オオハクチョウ


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      越の白鳥伝承と鳥追う人々
                         
                      宝賀 寿男

  I
    矢形尾の鷹を手に据ゑ 三島野に
      狩らぬ日まねく月ぞ経にける     (『万葉集』巻第17- 4012)

  越中国守大伴宿祢家持は、矢羽の形をした尾をもつ蒼い鷹「大黒」を愛して三島野での鷹狩りを好んだが、その鷹を鷹匠の山田史君麻呂が逃がしてしまった。これを残念に思った家持は、再びこの鷹を獲るという神のお告げに感謝して、歌を五首(長歌一、短歌四)よんでおり、上の歌はその中の一首である。
  鷹狩りの好適地の「三島野」とは、いま射水郡の大島町から大門町北部にかけての地とみられている。大黒という蒼鷹は雉を取ることにすぐれていたと記されるが、三島野の地には鳥取という地名があり、いま射水郡大島町(現・射水市)鳥取としてこの地に大島町絵本館(現・射水市大島絵本館)が置かれている。
  この鳥取の地名が確実に史料に見えるのは江戸初期からであるが、16世紀初頭の文書に、越中七邑の一つとして見える鳥取もこの地のことと思われる。そうすると地名は中世まで遡るが、この由来が古代の鳥取部に関係する地となると、さらに遠い古代まで遡ることになる。現在でも「鳥取」の地名が残る全国の市町が六つあり、平成5年(1993)10月に鳥取県鳥取市に集まって鳥取サミットが開かれ、富山県大島町(当時)も大阪府八尾市、同阪南市、京都府竹野郡弥栄町、北海道釧路市の関係者とともに参加している。

  U
  越中の地に関係する白鳥伝承は記紀に二つあげられる。その一つが垂仁朝のこととして記紀にみえるホムチワケ王(品遅別王、本牟智和気王)の鵠(白鳥)の伝承であり、もう一つが仲哀朝のこととして『古事記』にみえる白鳥献上伝承である。
  垂仁天皇の皇子で、成人しても物をいわなかったホムチワケ皇子が、空高く飛ぶ白鳥をみて片言を発したので、天皇は鳥取部造の祖に命じてこれを追跡させたが、鵠を追って諸国を廻り、東国では近江→美濃→尾張→信濃を経て高志の国に到って和那美の水門でようやく捕えたという。
  次に、日本武尊は東国遠征の帰途に薨じ、その御魂は白鳥となって飛び去ったとされ、その遺児仲哀天皇はまぼろしの父君を慕い、諸国に命じて武尊ゆかりの白鳥を貢させたところ、これに応じて越国から白鳥四隻(つがい)が献上されたという
  この二つの伝承は単に高志()という広い地域名で記されるが、ともに越中のこととしてうけとられている。
  後者の事件については、『延喜式』神名帳に所載の神社(式内社という)たる越中国婦負郡の白鳥神社(論社が三つほどあるが、八尾町〔現・富山市南西部〕の三田の同名社と一応比定しておく)の起源と伝えられる。ホムチワケ伝承に関しては、その追跡者の到った地に鳥取部(鳥養部)や品遅部(誉津部・品治部)という部民を置いたと記される。越中には、古代の有力氏族として品治部氏の存在が史料に見え、『和名抄』には越中国新川郡に鳥取郷が掲げられ、捕鳥関係の職業部・鳥取部の設置が十分考えられる。この鳥取郷は越全域でみて唯一のものであり、現在その比定地は不明であるが、白鳥神社の鎮座する黒部市北西部の荒俣辺りではないかという説もある。
  越中西部の射水郡では大島町東部に前掲の烏取の地があり、その三、四キロ北方の新湊市域には久々湊・久々江という鵠(くぐい)関連の地名もみえ、鳥取・鳥養という苗字もある。このほか、呉羽丘陵の最高峰の通称城山が白鳥峰というのも、麓の富山市寺町所在の白鳥神社に因むものとされるなど、越中には白鳥に因む地名が多くみられる。

  V
  戦後のわが国の古代史学界にあっては、記紀の記述で応神天皇ないし仁徳天皇より前のものは、疑問が大きいものとされてきた。いいかえれば、四世紀後葉以降からの記紀の記述はほぼ信頼されるとしているようである。
  その場合、前掲した越中関連の二つの白鳥伝承は、ともに史実ではなく、虚構のものとされることになる。しかし、歴史学界で多説を占めるからといって、全てが正しいというわけではない。戦後の多数説では、記紀の記述を素朴に解釈して、その結果、年代観や地名比定地の誤りにつながる例も、かなり多く見られる。神話や伝承について、頭から虚構と決めつけないで、具体的な点と点とを結び実証的に肉付けして考えていけば、興味深い結論につながることもあり、越中の白鳥伝承も、そうしたものの一つとしてあげられよう。
  ホムチワケ伝承の主人公品遅別命とは、実際には垂仁天皇の皇子ではない。この者こそ後年の応神天皇であり、続柄上は垂仁天皇の関係者(外孫)でも、仲哀天皇の諸皇子を滅し旧来の天皇家(大王家)から天皇位を纂奪して、新しく王朝を開いた英雄であった。関連する白鳥捕獲の時期も、伝承に登場する人物の活躍時期からいって、四世紀中葉の成務天皇朝ごろかと考えられる。ここでは、ホムチワケ関連の白鳥伝承は史実であり、白鳥を追って越中に到った鳥取部の一族が、婦負郡を中心とする越中の開拓者であったことを略述したいと考えている。仲哀朝の白鳥献上も、これにつながるものである。

  W
  越中には古社が多く、これらに奉仕する社家も数多いが、残念なことにどこの社家にも古い系図史料は全く伝わっていない。しかし、仔細に古社関係の資料を加越能地域についてみていくと、多くの社家が古代氏族の末裔ではないかとみられる要素がある。なかでも、鳥取部氏一族が奉斎したとみられる神社が目につき、その族裔が社家として現在に至ったのではないかと推される。
  鳥取部氏はその祖神を少彦名神と伝える。少彦名神とは大己貴神(大国主神)に協力して国土の経営をされた知恵の神であり、大伴家持の歌(『万葉集』巻第18- 4106)にも、「大汝少彦名の神代より 言ひ継ぎけらく…」とうたわれている。また、医薬に通じた神・温泉神として神仏習合の時代には薬師菩薩にも比せられ、酒造の神ともされるが、経営の功半ばにして熊野之御碕ないしは淡島(粟島)から常世の郷に渡られたともいわれる。その後裔氏族には三島県主(摂津の三島地方の古代氏族。前掲の「三島野」とも関連)もあげられる。

  さて、婦負郡の式内社の熊野神社の論社の一つが富山市南部の宮保に鎮座する。同社の現況や出土遺物から、往時は大きな神社であったことがうかがわれるが、その社家は横越(よこごし)氏といい現在まで卅代以上の世襲が続くといわれる。その苗字の由来としては、川を渡るとき、神(神体の鏡)を背にして渡ることを忌んで神を横にして渡河したという故事があると伝承されている。
  これだけの伝承では何の事かはっきりしないが、富山市北西部の八幡にある八幡宮の神官嵯峨氏の所伝等を考え合わせれば、その意味するものが明確化してくる。その所伝によると、京都にいた嵯峨・内山氏の先祖が神の告げによって神鏡を奉じ、空ゆく白鷹のあとを追って、京から近江・美濃・飛騨を越え、ついに越中に至って白鷹のとどまった森に社殿を営み、神鏡を安置したのが起源という。嵯峨氏と同族の内山氏は、もと婦負郡布目村(いま富山市で、八幡の西隣)の郷士で、藩政時代は同郡宮尾村(いま富山市で、八幡南方約1キロ)の十村役(大庄屋)の豪農として著名であり、文化財の内山邸を残している。その家伝によると、垂仁天皇より白鳥の献上を求められ、また、白鷹のとどまるところに我を鎮座せしめよとの神託をうけ、神体を背負って諸国を巡り、越中国婦負の森に至って八幡宮を建立したとされる。
  これら横越・嵯峨・内山三氏に伝わる起源伝承は、多少ともニュアンスが異なるものの、本来みな同一の根源から出たもので、前掲のホムチワケ伝承にみえる鳥取部の先祖の行動に由来するものと考えられる。すなわち、鳥取部の先祖は、勅命をうけ、その祖神の少彦名神の化体した神鏡を背負い白鷹を使って白鳥を捕えるため諸国を廻り、越中国婦負郡で目的を達して安住したということである。

  こうした所伝に縁の深い地が射水郡東北部の三島野を含む一帯にもある。具体的な地名をあげれば、大島町(現・射水市)北部の鳥取・高木から新湊市(現・射水市)南部の高木・布目・鏡宮さらには久々湊にかけての地域である。鳥取及び布目・久々湊については前掲したが、鏡宮の地名は鏡宮少彦名社(かっては薬師社ともいう)に由来するという。高木は能登国能登郡の式内社鳥屋比古神社の社家高木氏に通じ、大和や伯耆の「鳥屋」は少彦名神との関係がうかがわれる。同社の鎮座地羽坂村(いま鹿島郡鳥屋町春木)には手之間神社(棚森大明神)もあって、少彦名神を祀ったのではないか、と森田柿園の『能登志徴』はみている。少彦名神の素性について高木神に問うたところ、自分の子で、小さくて指の間から漏れ落ちたのがそれであるとの答えがあったという伝承も記紀には見える。
  少彦名神の後裔と称する氏族は鳥取部造・三島県主くらいであるが、様々な検討を加えてみたところ、古代の織物関係氏族たる服部連・倭文部・長幡部などや、三島大杜に奉仕した伊豆国造なども含まれることがわかってきた。前掲の射水郡の三島野が、『和名抄』の三島郷、布師郷の地に比定されることも自然なのである。

  横越の地名も越中3ケ所などのほか、東日本に集中して美濃・越後・出羽・越前に見え、いずれも川の側にみられる。出羽の横越は、いま白鷹町横田尻といい熊野神社が鎮座する。美濃では鵜飼で名高い長良川の中流右岸、美濃市域に横越の地があり、越中や越前でも古代の鵜飼がしられ、能登では鹿島(能登)郡白鳥村の北方近隣の鵜浦村(両村ともいま七尾市域)に鵜捕部が移住していた。この鵜飼も鳥取部の職掌であり、婦負郡の式内杜、鵜坂神社(婦中町東北端の鵜坂)の付近の鵜飼は、大伴家持の歌(『万葉集』巻第17-4022※)でしられる。
  白鳥神社という名の神社は全国に数多いが、東国では越中(婦負郡)のほか、美濃(本巣・安八・郡上・土岐の各郡)、信濃(小県郡)、加賀(河北郡)の同名社が鳥取部の先祖の足跡に合致しよう。婦中町友坂の熊野神社は、婦負郡の式内の白鳥神社の論社の一つであり、また式内の熊野神社の論社の一つでもある。

  V
  少彦名神の後裔たる鳥取部一族は、婦負郡を中心に越中に広く繁術して、前掲の古社を奉斎し、呉羽丘陵の南西部、羽根山丘陵に王塚・勅使塚という二大前方後方墳を含む古墳群を築造した。『肯搆泉達録』に見える婦負開拓伝承の六治古(ロクヂコ)兄弟も鳥取部一族とみられ、また富山の山王(日枝神社)神官の平尾氏をはじめ、旦尾・近尾・羽根・黒田・若林・高柳・二宮等という社家の苗字(いくつかは鳥に関連することに注意)も、おそらく神裔と推される。
  立山の開拓者として名高い佐伯一族も、鷹や熊にまつわる伝承や奉斎神からいって、大伴連一族の佐伯連の後裔ではなく、少彦名神裔ではないかと推される。
  このような古代からの流れが、越中全土に息づき、クレハ(呉服部に由来)→五福という地名や越中売薬に名残りをとどめており、地名や神社・苗字等の伝承の示唆するものは奥深い。

  最初に掲げた鳥取サミットの参加市町が、明治に開拓された北海道釧路市を除いて、いずれも古代鳥取部にゆかりの地であり、京都府弥栄町では鳥取の付近に黒部・船木という越中・能登に関係する地名も見える。鳥取部という氏族は、捕鳥や鵜飼を含む鳥全般の職掌を有したが、それにとどまらず鍛治・精錬や織物・製薬などにも優れた技術を持っていた。近代富山県工業の遠い源流が少彦名神にあったといえるかもしれない。

 (なお、以上の記述は、森田柿園の著作や富山県関連の人名・姓氏・地名・神社等の各種資料に基づいたが、枚数の制約上、一々その出典や論拠を記載できなかった。いずれ何等かの機会に詳論を発表したいと考えている。→これは、拙著『越と出雲の夜明け』において発表した)
                                           (了)
 
 (1995/8/23発行の「おおしま絵本文化」第1号掲載分に多少加筆し、地名等は現在のものに改めている)

オオタカ
 逃げた鷹を呼び戻すため様々な手当てを講じても、効き目がなかったが、神に願いをかけたところ、夢の中に少女が現れ、その鷹を獲ることが間近いことを告げたので、これを喜んだ家持が逃がした恨みを除いて、お告げに対するしるしを表したと序文にあります。











『越中国官倉納穀交替帳』には、貞観5・6年(863・4)の転擬大領として品治部稲積、元慶2年(878)の擬大領として品治部鴨雄が見え、その有勢ぶりが知られます。


























酒神として、少彦名神があげられるのは、『日本書紀』仲哀天皇段に「この御酒は、少名御神の献り来し御酒」とあり、『弘仁私記』にも「少彦名神、是造酒神也」と記されます。
  京都嵐山の松尾神社に祀る大山咋神も酒神として著名であるが、本来は葛野県主(鴨氏族)の祖神で、少彦名神と同神とみられます。































『万葉集』巻第17の歌番4022
 婦負郡の鵜坂川の辺にして作る歌一首
「鵜坂川渡る瀬多み この吾が馬の足掻の水に 衣濡れにけり」
(鵜坂川とは、現在の神通川のことで、鵜坂の東側を流れています。その少し上流の河川敷には、富山空港があります)
(歌意は、鵜坂川は渡る瀬が多いので、私の馬の足掻きで跳ねる水により、着物が濡れてしまった)





鵜坂の北隣に羽根(富山市域)という大字がありますが、羽根さんという酒造家がおられ、富美菊酒造鰍経営されています。







※富山県には鎌倉期以前の古文書が殆どなく、中世文書も乏しいのが残念です。
  古くからの社家とみられる家もかなりあるだけに、なんとか文書がつたえられなかったのか、とも思う次第でもあります。
 その意味で、江戸末期から明治前期にかけて加越能三カ国の古伝を収集、著作した森田柿園の功績が大きいと思われます。


(備考)「おおしま絵本文化」は富山県射水市(
旧射水郡大島町)にある射水市大島絵本館の機関誌です。同館は私が富山在住の時に大島町絵本館としてオープンとなりましたが、それ以来、初代の高井館長がはりきって運営されておられました。内外の絵本1万冊以上を集めた図書館などの施設があります。
  当時の館長の高井進氏は、富山近代史研究会の代表で、『越中の明治維新』『越中から富山へ』などの著作があります。

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