鴨志田氏の起源と系譜

(問い)「物部氏族概観」の「鴨志田」についての一文の元資料をお尋ねします。

  鴨志田氏の全国分布を見ると、茨城県で全国の約20%、次ぎに神奈川、東京の順でこれらを合わせて約10%を占めています。『吾妻鏡』には鴨志田氏の記載があり、武蔵国都築郡鴨志田郷(現横浜市緑区)が見えますが、後者の史料初出が鎌倉時代の永仁年間(1293〜99)であり、当地の鴨志田氏は畠山重忠とともに滅びたとの所伝があるようです。
 また、茨城県には久慈郡世矢村に鴨志田の小字があったようで、水戸藩士に鴨志田氏がいたことも知られます。『和名抄』の観点からすると、鴨志田氏は、常陸国で発祥し、武蔵国へ支族の一部移動があったのではないかと考えております。
 ついては、貴HPに「鴨志田−信太郡に起こり久慈郡に居住、平将門後裔と称す」とありますが、この資料出典を示していただきたいと思います。
 (札幌、安部川様より。04.5.14(04.11中旬到着)) 
 

 (樹童からのお答え)

1 鴨志田という苗字は珍しく、かつて茨城県北でお目に掛かった記憶があります。ただ、具体的な系図は管見に入っておらず、断片的に見える資料をつなぎ合わせて総合的に考えていかねばならないと思われます。
 
2 姓氏関係の文献を見ても、現在のところ、最も詳しい記事としては、『姓氏家系大辞典』の記事を現代人まで若干敷衍した『姓氏家系歴史伝説大事典』(志村有弘編、2003/7、勉誠堂出版)の「鴨下」条の記事(関真規子氏による執筆)にあるくらいではないかと思われます。従って、この記事を踏まえて、基本的な事実を押さえていく形となりますが、貴信を拝見する限り、鴨志田氏についての主要な内容は既に殆ど把握されているようにも思います。
すなわち、関氏の記事によると、主に武蔵・常陸・磐城に分布し、加茂下・鴨下と鴨志田とは相通じるとあり、この辺は太田亮博士の見解を踏襲したものとみられます。すなわち、『新編武蔵風土記稿』には武蔵国多摩郡小金井村の名族に鴨下氏があり、磐城平の安藤藩家老に加茂下氏があるとのことであり、『新編常陸国志』の『東鑑』・白石文書・太田浄光寺の記事があげられています。
 
3 『東鑑』の記事には、「鴨志田十郎」という武者が二度現れます。その最初が建久元年(1190)十一月の頼朝上洛の随兵で、武蔵の大井四郎・高麗太郎に続き、常陸の馬場次郎の前であり、次がその五年後の同六年三月の頼朝南都下向の随兵で、武蔵の加治・高麗・阿保の後で、常陸の豊田・中郡の前であって、いずれも微妙な位置にあります。その判断はかなり難しいのですが、馬場・豊田という常陸大掾一族の前に常陸の先頭にあげられるのはおかしく、武蔵の最後にあげられたとするのが自然だと思われます。そうすると、この鴨志田十郎は武蔵国都築郡鴨志田村の人と考えられ、系譜不明(すなわち、畠山・秩父氏一族にも武蔵七党等にも見えない)という事情からみて、武蔵ないし相模の古族の末流ではなかったかと推されるところです。
 
4 私がかつて見た資料は、いま当たり直しましたが、原典を記さずにあって(おそらく常陸関係の資料ではなかったかと思われますが)、「もと信太郡に居住し、信太小太郎将国の末孫と伝える」とのみメモ書きが残っております。将国なる者は平将門の二男と伝え、天慶の乱に際して逃れ、その子の「小太郎文国は常陸信太郡浮島大夫に倚頼し、子孫相馬、或は信太を混称す」(奥相秘鑑)と伝えており、「浮島大夫は物部信太連の裔と云う」とのことで(以上は『姓氏家系大辞典』シダ条)、これらを併せて、物部信太連のなかにあげたものと思われます。
しかし、鴨志田が県北の那珂郡・久慈郡で多いということは、その苗字発生の地が常陸太田市域に含まれる久慈郡世矢村の小字鴨志田であった可能性が高いように考えられます。過去帳に鴨志田弥兵衛の名を記す浄光寺も、常陸太田駅の北方一キロほどの同市塙町に所在します。佐竹家臣には天文年中に鴨志田式部少輔がおり、水戸藩家臣の鴨志田氏もその子孫とされているとのことで(『水府志料』)、いずれも久慈郡くらいの範囲です。
そうすると、はたして常陸国内で信太郡から久慈郡に遷住があったのか、また武蔵と常陸との間に移動があったのかという問題にもなります。この辺はあまり資料がなくて、判断しがたいのですが、少なくとも常陸と武蔵ではそれぞれ別個に古族の末裔として発生したことも考えられそうです。
 
ところが、常陸国内では、信太郡朝日に起った朝日氏が北遷して那珂郡古徳に居たことが知られます(『姓氏家系大辞典』)。鈴木真年翁は、何に拠ってか、朝日を「信太連姓常陸人」と『苗字尽略解』であげ、同書では朝日と根本を同じ信太連一族にあげています。根本も、信太郡根本に起る苗字ですが、茨城県北にも根本の苗字が多くあります。県北の根本は藤原秀郷流と称する小野崎一族の出ですが、実際には古代長幡部の後裔とみられ、その場合、やはり物部と遠祖を同じくしたものです。このように考えていくと、鴨志田の志田は信太と同じとして、信太郡の物部一族が久慈郡に北遷したとみたほうが自然のようです。
ほぼ同様な例ですが、古代物部信太連の裔とみられる信太荘司(称紀朝臣姓)の支族が筑波郡に移って田土部・篠崎という苗字も出しています。
 
5 『姓氏家系大辞典』などから「鴨」のつく苗字の分布を見ますと、東国では相模に鴨居・鴨沢、武蔵に鴨志田・鴨下・鴨田、常陸に鴨志田、上総に鴨根くらいであり、式内社としては常陸国新治郡の鴨大神御子神主玉神社(新治郡加茂部村、現茨城県西茨城郡岩瀬町大字加茂部)が注目されます。いずれも天孫族の鴨氏族ないしその同族が残した痕跡地名ではないかと思われます。この鴨氏族は、物部信太連や久自国造などを出した物部氏族と同族であり、武蔵や相模の国造を出した出雲氏族とも同族ですから、これらの古族一族の領域に上記の「鴨」の着く地名・苗字を発生させやすい環境にあったものでしょう。
なお、物部信太連は物部懐大連の子の小事連の後で、久自国造は大売布命の後という系統の違いはありますが、同じ常陸国内にある物部一族として両者間にかなり密接な交渉があったことも推されます。

  (04.11.24 掲上)
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