中国陝西省のシーマオ遺跡などの発掘
      
             宝賀 寿男


本稿は、もとは全国邪馬国連絡協議会の「邪馬台国新聞」第11号(2020年11月)に掲載されたものを基礎に、『姓氏と家系』第24号(2020年11月)に掲載の「令和二年の回顧と展望」などや、最近までの新華社等の情報などを踏まえて、追補したものです。


 昔から、中国についていわゆる「四千年の歴史」というが、黄河中流域の平野部のいわゆる「中原」が上古から長く歴史の主舞台とされてきた。そこに、北方や西方から匈奴などの異民族が武力で侵入・攻撃してきて次々に攻防を繰り返す、という展開になるのが普通なのだが、とんでもない西側の方面で上古の大遺跡が近年発掘され、それが現在、調査進行中だと伝える。わが国上古史の眼を海外の大陸方面に向ける必要性も感じるものである。

 
 1 シーマオ遺跡の概要紹介

 知人から連絡された内容が標題のシーマオ(石?)遺跡についてのことである。その主な内容では、中国の公式発表の引用などを踏まえた駒沢大学・角道亮介氏の論考「陝西省楡林市神木県石?遺跡の発見と若干の問題」(『駒澤大学文学部研究紀要』74号所収。2016年3月)であり、ネットで当該論考や関係諸情報を見ることができるという。
 これに対する私の当初の感触は、概ね次のようなものである。
 角道氏の論考などでは、従来は玉類が多く出る遺跡で知られていたが、1976年頃から遺跡の発掘が始まったとのことで、私は1976〜78年に北京の日本国大使館に勤務で居たが、その当時はなんの報道もなかったと記憶する。シーマオでは、ここ十数年くらいのうちに全面的な発掘調査が随分進んだようで、遺跡事情が明らかになってきた。陝西(せんせい)省考古研究院院長で、同遺跡発掘のリーダーを務めた孫周勇氏は、「シーマオは、今世紀最大の考古学的発見の一つだ」と話される。
 当該遺跡の地、「陝西省楡林市神木県」はいまは「陝西省楡林市神木市」(市の下の県クラスの市という行政区画)になっており、神木市域の南側で黄河上流部支流の禿尾河北岸の高家堡鎮にその遺跡がある(ムウス〔毛烏素〕砂漠の東南端部に位置)。陝西省の東北端部に位置しており、延安(毛沢東の大長征の最終地で、西安のほぼ北方の250キロほどの山間地)から東北へ約220キロ、内モンゴル自治区の都・フフホト市からは黄河を挟んで南西へ約270キロの地点に位置する。黄河上流部の大湾曲の南側(内側)の東部にあって(「河套地方」とも言う)、広い意味では同自治区のオルドス(鄂爾多斯)地方のはずれになる。

 ※陝西省とシーマオ遺跡の地図

  
   
 オルドス高原は、いまは殆どが砂漠かゴビ(石・黄土の不毛地帯)の模様だが、昔は大森林地帯であって、そこに殷族などを含めツングース族系の先祖が住み、森林に住む鳥類を主なトーテムにして、豊富な木材で鉄精錬をしていたといわれる。白川静氏の著『中国の神話』にも、その辺の事情が取り上げられる。そうしたことから、拙著古代氏族シリーズの『天皇氏族』では、同じ鳥トーテムをもつ天孫族(倭地では五十猛神に始まり、皇室・物部氏などの王権支配層をなした部族)の源流・故地をオルドス地方に考えて、最後のほうに触れている。
 シーマオ遺跡からは、遠隔地から運ばれたヒスイなど大量の玉類や、石製品・陶磁器・骨角器など数多くの豪華な工芸品が石棺墓・甕棺墓から出土し、敵対勢力(異民族で、羌族か)で生け贄の若い女性ばかりの多量の頭蓋骨(約80個という)が出た。長い城壁等には壁画や石の彫刻(70個も発掘された)もある、と報告される。この辺は、高層階段状の石造構築物ともあいまって、わが国天孫族の巨石祭祀、石造・城壁の石刻関係技術や三種の神器に通じそうであり、多量の人的生け贄は殷の習俗・祭祀にも通じる。河南省の殷墟からは、祭祀で生け贄とされた羌族の人骨が大量に出ている事情がある。シーマオの支配関係者は、あるいは、後になって黄河を下るなどで中原あたりに入り、その後の東夷種族の活動や殷王朝につながるのかもしれない。

 
 2 皇城台と長大な城壁

 これだけの記事ではまだ分かりにくい面もあるので、最近までの日・中両語での報道や論考・ネット記事の引用などを踏まえて、以下にもう少し紹介する。
 まず、遺跡の名は「シーマオ遺跡」と呼び、漢字では「石」と書く。第二番目の漢字は、いまのMSのOSソフトでは文字化けしないことを期待するが(古いソフトでは、この漢字の表記ができずにPC画面では消える場合がある)、山カンムリに、下のほうの部分は「卯」であり、中国語の発音が「マーオ(maoの第三声)」となる。この漢字をこれまで見たことがなかったので、諸橋の『大漢和』を見たら、「」は出ているが、「」の漢字は出ていない。ネット上では中国語のネットに意味が見えるが、もちろんすべて漢字だけの説明である。愛知大学編の『中日大辞典』にはネット記事の和訳とほとんど同義の説明がなされるが、それによると、「中国西北地区にある丸い頂で傾斜のある黄土丘陵をいう。多く地名用字」とある。
 先に「高層階段状の石造構築物」と表現したが、これを「中国式ピラミッド」と表現するものもあり、内城の中央に位置して「皇城台」と呼ばれる台状遺構で、「大台基」とも表現される。その頂上部は、周りの敵などへの見張り台でもあり、また支配層の住居地にもなり、神殿や貯水槽・工房もあった模様である(「皇城台」は、国家文物局が発表した2019年の中国十大考古新発見の第三番にあげられる)。そうすると、「石?」というのは、この構造物を指した地名なのかも知れない。中国の古代皇帝の墳墓には、中国式ピラミッド状のものがあり、秦の始皇帝陵もそうした構造だとされる(私が1977年に訪れた時には同陵は丸い丘という感じだった)。
       <皇城台の様子>
  
 シーマオ遺跡はいわば城壁部分が先に知られたが、それが、近くに続く万里の長城の延長くらいに当初は思われた(漢代の長城は楡林市を通っていた事情がある)とのことだが、発掘が進むにつれて独立の大城郭が知られてきた。その城址面積が合計4.2平方キロ余とされる。当遺跡が内城・外城の二重の石積み城壁古代を通じて中国の都市でよく用いられた初期の都市設計)を持つ大規模な拠点(内城域・外城域が各々約2平方キロ内外)であって、新石器時代後期の拠点集落である山西省臨汾市の陶寺遺跡(帝堯の都かという。約2.7平方キロ)や浙江省太湖周辺の良渚遺跡(約3平方キロ超)とも比肩される大規模である。シーマオでは、十キロ超もの長い城壁を持つ点にも特徴があるが、同時に、その年代が夏王朝のものとされる河南省洛陽市偃師市の二里頭遺跡(仰韶の東方約百キロ)とどのように関わるのかも重要な問題だと角道氏は指摘する。この規模から見て、このシーマオ遺跡を造った部族はその後どうなったのかの問題も当然あるが、これについての具体的な知見は見えない。
 シーマオ遺跡とほぼ同時代の石造城市が、これまで70以上も発掘され、そのうち十もの城市は同じ禿尾河流域にあって、これら城市が連帯してシーマオ圏を形成した可能性もいわれるから、西安あたりまで伸びる黄河中流域の仰韶圏とは別個の政治体なのであろう。当該シーマオ遺跡の炭素14等による年代測定法では、紀元前2300年頃〜同1800年頃という数値が最近出ており、殷()王朝や夏王朝よりも古いということなる。これらシーマオ圏の遺跡群が突如、放棄された。それが具体的な原因は不明だが、気候変動が主要因のようでもあって、近くの森が消え砂漠が拡大した影響かともいわれる。

 
 3 夏王朝や大口文化圏との関係

 夏王朝の存在については、二里頭遺跡などの発掘が進んで、中国の学界では既に確認されたといわれる。一方、日本の学界ではまだ確証がないとして、夏王朝の存在を認めるのに慎重な姿勢がかなりある。漢字が出てくるのは殷王朝の後期頃からだから、それより前は文字による史実の確認ができるはずがなく(「半坡陶符」などを漢字の起源とみる研究者もいるが)、遺跡などの物証で殷王朝より古い「王権的な存在」があって、それが『史記』などに言う「夏王朝」と考えてとくに矛盾がなければ、それを認めてよいと思われる。
 夏王朝より古い為政者としては、『史記』では「五帝」の神話しかなく、あるいは黄帝の崑崙城ではないかという可能性すら中国では言われる。これについては、「黄帝」が竜蛇信仰をもつ模様の夏王朝につながるとしたら、「シーマオ遺跡」のほうは、むしろツングース系の殷王朝などにつながる「白帝」たる少昊金天氏に関連して考えたいところも、拙見ではある(少昊金天氏が黄帝の子の玄囂に当たるという『史記』の神統譜は違うと思われる)。ところが、少昊金天氏のときにはもう黄河下流部に出て来て、山東半島基部あたりを根拠とした国を建てた(都を山東省曲阜市あたりに置く)という伝承があって、帝少昊は暦を作成し、官名を玄鳥氏・丹鳥氏・青鳥氏など鳥類の名で呼んだと伝える(『春秋左氏伝』昭公十七年条)。
 山東省あたりの新石器時代には、黄河中流域を圏域とする仰韶文化(河南省西北部の仰韶の地名に因るが、陝西省の西安郊外の半坡村遺跡遺も重要な拠点)とは異なる「口文化圏」があったとされる。これは、山東省泰安市(曲阜の東北約60キロ)の岱岳区の大口鎮の遺跡に由来し、黄海沿岸・渤海南岸から魯西平原東部、淮河北岸の一帯まで広がっていた。大口では、1960年代前半に発掘調査が開始され、早期・中期・後期と三つの時期(全体で紀元前4100年〜同2600年頃という。飯島武次氏はこれを前4300年〜同2800年とみる)に分けられるが、仰韶文化とほぼ同時期かそれよりも古いと確認されたという。その遺跡からはヒスイ・トルコ石・象牙などの加工品や陶器が多く発見され、遠隔地との交易などによる遺物はシーマオ遺跡と通じる。シーマオ遺跡が大口文化より古いということであれば、人の流れは西域から黄河中下流域へと動いて自然なのだが、上記の算出年代ではそれが逆でもあって、この辺の年代事情が良く分からない。
 ちなみに、中国での上古代年代確定の国家的事業「夏商周年代確定プロジェクト」は終わり、夏代はほぼ紀元前2070年に、商代はほぼ前1600年に始まり、殷周革命は前1046年とされた。
 しかし、私には、それらがまだ古く年代を出し過ぎると思われるし、飯島武次氏の『中国考古学のてびき』(2015年刊)でも、「黄河中流域における青銅器文化の開始(夏王朝ということか)は前1750年前後で、殷王朝の開始は前1500年頃と考えることができる」と記述する。今回のシーマオ遺跡の年代評価(上記のように前2300年頃〜前1800年頃)もまだ多少古すぎる感もあるが、それよりも大口文化などの年代も含めて上古年代評価の見直しの必要がないのだろうか。ともあれ、放射性炭素(炭素14)による年代測定法は、中国ではどこまで精度があがっているのかという疑問を感じないでもない。

 
 4 近隣の朱開溝遺跡や塞山遺跡

 シーマオ遺跡の考古調査では、一万点以上の各種遺物の中には、三千箱以上ある陶片があり、骨針も多い。十数片の焼かれた卜骨も出た。象牙製品や重要な楽器「口琴」も発見された。この口琴は現在、漢民族を除く、遊牧民や狩猟民などの少数民族が多く使用するとされ、例えば、モンゴル族、チャン族(先祖が羌族)、オロチョン族、エヴェンキ族、満州族などや、雲南省の一部の少数民族の間で流行しているとのことである。海外のイヌイット、インディアン、北海道のアイヌ族などもこの楽器を得意とするとの説明もある。この辺も、昔の西戎(東夷)、北狄系の種族とかツングース系の種族がシーマオ遺跡の住民であったかとみるのが自然そうである(日本民族に近いかも知れないとか、戎狄文化に属するとの見方も中国などにある)。
 シーマオ遺物のなかで、鬲や三足瓮などの土器は、北方近隣の朱開溝遺跡内モンゴル自治区オルドス市ジュンガル旗)や上記山西省の陶寺文化との関連性が指摘されており、オルドス関連ともいえよう。これらシーマオの技術・文化は、総じて北方文化の流れをくむが、その後の歴代の中国王朝に影響を与えたことは否めない。
 
 2020年9月下旬には、シーマオ遺跡の東北方近隣に位置する塞山遺跡の調査報告の概要が新華社から報じられたので、その概略も併せ記しておく。
 陝西省考古研究院は、2020年9月24日、同省楡林市府谷県にある寨山遺跡で、竜山時代(新石器時代後期)から夏王朝初期のシーマオ文化に属する大型墓地を発見したと明らかにした。
 寨山遺跡は、同県田家寨鎮王沙村にある石城遺跡で、面積は約一平方キロ。陝西省、山西省、内モンゴル自治区の境界線上に位置し、石遺跡の北東約六〇キロの地点にある(それより北西方にある内モンゴルの朱開溝遺跡ともども、上記地図をご参照)。
 河套地域で初めて見つかった等級区分が明確な竜山時代の墓地だとし、これまでに発見された朱開溝、新華、神梁(しんぎつたつりょう)、石など各遺跡とともにシーマオ文化の墓葬形式の基本的枠組みと典型的な特徴を構成しているので、同文化の内容を把握し、その政治体制を研究する上で、貴重な考古学資料になるとされる。
 これまでに発掘を終えたシーマオ文化期の墓21基は、いずれも長方形の竪穴式土坑墓で、多くは東西方向に向け築かれ、玉器や陶器、石器などが多数出土した。うち比較的規模が大きい三基は副葬品も多く、複雑な構造をする。発掘済みの墓葬には明らかな等級の違いがみられ、約四千年前に出現した中国の初期国家の起源や発展類型、過程を研究する上で重要な墓葬資料になる。女性の殉葬、玉器の副葬、半月型の壁龕(へきがん)の発見、ほぼ同様の組み合わせのふた付き土器の出土などは、全てシーマオ文化の特徴を示している、と発表でいわれる。

 
 5 一応の総括

 これから、中国各地で更に発掘が進み、様々な新事実がわかってくるのだろうが、歴史というのはたいへん多様で奥深いものだと感じる。ともあれ、「神話」ということで、様々な所伝を否定するのはおかしな姿勢だと思われる。中国社会科学院考古研究所の王巍所長は、「堯舜時代はもはや伝説ではなく、確実な史実によって証明された」と述べたとい
た」と述べた(Science Portal China)。ここまでは多少言い過ぎがあるとしても、「神話、伝説」だと頭から切り捨てるのは、歴史学として問題が大きいということであろう。ただ、中国でも日本列島でも、上古年代の数値精査は、今後とも科学的な厳しい検討が必要とされよう(試算推計値の丸呑みには十分な警戒を要する)。
 殷族が鳥・太陽のトーテムをもっており(白川静博士の『中国の神話』など)、それがわが国の天孫族の祭祀・習俗にも通じるようであり、その生け贄とされた羌族が白狼トーテム、すなわち犬狼信仰をもつ牧羊人だとしたら、後者は日本列島原住の山祇族にも通じそうである。そうすると、大陸の中国平原から西境のオルドス地方あたりまで、日本人の種族起源の問題が遙かにつながるのかも知れない。シーマオ遺跡の長大な山城は、朝鮮式山城や高良山神籠石にも関係するものではなかろうか。古代羌族は、黄帝に敗れた炎帝神農氏を遠祖神として仰いだとされる。その部族で早くに殷族に服属したのが周族だとする見方もあるから、漢民族(華夏族)の形成にも影響がある。これらの意味で、日本列島の上古史探求にあたっては、東アジアを通観する広い視野で多様な検討を要するものだと再認識するものでもある。
 なお、本稿では、上古中国に関する最近の発掘状況の一端を概略ご紹介するにとどまるし、なかには粗い表現や誤解も多少はあろうが、ご関心があれば、ネットでこれら上古遺跡関係の記事を中国関係(中国語でもネット記事があり、「百度百科」なども参考になることがある)も含めてご覧ください。

                                (初稿は2020年9月〜11月に記)

  (2023.06.09掲上)

    

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