5-3 掲示板・応答板      
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  04.3〜05.3の掲上分 

  その項目は以下のようなものです。
  □ 武蔵江戸氏一族の柴崎氏
  □ 伊達山城守景忠の系譜
  □ 公暁に ついての『尊卑分脈』と『東鑑』の記事の差異
  □ 物部氏族概観に見える鴨志田氏
  □ 越の泰澄大師
  □ 兵庫県内の橘さん
  □ 宇佐美氏の謎
  □ 奥州千葉氏の出自
  □ 無文禅師の守護役伊予守河野通村
  □ 葛西氏系図について
  □ 吉見氏の出自・系図
  □ 斯波家長の系譜
  □ 摂津の萱野氏
  
石城国造の末裔
  
豊後斎藤氏
  
橘朝臣氏の苗字
   表郷村の古代祭祀遺跡
  紀州の津田氏
  東北地方の斎藤姓
 
    
                ※ 過去の掲示・応答板の総目次


□ 武蔵江戸氏一族の柴崎氏

  鴨志田氏との関連で武蔵江戸氏、特に柴崎氏について調査しております。多摩鴨志田氏は、調布市柴崎村に所領を有した柴崎氏の末流と伝えられている事情があるからです。この柴崎氏の始祖とされる重宗は、江戸太郎重長の子とすべきか、少なくともそれよりも三世代下った畠山彦太郎重長の子とすべきかについて御教示いただけますと幸いです。
 また、この秩父氏流柴崎氏と神田明神神官を世襲している芝崎(柴崎氏)との間には何らかの関連についても御見解をいただけますと幸いです。

 (安部川様より。05.2.17受け)

(樹童からのお答え)

  江戸氏は、平安末期から鎌倉期にかけて著しく活動した武蔵の雄族ですが、鎌倉期以降の系図には多くの混乱が見られ、意外なくらい不分明なものとなっています。そのため、確定的な回答はできませんが、一応整理してみた 武蔵の江戸一族と柴崎氏の系譜 をご覧下さい。私の結論だけあげておきますと、柴崎五郎重宗は江戸太郎忠重の子とみるのが最も妥当だと考えます。
 (05.2.20掲上)



□ 伊達山城守景忠の系譜

 我が家の過去帳・親類書などによりますと、私は駿河伊達氏の伊達山城守景忠、及びその子・伊達與太夫景長の後裔となっていて、伊達山城守景忠と私までの関係はあきらかです。しかし残念ながら、伊達山城守景忠が、駿河伊達氏の系図の中でどこに位置するのかが、良くわかりません。もし伊達山城守景忠の系図中における存在場所をご存知ならば教えていただけませんでしょうか?あるいはインターネット上で調べる方法があるならば、その方法に関してご教示いただけませんでしょうか。

  ( J伊達様より。05.2.7受け)

(樹童からのお答え)
 
 駿河伊達氏は、常陸介宗村の子、四郎左衛門尉為家に出て、その子孫の右近将監景宗が祖であり、景宗は足利尊氏方での戦功で駿河国有度郡に領地をもらい今川氏に仕え、子孫は遠州山名庄諸井郷を本領とし、江戸期は幕臣、紀伊徳川家臣、美作津山松平家臣にあります。ご質問は、これら子孫から見ていくのがよいと思われますが、詳しくは、 駿河伊達氏の後裔 をご覧下さい。

 (05.2.11 掲載)



 公暁に ついての『尊卑分脈』と『東鑑』の記事の差異

  『東鑑』の記事では、賀茂重長が源為朝の女を娶って生んだ女性が将軍頼家の子を生み、それが公暁だと記されますが、『尊卑分脈』では必ずしもこの関係を認めていないように思われます。
  ご承知のように、
1 足助重長の女子の箇所では「若宮別当禅曉母」と記し、
2 将軍頼家の子の箇所では公曉・禅曉共に母としては別人を掲げ、欄外の註で「按吾妻鑑母源重長女」としているのみですし、
3 折戸六郎重行の質問者の方がこの重行の比定で指摘された「小島五郎重行」の箇所で、その女子に、足助重長の女子と全く同じ「若宮別当禅曉母」と記しています。
 これらの『尊卑分脈』の記述については、どのようなお考えをお持ちでしょうか。

  (加藤潮比古様より。04.12.5受け)

(樹童からのお答え)
  『東鑑』も『尊卑分脈』も、鎌倉期の歴史を考えるために重要な史料ですが、史料価値が高いとされながらも、作為的恣意的な誤りなども散見し、十分注意を払って用いなければならないと思われます。
  結論的にいえば、本件の公暁の母については、比較的に見て、『東鑑』のほうが信頼性がかなり高いと考えますが、確証はありません。この関係の検討については、将軍源頼家の子女とその生母 をご覧下さい。

 (04.12.12 掲載)



□ 物部氏族概観に見える鴨志田氏

  「物部氏族概観」の一文「鴨志田、信太郡に起こり久慈郡に居住、平将門後裔と称す」の一文の元資料について御教示いただけますと幸いです。

  (札幌、安部川様より。04.11中旬到着)
 

(樹童からのお答え)
  いま手元にある資料に当たりましたが、明確な出典をお示しできない現状にあります。その辺も含めて、鴨志田氏の起源と系譜 に考え方などを記しましたので、ご覧下さい。

 (04.11.24 掲載)



越の泰澄大師

 白山信仰の開創、泰澄大師は、越前の越知山で修行し越知神社には大山祇神が祀られているようです。伊予の大山祇神社や越智氏などとなんらかの関連があるのではないかと調べて見ました。
 白山信仰は平安期にはシラヤマと呼ばれていたようで、古代「越の国」は渡来人の技術集団が多く移住し住んでいたようです。新羅はシロに通じ白山信仰も古代朝鮮に関わるものではないかと思われます。
 
 土佐にも高岡郡越知町など「越の国」に符合する地名もあり、伊予の越智氏は「越の国」の「越人」が中央から派遣され、航海や船の建造技術、鉄生産などの技術を伝えたのではないかと飛躍的ですが考えるようになりました。このほか、多くの越や越智が全国に見られますが、越や越智についての教示を希望します。

  (林 正啓様より。04.9.15受け)

(樹童からのお答え)
 日本の地名に見える越や越智は、中国の越人とは直接のつながりがなさそうに思われます。また、「越智」の地名・氏名の起源には諸説ありますが、「をち−みづ」(変若−水。若返りの水)に由来するのではないかと私は考えています。
 白山信仰については、あまりよく分かりません。
 以上について、詳しくは 越智の起源と泰澄和尚 をご覧下さい。

 (04.10.9 掲載)


兵庫県内の橘さん

 最近、兵庫県内に橘という苗字が多いことを知りました。これはなぜでしょうか?

 (熊本市在住のichiro様より。04.7.7受け)

 (樹童からのお答え)
 兵庫県内に橘という苗字が多いという貴問の根拠は分かりませんし、私が見てきた資料において、それを実感するものはとくにありません。そのため、実のところ、貴問にはお答えしにくいのですが、あえて考えれば、古代に「橘」を名乗った人々の末流が苗字として橘を用いている例が兵庫県には多くあるのかもしれません。多少とも、こうした事情を説明した 古代の橘関連の姓氏 をご覧下さい。

 (04.7.19 掲載)


宇佐美氏の謎

 宇佐美氏には伊豆−越後−紀州という大きな流れがありますが、詳細な系図がなく、越後時代については、(A説)琵琶島城主の宇佐美氏と神得氏は近い時代に兄弟から別れた、(B説)伊豆に残った宇佐美氏と琵琶島城主の神得氏は遠い時代に別れた、という2説があります。
 戦国時代には、伊豆の宇佐美氏は滅ぼされ、最後の祐興の弟:房(孝)忠が越後に宇佐美氏の血脈を残します。その子の定満は上杉謙信の偽軍師:宇佐美定行のモデルとも言われています。その後、子孫が紀州藩に仕えるも、早くに血脈が絶えたわけです。
 初代の宇佐美祐政から戦国末期の定行までの系譜に関しては断片的で実態が良くわかりませんので、何らかの解明ができたらと思います。

 (雑賀大納言より。04.7.15受け)

(樹童からのお答え)
 宇佐美氏については、ご指摘のように系譜が十分に伝わらず、これまた信頼できる史料に乏しい事情にあります。そのため、一般的な検討から宇佐美氏を考えてみるのがよいのではないかと思われます。かなりの推測が入りますが、戦国期の伊豆宇佐美氏と越後宇佐美氏とは必ずしも同一視しないほうが無難ではないかと思われます。詳しくは、 宇佐美氏の諸流 をご覧下さい。

 (04.7.19 掲載)


奥州千葉氏の出自

 奥州には千葉氏を称する一族が多数見られます。房総千葉氏は源頼朝の奥州藤原氏討伐で功を立て、多数の領土を得て、1230〜1300年年頃に房総の地から多くの千葉一族が奥州に移ったと言われていますが、その系図・伝承には混乱が多く、分からない事が多いのです。
 奥州千葉氏の祖として次の3人(@千葉頼胤、A千葉胤親、B千葉泰胤)が上げられます。それぞれ諸説ありますが、奥州千葉一族については、系譜・伝承の混乱が大きい事から考えると、本来は房総千葉氏とは無縁だった氏族が房総千葉氏の関係者と婚姻・養子関係等を結ぶ事により、千葉一族と称していったとも考えられます。いかが思われますか。

 (大阪在住の方より。04.6.2受け)

 (樹童からのお答え)
  奥州千葉一族については、ご指摘のように系譜・伝承の混乱が大きいうえに、信頼できる史料に乏しく、随分考えてみましたが、実のところ、曖昧なお答えしかできません。房総や肥前の千葉一族の系図に端的には見えないところから考えて、房総の千葉一族から鎌倉期に分かれたものではない可能性もあるのではないかとみられる程度です。
  あえて考えれば、千葉氏でもかなりの庶流か遠祖を同じくする葛西一族の分れ、あるいは陸奥古族の末流かというところですが、何とも決め手に欠けます。もう少しこうした事情を説明した 奥州千葉氏の出自と系譜 をご覧下さい。

  (04.7.19 掲載)


無文禅師の守護役伊予守河野通村

  「了義寺本堂再建趣意書」に見える伊予守河野通村を、特定したいと考えております。土居氏であろうかとも推測しておりますが、何らかの教示があれば、と思います。

 (林 正啓様より 04.5.18受け)

 (樹童からのお答え)
  お尋ねの「伊予守河野通村」については、特定するのは無理ではないかと考えられます。というのは、当該文書が同時代のものではなく、ずーっと後代の明治後期の作成ですから、何らかの所伝を基にしたと思われるとはいえ、記載の事実があったこと自体がまず確認できないからです。
 詳しくは、 無文元選禅師の足跡 をご覧下さい。

  (04.5.23 掲載)


葛西氏系図について

  葛西氏の系図には仙台系と盛岡系の二種類あるのは有名ですが、僕は二者択一ではなく、両系並存していた、と考えています。その場合、豊島氏との関係を重視すべきだと思っています。特に鎌倉時代初期の葛西壱岐六郎左衛門朝清、及び葛西壱岐新左衛門清員が鍵になると思います。そして葛西清重と清親の親子関係も疑っています。
 これら葛西氏関係の系図について、御意見を伺えればと思います。

  (川部正武様より。04.5.3受け)

 (樹童からのお答え)
  葛西氏の系図については、本宗家を中心に多くの混乱があるのは確かであり、『岩手県史』と『宮城県史』の記述の差異がこれを助長したとみられますが、鎌倉期の最も基本的な史料である『東鑑』や史料に具体的に現れる葛西一族の動向を基礎にみていけば、おのずと原型的な系図は出てくるのではないかと私は考えます。
 葛西氏の系図概要としては、『国史大辞典』の小林清治氏(福島大学名誉教授)の記述でほぼ妥当ではないかとみているわけです。詳しくは 葛西一族の系図 をご覧下さい。

 (04.5.7 掲載)

※その後の川部様との応答もあります。


吉見氏の出自・系図

 吉見氏について次の点をご教示ください。
@吉見氏の出自について
 私は吉見氏の出自について、「源範頼の孫為頼は秀郷流吉見氏の養子となり、家督を相続した。石見吉見氏は元々秀郷流吉見氏の直系である。」と考えています。(従って能登吉見氏と石見吉見氏は同族だが、『尊卑文脈』に石見吉見氏が見えない)この点について、ご意見をお聞かせください。
A能登吉見氏の後裔の系図、特に三河移住後の吉見氏に関する系図資料について

 (東京都在住の松本様より。04.4.25受け)

 (樹童からのお答え)
 吉見氏については、あまり目ぼしい信頼できる史料は管見に入っておりません。従って、お答えはなかなか難しいのですが、現段階の考えを、能登吉見氏と石見吉見氏は同族であり、『尊卑文脈』には石見吉見氏に一部が見えている、
というように整理してみましたので、 吉見氏の系譜 をご覧下さい。

 (04.5.3 掲載)


斯波家長の系譜

 「斯波家長は斯波高経の実子かどうか」という問題です。
 鎌倉時代、南北朝時代は実子と養子の区別が曖昧で、葛西氏の系図を考えていても苦しんでいます。
 斯波氏の場合も1305年生まれという高経と建武時代に活躍した家長とが親子というのは少し苦しいのではないかと思います。
 ここで斯波嫡流(足利尾張家)の系譜を考えると、「斯波家氏−宗家−宗氏−高経」とされますが、高経は、宗家の子である家貞の子と言われます。家長は宗氏の実子(或いは孫)で高経の後継に内定していたか、家貞の子で高経の弟だったのではないかと思います。
  ただし建武時代の家長の職責の重さは高経以上とも思えるので弟よりも従弟と思えてしまいます。

  (川部正武様より。04.4.28受け)

 (樹童からのお答え)
 実のところ、今まで斯波家長の系譜上の位置づけについて考えたことはありませんでしたが、ご指摘のような生年の問題が確かにあり、おそらく高経の弟か従弟であり、私も後者の可能性のほうが大きいのではないかと思われます。これは、初期段階の斯波氏の系譜などとも関連しますので、 初期段階の斯波氏の系譜 をご覧下さい。

  (04.5.2 掲載)


摂津の萱野氏

 摂津萱野出身の萱野三平は、赤穂浪士として逸話で知られていますが、同じく摂津の萱野出身という萱野兄弟は会津藩と土佐藩に仕えて各々家老筋となり、会津系の最後の当主萱野権兵衛は戊辰戦争の責任を取り自害、その甥の三渕忠彦は初代の最高裁長官になっています。土佐系の萱野氏も、明治期の自由民権運動に名を残しています。
 さて、萱野に残った萱野氏の通字は「重」、新天地を求めた萱野氏の通字は「長」ですが、この二流の萱野氏は同族なのでしょうか?

  (fifa様より。04.4.11受け)

 (樹童からのお答え)
  萱野氏は中世までの活動が見えないので、私としても殆ど知識がありません。そのため、今回の問い合わせを受けて調べたところを記してみます。
  従って、暫定的なお答えかも知れませんが、摂津萱野に残った萱野氏、会津・土佐に赴いた萱野氏という二流の萱野氏は同族ではないとみるほうが自然なようです。その説明は、摂津・近江等の萱野氏 をご覧下さい。 
 

  (04.4.18 掲載)


石城国造の末裔

 石城国造の末裔には岩城・田村氏以外に、後三年の役で滅ぼされた出羽清原氏も入るのではないかと考えています。
 というのは、出羽清原氏は海道平氏の出であると言う系図(中条家文書『桓武平氏諸流系図』)を残しているからです。この海道平氏なる氏族は、桓武平氏とは関係のない石城国造族です。
 また、清原真衡の養子となった成衡は‘海道’の姓を名乗り、先の前九年の役の際、安倍頼時の婿で源頼義によって誅された平永衡もいて、これらの者の名が出羽清原一族の通字である‘衡’の字を共有し、平姓を名乗っている事から見て一族ではないかと考えられます。
 以上の事実は、出羽清原氏が石城国造の末裔ではないかと十分考えられるのではないのでしょうか。

 (大阪在住の方より。04.4.10受け)

 (樹童からのお答え)
1 中条家文書『桓武平氏諸流系図』は、武家の桓武平氏系図としては、比較的信憑性が高く、有益で貴重な内容がありますが、その一方、誤記誤伝や系線の引誤りなど注意して利用しなければならない要素もかなり含んでおります。
  同系図には、岩城一族の祖とみられる安忠の子に清原武則をあげており、武家系譜の研究者野口実氏も、同系図に拠って、出羽清原氏の出自を岩城一族とする見解を発表されています。
2 結論的に私見をいえば、武則自身が岩城一族の出自とする説には、どちらかといえば、やや否定的に考えています。ただ、何らかの所縁があったようで、その父祖の誰かないし母系、妻などが岩城一族の出であったことなど様々な可能性は考えられることであり、上古期まで遡れば岩城一族は出羽清原氏と血統的に同族であった可能性もあったのではないかと思っております。詳しくは、 石城国造一族とその末裔 をご覧下さい。

 (04.4.17 掲載)


豊後斎藤氏

 丸山浩一氏の著書『姓氏苗字事典』の斎藤姓の解説によると他流の(利仁流以外の)斎藤氏として豊後斎藤氏が記載されています。太田亮博士の『姓氏家系大事典』によると豊後の斎藤氏は大友氏の重臣であったことが記載されていますが、詳しい系統についての記載は見られないようです。
 常識的に考えて、豊後の斎藤氏は大友氏の郎党として入国したのではないか、と思いますが、そのあたりの背景についても教えていただけたらと思います。

 (h-sait様より。04.4.5受け)

  (樹童からのお答え)
 戦国時代の大友氏の重臣として活躍した豊後斎藤氏については、その系譜が管見に入っていませんので、史料に散見するところを総合的に勘案して系譜を考えねばなりませんが、「お下り衆」の子孫という伝えがあるとのことで、貴見とほぼ合致するようです。
 現段階の考察を 豊後斎藤氏の系譜 ということで記しましたので、ご覧下さい。

 (04.4.11 掲載)
  その後、05.10.30に 附.豊後の富来氏 などの記事を追加した。 

橘朝臣氏の苗字

 橘氏について質問です。
1.HP掲載の「橘氏概観」を見ると、確実な橘朝臣の苗字として17,8個の苗字を挙げてありますが、奈良時代から現在までの間、「橘」の苗字を名乗り続けた後裔はいないのでしょうか?
2.橘朝臣の苗字が上記の苗字だけだとすると、橘氏の子孫はかなりの家が絶家したと解釈すべきでしょうか?

  (ickaku様より。04.3.22受け)

(樹童からのお答え)
  橘朝臣氏の後裔で橘を苗字として伝えた家は管見に入っておりませんし、公家の橘氏は戦国末期までに断絶した状況にあり、具体的な後裔は知られません。もう少し敷衍して説明すれば、橘姓の苗字 をご覧下さい。

 (04.3.30 掲載)


表郷村の古代祭祀遺跡

  福島県西白河郡の「表郷村三森の古代祭祀遺跡」と巨石信仰との関わりはありますか。
  また、石城国造族や白河国造族と藤原秀郷流との関わりがありますか。

 (cas様より。04.3.5 受け)

(樹童からのお答え)
1 表郷村三森の古代祭祀遺跡は、西近隣の建鉾山祭祀遺跡と関連するもので、古墳時代の遺跡とみられますから、上古代に当地の支配者であった白河国造ないし石城国造の一族によって造られたとみられますが、建鉾山祭祀遺跡に巨石信仰が現れていることは著名です。これについては、建鉾山の古代祭祀遺跡 をご覧下さい。 
2 石城国造族や白河国造族の後裔は必ずしも明確ではありませんが、称平姓の岩城氏や田村氏(後に称坂上姓)が前者の、称源姓の石川氏が後者の後裔ではないかと推されます。一方、藤原秀郷流の結城氏支流となる白河結城氏が中世白河地方の支配者となりましたが、いまのところ、これら氏族間の関わりについては管見に入っておりません。
 
  (04.3.24 掲載)


紀州の津田氏

  幕末の紀州藩士、陸軍少将津田出(いずる)の系譜についての質問ですが、中世の紀州には、日本における鉄砲の開祖・津田監物算長が居て、その子孫は紀州藩に仕えており、津田出の弟は監物正臣です。
 とすると、津田算長の祖先の通字である「正」、通称の「監物」は共通していますから、津田出は鉄砲の開祖・津田監物算長の子孫でしょうか。

   (藤大納言様より。04.3.12受け)

(樹童からのお答え)
 
  津田出の嗣子である津田道太郎の編纂した『壷碑−津田出小伝』(1917年刊)、井上右著『津田出の実行勤皇』(1943年刊)という書があり、これらに拠ると、その家系が楠氏に出たという所伝を持っていたとのことであり、戦国期に和泉・紀伊で活躍した津田一族後裔として、貴問を肯定することになると思われます。
  紀州の津田氏は鉄砲術の開祖・津田監物算長で有名ですが、一族とともに戦国期に根来衆として活動しました。これらを含めて 紀州根来衆の津田氏と津田出 をご覧下さい。
 
   (04.3.22 掲載)


東北地方の斎藤姓

  東北地方の斎藤姓に関して、次の二点について尋ねたいと思います。
 @太田亮博士の『姓氏家系大事典』に記述する山形の斎藤氏(田川郡清川村の巨族とされる)の詳しい系統、
 A東北六県の斎藤姓のうち、中でも山形県が比較的多く、岩手県が格段に少ないという傾向があるようですが、このような差異の原因

   (h-saito様より。04.3.12受け)

(樹童からのお答え) 
 
  斎藤氏は、越前に起った利仁流藤原氏と称するものが主流ですが、全国的に分布しており、なかには同じ齋藤でもかなり異流が多いようです。東北地方には、どの県でも斎藤という苗字が多いのですが、その殆ど全部が系譜不明であり、そのため、ご質問にはいまのところ殆どお答えできません。総じて、明確には言いがたいものの、多くは利仁流藤原氏とは異なるのではないかと推測されます。
  とりあえず、現在分かっている範囲で記した 奥羽の斎藤氏 をご覧下さい。

  (04.3.20 掲載)


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