阿波の一宮氏の系譜

問い〔を含む原文〕) 数ヶ月前より、そちらのHPの土岐頼武らの問題がこちらの掲示板に飛び火しています。今では、「斎藤義龍による家臣の改名(桑原→氏家、日根野→延永など、一色家臣にある名字に改名)」、「長尾景虎の上杉襲名」などで盛り上がっています。
 
 ところで、前から気になっていたことを申し上げます。
 HPの三好氏関係で「(『相国寺供養記』・・・明徳の小笠原備後守成明は、おそらく盛明の誤記で、盛衡の弟かとみられ」という記述についてです。
 
 小笠原備後守成明は丹波守護代としての活動が見られます。成明は明徳五年(1394)頃に「元成」と改名したと見られ、応永二年(1395)には「一宮入道栄正」と名乗っています。
  これらより、「成」字は一宮氏の通字であり、小笠原成明は、一宮成宗(小笠原長宗の子)の子孫ではないかと考えられます。小笠原長宗か成宗が、阿波一宮大宮司家に入嗣したことにより、一宮氏が「小笠原」を名乗るようになったと思われます。
  他の例では、明徳四年(1393)の「小笠原次郎九郎」と、明徳五年の「一宮次郎九郎」はどちらも小笠原成明の部下であり、同一人物と思われます。

 (川部様より、05.9.14受け)

 

 (樹童からのお答え)
 
  いつも重要なご指摘ありがとうございます。阿波の一宮氏は、戦国期の三好氏と通婚関係があり、何度か検討を加えましたが、その系譜について疑問や問題点が多く、私自身考えが転々しております。いま、ご指摘を受けて、再検討したものを整理してみましたが、これも試論です。
 
1 阿波一宮とその奉斎氏族

  阿波一宮は、一般に板野郡の大麻比古神社とされますが、初期の阿波一宮については、名方郡鎮座の式内大社天石門別八倉比売神社一宮大明神、大粟明神。徳島市〔旧名東郡〕一宮町西丁の一宮神社に比定)だったとされており、阿波忌部が祀る天日鷲命を祭神とする忌部神社、その子の大麻比古を祭神とする大麻比古神社に比肩する大社でした。この阿波一宮の大宮司家たる一宮氏は、古代豪族の流れを汲んでいたことは間違いなく、国造家とほぼ同格くらいの古族(例えば名方別〔後に名方宿祢姓〕や粟国造〔後に粟宿祢姓〕がその有力候補)の後裔ではないかとみられます。
  一ノ宮の地名は、鮎喰川下流南岸に現在「徳島市一宮町」として残っており、この辺り一帯が阿波の一宮氏の本拠地だったとみられています。鮎喰川の上流の名西郡神山町神領字西上角には、上一宮大粟神社(田ノ口大明神、埴生女屋神社。一伝に一宮町の一宮神社の勧請元)もあり、一宮町の鮎喰川北岸、気延山南麓には徳島市国府町矢野の天石門別八倉比売神社(杉尾明神)もあって、それぞれが式内社の論社とされています。現在では矢野のほうの神社が式内社であって、一宮町の一宮神社は一宮城の守護社として位置づける見解のほうが強そうにもみられますが、上流の田ノ口大明神、古い神官の河人姓(後記)や中世豪族一宮氏の居住地などからいって、一宮町の一宮神社が式内社かその後継社であったとみるのが最も自然です。

  すでに久安二年(1146)には、一宮司の河人成高の弟問註所河人成俊が観音寺荘延命院へ軍兵八十余人を引率して庄屋を焼失させるなど濫妨狼藉を働いたことが史料(『愚昧記』)に見えておりますが、この兄弟の「成」の通字から見て、源平争乱期に見える阿波第一の大族で紀朝臣姓(本姓は蘇我臣一族の田口朝臣姓)と称する田口・桜庭(桜間)一族と同族ではなかったかと推されます。阿波民部大輔田口成良は平氏により阿波守に任じられ、弟の桜間介良遠も有力な国衙の一員でした。桜間は、現在の徳島市国府町桜間から名西郡石井町高川原字桜間にかけての地域です。ただ、田口姓、紀姓ともに冒称と思われますが。
  「河人」というのも姓氏か苗字か不明ですが、おそらく前者であって、これも古代氏族末裔を示すものではないかと思われます。この河人氏の後が少なくとも南北朝期までの一宮氏とみるのが自然です。『阿波志』には、戦国末期の永禄天正の比(1558頃〜92頃)に一宮城に居たのが紀成助(一宮氏)であり、長曽我部元親が天正十年(1582)に成助を謀殺したと記されますから、古代から一貫して同じ一族が一宮大宮司を世襲していたとみられます(太田亮博士に同旨)。
  上一宮たる田ノ口大明神を代々奉仕してきた粟飯原氏や、「成」の通字をもつ紀姓有持(有用)氏も、上記田口・河人一族とみられます。「紀氏桜間系譜」(『諸系譜』第18冊)では、桜間民部大輔成能(田口成良と同人)の子の田内左衛門尉成直の後裔で、名西郡上浦城主(現・名西郡石井町浦庄字上浦)となった紀成康が有持左京進入道道慶と名乗ったと記します。この有持道慶入道の妻は三好長慶の妹と伝えます。
  笠原集光所蔵の「一宮系図」では、一宮成行の子の宮内少輔成良・その弟の弾正忠成直をあげ、成良が下一宮を城主分として取り、その弟の成直が上一宮を神領分として取ったと伝えますから、粟飯原氏は成直の後裔となるのでしょうか。なお、福家清司氏が「阿波国一宮社と「国造」伝承−「粟国造粟飯原氏系図」を素材として−」という論考を『四国中世史研究』第七号(2003/08)に発表していると目にしましたが、まだこの論考は入手しておらず、粟国造の系図も見ておりません。この内容如何では、上記の私見も変わるかも知れません。

  以上に見てきたように、徳島市西部の一宮町からその北方の名西郡石井町にかけての地域にこの一族が分布したことが知られます。矢野の天石門別八倉比売神社(杉尾明神)も、式内社でなかったとしても、同じ一族によって奉斎されたものと思われます。
 

2 阿波の小笠原氏と一宮氏との関係

  南北朝期にも一宮氏の活動は史料に見えており、観応二年(1351)には一宮彦次郎(実名は不明)、一宮六郎二郎成光が活動しています。文和元年(1352)十二月二二日付け足利義詮下文には、阿波国萱島地頭職で一宮六郎次郎成光跡が安宅王杉丸に宛行されたことが記されています。
  一方、鎌倉期に阿波に入部した小笠原氏の系図には、南北朝期に一宮を名乗る者が出てきます。阿波守護職となった小笠原長久の子の四郎(宮内大輔)長宗について、一宮大宮司となって一宮を号したと記す系図や、長宗の子の成宗について一宮宮内大輔・大宮司と記して、以下子孫を掲げる系図があります。そうすると、小笠原氏と古代からの一宮氏との関係はどう考えたらよいのでしょうか。「成」の通字に着目すると、一宮成宗は古代からの一宮氏とのつながりが感じられますが、この成宗は実際には古代一宮氏の後で小笠原氏の系譜仮冒をしたり、その養猶子の関係になったのか、その逆に小笠原氏が古代一宮氏の跡を襲った(一宮氏の養嗣となった)のかのいずれかではないかと考えられます。
 
  現在に残る一宮氏の系図は、『諸系譜』所収の阿波古文書にいくつか見えており、名東郡一宮村の笠原集光所蔵の「小笠原流一宮系図・阿波女神社宮主祖系」、名西郡入田村(現・徳島市西端部で一宮町の西方近隣)の一宮三郎助所蔵の「清和源氏小笠原流一宮系図」、同郡広野村(現・神山町北部の広野)の一宮逸之助所蔵の「清和源氏小笠原流一宮系図」があげられます。これら一宮氏一族の分布は、鮎喰川に沿って、一宮→入田→広野→西上角と遡ることにも注意したいものです。また、東大史料編纂所所蔵の阿波古文書には「一宮育太郎系図」もあります。これらのいずれも室町期の一宮氏は小笠原長宗の子の成宗から出たと記しますが、内容は若干異なり、歴代の名も多少異なっております。
  私見では、成宗の弟に成春(一宮三郎)・成康(一宮四郎)という者が見え、成宗の子・成行(義雄とも記)以降も「成」の通字が続くので、古代一宮氏が小笠原氏の後として系譜を仮冒したか、小笠原氏の養猶子となって続いたものと考えていました。『尊卑分脈』でも、小笠原長宗の後の「一宮宮内大輔成宗−義雄(本は成行。宮内大輔、左馬頭)−成長(長門守、宮内大輔)」の三代は附載書込となっています。また、成宗の父に当たりそうな一宮左馬頭成雄という者もいたようです(現時点で出典不明)。

  ここに、川部様ご指摘の小笠原備後守成明や小笠原次郎九郎が一宮とも名乗っていた例を考えると、むしろ成宗が小笠原氏から一宮氏に入嗣したとみるほうが妥当のようにも思われます。笠原集光所蔵系図では最後の大宮司成祐(成助)の甥に小笠原信濃守光信・善兵衛重光兄弟が見え、一宮三郎助所蔵系図でも成良の子に小笠原治部少輔長好が見えるなど、一宮一族のなかに小笠原を名乗る者が見えており、これも血脈が小笠原氏であったことの傍証かも知れませんし、それくらい小笠原に拘るのかもしれません。古代以来の一宮宗成に代って暦応四年(1341)に小笠原長宗が一宮大宮司となり、その子が成宗ともいわれます。また、「早渕氏系図」には、小笠原長宗(宮内大輔、一宮大宮司)の子に長之(一宮大宮司、若狭守、一宮祖)、長英(早渕次郎、主馬助、早渕祖)をあげますが、この長之が成宗と同人であるのなら、成宗の生家が小笠原氏であったとしてよいのかも知れません。
  その一方、「芥川氏系譜」では、一宮大宮司長之の弟に一宮大宮司成宗をあげており、名東郡の小笠原和三郎所蔵系図では、宮内大輔長宗の弟に成宗(弾正忠、一宮家祖)をあげるなど、この辺の混乱も多分に見られます。
 
  以上の事情から考えても、結論は甚だ出しにくいのですが、一宮氏が最後まで紀姓で通字「成」を用いていた事情を重視して、一宮大宮司成宗が小笠原宮内大輔長宗の猶子か系譜を付合させたものと考えておきます。成宗の子孫は、こうした事情から一宮のほか小笠原とも称したのではないのでしょうか。
 

3 一宮氏の室町期以降の系図

  一宮成宗の後の系図も多少とも差異があって確定しがたいのですが、一応、直系の系図をあげておきますと、その子の「成行(義雄。左京大夫、左馬頭)−成良(宮内少輔、長門守)−成光(長門守。応仁・文明時)−成永(成長。民部少輔、長門守)−成義(宮内大輔、若狭守)−成房(宮内大輔、和泉守)−成助(成祐。長門守)」となります。
  一宮成宗の没年は嘉慶元年(1387)、その子の成行の没年が応永八年(1401)と伝えられますので、小笠原備後守成明が一宮成宗の子孫である場合には、年代的に成宗の子とするのが妥当と考えられます。しかし、一宮三郎助所蔵系図には、成宗の子として義雄(宮内大輔)、国雄(主殿頭)、成重(右衛門尉)と二女をあげるのみで、成明(元成)の名は見えません。また、明徳四年、五年(1393、94)の「小笠原次郎九郎」「一宮次郎九郎」は同人として、小笠原成明の従兄弟に当たるのでしょうが、小笠原・一宮関係の系図からは不明です。

  戦国期の一宮氏では、和泉守成房は細川氏に仕えて摂津尼崎合戦で軍功があり天文十九年(1550)に卒去、その子の長門守成助は主君細川真之を討った三好長治を誅殺したものの、天正十年(1582)十一月に長曽我部元親により殺害され、このときに叔父の成胤・成季や弟の主計正成時も討死しています。長門守成助は最後の一宮大宮司であり、その妻は三好元長長女で実休(義賢で、長治の父)の妹であって(一説に三好元長妹)、成助の姉妹には、松永弾正久秀妻・早渕左京亮妻・伊沢越前守頼俊妻が見えます。
  長門守成助の子には、若狭守長時(後に長成)、惣大夫成忠がおり、若狭守長氏の後では、その子の孫之丞長氏が阿波に入った藩主蜂須賀家の重臣佐渡長政に仕え、その子の成次以下続いて一宮育太郎家となります。また、惣大夫成忠の後は入田村の一宮三郎助家です。
 
  一宮大宮司職については、蜂須賀瑞雲院殿(家政)が阿波に入った後の天正十四年(1586)に、讃岐国水主に居た水主光信が召し出されて大宮司となり、小笠原信濃守と名乗って大宮司職を子孫に伝えたとされます。子孫の勝定のとき、蜂須賀氏の縁戚である小倉小笠原氏と同姓であることを憚って、笠原に改姓したと伝えられており、その後が笠原集光家となるものです。この系統の祖・大宮司光信の系譜は、その父・光孝が讃州水主に住んで水主兵庫頭と名乗ったものであって、光孝は長門守成助の弟といわれますが、その系譜には疑問もあり、おそらく大宮司成光−兵庫頭成員−成孝−兵庫頭光孝とつながる支流ではなかろうかと推されます。

 以上に、いろいろ推定を交えて記しましたが、裏付けがあまりないため、史料の出方次第で考え方を柔軟にしていく必要もありそうで、その旨、お断りを重ねてしておきます。

  (05.10.23 掲上。その後、若干補訂)

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