将軍源頼家の子女とその生母

(問い) HPの「折戸六郎重行と美濃・尾張源氏の山田一族」において、重長が源為朝の女を娶って生んだ女性が将軍頼家の子を生み、それが公暁だとする『東鑑』の記事を取り上げられることを見て、その主旨は『東鑑』(「吾妻鏡」)の記事の真偽を議論することにはないことは承知しつつ、敢えて『尊卑分脈』との関連から御意見を伺いたいと思います。
 
 公暁について、賀茂重長の女が将軍頼家の子を生み、それを公暁だとする「吾妻鏡」の記述は、足助氏と鎌倉将軍家との関係という観点から私は注目してきました。
 ところが、『尊卑分脈』では必ずしもこの関係を認めていないように思われます。ご承知のように、
1 足助重長の女子の箇所では「若宮別当禅曉母」と記し、
2 将軍頼家の子の箇所では公曉・禅曉共に母としては別人を掲げ、欄外の註で「按吾妻鑑母源重長女」としているのみですし、
3 本件の質問者の方が折戸六郎重行の比定で指摘された「小島五郎重行」の箇所で、その女子に、足助重長の女子と全く同じ「若宮別当禅曉母」と記しています。
 これらの『尊卑分脈』の記述についてはどのようなお考えをお持ちでしょうか。
 
  (加藤潮比古様より、04.12.5受け) 

 (樹童からのお答え)

  
 『東鑑』も『尊卑分脈』も、鎌倉期の歴史や人間関係を考えるために重要な史料であり、それぞれ史料価値が高いとされながらも、作為的恣意的な誤りなども散見し、十分注意を払って用いなければならないものと思われます。両者の比較では、総じていえば、やはり前者のほうが高いうえに、後者は武家系図部分では信頼できない点をかなり含んでいると思われます。とはいえ、具体的に問題個所を検討したうえで判断する必要があることはいうまでもありません。
 
 ご指摘のように、『分脈』では将軍頼家の子女として、一万丸、公暁、栄実、禅暁、女子(竹御方)とあげ、その生母については、一万丸は比企判官能員女、栄実は昌実法橋女、竹御方は木曽義仲女と記しておりますが、信頼できる『分脈』の一本(前田家本、脇坂氏本)には、公暁及び禅暁の母については記載がありません。別系統の本には、公暁については、「母同一万」、禅暁については「母同栄実」と記されますが、これらはどうも後世の書込みであった模様で、そのままでは信用できないようです。そうすると、別途、公暁及び禅暁についてはその母を別に求めたほうが良さそうです。
 
禅暁の母については、『分脈』に二伝があげられます。すなわち、清和源氏満政流には足助・賀茂六郎重長の女子に「若宮別当禅暁母」と記し、また賀茂六郎重長の兄小島五郎重平の孫の小島五郎重行の女子にも同じく「若宮別当禅暁母」と記しますから、ここに系譜の混乱が見られます。この二つの所伝は、内容から見て源泉は同じと考えられますが、その場合は年代的に考えると、小島五郎重行の兄と叔父が承久の変(1221)で死亡していますから、重行の女が禅暁(?〔1202か〕生〜1220死)の母となることは年代的世代的に無理な話です。そうすると、上記所伝の混乱は、足助の祖賀茂六郎重長には重行という別名があったことを示唆しているのかもしれません。先に、「折戸六郎重行と美濃・尾張源氏の山田一族」という項で「折戸六郎重行=足助(賀茂)六郎重長」という可能性をあげたところです。
一方、『承久兵乱記』には禅暁の母が「しょうかん法橋女」と記されますから、これは、栄実の記事に見える「昌法橋女」のことだと思われ、ともに同じ「昌寛法橋」を指すものとみられます(「實」と「寛」とは字形が類似)。
この人物は、『東鑑』に一品坊昌寛と見え、成勝寺執行で頼朝挙兵の当初から幕府に仕え頼朝の右筆的な存在として活動するほか、源範頼の西海転戦に従軍し、建久の二回の頼朝上洛にも従っています。一品坊昌寛の系譜は、『分脈』藤原道兼公孫にあげられる山鹿左衛門尉家政の譜註に見えており、そこでは、家政が「(宇都宮)朝綱猶子、実父高階氏業遠子成佐曾孫一品坊昌寛子也」とあげられます。『下野国志』所載の宇都宮系図には、家政は実は高階忠業男、朝綱猶子と見えますから、一品坊昌寛の俗名が高階忠業だと知られます。
このように禅暁の母については、二説あったことが分かりますが、どう考えるかという問題です。
 
さて、公暁、栄実、禅暁の母は、賀茂六郎重長の女と一品坊昌寛の女と知られますが、公暁は、栄実あるいは禅暁のどちらのほうにつけたらよいのでしょうか。これらの法名からみて、公暁は名乗りが禅暁に近く、しかも『分脈』には禅暁の童名を「善哉」と記しますが、『東鑑』の建仁二年(1202)十一月廿一日条の「将軍家若君字善哉、三歳」という記事、同建暦元年(1211)九月十五日条の「金吾将軍若宮善哉公、法名公暁」という記事から、善哉は公暁と同人だと分かります。従って、公暁は禅暁の兄で両者が混同されやすかったものとみられます。
しかも、栄実は、千寿の幼名のときに建保元年(1213)泉親衡に将軍として擁立されたため出家させられ、翌二年(1214)には在京で和田氏の乱の残党に擁せられて六波羅を襲おうとした企ても漏れ、十一月十三日に一条北辺の旅亭を襲われ自害していますが、このときは公暁等にはなんら嫌疑はかかっていません。そして、公暁が将軍実朝殺害で誅された建保七年(1219)正月の翌承久二年(1220)四月十一日(「仁和寺日次記」では十五日)には、禅暁は兄公暁に同意の嫌疑で京都東山辺りで北条氏の手により誅されてたという事情もあります。
これらの事情からいって、公暁・禅暁のグループと栄実との二つに分けられるのが自然です。その場合、前者グループの母として賀茂六郎重長の女がおり、栄実の母として一品坊昌寛の女がいたものと考えられます。なお、公暁が一万(一幡)と同じく、比企氏所生であれば、比企能員の乱の際に誅されていたものとみられます。
 
そうすると、『東鑑』建保七年正月廿七日条の公暁誅殺記事に、公暁は「金吾将軍<頼家>御息、母賀茂六郎重長女<為朝孫女也>」(<>内は割註)とあることと符合します。『分脈』でも、賀茂六郎重長の子の足助冠者重季には、「母源為朝女」と記されます。
足助氏については、管見に入ったなかでは最も詳細な系図と評価できる「足助族譜」という系図(中田憲信編の『各家系譜』や『諸系譜』第六冊ノ二に所収)があり、そこでは足助氏の初祖とされる重長について、「加茂六郎、足助右兵衛尉。住三河国足助邑、仕右兵衛佐頼朝朝臣。治承五年三月為平家被虜被殺」と記事があり、その子の重秀(ママ)については、「足助六郎、足助冠者。母鎮西八郎為朝女。居于足助。承久大乱参宮方為東軍被討畢」とありますが、その妹については女子(山田九郎重武室)をあげるのみで、公暁あるいは禅暁についての記事はありません。この「足助族譜」は『東鑑』や『分脈』とは関係のないところで成立したといってよさそうです。
 
 以上の検討から取りまとめると、将軍頼家の子女の生母については、一万丸が比企判官能員女、栄実が昌法橋女、竹御方が木曽義仲女というのは『分脈』どおりであり、公暁・禅暁が同母兄弟でその母は賀茂六郎重長の女というのは『東鑑』記事に沿ったものと考えられます。

  なお、竹御方は、『東鑑』に「竹御所」として現れる四代将軍藤原頼経の御台所であり、寛喜二年(1230)に二八歳のときに結婚しましたが、その四年後の文暦元年(1234)に姫君を生んだものの難産のために死去したものです。従って、生没年は1203〜1234となります。母が木曽義仲女という系譜は信頼してよいと考えます。すなわち、竹御所生母は、兄弟の清水冠者義高(義仲嫡子)とともに頼朝に人質となり、義高が頼朝長女の大姫を許嫁としたように、この女性は頼朝長男の頼家の室となったものとみられるからです。

  (04.12.12 掲上、05.8.23若干補訂)
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