□ 折戸六郎重行と美濃・尾張源氏の山田一族 附.足助族譜 (問い)『源平盛衰記』に見える播磨室山合戦の戦死者で、美濃國の住人・折戸六郎重行の系譜に関心がありますが、清和源氏八島氏族の出身と考えてよいでしょうか。 (質問の詳細) 『源平盛衰記』行家與平氏室山合戦事に見える「美濃國の住人折戸の六郎重行」を清和源氏八島氏族の出身と考えておりますが、『尊卑分脈』には記載されていない人物であり、重行と云う名の者は小島太郎重俊の五男に「小島五郎重行」が見えますが兄二人、叔父、少し上の一族等が承久の変に京方として参戦、討死しており世代的に一世代下ではないかと思います。 しかし、折戸六郎重行は八島・山田の一族と行動を一緒にしているようであり、名乗りにも「重」字を用いている事から、系図の脱落とも考えたいのですが如何でしょうか? なお、『姓氏家系大辞典』折戸條では「美濃国多芸郡折戸邑より起る。新撰志舟付村條に「折戸重行、源平盛衰記の播磨室山合戦の條に、備前守行家、美濃国住人、折戸六郎重行等と戦ふ、云々と。重行は景家(平家の士、飛騨左衛門)に組まれて、くびとられにけり、としるせり、重行も此のわたりの人なるべし」と見ゆ。源平盛衰記には「美濃国住人をりとの六郎重行」とあり」とあります。 八島・山田一族の者で他に系図に記載されていない人物が居るかどうか、私も鋭意、調査中ですが中々に調べられずにおり、お尋ね致します。 |
(樹童よりのお答え) 1 寿永二年(1183)十一月に播磨国室山(現小野市)の合戦で、京にあった源義仲の叔父行家が率いる軍勢は、前月の備中水島での義仲の合戦に引き続き平家の軍勢に敗れ、義仲凋落の契機の一つとなりました。このときの模様を記す『源平盛衰記』巻33の室山合戦の記事には、行家が率いる千余騎のなかに山田次郎重弘、美濃国住人の折戸六郎重行、伊賀国住人柘植十郎有重の三名があげられ、そのうち後の二人が同合戦で戦死したとあります。その段落中に、「折戸六郎重行」は二回出てきて、景家(前文と併せ考えると、飛騨三郎左衛門尉景経〔伊勢の伊藤一族で、飛騨守藤原景家の子〕とするのが妥当)に組まれて首を取られたとあります。 ところが、「折戸」という苗字も「六郎重行」も、管見ではどの系図関係資料に見えず、どのように位置づけるのかという問題が出てきます。 太田亮博士の『姓氏家系大辞典』では、ご指摘のように、オリド(折戸)の苗字をあげ、「美濃国多芸郡折戸邑より起る」とし、『新撰美濃志』の舟付村条の記事を引くに留まり、具体的な系譜を記しません。そこで、貴質問ということになったと思われますが、私も少し調べた限りでは、これ以上のことが分かりません。 そのため、いくつかの傍証(間接)資料から、多少なりとも、この問題を考えてみようと思います。従って、以下の記述は、かなり試行錯誤した結果の現段階での判断であり、あくまでも一つの推論としてお読み下さい。ほかに良い資料に気づけば、私見の修正を考えたいとも思っています。 2 清和源氏満政流に美濃及び尾張の源氏が出て、源平争乱などで活動しますが、承暦三年(1079)八月に源義家により討伐を受けた源重宗(満政の曾孫)の子孫であり、両国に多くの苗字が分出します。その主な分布地は、美濃国方県郡と尾張国山田・春日井両郡であり、美濃の八島、尾張の山田を嫡家としております(このため、ここでは「山田一族」と一括する)。 この関係の系図は、『尊卑分脈』の清和源氏満政流がもっとも詳しい模様で、現在管見に入ったかぎりでは、これより良本を見ません*1。ところが、仔細に検討してみると、同系図にはかなりの混乱もあるとみられますし*2、『源平盛衰記』『東鑑』に見える人物も、系図的にどう考えるたらよいのか不明な者も散見します。従って、個々の関係者については、居住地や世代、同時に活動する人物などから総合的に考えていく必要があると思われます。 満政流の美濃源氏は、「重」を通字として用いる傾向があり、方県郡の伊自良川流域(岐阜市西北部)を中心の勢力圏として八島*3・小島(いま一日市場の地)・安食(葦敷)・彦坂(孫坂)・木田・開田(改田)等の苗字を出しており*4、これらの地名は岐阜市域に現在でも見られます。ところが、「折戸」という地名は、古代からこの地域には見えません。その一方、「折立」という地が改田・木田の東北方近隣に位置しておりますので、あるいは折戸は似通った折立の誤記ではないかと考えてもみましたが、これはやや無理がありそうです。現在の苗字や地名としては、折戸のほうが折立よりも多いという事情もあります。 3 次に、太田博士のいう「美濃国多芸郡折戸邑」を当たってみますと、具体的な地名は現在確認できず、『新撰美濃志』多芸郡舟付村条で言う「この辺り」としますと、いま養老郡養老町東北部の船付一帯となります。この近隣には、多芸郡高田(現養老町で、船付の西北近隣)と安八郡高田荘(現海津郡平田町南部の高田一帯か)という地名が目に着きます。この高田のどちらかから、美濃源氏の高田氏が起ったとされるからです*5。 高田氏は、前掲『尊卑分脈』に見えて源重宗の曾孫重満(山田太郎、和泉冠者)の三弟・高田三郎重宗を祖とし、その子に柏合冠者重朝(その子に平野冠者重季)、山田三郎重村、大和房重慶(その子に高田太郎重定等)があげられます。 一方、『東鑑』には高田四郎重家が見えており、「宗」と「家」との似通った違いから同人とも考えられますが、三郎と四郎との差異も気になります。同書の建久元年(1190)十一月二日条には、山田次郎重隆・高田四郎重家等は、配流の宣旨を蒙りながら、各々配所に赴かないので、重隆を墨俣より連行したと記されます。これに先立つ、同年六月廿九日条には、尾張国の住人重家・重忠等の所課の事、法に任せて御沙汰あるべくという旨の頼朝請文があり、引き続いて八月十三日条には、前佐渡守重隆を常陸へ、高田四郎重家を土佐に流す官符が出されたと見えます。 また、『源平盛衰記』巻27にも高田氏が見えて、「泉太郎重光、同弟高田四郎重久」とあり、墨俣合戦の際に虜とされたと記されます。これに対し、『東鑑』では行家に従った泉太郎重光が見えますが、泉太郎・同弟次郎は平家の左兵衛尉盛久に討ち取られたと記します。「泉太郎重光」が上掲『分脈』の和泉冠者重満に当たるとすれば、その「弟高田四郎重久」は高田三郎重宗に当たりそうですし、『分脈』には重満は「治承合戦之時於美濃国墨俣為平家被討了」と註され、重満の子に泉太郎重義・山田二郎重忠(改重広と記)をあげますから、上記記事と符合します。 墨俣合戦とは、治承五年(1181)三月に源行家が甥の卿公義円(義経の同母兄)とともに平家と戦ったものであり、このときも行家は敗れ、卿公義円は討死しています。既にこの時点で、満政流の美濃・尾張源氏の一族が行家に従っていることが分かりますが、室山合戦に見える山田次郎重弘の位置づけもよく分かりません。というのは、泉冠者重満の父山田先生重直の弟に山田六郎重弘が見えるとともに、重満の子の山田二郎重忠に「改重広」と見え*6、重宗の孫にも重広(九条院蔵人)がおり、「寿永二年八月為義仲被討了」という記事があるからですが、とりあえず山田六郎重弘に当たるものと考えておきます。 以上のように見ますと、問題の折戸六郎重行は和泉冠者(山田)重満の近い一族に当たるのではないか、と推されるところです。 <以下の4及び5は、検討を加えるうちに、「足助氏の初期段階」などについてのかなり大胆な推論(従って、要再検討)になってしまいましたが、その前提でお読み下さい> 4 もう少し敷衍して考えてみます。ごく素直に考えていけば、上記の事情から見て、折戸六郎重行を和泉冠者(山田)重満の六弟に考えたいのですが、『分脈』ではその位置に足助(賀茂)六郎重長があげられており、足助は三河国賀茂郡の地名ですから折戸六郎重行とはとても重なりそうもないようにも見えます。ただ、『分脈』では、足助重長には「為平家被討了」(この重長の平家との合戦で討死したことは、現存資料には全く見えない)と記され、重長の子の足助冠者(太郎)重季については「住三河国足助」とありますから、実際に足助に住んだのが重季のときのようでもあり、「重行=重長」ということの否定が、必ずしもできるわけでもありません。 これに関して、『姓氏家系大辞典』に引く「片岡氏系譜家伝」には、重長を「葦敷右兵衛尉」とあげ、「重長迄は尾張国浦野の辺に住す」と記します。 5 この尾張国浦野についての所伝は、調べてみるとなかなか興味深いものがあります。 満政流の尾張源氏山田一族は、山田郡(現在の瀬戸市・尾張旭市・長久手町及び名古屋市の守山区北区名東区辺り一帯)の山田荘*7とその西隣の春日井郡浦野(現在の春日井市域か)を中心として分布します。『和名抄』の春部郡(春日井郡)には柏井郷・安食郷が見えますが、両郷は春日井市南部の柏井・味美と名古屋市北区味鋺一帯とみられ、山田一族に柏合(前掲の柏合冠者重朝)・葦敷(葦敷二郎重頼等)が見えることに留意されます。そうすると、足助は葦敷の転訛のようでもあり、しかも地理的に考えて、足助氏の先祖重長は美濃の安食というより尾張の安食・葦敷のほうに縁が深かったのかも知れません。 この尾張の葦敷から南東の方向に15キロほど行くと、愛知郡折戸(現日進市折戸。日進市北部ないし全域が山田郡という説もある)という地があります。この地は、『尾張志』によると、文明三年(1471)四月、丹羽氏従(幕藩大名の播磨三草藩主丹羽氏の遠祖)が折戸村に城を築いたとされますから、要地だったと思われます。そして、やや迂回気味ですが、山田荘の山田一族居住地から三河国賀茂郡の足助の地への経由地に位置づけてもよいのかもしれません。 また、地図を注意してみると、尾張の葦敷から東南南の方向へ8キロほど進んだ地にも折戸(ここも愛知郡か。現名古屋市昭和区折戸町)という地名がありますが、この地名は新しいとされます。しかし、あまり遠くない同市の中村区・西区あたりに当たる「那古野」の地に鎌倉中期、足助支族がおり、弘安八年(1285)の霜月騒動の際には足助重房は安達方について討死しています*8。昭和区折戸から日進市折戸へは南東約10キロほど進めば到達します。さらに、昭和区折戸から東南2キロほどの近隣に、愛知郡八事(やごと)村という地があり、現在、同区の八事本町を中心とした地域ですが、山田二郎重忠の孫・左近大夫重親は「号八事」と『分脈』に見えますから、この辺りに居住していたものとみられます。そうすると、昭和区の折戸も、『角川日本地名大辞典 愛知県』に言うような新しい地名ではない可能性があります。 こうしてみると、『源平盛衰記』に見える折戸六郎重行は美濃国の人と記されますが、『東鑑』には美濃尾張源氏は一括してそのどちらかにされるケースもあるようなので、あるいは尾張国愛知郡にも勢力を持ち、同郡折戸の地名に因んで苗字としたのかもしれません。 かりに、上記のように「折戸六郎重行=足助(賀茂)六郎重長」であるとしたら、その子孫はさらに東方に進み矢作川上流域の足助荘に定着して、鎌倉期から南北朝・室町前期にかけての時期に活動する足助氏となって現れたということになります。足助氏が『東鑑』に見えるのは僅か一箇所ですが、建長二年(1250)三月一日条には、幕府の有力御家人が参加した閑院内裏造営の分担のなかで北の御台盤所を担当したのが「足助太郎」(太郎重朝かその子佐渡守重方にあたるか)と見えますから、当時、既に相当有力であったことが知られます。足助冠者重季は当時の三河守護安達盛長の娘を妻として太郎重朝を生んだと伝えます。なお、既に承久の乱の際には、美濃国の大豆渡の京方の守備として足助二郎重成(重朝の弟)が見え、近くの板橋には一族の開田太郎重国が同様に守備にあったと『承久記』に見えます。 鎌倉末期〜南北朝前期において足助一族の活動は著しく、元弘二年に足助次郎重範は後醍醐天皇の籠る笠置山を守って名を挙げ、翌三年には足助重信・重成は新田義貞の鎌倉攻めに加わっています(『太平記』など)。足助重春は三河へ宗良親王を迎えようとしました(『李花集』)。この辺までは南朝方として足助氏の活動が見えますが、室町期に入ると幕府の奉公衆のなかに足助氏が見えます。それもいつか衰滅して、室町中期ないし後期には、足助の地は鈴木一族の占めるところとなります。 6 さて、更にもう少し山田一族について、追記しておきます。 源平争乱時には前掲の佐渡前司重隆がおり、『東鑑』の記事から高田重家との深い関係がうかがわれます。 その経緯を追ってみますと、文治六年(1190、建久元年)四月二日条に美濃国内の地頭佐渡前司重隆が公領押妨をし、そのことを沙汰するために召使則国が入部したところ、菊松・犬丸等の公文が暴行を加えたことが発端とされています。続いて、同月十八日条に美濃国菊松・犬丸・高田郷等の地頭が貢納を拒絶したのを止めさせるとありますから、この結果、佐渡前司山田重隆と高田重家が責任を取らされたことが分かります。 『尊卑分脈』にも、この重隆に当たる人物が数名見え、重隆(重高)とその従兄弟に当たる重満以下の兄弟が治承年間、頼朝卿のため美濃国において誅殺されたという記事があります。重隆に当たる人物とは、@八島先生時成の子の重隆、A葦敷二郎重頼の子の葦敷二郎重高であり、@Aともに「左衛門尉佐渡守」と見え、子に重行をあげますし、『平家物語』源氏揃には「矢島先生重高、その子太郎重行」と見えますから、おそらく時成・重隆親子の両者は重頼・重高親子と同人とみられます。 『東鑑』には山田太郎重澄も見え、元暦元年(1184)には義経に従って鵯越合戦に参加したり、翌文治元年(1185)には勝長寿院供養に頼朝の随兵を務めたりします。重澄は端的には上掲系図に見えませんが、重高に「改−澄」とあり(一般に「澄」と「隆」とは互いに誤記される傾向にある)、『源平盛衰記』には葦敷次郎重頼、その子太郎重助・同三郎重隆が見え、また葦敷太郎重澄が見えますから、同書の記事か『分脈』所載の系図に何らかの混乱があることが分かります。 治承五年(1181)三月の墨俣合戦に先立つ二か月前(間に閏二月が入る)、『東鑑』の同年二月十二日条には、平家の軍勢により美濃で討ち取られた源氏一族の名があげられますが、そのなかには山田一族から小河兵衛尉重清(尾張国知多郡住)、上田(あるいは「山田」の誤記か)太郎重康、葦敷三郎重義(前掲重頼の子、重高の弟。小河重清の従兄弟)、同i(そのまま素直に読めば「伊庭・彦三郎」であるが、おそらく「彦坂」か「伊達」の誤記か)三郎重親があげられています。 承久の乱の際には、美濃・尾張の山田一族は多数が宮方に参加しており、山田次郎重忠・重継親子の奮戦が知られるほか、『尊卑分脈』にはその譜註に「承久(乱之時為)京方被討了」などと記される者が数人見えますが、総じて世代的に無理のない記事と考えられます。従って、貴見と同じく、児島五郎重行を問題の折戸六郎重行に当てることは無理だと考えられます。 『分脈』に見える重行で、折戸六郎重行に当たる可能性のある人物としては、むしろ前掲の八島(山田、葦敷)重隆(重高)の子の重行があげられ、その場合には重行は重隆の猶子ということになろうと思われますが(このとき足助氏につながる可能性が大となろう)、猶子ということでなければ世代が一つ引き下がって、該当しなくなります。 以上見てきたように、『分脈』の山田一族の系図については混乱が多々あり、『東鑑』や各軍記物に見える人物が必ずしも端的には見えません。系図を含む各種の史料には、誤記や系線の引き方などの混乱もいろいろ見られますし、実名・通称についても改名・改称や養子猶子などの事情により複数あったことが系図混乱の要因にも考えられますので、いずれの場合もありうる可能性に留意してよく注意して使いたいものです。 |
〔註〕 *1 山田一族の系図でほかに知られるのは、名古屋市長慶寺所蔵の『山田世譜』があり、『守山市史』などで紹介されており、この類似の系図が中田憲信編『諸系譜』第29冊の2にも収められている。しかし、その初期段階は割合簡単であるうえ疑問箇所も散見しており、『尊卑分脈』に見えなくなる部分は疑問がもっと多い。 青山幹哉氏は、その論考「十八世紀系図家の描く中世像−長慶寺蔵『山田世譜』の分析−」で、『山田世譜』及び『山田雑記』(著者山田正修で同じ)を取り上げて分析・評価を加えているが、その指摘にもあるように、『山田世譜』は信頼性のある系図とは考え難い。 *2 『尊卑分脈』満政流とくに重宗後裔一族の草創期の系図には、重複が多く混乱が見られると目崎徳衛氏も指摘する(「山田重忠とその一族」『貴族社会と古典文化』吉川弘文館、1995年)。 *3 八島(矢島)については、太田亮博士が方県郡八島とするので、いまこれに従ったが、現在の地名からは地域比定ができない。この説が妥当な場合には、伊自良川流域の小島や安食を中心とする一帯にあてられよう。現在、岐阜市の地名では、八島も矢島も同市域に見えるが、これらは中世の厚見郡域にあったので、本来の八島の地ではないと考えられる。 なお、上横手雅敬氏は、『保元物語』に源義朝の手勢のなかに「近江国の八島冠者」が見えることから、この者を佐渡源太重実に当て、八島を近江国野洲郡矢島(守山市)と考えており(『新修大津市史2』)、名古屋長慶寺所蔵『山田世譜』も「近江野洲郡八島邑」と記すほか、上横手説に従う見解も散見するが、これらは疑問が大きい。 保元の乱の当時、重実の子の佐渡式部大夫重成が六十余騎を率いて義朝とは別個に後白河方で活動しているのに、その父親が義朝の配下で活動するなぞ、考え難い。重成の父親が若者を示す「冠者」の語で表されるのも疑問であり、『分脈』には重実は既に保延三年(1137)出家したことが記される。『保元物語』の原文では、「近江国佐々木源三秀義、八島冠者、美濃国……」と続くので、美濃国と八島冠者との表現倒錯があるか、八島冠者は美濃源氏の一族ではなかったかのいずれかであろう。 しかも、『平家物語』源氏揃には美濃尾張源氏として「矢島先生重高、子太郎重行」があげられるうえ、近江に重宗流の諸氏があった形跡が見られないからである。『山田世譜』には、山田一族の白川氏が野洲郡白川に起ることが記されるが、この記述も疑問が大きい。このほか、山田正修が記す書には、「浦野」の比定地も記されるが、疑問が大きく、ここでは取り上げなかった。 *4 重宗後裔の苗字は、方県郡以外にも見え、例えば高田三郎重宗のすぐ下の弟・鏡冠者重義の「鏡」は美濃国各務郡(ただし、別称の白川の地は不明)であり、生津は本巣郡(現本巣郡穂積町北部で、一日市場の数キロ長良川下流の地)であり、原、泉(和泉)、吉野、平野なども美濃国内の可能性が大きかろうが、同じような地名が多かったりなどの事情で端的な比定がしにくい。 *5 高田については、『山田世譜』は美濃葉栗郡高田と記すが(同じ著者山田正修による『山田雑記』では尾張とする)、『東鑑』等の記事からみて、私は安八郡説が妥当かと考えている。また、和泉(泉)も安八郡の地名か。 *6 山田次郎重忠に「改重広」と記す『尊卑分脈』の記事が正しいかどうかは、疑問もある。一伝に重忠は源行家の娘を妻として子の重継を生むともいうが(『分脈』にはこの記事が見えず)、この所伝が正しければ、室山合戦の際に行家に従った山田次郎重弘は重忠の前身ということにもなろう。私は、現段階では否定のほうに傾いている。 このほか、『東鑑』文治元年十一月廿日条に見える八島冠者時清についても、『分脈』系図には混乱が見られる。 *7 山田一族が根拠としたのが山田郡山田荘として、どの辺りに中心があったかはあまり明確ではない。山田重忠が母の菩提を弔うため、尾州木賀崎(現名古屋市東区矢田町で、矢田川南岸)に長母寺を創建しており、また『分脈』所収の系図には、鎌倉期の山田一族が上・下菱野村の地頭職を持ったことが見えており、『尾張志』に山口村は昔は菱野のうちという記事が見えているので、『和名抄』の山田郡山口郷辺り、現在の瀬戸市南部の山口・菱野辺りであり、これらの事情からいって、矢田川流域が山田一族の居住地ではなかったかと推される。 『角川日本地名大辞典 23 愛知県』が山田荘を庄内川左岸及び矢田川流域一帯とみて、両川の合流地点の南東に山田郷、山田村の地名が中世以来残っていると記しており、妥当な記述と思われる。 ここからあまり遠くない尾張旭市東部に柏井という地名も見えており、矢田川と庄内川が合流する地点の北側が春部郡安食郷(名古屋市北区味鋺から春日井市味美にかけての一帯)となると考えられる。なお、近世には山田郡は春部郡と一緒になって春日井郡といい、また旧山田郡のほうを東春日井郡、旧春部郡のほうを西春日井郡といった。 *8 那古野の地は、のち足助重房の娘から東光寺に寄進されており、『分脈』には重房の後を記さないから、この地の足助一族は絶えたものであろうか。 (03.5.17 掲上、5.19追補記) 次に <岸本様との応答> (03.5.17〜19)を掲示しますので、ご覧下さい。 (その後の足助氏についての調査) 1 足助氏に関する論考では、鈴木勝也氏の「中世足助氏に関する一考察」(『皇学館史学』第12号、平成9年3月)が比較的好論考とされており、同考は、『愛知県史』第一巻、『北設楽郡史』や『足助町誌』などの先行研究や『尊卑分脈』などの系図類を踏まえて、出自、足助庄での領置支配、鎌倉期〜室町期の政治的・社会的動向を考察されている。 とくに、室町期の足助一族の動向については、興味深いものがある。 2 「足助族譜」の認識 (1) 上記鈴木勝也氏の論考は、足助氏に関する系図としては、『尊卑分脈』のほか「片山足助系図」を取り上げているが、後者について、足助氏の後裔で広島県の片山家に伝来する系図として、注で「現存しておらず、現在ではその系図を見ることは不可能」という鈴木茂夫氏(『足助町誌』の著者)の言を紹介している。安芸の片山氏については、太田亮博士『姓氏家系大辞典』アスケ条にもその概要が記されている。 (2) ところが、この片山氏をはじめとする足助一族の詳細について記述する「足助族譜」という系図が現存することに、最近気づいた。同系図は、明治期に中田憲信が編纂した『各家系譜』(国会図書館蔵)の第一冊に掲載されている。(また、「足助族譜」の一部となっている系図が、同じく中田憲信編纂の『諸系譜』第六冊の一に「足助」、第二六冊の一に「足助之家系」として所収される) 系図は、清和天皇から始まり明治初期の足助氏のいくつかの末裔まで及んでいて、他に類を見ないほど詳しいものである。その詳細をここで紹介することは無理であるが、本テーマに関連するなどの主要なポンイトを以下に掲げておきたい。 @ 本系図にも、濃尾の山田一族が記されるが、折戸六郎重行の名は見えない。
A 足助氏の初祖とされる重長について、その譜は「加茂六郎、足助右兵衛尉。住三河国足助邑、仕右兵衛佐頼朝朝臣。治承五年三月為平家被虜被殺」とあり、その子の重秀(ママ)については、「足助六郎、足助冠者。母鎮西八郎為朝女。居于足助。承久大乱参宮方為東軍被討畢」とあり、その妹に女子(山田九郎重武室)をあげる。
B 重秀の子の足助二郎重成にも「承久大乱参宮方被討」と記され、その子孫が信濃国にあることを記載する。すなわち、重成の子に五郎重就、その子源六重能が信州伊那郡福島に住んで、その孫で元弘頃の能成・能行兄弟まで記載する。
C 足助重範の子に新二郎重躬(初名重春)をあげ、安芸国沼田郡の片山氏の祖と記する。足助一族のなかで史料に見える重春の系譜が知られる。
D 足助一族は、本拠の加茂郡から出て多くの支流を分出させたが、その苗字としては、同郡の椿木、山路のほか、三河国の八名郡に黒田、渥美郡に岩崎、幡豆郡に小牧、美濃国安八郡に佐渡、安芸国豊田郡に分れ片山、大和国吉野郡・近江国栗太郡に分れて片岡などをあげる。 E しかし、残念なことに室町期に足助荘の残った足助一族についての系譜は見えない。この室町期の一族が足助重範の子孫でなかったことは、「足助族譜」の記述内容から推される。 上記のAに記載する初祖重長の記事が正しければ、重長は治承五年の墨俣合戦で捕虜となり殺されたことで、その後にも現れる折戸六郎重行とは別人ということが明白となる。この辺は、系譜だけの記事なので裏付けがないが、他の部分の系図記載を考えると、正しい所伝なのかも知れない。その一方、安八郡の佐渡という折戸からあまり遠くない地に足助氏の先祖・一族も後裔も住んでいたことに留意される。
(03.10.8 掲上) (3) 足助氏の祖たる賀茂六郎重長については、『東鑑』建保七年正月廿七日条の公暁による将軍実朝暗殺事件に関して見えており、そこでは、重長が源為朝の女を娶って生んだ女性が将軍頼家の子を生み、それが公暁だと記されている。この記事によると、重長が三河国賀茂郡に因んで賀茂と号したことが知られるが、まだ足助とは号していなかったとみられる。 (04.9.5 掲上) |
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