□ 伊勢津彦と建御名方命との関係 (問い)伊勢津彦と建御名方は同一人物ですか? また、伊勢津彦が出雲健子と呼ばれる要因は何でしょうか?
(やもすけ様より、05.12.19受け) |
(樹童からのお答え) 1 伊勢津彦とは、『伊勢国風土記』逸文に見える神武朝の神であり、同書によると、伊賀の安志(あなし)の社に坐す神で、出雲神の子であり、またの名を出雲建子命、天櫛玉命といい、石で城を造って居住していた。神武東征の際に、神武が派遣した天日別命に国土を天孫に献上するかを問われ、はじめに否と答えたために討伐されそうになったので、居住していた伊勢を風濤に乗じて去った、と記されます。その後補の文には、「近くは信濃国にいる」と記されます。
一方、建御名方命は、『古事記』の国譲りの段に大国主神の次子として見え、父や兄の事代主神に従わず高天原への国譲りに反対し、高天原からの使節建御雷神と力競べをして負かされ、科野(信濃)の州羽海(諏訪湖)に追い詰められ殺されそうになったとき、この地からは出て他に行くことはしない、領土は献上すると言って助命された、と記されます。『旧事本紀』では、大己貴神(大国主神)と高志の沼河姫との間の子で、信濃国諏方郡諏方神社に座すと記されます。『日本書紀』や『出雲国風土記』には、この神が見えません。
2 両者は、出典も時代・地域も異なりますが、国土を天孫(及びその子孫)に献上して本国を去り、信濃に鎮座するということでは事績が酷似するため、同神か別神かの見解が分かれていました。
本居宣長は、『古事記伝』で「伊勢津彦と云は建御名方ノ神の亦の名にて、右の故事は、即建御雷ノ神の建御名方ノ神を攻追ひたまへる此の段の事なるを、神武天皇の御世の事とせるは、伝の誤なるべし」と記しています。
一方、伴信友は、『倭姫命世記考』で、伊勢津彦は出雲神で伊勢を領し、建御名方神は一旦伊勢津彦を頼って伊勢に逃れ、その後に信濃に去ったという事情があったので、伊勢津彦はその後に信濃に逃げられた、と述べています。
3 ここで問題は、@時代としては、天孫降臨の時だったのか、神武東征の時だったのか、A居住の場所は出雲であったのか、大和ないし伊勢であったのか、ということにもなります。
そのポイントは、天孫降臨の地域と時代がどうだったのかということに帰着しますが、結論からいえば、天孫降臨の地域は北九州であり、高天原に敵対していた大己貴命の葦原中国(『古事記』のいわゆる「出雲」)とは筑前国那珂郡を中心とした博多平野の国でした。その時代も西暦二世紀前半ごろとみられます。『出雲国風土記』には、国譲りも天孫降臨も、事代主神も見えないことはそのことを傍証します。
『古事記』の国譲りの段に見える「大国主神」とは、建御名方命との関連でいえば、大和の三輪山に鎮座する大物主神であり、事代主神ともども大和の神々です。従って、伊勢津彦とは近畿地方に居た神であり、『播磨国風土記』揖保郡林田里の伊勢野の条に見える伊和の大神(=出雲の大穴持神)の子(実態は女婿の意味)の伊勢都比古命とも同神です。
神武東征に際して、事代主神の子という長髄彦は敵対しますが、建御名方命もこれに同調したといい、遂には本拠を追われて諏訪に至ったことになります。建御名方命は諏訪神族の遠祖神として、その子孫は信濃の諏訪地方を中心に長く勢力を保持します。その系譜・出自は竜蛇信仰をもつ海神族の三輪の磯城県主・大神君(三輪君)の一族であり、諏訪神族が神人部を姓氏としたことに通じます。実体は、「長髄彦=建御名方命」とするのが良さそうです。
4 神武東征に際して、これに服属することを潔しとせず、東国や四国などに去った一族がいくつか見られます。その一つが東国の伊豆、さらには武蔵・相模や房総方面に行った伊勢津彦とその後裔であって、これが建御名方命一族と混同されて、「近くは信濃国にいる」と後補された文が追加されたものとみられます。日本古典文学大系の『風土記』には、その上註で、「伊勢津彦神の信濃鎮座の注記は後補の文である。倭姫命世紀に見える」と記しており、『倭姫命世記』は鎌倉時代の偽書です。
古代武蔵国造家の系譜は「角井家系」(『埼玉叢書』第三所収)に見えており、上古の部分については必ずしも信がおけないところもありますが、出雲国造の祖・天夷鳥命の子に出雲建子命(又名櫛玉命、伊勢都彦命)をあげて、「始住2度会県1神武天皇御宇来2于東国1」と記し、その子に神狭命(諸忍毘古命)があげられます。
これらの子孫が武蔵国造の祖の兄多毛比命やその弟の弟武彦命(相武国造の祖)であると系図に見え、「国造本紀」の無邪志国造条には「出雲臣祖名二井之宇迦諸忍之神狭命の十世孫の兄多毛比命」を国造に定めたとあり、相武国造条には「武刺国造祖神伊勢都彦命三世孫弟武彦命」を国造に定めたと記されます。
伊勢津彦が出雲建子命の別名をもつのは、その出自に拠るものであり、出雲国造は天孫族の一支系であって、物部氏族とも近く、鍛冶技術にすぐれ日神信仰を保持していました。伊勢津彦が伊勢を去るに際して、大風を起こし光輝いて日の如くあったというのも、鍛冶に際して風を活用し日神信仰を持っていたことをうかがわせます。物部氏族の祖・饒速日命が神武に先立ち大和に入って、これを長髄彦が主君と仰ぎ、その子の可美真手命が長髄彦を殺して神武に服属したものの、その一派には東国に去ったものがあったことは興味深いものです。
5 以上に見るように、伊勢津彦と建御名方命とは、ともに神武東征当時のころの人ですが、まったくの別神であり、本居宣長の見解がいずれも誤りであることが分かります。
(06.1.23掲上。後に追補)
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