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1 「いき一郎」氏は、沖縄大学人文学部教授(現在、退任)でマスメディア論の講座を持つ壱岐一郎氏が古代史関係の著述に用いられる名前であるが、いき氏はその諸著作で古代日本と中国との交流や邪馬台国を主に取り上げられ、本書『扶桑国は関西にあった−中国正史の倭国九州説−』1995のほか、『中国正史の古代日本記録』1984、『新説・日中古代交流を探る』1989、『徐福集団渡来と古代日本』1996、など論考が多い。歴史学の学究ではないものの、ここに取り上げる意義は十分あるものと考えられる。 『梁書』東夷伝など中国の古代史書に見える「扶桑国」については、南朝・斉の永元元年(499)に荊州に居た僧慧深の供述に基づく記事が著名であるが、荒唐無稽な内容も多いことから、明治〜昭和戦前の東洋史の大家・白鳥庫吉が慧深を大詐欺師と断罪し、その供述中の扶桑国を架空とし(「扶桑国に就いて」)、それ以降、わが国学界の大勢にあっては切捨てないし無視という立場が踏襲されてきた。いき一郎氏は、1979年にこの問題を発掘し、爾来精力的に扶桑国について論じてきており、本書はその代表的な著作といえよう。なお、ネット上では、原田実氏が扶桑国問題についてはかなり大きく取り上げておられ、本稿もその裨益によるものが多いことにまずお礼を申し上げたい。 本書には、いき氏の日本古代史に関する主張が大幅に盛り込まれ、『日本書紀』が藤原不比等による歴史捏造の書として概ね大化以前の歴史が切り捨てられ、『古事記』も偽造の書として、記紀に基づく古代歴史像や考古学等による古墳時代の意義が全く無視されている*1。また、いわゆる「古田史学」の影響が大きい九州王朝説(倭五王在九州説)・日本列島分国並立説も強く主張される。 ここまで立場を徹底されると、むしろ痛快なくらいであるが、そうなると、もう人文科学としての歴史学というよりは想像論に遊ぶ世界であり、それに対して何をか言わんという感じにもなりかねない。そこに、『梁書』の僧慧深の姿を重ねて見ることもできようといったら、あるいは氏に失礼かもしれない。 しかし、問題がそこに止まるだけなら、ここで敢えて取り上げるまでもない。むしろ、いき氏の上掲の立場にかかわらず、本書にはたいへん有益な示唆がかなりあることに気づき、いき氏の見解を高く評価するものがあるので、それらを紹介しつつ扶桑国問題を取り上げて、自分の頭で考えてみようとするものである。このことは、わが国のいわゆる「正統的な」学究たちがその立場に拘り、却って史実や重要史料から目を背けることになっている現実に対して、一種の警鐘になるのかもしれない。 ここで検討の対象となるべき史料は、中国の正史『梁書』であることを銘記しておきたい。 2 扶桑国はいったい実在していたのだろうか、また何処にあったものだろうか。 『梁書』巻54の列伝第48に諸夷海南東夷西北諸戎には、はじめに「扶桑国については昔から未聞である。普通年間(西暦520〜27)に或る道人がそこから来たと称し中国南朝に着いたが、その言は当地を知悉したものだったので、ここに併せて記録する」と記される。 そこでは日本列島関係について、倭国の記事がまずあり、漢朝・魏朝の記事をあげたのち南朝の晋・斉・梁関係の記事が簡単に記され、これに続けて、倭国東北七千余里の文身国、さらにその東五千余里の大漢国の記事があり、そのあとに扶桑国の記事が続き、その殆ど全部が沙門慧深の供述となっている。そこでは、「扶桑在大漢国東二万余里、地在中国之東」と記される。 この記事の解釈としては、直列式に「中国属領としての帯方郡→倭国→文身国→大漢国→扶桑国」と進むと考えられて、この場合、扶桑国は倭国から三万里以上もの遠方となるが、同書の距離表示「里」の解釈(長里か短里か)ともあいまって、扶桑国の所在地が関東とか東北とかあるいは遠く海外(メキシコ、樺太(サハリン)、鬱陵島など)とみられていた。このほかに、唐詩など他の資料から扶桑国が九州にあったという説もあるが、これは失当であるとしても、平安期以降の日本では、総じて扶桑とは日本のことを指すとか別称と考え、平安前期の『扶桑集』や後期の『扶桑略記』という書もあった。 これに対し、いき氏は、二つの「大漢国」(@南朝側の意識としての日本列島内のもの、A慧深の意識としての中国南朝を指すもの)が混同された結果とみて、行路を並列式に考え(すなわち、上掲の行路と「中国南朝→扶桑国」という行路の二つ)、中国南朝から短里で二万余里の地にある扶桑国として、これは近畿の地にあったと考える。 その根拠としては、次の二点をあげる。 @ 慧深は、中国南朝の役人との応答のなかで、「大漢国」とは中国南朝のことだと信じ込んでいて、応答者の認識が異なっていた。 A 中国正史・朝鮮正史は共に六世紀まで七世紀初めの『隋書』を含め東夷の韓・倭について短里を使っていた。その具体例としては、朝鮮史書『三国史記』には、新羅本紀の智証麻立干13年条に于山国降服の記事があり、そこには別名を鬱陵島といい、土地は方一百里で絶海の要害だと記されるが、方8.5キロほどあるから、一里は80メートルほどとなる。 これら指摘を検討してみると、たしかに、@については、日本列島に中国側が「大漢国」と呼ぶ国があったとは、慧深が認識しなかったものであろう。慧深の供述には、大漢国という国は出てこないし、そもそもそうした呼称の国は慧深の時代には存在しなかった。そうすると、いき氏の五世紀日本列島の分国並立論が成立しないことにつながるはずである。『梁書』の記事において、扶桑国の前にあげられる文身国・大漢国は、証言者が不明であり、同書の倭国の記事内容から考えても、みな同じ南朝の時代のことと誤解してはならない。そうした異種記事からつながる扶桑国記事を直線的な地理系列とみるのは問題が大きい。 Aについては、原田氏も指摘するように、中国正史で辺境に関する記述には約70〜80メートルという「短里」で換算しないと符合しない例があることが知られており、『魏志倭人伝』の行路記事などもその例の一つと考えられる。 そうしてみると、いき氏が指摘するとおり、近畿地方に五世紀後半ごろ扶桑国と号した国があったことは認めてよいのではなかろうか。 3 僧慧深の生きた時代とその供述を考えてみよう。 彼が出身した扶桑国が近畿地方に実在したとしても、その供述が全て正しいものではないことは内容からみても明らかである。これは、慧深が当時の中国語をきちんと話せたかという問題に加え、聴取して記録を整理する中国側に『山海経』等に記される神話の影響がなかったともいえないからである。そもそも、「扶桑」の樹自体、何であるかがよく分からない。「扶桑国」という国名についても、果たして慧深の表現なのか、「扶桑という樹が生えるような東方の島国」という趣旨の表現を聴取側がその意をとって表記したものかは不明である。 扶桑以外の供述では、東隣国の女国の話や貴人の三官職名を除くと、あまり不自然なものはないのではなかろうか。女国は、扶桑国の東千余里にあるということであるが、いき氏が考えるような扶桑国中央から千余里ではなくて、扶桑国辺境から千余里であれば、慧深がその伝承を語ったことも考えられる。 慧深が荊州(湖北省襄樊市一帯)に来たのが斉の永元元年(499)と記されるから、まったく個人の自力で苦労して小舟を乗り継ぎ当地にやって来たものであろう。倭五王の中国史書の記事からも、最後の倭王武の遣使が宋の昇明二年(478)のことであり、その使が翌年、斉の建元元年(479)まで中国に滞在していたとしても、帰国は同年中のことであって、それ以降、絶えて両国間の外交交渉はなかった事情にある。 慧深が近畿地方を出発して南朝に着くまで、どのくらいの歳月が経過したかは不明であるが、普通には数ヶ月〜数年というところであろうか。そうすると、西暦496年の少し前(「499−(3+α)」)頃まで在位していた扶桑国王が「乙」とされており、その後継が三年間国事を見なかったと供述にある。 いき氏は、この「乙」について「いっき、おけ」と読んで、記紀の顕宗天皇(弘計・ヲケ)はこの扶桑国王の名に基づき創作されたと考えている。しかし、記紀を根本から否定しない限り、やはり考えが逆であろう。 私も、「乙」が顕宗天皇を指すとみることには同感である。顕宗が兄の仁賢天皇とともに、「」を共通にして大・小を付け、「オケ・ヲケ」と呼ばれたことは記紀等に見え、『古事記』では「意、袁」と表記される。「乙」の乙は、弟と同義であるので、「乙」=「袁」とみて全く問題ない。顕宗天皇の在位年代についても、私は、493〜495年頃とみており*2、符合している。その後継となった仁賢が十一年在位したことは『書紀』に見えており、これはほぼ信じて良さそうだから、三年以上在位したという慧深の供述と符合する。 こうしてみると、慧深の供述は顕宗天皇在位とその時期の確認のための貴重な同時代資料と言えよう。この関連で考えるとき、同じ供述にある宋の大明二年(458)の仏教伝来の記事も、無視できなくなることに留意しておきたい。 扶桑国の地理認識も、平安期以降に現れる認識と符合するといえよう。すなわち、いき氏が言うような「関西地方の一盆地、一平野の国」で、「北陸の文身国を視野に入れたせいぜい関西ブロックの代表的政権であったといえる程度」ということではなく、日本列島の大部分を支配圏とした「大和朝廷」と同じと考えてよい。 これらを含め、扶桑国問題は外交空白の日本古代の動向を考える意味で重要であることが確認できる。それ故に、いき氏の問題提起を高く評価するものでもある。 〔註〕 *1 原田実氏は、そのHPで次のような批判をしており、ほぼ妥当な見解であろう。 「5世紀といえば、日本列島ではすでに九州から東北まで前方後円墳が普及していた時代である。その時期の九州と近畿でそれぞれ個別に中国に遣使しうる王権が存在していたというのは無理があるのではないか。古墳時代の考古学的解明が進む現在、九州倭国・近畿扶桑国の並立説は次第に成り立ちにくくなっていることは否めない。」 しかし、これは九州倭国・近畿扶桑国の並立説が否定されるだけの論理で、扶桑国実在の否定ではないことに注意しておきたい。現実に、2004扶桑国シンポジウムで、原田氏は実在説の立場にあることを明言している。 *2 拙稿「隅田八幡画像鏡の銘文についての一試論」『季刊/古代史の海』第30号、2002/12。 (03.1.4 掲上。04.12.22追加) <参考> 1 本稿に若干の手を加えて整理したものを、「扶桑国問題の意義」として『季刊/古代史の海』第32号(2003/6)に掲載しました。こちらもご覧下さい。 2 2004扶桑国シンポジウムを踏まえた 扶桑国の歴史的地理的な位置づけ もご覧下さい。 |
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