□ 「越智」の起源と泰澄和尚 (問い) 白山信仰の開創、泰澄大師は、越前の越知山で修行し越知神社には大山祇神が祀られているようです。伊予の大山祇神社や越智氏などとなんらかの関連があるのではないかと自分なりに調べて見ました。 白山信仰は平安期にはシラヤマと呼ばれていたようで、古代「越の国」は渡来人の技術集団が多く移住し住んでいたようです。新羅はシロに通じ白山信仰も古代朝鮮に関わるものではないかと思われます。
継体天皇は北陸から来たとされ、「越の国」が継体天皇から中央政権に進出したのではないかと思います。天智天皇の后妃は、「越道君伊羅都売」とされ「越の道君」の豪族出身と考えられます。
土佐にも高岡郡越知町など「越の国」に符合する地名もあります。
伊予の越智氏は「越の国」の「越人」が中央から派遣され、航海や船の建造技術、鉄生産などの技術を伝えたのではないかと飛躍的ですが考えるようになりました。
「予章記」にも「越人云々」と記されています。
また、源頼義は東国阿部氏を討伐の折、新羅神社に祈願し、その子義光は、新羅神社で元服し新羅三郎義光と名乗り甲斐源氏の祖となったとされています。源氏は、もともと新羅系の人であり新羅から渡来した人々の協力を得ていた勢力であったと思われます。
源頼義の四男が河野親清となったという系図上の伝説がありますが、源氏と近い関係の越智氏も新羅系人であったかもしれません。
新羅、百済、高麗など多くの渡来人が日本に来て先端技術を持ち、リードしていたのであろうと思います。古代からの瀬戸内の海の民を天皇家につながる新羅系の人達が交通の要衝として更に統治していったのではないかと思います。
「越の国」から瀬戸内に「越人」が派遣され、それゆえ越智姓を称したのではと考えています。
以上に関連して、越や越智についての教示を希望します。
(林 正啓様より、04.9.15受け) |
(樹童からのお答え) 04.9に返信のものに増補したものをあげます(04.10.10) 1 「越」の地名
日本列島には中国江南の越人が朝鮮半島南部を経て到来し、稲・青銅器を中心とした弥生文化を伝えたものとみられます。その意味で、「越」の地名が日本列島にあっても、とくにふしぎありませんが、北陸地方の「越」が越人に由来するかどうかは不明です。おそらく、「コシ」という地名が先にあって、それが古志、高志とか越に漢字表記の際に当てられたものではないでしょうか。
なお、大伴家持の歌に「しなざかる(科離る)越を治めに出でて来し」(『万葉集』巻17−歌番4071)とあるので、この枕詞から「多くの“科”(坂の意)を越えた向こうの地」ととる見解もあるようですが、越は枕詞よりかなり上古の時代からの地名と思われます。
2 「越智」の由来
「越智」の由来もまた不明で、定説がありませんが、私見も踏まえて書いてみます。
管見に入ったところでは、@遠方の「ヲチ」をいう説、Aヲは丘のヲで高地の意、チは場所を表す接尾語という説、がありますが(『古代地名語源辞典』)、いずれも伊予の越智については妥当しないと思われますし、大和・越前・信濃などに見える越智関連地名とも符合しないと考えます。
私見では、越智は「をち−みづ」(変若−水。若返りの水、蘇生・長寿の水)に由来するのではないかと考えています。「をち」とは、「若返り、復ち」ということであり、不老長寿の伝承のある養老の滝は美濃の多芸郡にあってこの地は物部多芸連の居た地ですし、不老長寿の果実として田道間守が異国に求めてきた「橘」を名乗る一族(藤原純友征討に武功のあった橘遠保一族)が越智国造から出ています。 その傍証も含めて、次ぎにもう少し詳しく書きます。
また、あとで気づいたのですが、「をち=変若」説を神祇研究家の志賀剛氏が採っており(『式内社の研究』第十巻92頁)、万葉の歌「天橋も長くもがな 高山も高くもがな 月読の持てる変若水(をちみづ) い取り来て 君に奉りて 変若(をち)得てしかも」(『万葉集』巻13−歌番3245)をあげています。この歌から富士山などの高い山が変若に関係あることも分かります。この志賀氏の説明は、信濃の式内社越智神社についてのものですが、大和の越智岡には清泉が豊かに湧いており、信濃の綿内村の山の崎には清泉が湧いているのであろうと推しています。
(1)
越智国造は駿河国造と近親関係にあります。「国造本紀」に見るように、駿河国造の祖は須堅石命で大新川命の子とされており、越智国造の祖・大小市命も大新川命の子ですから兄弟となりますが、私は実際には同一人で、越智国造は大小市命の子の子致命(実名は若伊香加)に始まると考えています。
駿河には不死の山(富士山)があり、ここでも不老長寿が関係します。富士山の祭神木花開耶姫命は大山祇神の子とされ、大山祇神は大三島など越智一族が奉斎する各地の三島神社で祀られますし、『予章記』には、小千御子の兄弟が駿河の清見崎に着いて当地の庵原・大宅氏の祖となったと伝えます。この辺が、越智国造の駿河起源とヲチ命名の由来についての傍証です。
(2) 信濃国高井郡に式内社の越智神社があります。現在の神社への比定については、論社があって、須坂市幸高字屋敷添の越智神社(もと諏訪大明神)のほか、中野市越字屋敷添の同名社、長野市若穂(もと上高井郡綿内村)綿内の小内神社があげられます。高井郡には物部一族が居り、貞観九年(867)には従八位上物部連善常が本貫を山城国紀伊郡に移す(『三代実録』)とありますので、位階から郡司級の豪族であったことが分かります。この物部一族により越智神社が奉斎されたとみられます。高井郡の中世の名族は清和源氏と称した井上一族であり、この地域が「井」に関係深いことが分かります。
(3) 美濃の養老の滝の四キロ東北には、多芸郡の式内社で同郡総社とされる多伎神社があり、物部多芸連により奉斎されたものとみられます。伊予の越智郡にも同名の式内社多伎神社(現朝倉村)があります。養老の滝の名は、多度山の美泉を見て元正天皇が養老と改元したことに因みますが、その南方の伊勢国桑名郡にも養老山系の最南端の多度山があり、式内社の多度大社が鎮座して、三上氏族の桑名首氏が三上・物部氏族の祖たる多度神(天津彦根命)を祀っています。
3 泰澄和尚の系譜
白山を開き「越の大徳」といわれた泰澄和尚については、その系譜はほとんど不明で、越前国麻布津(福井市)の父三神氏安角、母伊野氏との間に七世紀後葉に生まれたとされ、福井市街地西方の丹生山地にある越知山で十四歳の時から修行し、晩年にはまた越知山に戻り大谷の仙窟に籠もったと伝えますが、ヲチとの繋がりはよくわかりません。なお、丹生郡には『和名抄』に可知郷が見えますが、吉田東伍説では越知山との関係から見て「乎知」の誤記とされており、これが妥当のようです。
伊野氏は越前の古族伊野造で和珥氏族ではないかと思われますが、三神氏については、おそらく三上氏と同じで、近江国野洲郡にあって三上山で天御影命を奉斎した三上祝と同族ではないかと思われます。三上祝は凡河内国造・山背国造や桑名首などと一族(三上氏族)であり、古代近江に三上一族は繁衍し、蒲生郡の蒲生稲置や犬上郡の犬上県主・川上舎人などが見られます。三上氏族は、天津彦根命を遠祖としており、物部氏族とも同族です。
ところで、越前の越知山は山岳信仰の霊地、修験の霊地とされ、頂上付近に越知神社があって、伊邪那美神・大山祇神・火産霊神を祀っており、山の中腹には泰澄が独鈷で清水を湧出させたという「とつこ水」があります。四国の仁淀川中流の山間地である土佐の越知(高知県高岡郡越知町)も、修験に関係深く、近くにある雄大な山容の横倉山は山岳信仰の対象で、修験の行場や経塚の存在も確認され、県史跡に指定されています。その山頂付近には横倉宮(御岳神社)は金剛蔵王権現・熊野権現などを祀るとされますから、大和・紀伊の吉野・熊野の修験に通じます。もちろん、伊予の越智とも近いので、越知国造の一族が分かれて移住したことが考えられ、南北朝期には南朝方の武士に国人領主越知(越智)氏が見えます。
このように、「越智」は修験に関係深い地名でもあるといえますが、これもその原義に因むものではないでしょうか。伊予の越智国造が奉斎した大山積神社が霊峰鷲ケ頭山を仰いでいる事情とも通じるものがあります。
4 あとの問題は、とりあえず次のように考えます。
(1)
源頼義の子は、上から順に八幡太郎(義家)、賀茂次郎(義綱)、新羅三郎(義光)であり、各々、元服時の神社名に因むといわれますが、清和源氏の頼義がなぜこうした行動をとったかは不明です。
源頼義の四男が河野親清となったという系図上の伝説は、まったく根拠のない仮冒だと思われます。
(2) わが皇室の遠祖が新羅と深い縁をもったことは確かです。皇祖素盞嗚神(五十猛神)は新羅から渡来と伝えますが、新羅王家朴氏と同系ということの訛伝ではないかと思われます。
(3) 古代の白山信仰を担ったのは、越の道君氏という説がありますが、中世は上道氏が神主を世襲しました。起源も含めてあまりはっきりしたことが分かりません。 (04.10.9 掲上) |
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