□ 「足助族譜」の成立など (問い) 「足助族譜」の成立について 1 このたび貴HPで度々紹介されておられます「足助族譜」の複写もようやく入手しました。足助町関係では全く知られていなかった資料である上、幻だった片山足助系図や足助喜兵衛家系図の詳細を目の当たりすることができましたことに感謝いたします。
さて、この「足助族譜」について、御執筆の「将軍源頼家の子女とその生母」では、「『東鑑』や『分脈』とは関係のないところで成立したといってよさそうです」と評価しておられます。これは「足助族譜」全体について云えることなのか、重長の女子に限ってのことなのかについてもう少し詳しくご説明願えませんでしょうか。
小生は、「足助族譜」は『分脈』を基礎に置いてその上に足助枝流の系図を嵌め込んで作られたという印象を受けました。
2 既にご承知でしょうか、足助枝流の系図は現在でも比較的容易に参照出来るものとして以下があります。 1.「足助義郎氏所蔵系図」 重連の系
2.「足助衛人重壽家系写」 重連の系
3.「片岡足助氏系図」 重範の直系
4.「大塚足助氏系図」 重範の直系
5.「光伝寺大塚氏系図」 重範の直系
以上は岡野錦彌『南朝秘史 足助一族と大塚掃部助』(平成3年11月・上下巻)の下巻に収載
(ご参考までに、重長の女子については上記系図中の(1)「足助義郎氏所蔵系図」が「山田九郎源重成妻」と譜註をいれています。)
6.「足助虎太郎系図」 重連の系
東京大学史料編纂所に所蔵
この他に戦前の足助町には、足助氏の後裔を称する人々から系図類等の資料が多く寄せられていましたが、現在はすべて所在が不明で残念なことです。
昭和十年代には地元の郷土史家がこれら資料を総合して一大足助氏系図の作成を試みています。この草稿を見ますと、「足助族譜」とは比べ得べくもない簡略なものですが、ベースになっているのはやはり『分脈』で、これを基礎にしてその上に足助枝流の系譜を重ね合わせ当時の後裔を位置づけています。「足助族譜」も全体について見れば『分脈』が基礎になっていると思われるのですが、いかがなものでしょう。成立が無関係とは何が基礎になっているかとはまた別の意味合いなのでしょうか。ご見解を賜れば幸いです。
(加藤潮比古様より。05.8.22受け) |
(樹童からのお答え) 1 足助氏の系図について、ご連絡等ありがとうございました。岡野錦彌氏の著作については、承知していなかったので、知見を増やすことができました。
2 さて、拙見についてのお問い合わせですが、突き詰めれば、「足助族譜」(以下、「同族譜」と記す)の成立とその採集の過程についての見方ということになりますが、とりあえず、私の手元にある資料からみて、次のように考えております(メモ程度の部分が手元にあるくらいなので、勘違いもあるかもしれません)。
(1)
同族譜が中田憲信関係の系図資料に見えて、同好の士・鈴木真年の資料には見えていないということで、中田憲信が自ら採集したとみられますが、具体的な採集先は記されていません。
このため、現存の資料から推測することになりますが、同族譜が後代まで記述するのが二系統あり、第一の系統は芸州豊田郡本郷町に居住した片山安太郎重威が最後の世代であり、第二の系統は加藤右馬允可重の甥で酒井忠勝に仕えた片岡重勝の系統であって、文久元年(1841)の記事が見える良秀が最後の世代となっています。このうち、後者の系統は途中の戦国期頃に「片岡某」という世代が三代ありますので、前者の系統に伝えられた系譜が基本にあったとみられます。おそらく、片山安太郎重威は明治初期頃に活動した人物で、この本人(あるいはその近親か)が中田憲信の採集先ではなかったかと推されます。中田憲信がとくに何らかの編纂を加えたとも考え難いところです。〔この段落は修正点あり、後ろの記事を参照のこと〕 (2) 同族譜がいくつかの足助氏関係系図を統合して記されたことはたしかとみられますが、(途中段階で何度かの編集はあったかもしれませんが、最終的には、)おそらく江戸末期に片山安太郎重威家の関係者が片岡良秀家の系図等を入手して作成されたのではないでしょうか。地理的にも系図分岐からみても、遠く離れた同族が多くの系図史料を連絡・交換したものとはあまり考えられないものと思われます。〔この段落にも修正点あり、後ろの記事を参照のこと〕
同族譜作成の際に、両家等の系譜所伝を基礎にしたものの、記事内容からいって、『東鑑』や『分脈』は参考にしなかったと思われます。これは、重長の女子に限ってのことではなく、「足助族譜」全体についていえることではないかとみております。同族譜において、上記両書に直接に基づく記事・内容は管見に入らなかったように記憶しております。ただ、『分脈』は江戸期には「大系図」として巷間にかなり流布していましたので、まったく参考にされなかったという保証はありませんが。
(3)
ご承知のように、『分脈』自体が室町前期までの洞院家歴代の系図採集・編纂の努力の現れであり、当時の尾張・三河の土豪まで詳細な系図収集がよくできたものと驚きますが、同族譜が『分脈』とほぼ符合していても、それは両系図の基になる資料(史実かそれに近いものか)が同じであったということだと考えます。
(05.8.23 掲上)
再度「足助族譜」について (加藤潮比古様より。05.9.1受け) 「足助族譜」についてご教示いただきました点を参考にさせていただき、自分なりに整理してみました。ご検討いただけたらと思います。
一、「足助族譜」の構成
1.「族譜」に記載されている人々は以下の通りです。後代までも記載されている大きな系統は(ロ)・(ホ)・(ヘ)・(リ)の四系統が数えられると思います。(足助類縁の記載は無視)
(イ).『分脈』が記載している重長を起点とした足助氏一族 全34名
(ロ).重顕の裔孫たる沼津足助喜兵衛枝族34名
(ハ).重秀−重成の裔孫たる信州伊那の枝族 5名
(ニ).重朝−重成の裔孫たる椿木枝族 2名
(ホ).重連−重成の裔孫たる佐渡足助枝族 114名
(ヘ).重範−重政の裔孫たる近江片岡枝族95(94)名
(ト).重範の女子 2名
(チ).重範の男子重躬(重春)
(リ).重躬(重春)の裔孫たる安藝片山枝族27名
(ヌ).有方の男子有任 1名
2.このうち(イ)『分脈』が記載している重長を起点とした足助氏一族全34名の記述の特徴は次の通りです。
(1).34名全員がそっくり「族譜」に掲載されています。
(2).34名の世系は『分脈』と一致します。
唯一例外として、重連−親重−重藤という長幼の順が、『分脈』では親重−重藤−重連です。
(3).34名全員の名前の漢字表記が『分脈』と完全に一致します。
唯一例外は『分脈』重季が伝本の相違による重秀とされるのみ。
3.「族譜」中の最末期の記事
@.沼津足助喜兵衛家系の貞房に関する
「明治十九年十二月三十日没」
A.佐渡足助家系の長宜に関する
「明治二十二年五月廿二日卒」
B.重範に関する
「明治二十四年七月二十三日天皇追懐其誠忠特贈正四位」
4.譜註に住所が記され当代主を指すと見られる者
@.沼津足助喜兵衛家系 記載される者なし
A.佐渡足助家系 一名(但し、死亡記事もあり)
B.近江片岡家系 一名
C.安藝片山家系 一名
二、【参考資料】−「片岡氏本姓足助之畧系」
岡野錦彌『南朝秘史 足助一族と大塚掃部助』下巻収載の「片岡氏本姓足助之畧系」の末尾部分を翻字してみました(判読できない文字が多数有りお恥ずかしい次第です)。
「 神應院禪覺
禪定養子ニシテ実父ハ京都■人御室御■
御内用達返満仲後胤新田義貞ノ嫡流辻
芳憲[號伊右エ門]嫡男幼名梅太郎號宮内
年 月 日禪定家督相続號禪□
慶應四壬辰年王政復古神佛判然被 仰□
■■家高辻殿ノ御沙汰ニ依リ復飾ノ■
養父ノ命ニ従ヒ往古ノ由緒ヲ以テ氏ヲ
足助ト改メ武雄號光俊 」
これから、「族譜」の片岡系統に光俊足助武雄と記載される者が、『明治過去帳』(東京美術、昭和46年新訂初版)が採り上げている国学者の足助武雄であることが判明しました。
(この足助武雄あたりは「族譜」の作成者の候補に挙げてよいのではないでしょうか)
三、片山足助系図について
愛知縣教育會編『忠臣足助重範と其の一族』(愛知縣教育會昭和7年 高木元豁氏の執筆と云われます)には、安藝國本郷町の片山系圖によるとして、重範および重春に関する譜註と思われるものからの引用と「片山系圖の價値」という論考があります。
後者を要約しますと、「今に殘る數ある足助系圖の中では、恐らく實説を傳へたに近いものであらう。」が、「重春が笠置脱出後、大和國にあって大塔宮の擧兵に參加したといふことは妥當を缺く」し、「重春を重範の子としてゐること、重範の女子を列記して二條良基の侍女とするなどの誤を含んでゐて」、「その作製や、記載は早くも徳川初期のものと考へられる。」ということのようです。
実説を伝えたに近いかどうかは別としまして、これにより、「族譜」における重範と重政・二人の女子・重春の親族関係の記載部分が片山足助系図に拠っていることは確かなことになります。
四、「足助族譜」の基本になった系図、『分脈』との関係について
記事内容について『分脈』があまり参考とされていないとのご教示はよく理解することが出来ました。それでもなお、「族譜」の構成(一の2)で見ましたように、「族譜」が「『分脈』が記載している重長を起点とした足助氏一族全34名」をほぼ完全に踏襲しているという事実は重いと考え、小生はなお暫くこの点に拘って調べてみたいと思っております。
『分脈』と「族譜」とでは成立時期に数百年の開きがありましょうから、基になる資料が同じであったということも、なかなか想定し難いところではないでしょうか。
いずれにしましても、「族譜」を構成する主要四系統の内、佐渡足助と片岡足助の二系統しか系図の全体を確認出来ない現段階では、全ては推論の域にとどまるようで、不適切な質問の仕方であったと反省いたしております。
<樹童からのお答え> たいへん興味深いご示唆をいただきありがとうございました。
足助武雄については承知しておりませんでした。調べてみると、足助武雄(楓崖)は綣村大宝神社神主で、幕末に国学者西川吉輔とともに国事に奔走したと伝えられ、その略歴(「足助武雄略歴覚書」)は大宝神社に所蔵されるとのことです。
さて、先日、「足助族譜」の原本を確認しに行ってきました。その結果を踏まえて下記のように記しておきます。ここでは、先に、不十分なメモにより記した記事を一部訂正します。
1 貴信が「一、「足助族譜」の構成」で詳細に記されますように、『分脈』が記載する以外の部分では、(ホ)の佐渡足助枝族と(ヘ)近江片岡枝族の人々が多く、しかも明治期まで継続していますので、そのいずれかの関係者が本件族譜を編纂したのではないかと推されます。
2 両枝族を比較してみますと、阿波蜂須賀藩の重臣となって阿波に移遷した佐渡足助枝族の掲載人名が近江片岡枝族に比べて20人ほども多く、しかも経歴や生母・養子関係などの記載内容が後尾になるほど詳細であり(幕末期の佐渡長賢の子女が養子も含めて合計13名、長賢の嫡養嗣〔孫で、嫡男の嫡子という続柄〕である佐渡長寧の子女が同じく8名、長寧の嫡子傍木長宜の子女が5人)、そのなかには早世者まで丁寧に列挙されております。一方、近江片岡枝族については、後尾の足助武雄と周辺人物でも簡単な記述にとどまります。
そうすると、明治期の足助一族のなかに族譜の編纂者がいたとすると、それは佐渡足助枝族のなかに求めざるを得なくなります(従って、貴見解の足助武雄候補説には賛意を感じません。武雄の他氏からの養嗣という経歴からも、足助氏の系譜を編纂する動機には弱いのではないかと思われます)。
3 明治期の佐渡足助枝族のなかでは、蜂須賀藩の重臣で家老職・執政職にもなった傍木半兵衛長宜(後に改称して半治)が嫡流でかつ最有力者の家長であって、その系統の末尾は傍木長宜の子女五人があげられ、そのうち三名が早世し、残り二名も成人まで至っていない模様となっております。この長宜が本件族譜の編纂に関与した蓋然性はかなり高いものと思われますが、問題は長宜が明治22年5月22日に卒去していることです。しかも、その後にも先祖の足助重範が明治24年に天皇がその誠忠を追懐して特に正四位という位階を贈ったという記事が見えます。
4 次に、考慮されるべき要素は本件族譜が『諸系譜』『各家系譜』という中田憲信の編纂した史料にしか見えないことです。つまり、中田憲信が原資料を採録したことは確かであり、掲載に際してなんらかの編集・追記をした可能性も大きいと考えられます。
中田憲信の経歴を見ると、明治24年(1891)10月に徳島地方裁判所の検事正に補され、その一年後の人事異動で甲府地方裁判所所長判事に任命されるまで徳島に在住しましたが(以上、官報)、この仕事の関係で徳島県関係の古文書・系図類が『諸系譜』にきわめて多くで所収されており、その内容の多さ・詳細さは『阿波国徴古雑抄』を凌いでいます。ただ、憲信の徳島赴任期間の短さや安芸・近江・駿河沼津の足助一族の系譜までが所載されている事情を考えると、本件族譜を第一次的に作成ないし編纂したと考えるには無理がありそうです。
5〔一応の総括〕 以上の諸事情を総合的に考えてみますと、次のように考えるのが自然なようです。
@ まず明治20年頃までに「足助族譜」が阿波の傍木長宜の意向ないし支援により一旦まとめられた(明治19年12月の沼津在住の足助喜兵衛貞房死没の情報も、傍木一族に拠ると思われる)。
A その族譜を明治24年10月に徳島に赴任した中田憲信が傍木長宜の遺族から採録し、若干編集したうえで追記も行い、その編著作に後日掲載した。その際、『分脈』の記載もほぼ全面的に取り入れた。
以上は、現存資料からの推測ですが、傍木長宜の末子で家督を継いだとみられる傍木太郎のご子孫がおられ、その家になんらかの史料・所伝が残っていれば、分かってくる事情があるものと思われます。
(05.9.16 掲上)
(加藤潮比古様よりの返信) 05.9.16受け
小生の主張を採り上げて戴き、その上で原本の確認にお出掛けいただき、恐縮しています。また、先回のお教えに従い、『諸系譜』中の「足助之家系」および「足助」の複写を入手することが出来ました。併せてお礼申し上げます。
1 さて、御説明の「2」については、佐渡足助枝族の系図が他に比較して格段に充実したものである旨のご指摘としては、充分に理解することが出来ました。ただ、前提にされているものかと思料する「充実した系図を保持し来たった枝族のなかに編纂者を求めざるを得ない」といった趣のご見解に少しく疑問を抱くものであります。
2 段落「3」での御説明につきまして、傍木半兵衛長宜が一族の最有力者の家長であって、足助氏の系譜を編纂するに足る政治力・財力を兼ね備えた人物であることは納得することができましたが、系譜編纂の動機の面から若干の疑問を持ちました。
@、『諸系譜』の「足助之家系」に見えることですが、明治24年足助重範贈位の際の家系照会に対して、佐渡足助氏の惣代としては、嫡流ではない足助衛人が「源満政ヨリ三十四代」を称して回答しています(日付の記載はありません。本文中には明治22年長宜死亡の記事があります。)
A、同系図において長宜には足助氏としての代数が与えられていません。却って同人の系図上の伯父長若(足助衛人の父)が三十三代とされています。
B、蜂須賀氏に仕えた以降の嫡流は、「族譜」の譜註で見る限りでは傍木氏か佐渡氏となっていて、足助氏を号していなかったように思われます。『旧領旧高』でも「足助衛人知行」に対しては「佐渡半兵衛(佐渡左近)知行」のような記載がされています。
以上三点の状況を考え併せて、傍木半兵衛長宜に足助氏系譜の編纂を志すような特段の動機があったとは想定し難いのですが。
3 次に、同じく段落「3」について、嫡流の系統の末尾は長宜の子女五人があげられてはいますが、全員の諱名(諱名で正しいのでしょうか?実名と言うべきでしょうか、)が不明で「某」とだけ記載されています。この点は、本件族譜の編纂に関与した者が長宜家の事情に疎い者であったことを示す、とも云い得るのではないでしょうか。尤も、長宜の従兄の上記足助衛人の「足助之家系」にも同じく「某」と記載されていますから、どう解釈したものでしょうか。
数回に亘り「足助族譜」に関して実に数多くのご教示をいただき、有り難う御座いました。まだ、「族譜」に関しては、信州伊那の足助氏についてなどご意見を賜りたいことを山ほど抱えています。
このほか、佐渡足助氏についても興味は尽きません。例えば、織田信長が信雄の家来に附けた『勢州軍記』の足助十兵衛尉の比定。更にまた、佐渡足助氏の枝祖(足助重連、その子足助孫三郎重成)と鎌倉幕府との関係(『尊卑分脈』の理解とは相違して、元々は鎌倉幕府北条方に与した人物であるとの説を開陳してトンデモな主張と顰蹙を買っております)等々。追々調査の上時期をみてご指導ご意見を仰ぎたく存じます。その節は何卒宜しくお願いします。因みに「足助之家系」は孫三郎重成の譜註で「中頃鎌倉ニ随元弘三癸酉年帝ニ帰順同年五月鎌倉於前濱戦死(更に別系図では 長崎ノ為ニ被討)」と記しています。
(樹童からのお答え) 貴信のうち、番号を付けた項目についてだけ当方の考えを示しておきます。
1 比較の問題ですが、系図編纂者は自己の周辺人物に詳しく、その記事をつけがちだと考えたほうが自然であろうということです。もちろん、一概には言えないこともありましょうが。
2@、明治24年足助重範贈位の際の家系照会に対して、佐渡足助氏の惣代として足助衛人が「源満政ヨリ三十四代」を称して回答したのは、日付の記載はないものの、既に家督の傍木長宜が死亡していて、当時(明治22年の長宜死亡後のある時期)、一族の長老であった衛人が行ったものと考えられます。この一統の家督は、『足助族譜』の記事を見ると、天保元年に卒去した佐渡美濃長賢の跡は嫡孫の長寧が承祖で継ぎ、その跡を嫡子の長宜が継いだことは明らかです。
A、「足助之家系」は足助衛人の家系ということで、その観点から長宜の伯父長若が三十三代、その子の衛人に三十四代と代数が与えられ、その一方、長宜には代数がうたれていないものと考えられます。
B、蜂須賀氏に仕えた以降の嫡流は、殆どが佐渡氏を号しています。すなわち、初代の佐渡七左衛門尉長政が傍木半兵衛、その子以降の中間がまた佐渡氏に戻り、幕末期〜明治前期の佐渡半兵衛(左近)長宜に至って初代の名に因んで傍木半兵衛(のちに半治と改称)と名乗っています。『旧領旧高』で「足助衛人知行」に対して「佐渡半兵衛(佐渡左近)知行」のような記載がされているのは、足助衛人が独自の知行を持っていなかったことを示すと思われます。この一統では、なぜか庶流が足助を名乗っています。
C、なお、本件系譜編纂の動機は不明ですが、一般には一族の団結や拡がり、あるいは所領や家督などの確認、叙位受爵があり、あるいは足助一族については先祖重範の贈位がなんらかの念頭にあったのかもしれません。
3 明治初期までの武家の名前は、諱(実名)や通称など複数の名を持ってそれらの併称も可能で、かつ、その変更も自由でしたが、明治四年の戸籍法制定とそれに伴う翌五年の施行(壬申戸籍の作成)と関連法令により、公式的な戸籍には一人が一つの名前しか持てず、改名もできないことになりました。
具体的には、明治五年五月七日に「複名禁止令」(太政官布告149号)が、次いで八月二四日には「改名禁止令」(太政官布告235号)が出され、前者で選択的な一人一名主義が規定され、後者で改名自由の習俗は法制上否定されたわけで、生まれた時に命名された戸籍名を唯一の正式名として改めないこと(例外がある)、となったわけです。また、姓氏と苗字(名字)も氏として一本化したものです。例えば、大久保一蔵藤原朝臣利通(前から苗字+通称+氏+姓+諱)がたんに大久保利通となったことで示されます。これら法令の施行の際に、これまで使用してきた姓氏や苗字、名前に替わって別の氏を名乗って戸籍に記載された例も見られ、同様に佐渡長宜が傍木半治となったものとみられます。
『足助族譜』に戻って、「某」と記載されるのは明治五年以前では実名不詳を意味するのは当然ですが、それ以降の人では名前が一つとなったわけですから、かつての諱がないことになります。従って、成人していなかった者については敢えて「某」と記す必要はないのですが、同系譜は諱と通称が併称されていた時期にまず成立したのかもしれません。
(05.9.16 掲上) |
(応答板トップへ戻る) |
ホームへ 古代史トップへ 系譜部トップへ ようこそへ |