随想  
かぐや姫の物語


  竹の筒から取り出された「かぐや姫」が竹取の翁に育てられて美女となり、五人の貴人や時の天皇からも求婚されたが、これらの求婚を拒否して、満月の夜にその原郷たる月からの迎えに応じて去っていく。こうした粗筋の『竹取物語』はわが国最古の物語とされ、九世紀ごろの成立とみられている。

  この良く知られた物語にモデルがあり、そのモデルが記紀の三韓征伐で有名な神功皇后だったといったら、どう考えられるだろうか。
  記紀の登場人物のなかに「かぐや姫」という名の女性が唯一あげられる。それは、垂仁天星の妃の一人として迦具夜比売命と記され、大筒木垂根王の娘で垂仁妃となり袁那辨(オナベ)王を生んだとされる。神功皇后の名は息長帯日売とされるが、これは諡名で、実名はカグヤヒメ(香哉で光かがやくの意か)とみられるのである。神功皇后の系譜は日子坐王の子孫で山代之大筒木真若王の曽孫とされるが、この系譜は実際に比べて世代数が多く、同一人物が重複してあらわれるうえに、大筒木垂根王の父の比古由牟須美王は、様々な点で日子坐王と重なるからである。神功皇后の実際の夫君も、仲哀天皇でも垂仁天皇でもなく、その中間に位置する成務天皇であった。

  神功皇后が異国の地たる韓土へ行くという伝承が、『竹取物語』では天皇に求婚された姫が異郷の月に行くことになっている。かぐや姫が竹の筒から生まれたことも、迦具夜比売の曽祖母は竹野媛といい、丹波・但馬の竹別氏(竹野別とも書く)の出自であったことにつながる。迦具夜比売の叔父に讃岐垂根王がいることは、竹取翁の名が讃岐の造とされることに関連しよう。
  神功皇后や迦具夜比売の父祖の名にみえる「筒木」とは、山城国綴喜郡のことで、この地には息長一族や隼人が居住し、隼人は優れた竹細工技術や月神信仰をもっていた。かぐや姫が月へ去るに際して残した不死の薬についても、神功皇后の母系の親族田道間守が不老不死の理想郷とみられる常世の国に「非時の香菓」(橘のこと)を求めたことに通じよう。

  かぐや姫に求婚した五貴人は、八世紀初の文武天皇の重臣に関連し、さらに仲哀紀に天皇・神功皇后の重臣としてみえる武内宿祢と四人の大夫にも関連する。『竹取物語』の「大伴のみゆき」は仲哀紀の大伴武以の子孫(大伴御行)、「いそのかみのまろたり」は同じく物部胆咋の子孫(石上麻呂)、「くらもちの皇子」(車持皇子)が藤原不比等(母が車持君氏の娘)に擬せられるという説に拠れば、同じく中臣烏賊津の子孫となり、武内宿祢も竹内宿祢とも書かれるので、これまた「竹」と関係しよう。
  求婚した五貴人はいずれも手ひどい失敗をするが、文武天皇の重臣のなかには、五貴人との関連が考えられなさそうな紀麻呂という者もいる。『竹取物語』の創作者とされるのが、武内宿祢の子孫と称する紀麻呂の族裔の紀貫之とか紀長谷雄だとしたら、あまりにも話ができすぎているように思われる。こうしてみると、この物語は奇妙な物語である。

                (『某月某日』 第十一号(1995.7)に掲載。その後、若干の修補


 (雑感の追加) かぐや姫の出した課題の意味

  五貴人のうち石上麻呂は、「燕の子安貝」の入手という課題をかぐや姫(なよ竹の赫映姫)から与えられた。
  石作皇子・車持皇子の皇族のほかは、右大臣阿部御主人は海神族にも所縁のある氏族で、大納言大伴御行が山祇族末裔であり、臣下で天孫族末裔の物部氏の族長たる中納言石上麻呂が鳥に関する課題を持ったのも興味深い。もう少しいえば、阿部御主人は竜蛇神族に関係の深い流れであるから、「火鼠の皮の衣」よりも「竜の首の珠」のほうが適当なようでもあり、火神カグツチの末裔にあたる大伴御行は「火鼠の裘(皮の衣)」のほうが適当であろう。すなわち、この両者の課題を交換したほうが適当であるが、作者はそこまでは考えなかったものだろうか。



  富山県高岡市の北西端部にある西田さいた)地区は、竹の子の産地として知られ、春には「竹の子のフルコース料理」を楽しむことができます。庄川べりの鮎のフルコース料理と並んで、富山県のお薦め料理です。

  1尺8寸(約55cm)の竹の縦笛が尺八と呼ばれますが、この西田には春六月に尺八をもって多くの虚無僧が集い、尺八と読経の大合奏がなされます。二上山麓のこの地には、臨済宗国泰寺派の総本山国泰寺があり、虚無僧の総本山として毎年6月の開山忌が盛大になされるわけです。普段はとても静かなお寺です。


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