせる。
殷周革命のとき、周の武王が殷の紂王を討つのを諫めた伯夷・叔斉は、『史記』には孤竹の君の子であるとする。孤竹の君は東夷系統で子姓(殷と同族)の墨胎氏とされ(一に姜姓ともいう)、炎帝神農氏の後といわれる。「伯夷」は羌人の岳神だとも白川静氏は指摘する。
孤竹の故址は、現在の河北省東部の盧竜・昌黎一帯(『姓氏詞典』等)とか唐山市一帯とかされ、この辺りから遼寧省西部の凌源・朝陽にかけての地域(『漢書』 地理志には孤竹城は遼西令支県に在と見える)ともいわれる。渤海湾に面した唐山の辺りでは、古くから鉄鉱石精錬、石炭採掘、陶磁器生産の中心地であった。 これが、明代より前は何時まで遡るか不明だが、興味深い点である。 

 殷王朝の卜辞には岳神の祭祀があり、主として祈雨・祈年に関するが、天神を帝として祀る祭儀も行われた。この岳については、殷都からの地理、 『詩経』の大雅「ッ高」の「これ嶽、神を降し甫と申とを生めり」という語句などから、「その岳が嵩岳であることは、疑う余地のないこと」とされ、「殷は河 と岳とを合わせて祭り、岳祠や岳宗を設けた」と白川静博士は述べる(『中国の神話』)。
 金思Y氏の『三国遺事』の解説では、桓雄(檀君の父)と解慕漱とは同一の音であり、その事績伝承も類似すると記される。解慕漱の子・東明が高句麗の祖・朱蒙と同人とするという所伝もあって(東明は扶余の祖とされるが、所伝などで朱蒙と混同される)、これも同書に見える。檀君の子には夫婁(火・光明の義)が見えるが、解慕漱の子にも夫婁という名が見えるといい、この点でも両者を同人とみる説もある。

 ここまでの検討からいうと、「檀君朝鮮=箕子朝鮮」であり、前九世紀頃(あるいは、もう少し後の時代か)〜前二世紀前葉の時期に遼西地方に在ったが、その王家(ないし支配階層氏族)からどこかの時点で分れたのが、夫余・高句麗や南朝鮮の古王家の祖先だったのではなかろうか(こうした見方なら、夫余がさらに北方の満州地域から南下してきたとはいえない)。それら諸国の系統をひくものにおいて、「朝鮮・辰・晨・震」という同義とみられる国名を次々に名乗った事情も、そこにあったと推される。わが国の天皇家がこうした流れの一つであったのなら、韓地にあった「辰王」との関係もそこに認められよう。箕子朝鮮に先立つ孤竹の国には、それが東夷で同じ種族系統であったにしても、殷代の孤竹の時代に「朝鮮」の語句があったようには思われない。
 史料に見る朝鮮の初出は、『史記』の前334年の記事とされる。「蘇秦列伝」によると、蘇秦が燕の文侯に対して言ったなかに、燕国の境域が取り上げられ、「燕は東に朝鮮・遼東があり、北に林胡・楼煩があり、西に雲中・九原あり、……」とある。この時点で、河北省北部の燕に接して、北に林胡・楼煩(ともに戎という)が居住し、東には遼東とは異なる朝鮮という地域があったと解されるから、この場合の朝鮮の具体的な領域は遼西方面だとみられる。同書では、前七世紀中葉の秦の襄公のとき、燕の北には東胡・山戎があると記される。
 太史公(司馬遷)の燕召公世家に関しての言辞では、燕は、蛮貉と境を接し、強国に挟まれて不安定で弱小であったが、周と同姓の姫姓国家のなかで最後に滅びたのは、召公周王朝創業の功臣) の余光がしからしめたものではないか、と記される。ここでの「貉」は貊族の意とみられるから、司馬遷は、燕の北隣に位置した朝鮮を貊族の国家とみていた か、燕の属国とみていたかであろう。前二世紀前葉の匈奴冒頓単于のときには、「匈奴の東方では貉・朝鮮と接する」と同書に記されるから、このときには 貊と朝鮮とは既に区分されていた。

 これら『史記』の記事より早い時期について、『管子』(巻第二十三軽重甲第八十)に朝鮮が見える。それは、前七世紀中葉頃の斉の桓公とその臣・管仲との応答のなかの記事である。管仲の献策を得て、桓公は北方の孤竹・支(離枝) を攻略したとあり、また、四夷が斉に服属せしめるための施策を管仲が述べたなかに、「発や朝鮮が来朝しない場合には、虎豹の皮の衣服をもって贈答しなさ い」という言がある。
 この朝鮮等は呉・越と同じく斉から八千里離れた地とあり、遼西以北にあったとして特に問題がない。同書では、別に巻第八小匡に、桓公 は「中のかた晋侯を救い狄王を擒とし胡貉を敗り、……北のかた山戎を伐ち、支を伐ち孤竹を斬り、而して九夷始めて聴き、海浜の諸侯、来り服せざるものな し」「余、乗車の会三たび、兵車の会六たび、諸侯を九合して天下を一匡し、北は孤竹・山戎・貉・泰夏に至り、……、寡人(桓公)の命に違うものなし」とも記され、朝鮮という名はあげられない。従って、軽重甲の記事では、孤竹と朝鮮とが同居しているが、朝鮮は時代の異なる(追記的な)表現だったのかもしれず、ほぼ同じ地域だったのではなかろうか。「発」については、貊と同じとみる説があり(三上次男氏)、これも妥当であろう。発は、『史記』五帝本紀の帝舜の功徳の記事に「山戎・発・息慎」と見える。
 李丙Z著『韓国古代史』では、箕子東来説を始祖仮飾だとして否定し、箕子朝鮮とは、箕子とかかわりない韓国の土着社会であり、阿斯達社会(従来の「檀君朝鮮」)から発達したものと信じると記述される。阿斯達社会の旧支配氏族が新支配氏族(中国式の創氏による韓氏)によって取って代わられ、新体制を整えられたものにすぎないとの見解である。しかし、箕子の存在は『史記』宋微子世家や『漢書』地理志燕条、『後漢書』東夷伝等に見えており、簡単に否定できるものではない。

 考古学的にも、旧・熱河省のうち遼寧省西部の凌源のすぐ南東に位置する喀沁(カラチン)左翼自治県(喀左県)から興味深い出土物がある。この地は、孤竹の地域に含まれるが、殷代後期から西周前期にかけての青銅器がたびたび出土していて、そのなかには燕に服属する侯の一族のものもあった。武田幸男編『朝鮮史』では、「族は前一二世紀頃から姿を現し、山東の県付近()に根拠地をもち、遼寧の大凌河流域()を中心に殷周金属文化圏の東端に位置して燕、さらには殷・周に服していた。……箕子朝鮮の伝説にはこの族、つまり箕族の史的動向が反映され、のちに楽浪郡などの漢人らによって形が整えられたのであろう」と記される。
 は「キ」で、箕と同じとみられるので、箕子族裔の侯国が遼西にあったことは間違いない。「県」は山東省の中央南部(山東半島の付け根辺りで、上記の寿光県の一五〇キロ南方)にあり、大凌河はカラチン・朝陽辺りを流れ渤海にそそぐ河である。ただ、「前十二世紀頃」という時期は、殷周革命の時期についての『史記』等の記述を基にしたものであろうが、この見方には年代遡りすぎの傾向がある。侯に限らず、燕のもととなる侯も、もと山東省の後の魯一帯に居たとされ、西周の封建が一時期に完了したのではなく、その東進につれて行われたと指摘される(貝塚茂樹・伊藤道治著『古代中国』)。この「侯」という銘文のある西周前期の青銅器が、遼寧省朝陽に近い凌源県や北京に近い河北省易県から出土している。

 前掲、
李丙Z氏の見解に関しては、「箕氏=箕子の後裔で、その一族に韓氏」とか「箕侯=韓侯=箕子朝鮮」である場合には、朝鮮族の土着社会とはいえないし、遼西の古朝鮮には中国山東の影響がかなり強かったとみられるが、その見解は「檀君朝鮮=箕子朝鮮」に通じるところもある。
 『山海経』海内北経には、「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕」という一節があり、倭に関する最古の記録とされる。「鉅燕」とは「巨燕」のことであり、その「南」の蓋国の南に倭があると記される。蓋国は、後の高句麗領にあった蓋馬などの諸説(蓋馬高原説、江原道の穢説、馬韓説)もいわれるが、疑問がある。それよりは、遼西辺りまで燕の領域であれば、その南東方面の遼東の「蓋平」(遼河河口付近の地名で、漢代の遼東郡文県)か、遼東半島の蓋県(現蓋州市)一帯を中心とした国と解するほうがよい。前者の場合には、箕侯国(箕子朝鮮)と重なることにもなろう。真年翁の前掲系図には、蓋氏が檀君から出たことが記載されるが(高句麗王統もこの同族か)、「蓋国=箕侯国」であるのなら、ここでも「檀君朝鮮=箕子朝鮮」となる。
 そして、その遥か南方の海上に倭があったという解釈のようがよさそうである。倭は燕の属領であったということの真否はともあれ、『山海経』の中でも倭が取り上げられていることに注目される。

 
 渤海国とその国名の由来

 西暦668年に高句麗が滅びた三十年ほど後(現在、698年建国説が多いか)、その故地に渤海国が成立する。初代国王の高王となった大祚栄は、『唐書』渤海伝によると乞乞仲象の子といわれる(ほかに、池内宏博士の同人説などもある)。仲象は、遼河の西の営州(現・遼寧省西部の朝陽)におかれた高句麗遺民らとともに叛乱を起こし、太白山の北の地を保ったので、唐から帰順して震国公となるよう説得されたが、これを拒んだ。その死後、子の祚栄は一族・遺民を従えて東へ移動して高句麗の復興をはかり、現・吉林省延辺朝鮮族自治州の敦化市東牟山の地に来て建国して、「震国」と名乗った。その在位期間は698年〜718年とされる。
 その後に、大祚栄が唐の玄宗から承認され渤海郡王という爵号を受けると、国号を渤海と改称した。渤海の貴族には、高句麗王族の高氏や烏氏・解氏なども見える。大祚栄の嫡子(のち第二代国王)の大武芸は、このとき桂婁郡王と冊封されたが、「桂婁」は高句麗五部のうち王家の属する部であり、『百済扶余隆墓誌』の記述では、高句麗の別称として桂婁を用いる。大武芸のわが国への国書には、「高麗の旧居に復し、扶餘の遺俗を有てり」と記される(『続日本紀』神亀五年正月条)。渤海には、王家大氏の系統を「天孫」の聖主とみる王者観があり、天皇への表文にはこれが記されていた(濱田耕策著『渤海国興亡史』2000年刊)。この王家の姓「大」については、同音の「韓」に通じるとみる見解もある。殷の甲骨文においては、「天」の字は「大」の意味に用いられていたという平勢隆郎氏の指摘もある(中央公論社『世界の歴史2 中華文明の誕生』)。
 「震国」について、金両基氏は「震は東方を意味するらしい」というが、おそらく単なる東方ではなく、日の登る東のことで、この震国は辰国に通じ、同音・同意の晨(あした・朝、とき)に通じよう。すなわち、「晨」とは朝鮮の同義であったとみられる。崔南善氏は、震域(朝鮮)と表現している。もともと古朝鮮(箕子朝鮮・衛氏朝鮮)の領域は、中国の東方、遼河の中・下流域ないし遼西にあり、渤海湾に臨んでいた。また、新羅末期の混乱期に起って朝鮮北部を勢力下においた弓裔は、その国号を後高句麗、次に摩震、さらにこれを改め泰封といったことにも留意される。
 こうした事情から見て、渤海国は古朝鮮及び高句麗の後継国家たる認識が強かったことが十分に窺われる。「大氏=韓氏」であれば、檀君の流れで高句麗の後裔を称する渤海王家は、箕子の後裔の称する姓氏に通じる大氏を姓氏として名乗ったことになる。そうすると、ここでも、「檀君朝鮮=箕子朝鮮」という意識が見られる。

 
 解姓と祁姓の意味 

 これまで見てきた姓氏の「解」とは太陽・日を意味しており、金思Y氏も、「解」の古音は「日」の訓であると註解する(『完訳三国遺事』の説明)。その解氏が扶余・高句麗・百済の王族ないし有力貴族に見られることにも触れてきた。
 もう少し例をあげると、百済重臣の解氏は百済王族の一派とみられており(武田幸男編『朝鮮史』)、これは高句麗王家の初期の姓にも通じる。上記『朝鮮歴代系図』には、高句麗王族として中部の木、前部の解などをあげるが、百済の重臣に解氏・氏がいたことも著名である。とくに解氏は、百済の大姓八族の一つで、最高貴族たる佐平などの重職に就いた者を輩出しており、百済初代とされる温祚王の重臣たる右輔には、元来扶余の人であった解婁の名が早くも現れる(『三国史記』温祚王41年条)。
 前掲の『物語韓国史』でも、「卒本扶餘(註;現・遼寧省東端部の桓仁地方)に至るや、朱蒙はそれまでの解という姓を高に変え、国の名を高句麗と定めた。解()は太陽()と同音であり、太陽は高いところにあるから、高は太陽族の姓にふさわしいと朱蒙は思った」と金両基氏は記している。 

 扶余や高句麗の王家が「解」という姓をもっていたことに加え、南沃沮の有力者も同じ姓をもっていたことが、『三国史記』百済本紀の温祚王43年の記事から知られる。それに拠ると、南沃沮の仇頗解ら二十余氏が投降してきたので百済王が受け入れたと記される。上古の朝鮮の人名が「名+姓」という形での表記をしていたことは、わが国の『新撰姓氏録』記載の表記「高麗国須牟祁王」(未定雑姓河内の狛染部条) などの例から知られる。「須牟」とは朱蒙のことであり、「祁」は音の近い「解」に同じことが分かる。従って、南沃沮でも「解」を姓にもつ有力者がいたこと が知られ、これら解姓はみな同族と考えられる。そうすると、百済王家が扶余を姓としたことと併せて、扶余等と同じく貊族系の王侯の出であったという所伝 は信頼されるのではなかろうか。

 ところで、「祁」という漢字は、中央アジアの天山山脈が匈奴の語で「祁連」と呼ばれるように「天」に通じ、また、「盛大なるさま」をも表すから(愛知大学編『中日大辞典』)、「韓、大」にも通じることになる。最初にあげた扶桑国の王の名「乙祁」にも関連するとしたら、「乙祁」はたんに「ヲケ皇子」ばかりではなく、もつ意味が大きいといえよう。
 これに関し、『隋書』倭国伝には、倭王の姓が「阿毎」、字が「多利思比孤」、号が「阿輩弥」だという記事がある。石原道博氏は、「阿毎」に註して「アメ天か」と記すが(『訳註中国正史日本伝』)、同義の「あま」と解する立場もあり、こうした理解は多いように思われる。この記事に続けて、「倭王は天を兄とし、日(太陽)を弟とする」という記事が見えるから、この理解で妥当であろう。石原氏は、「阿輩弥」についても、「オホキミ大君、アメキミ天君か」と記しており、『通典』には「華語天児也」(中国語でいえば、「天帝の子」)と記されるから、これらの解釈がすべて通じ合うことになる。
 そうすると、わが国の天皇家は姓氏がないとされ、皇族から分かれて未だ姓氏を賜わざる間は俗に「王氏」(王族という意味で、姓氏とはいえないが)と記されるものの、潜在的(本来的)には『隋書』にいうように「天氏=祁氏=解氏」という姓を持っていたことが分かる。これは、天皇家の系譜や故地・出自を具体的に示唆するものといえよう。
 
 
 三 扶桑樹と太白山と殷族の流れ
 
 暘谷と太白山の地名移遷

 この辺で一応のとりまとめをしておく。
 以上に見てきたように、「扶桑」を通じて、これが朝鮮神話に見える「神檀樹」につながり、これらに関して、わが国の担い手たる天孫族の系譜が朝鮮神話の檀君や殷の箕子につながり、その起源が「韓地→遼西→(山東、河南)→ 山西辺り」まで遡ることも分かってきた。こうした部族移遷や中国中原における世界地理観拡大の過程を通じて、「暘谷」の地も時代が下るにつれて、さらなる東方に向けて次第に変遷していき、遼西から朝鮮半島の平壌辺りへ、次いで、東海上の倭地(日本列島)に渡って北九州、さらには近畿地方へと変遷してきたとみられる。

 日本列島の北九州にまで来たところで、「暘谷」よりも「扶桑」という比重が大きくなったものであろう。平壌辺りについては高句麗の首都移転の影響があったとみられ、天孫族の北九州渡来とともに筑紫地方へ、さらには神武東征とその百数十年後の崇神による大和朝廷確立とともに、近畿地方へと「扶桑」が転移したという構図である。
 こうした移遷過程のなかで、天からの降臨伝承とともに祭祀・崇拝する高山の名前(嵩山〔岳山、嶽山、御嶽山〕、天山〔祁山、基山〕、白山〔太白山、白頭山、白岳山〕など)を移遷先にも伴ってきたことに注目される。
 太白山については、朝鮮半島北部の白頭山が聖山として名高く、頂上には「天池(ティエンチ)」と呼ばれるカルデラ湖がある。この高山は東扶余や高句麗、沃沮の地に近く、高句麗が首都を平壌へ移転するとともに、平壌の東北方にある妙香山標高1391M)が太白山にあたる取扱いになった。妙香山は、山容が妙をきわめ秀麗な山々に香気が漂うということでその名があるといわれ、一名を太白山といい、『三国遺事』の註には桓雄天王が降臨した太白山は妙香山とされる(李丙Z『韓国古代史』)。

 朝鮮半島中部では、江原道と慶尚北道の境に霊山といわれる太白山がある。『三国史記』には「新羅に聳える太白山を三山五岳中の一つである北岳として祭祀を捧げた」という記録があるから、これは新羅による太白山である。
 半島南部では、伽耶の安羅(慶尚南道の咸安)付近の智異(チリ)急峻な山容をもつ山岳信仰の聖地で、白頭山に発し太白山脈から小白山脈へと続く気の流れがこの峰に昇るとされる)も、太白山に準ずるような位置づけである。伽耶でもとくに安羅・多羅あたりがわが国天孫族の原郷候補地とみられるが(拙著『神功皇后と天日矛の伝承』参照)、その日本列島渡来とともに肥前の天山、ついで、その東方の筑紫(筑前・筑後の境界)にある基山がその崇拝対象となった。
 「基山」は祁山すなわち天山でもあり、天孫族の始祖・五十猛神が日本で初めて樹木を植えた地だという伝承が残る。その頂にあった荒穂神社は式内名神大社であり、五十猛神を主神とし、八幡大神や鴨大神(日精の三足烏のことか)などを祀る。基山の東側(福岡県筑紫野市原田)には、同じく五十猛神を祀る筑紫神社がある。この神社は「筑紫」の国号になったといわれる古社である(風土記逸文)。
 基山から南ないし東の方面に広がる筑後川中流地域に、天孫族により建てられた原始部族国家が高天原すなわち邪馬台国の前身である。神代紀の天照大神の天岩屋籠りの段(上述の「招日神話」)に見える高天原の「天香山」の真坂樹とは、基山の榊(賢木)のことであろう。『古事記』にも天岩屋の段に、天児屋根命が天香山で捕った鹿の肩胛骨を同山のハハカ(朱桜)の木の皮で灼いて吉凶を占ったことが記される。こうした太占は、『魏志倭人伝』にも見えるが、甲骨卜占で名高い殷王朝や北方アジアの風習につながる。

 高天原王統の一支族から出て筑前・怡土地方に居た神武が、「日向(筑前海岸部の意味)」から東方の大和に遷ったことで、大和南部にも天香山の名称が生じた。この天香山の埴土は、「倭の物実(ものしろ)」(倭の国土の代表の意味)とされた(神武紀、崇神紀)。「三足烏」が道案内する神武進軍伝承は、この烏の実体が天孫族の鴨氏族の祖(鴨健角身命)だということで、考えてみる必要がある。
 三足烏は熊野本宮にも神の鳥として祀られるが、紀伊南部の熊野三宮の主な奉斎氏族が物部氏族(熊野国造、穂積臣など)であって、鴨氏族とは天孫族での広義の同族であっても、鴨氏族との系譜関係が直接にはうかがわれないから、また別の三足烏とみられる。そうすると、中国では射殺され打ち落とされたはずの九羽の三足烏は、日本ではまだ健在であったことになる。扶桑の王の「乙祁」もこれを示唆する。日本列島に「招日神話」があっても、「射日神話」がないのは、こうした事情を反映するものか。

 
 殷族の系譜

 中国の射日神話は、その時代が五帝の一、帝堯の時代だとも夏王朝の前期頃ともいうが、おそらく、時代がずーっと下がり、その意味するものは、十個の太陽(王族、部族)をもつ殷王朝を、同じ東夷系(ないし西戎系)で弓射にもすぐれた周(ともに帝舜〔俊〕を遠祖と伝える)が滅ぼしたことが隠喩にあるのではなかろうか。
 王朝の権威の象徴である暦の策定では、殷人は、十個の太陽という十日神話から、十日を一旬として暦法上の単位とし、月相が一巡(約29.5日)する三十日を併用した(ちなみに、周王朝では、新月から満月までの約15日を単位とする朔望〔さくぼう〕の観念が中心)。 旬末には次の一旬の吉凶を卜する卜旬といわれる修祓を行ったが、これは卜辞の全期間を通じて、王朝の諸行事の基礎をなすものであった。日ごとに吉凶が問題 となるのは、十個の太陽が各々特定の性格をもつものであったからである、と白川静博士は述べる。そうすると、太陽に通じる初代王の成湯以降、殷王朝の全期 間を通じて十個の太陽があったわけであり、夷は殷族の対立者であったとも解しうるともされる。

 殷族の性格については、東夷の一種族とする見方が多く、さらに「古代の貉民族の一分派」(文崇一氏)、ツングース族(シロコゴノフ)とみられており、この辺はほぼ妥当であろう。殷と山東地方との強い結びつきという指摘もあり、殷には西方起源説もある。この辺を総合的に考えると、西方起源の東夷種族が嵩山を祭祀しつつ河南・山東あたりに落ち着いたというところか。それが、黄河中下流域の河南省を中心にして王都を幾度か変遷させたが(初代の天乙成湯の都は亳〔現在の河南省商丘市〕)、その滅亡後も、宋などの殷族の諸国が故地付近に作られ、先祖以来の祭祀を保った。箕侯の国も、もとは燕()とともに山東にあったが、武庚禄父(紂王〔帝辛〕の子とされる)の反乱鎮定を契機とするなどで、周王朝の封国が徐々に進み、斉や魯の進出などにより次第に河北・遼西方面に遷ったともいう。

 紂王の滅亡後と殷の祭祀を引き継いだ武や宋には、紂王の兄・微子啓を宋初代として第四代の公(宋公の子)にも十干の名前が見える。ところが、羌人の出という太公望呂尚(姜尚)を初代として、斉では次が丁公、乙公、癸公という名で君主が続くとされ、第四代まで十干の名前が見える。これは、春秋の他の国には見えない特徴であり、温和な牧羊人たる羌人を狩って祭儀の犠牲とした殷族自体が、もともと羌人の一派であった可能性を示唆する。あるいは、斉が、早くに殷族に従い、その習俗を承けいれた一派だったことを示唆するかも知れない。
 それならば、嵩山(嵩の岳神)の祭祀を殷族が羌人と同じくすることも理解できる。嵩山を源として南西に流れる穎河のほとりには箕山があり、「急就篇」には「殷水は川に在り、ここに居する者が殷氏をもって氏となす」と記される。この河南西部も殷族の起源ないし由縁の地であったものか。殷の祖神にあたる帝俊の子の「黒歯の国」は姜姓で四鳥を使い、帝俊の妻・娥皇の生むところの「三身の国」は姚姓で四鳥を使うと『山海経』に見えることとも符合する(姜姓は斉、姚姓は箕子)。

 殷族の一派は東北の渤海沿岸地域、遼西地方に遷って国(侯国)を作り、その地に殷の伝統を伝えた。これが朝鮮(箕子・檀君) の始まりにつながるものであろう。その同流とみられる貉民族の高句麗の始祖王・朱蒙は、弓の名手であり、その意が名前となったと伝える事情にもある。高句麗の遺裔により建国された渤海国が、初め朝鮮の意に通じる「震国」を名乗り、領域から遠く離れた渤海という地名に拘ったのも、たんに「渤海郡王」に大祚栄が任じられた経緯だけに因るものではないとみられる。
 殷族の河神祭祀や玄鳥説話(卵生説話)などの鳥トーテミズムは、朝鮮半島の諸王家の始祖神話に結びつくし、殷族の遠い故地が、黄河上流域山陵部の森林密集地帯(内蒙古のオルドス地方)にあったことを示唆する。『逸周書』の「王会編」の周王の儀礼に際して、羌は鸞鳳を献じるなど西方の諸夷がことごとく奇鳥を献じたことが見える。羌人は西戎系とみられているし、西戎と東夷とは相通じるものがある。西の積石山に居るという白帝少昊の金天氏こそ、殷や東夷の祖であった。
 「太白山」という名の山が中国の内陸部にもあることに注意しておきたい。山西省の西隣、陝西省の西南部にあって、主峰の抜仙台は海抜3767Mであって、秦嶺山脈の最高峰、中国大陸東部の第一峰である。同じ山脈の近くには、西方に太陽山(2370M)、東方に首陽山(2720M)という高山もある。山西省の西北部には天帝山2831M)という高山もあり、その北西の地域には、陝西省北東部に神木という地名も見える。こうした地名から見ると、黄河上流部とその支流・渭河の流域の山西・陝西両省あたりに天孫族の故地があった可能性さえも考えられる。
  先にこう書いたところ、最近、この楡林市神木県からシーマオ遺跡という夏王朝より年代を遡りそうな大遺跡が出て調査発掘が進み、さらにその北東約60キロの同じ楡林市府谷県からはシーマオ遺跡に関連深い大墓地をもつ寨山遺跡の報道が続けてなされており(2020年9月)、中国の遺跡発掘が進むにつれ、更に上古事情が明らかになるものと期待される。シーマオや寨山は、内蒙古自治区のオルドス市域にごく隣接する位置にあり、この地の朱開溝遺跡ともども、みな遺物などで関連する遺跡とみられている。なお、これらオルドス地方の関連地図や寨山遺跡については、「中国陝西省のシーマオ遺跡などの発掘」「寨山遺跡の発掘」をご参照。

  殷()の祖の(成湯の第十四代祖という)が封じられた地が陝西省商県という説があるが、この地は西安の南西、華山の南にあたる山間地であり、河南省との境界にも近いから、十分ありうる話であろう。

 
 扶桑樹の実体は何か

 最後に、扶桑樹の実体はなにか、という問題にも触れておく。僧慧深の言では、その地に扶桑が多いので国名となるとされるから、この巨樹が仮に現実のものだとしたら、わが国においては、イメージ的には「椹(サワラ)」が最も近いのかもしれない。サワラは針葉樹類のヒノキ科に属し、「桑の実の木」とも呼ばれ、日本特産の木で、木曽・飛騨・中部山岳地帯に多く産出し、樹高は三〇Mにも達する。

※扶桑樹:  源光行著『百詠和歌』の胡志昂氏による注釈(『埼玉学園大学紀要(人間学部篇)』第7号)では、『十洲記』に「扶桑は碧海の中に在り、上に天帝の宮有り、 東王の治むるところなり。椹樹有り、長きこと数千丈、二千囲あり、同根にして更に相依倚す、故に扶桑といふ。仙人その根を食はば、体紫色を作す。その樹は 大なりと雖も、椹は中夏の桑の如きなり、九千歳に一たび生り、実の味は甘く香し(原文は漢文)」と記されるという。
 
 やや蛇足気味に、冗談めかしていうと、高天原(邪馬台国)から天孫降臨して着いた北九州・筑前海岸の「日向」の地がサワラ・イト(早良・怡土)の両郡一帯にあたることにも、なんらかの関連がないのだろうか。普通には、早良は『和名抄』の訓注に見える「佐波良」であって、タタラに通じ(拙著『神功皇后天日矛の伝承』参照)、「サバ・サハで鉄+ラ(良、羅)で国・地域」であろう。
 この地域の海岸部で採れる砂鉄は良質であり、前原市(現・糸島市)から福岡市西区にかけての地域には多くの鉄滓が出て、往古に海岸砂鉄を鉄源として盛んに原始製鉄を行っていたことが推測される(窪田蔵郎『鉄の考古学』)のだから、これに因む地名とするのが自然であるのだが。この地域を押さえたのが、韓地から渡来の新技術をもつ鍛冶部族たる天孫族であり、これが天孫降臨の意味・目的でもあったものか。西区早良平野にある吉武高木遺跡からは、多鈕細文鏡が銅剣・銅戈の青銅器、勾玉などとともに出土しており、三種の神器組合せの原型ともみられている。近くには、吉武大石遺跡・吉武桶渡遺跡など弥生遺跡もあり、年代が弥生前期とも中期ともみられているが、おそらく弥生中期後半以降の年代をもつ遺跡なのであろう。

 ともあれ、サワラに限らず、スギ・ヒノキ(ともにわが国固有の樹で、巨樹となる)などの「ヒノキ科の針葉樹類の巨樹」の総称を「扶桑樹」とするのが、中国・朝鮮半島にも通じることになる。扶桑樹に対応して、太陽が降りる神樹「若木」も同様のヒノキ科の巨樹だとしたら、中国ではコウヨウザン・メタセコイア(イチイヒノキ)などの巨木となる樹があり、四川省の三星堆文明などでは柏樹信仰が知られるが、これにも通じる。中国の「柏樹」は日本のカシワではなく、やはりヒノキ科のさまざまな針葉樹の総称なのである。
 なお、新羅の朴氏王家に関連して言うと、中国語の「朴」は椋の木、すなわちムクノキ(椋木、樸樹)であり、ニレ科ムクノキ属の落葉高木である。成長が比較的早く、巨木になるが、おそらく巨木ということからの訛伝であろう。

 以上のように見てくると、「扶桑と暘谷」にまつわることは多様多岐であり、上古史において持つ意味があまりにも大きいと分かる。その一方、現存史料などの制約もあって背後にあるものを十分に探索しがたいが、一応の意味を把握したということで、とりあえずこの辺で本稿を終えておくこととしたい。
                           
  (08.9.12 掲上、9.16、9.17及び更に20.12.01などに追補)          本稿topへ



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