奥州千葉氏の出自と系譜  附)新渡戸氏の系譜

(問い)奥州には千葉氏を称する一族が多数見られます。
  房総千葉氏は源頼朝の奥州藤原氏討伐で功を立て、多数の領土を得ました。そして1230〜1300年年頃に房総の地から多くの千葉一族が奥州に移ったと言われていますが、その系図・伝承には混乱が多く、分からない事が多いのです。
  HP『千葉氏の一族』に拠りますと、奥州千葉氏の祖として次の3人が上げられます。
    http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/oshu.htm#keif1
 
 @千葉頼胤
 A千葉胤親
 B千葉泰胤
 
 @の頼胤については『姓氏家系大辞典』では、千葉五郎兵衛晴胤の子では無いかと言う伝承を紹介しています。もし、そうだとすれば、晴胤・頼胤親子が系譜上ではどの様な位置付けになるのかが気になります。
 
 Aの胤親については、上記のHPでは千葉介胤正の婿である角田胤親の事では無いかとの説を出しています。
 
 Bの泰胤については、千葉介成胤の次男、或は角田胤親の子では無いかとも言われています。
 
 唯、奥州千葉一族については、系譜・伝承の混乱が酷い事から考えると、本来は房総千葉氏とは無縁だった氏族が房総千葉氏の関係者と婚姻・養子関係等を結ぶ事により、千葉一族と称していったとも考えられます。
 如何でしょうか。御意見を頂けましたら幸いです。
 
 (大阪在住の方より。04.6.2受け)
 

 (樹童からのお答え)

 千葉氏の系図については、『改訂房総叢書』所収の「千葉大系図」「松蘿本千葉系図」「神代本千葉系図」(これらは東大史料編纂所にも所蔵)のほか、「浅羽本千葉系図」「桓武平氏諸流系図」「千葉東氏系図」、また『続群書類従』に収める「千葉系図」「別本千葉系図」などがあげられ、また丸井敬司著『上総下総 千葉一族』には、現存する千葉系図のなかでは最も信頼性が高いとして「徳島本千葉系図」が引用されます。これら系図では、両総の千葉一族から陸奥千葉氏が分かれたという記事をまったく見ないものです。
そうすると、陸奥千葉氏というのは必ずしも両総の千葉一族の流れではない可能性も考えられます。
 
 その場合、どのような系譜を陸奥千葉氏が持っていたのかという問題が生じます。
陸奥千葉氏は多く岩手・宮城県に分布し、とくに岩手県東磐井郡の東山町・川崎村の辺りに集中し、中世及び戦国期は葛西氏の家臣として活動していました。幕末期の剣豪・千葉周作も、奥州本吉郡から分かれた気仙郡の出身とされます。
なかでも、これらの中心は薄衣氏であって、現在の川崎村南部の薄衣を拠点とし、一族に門崎、金沢、松川、峠、奥玉、鳥畑などの諸氏があったとされます。「葛西真記録」の栗原郡森原村の陣の記録には、黄印黄旗の総大将として千葉(薄衣)甲斐守胤勝の名があります。胤勝は、天正十八年の葛西滅亡時、桃生郡の神取山合戦の旗頭で出陣し討死しています。
 
 薄衣の千葉氏は、建長四年(1252)に千葉弥四郎胤堅が薄衣荘に遷住してきたと伝えます。この一族には「胤」を通字とするものが多かったものです。胤堅については、千葉一族角田親常(胤親)の子の泰胤の子と伝えるようですが、「徳島系図」には泰胤の子に見えません。泰胤については、千葉介成胤の次男千田次郎泰胤に当たるという説もありますが、泰胤の子に胤堅は見えません。このように、胤堅については、どうにも確実な史料がありません。
薄衣の地には同じ薄衣を名乗る葛西一族も居り、千葉弥四郎胤堅の外甥清堅(清純。葛西清重−朝清−兵庫助清見の子という)が薄衣千葉一族(胤堅の子の宗堅)に養子として入ったとも伝えますが、この系統は「清」を通字としていました。永禄四年(1561)十一月に鳥畑越中守胤堅(千葉一族)と戦った薄衣上総介清正は葛西一族の流れであろうとみられます。太田亮博士は、『伊達世次考』を引いて明応八年(1499)に奥州磐井郡東山住人葛西一族薄衣美濃入道経蓮をあげます。
いま史料に乏しいので断定はできませんが、とりあえず、別流のように考えておきたいと思います。すなわち、薄衣一族には、@「胤」を通字とするものと、A「清」を通字とするものとあって、両者を同じ一族とする系図が一般的のようですが、私は、二流あって、前者が千葉一族、後者が葛西一族ではなかったかという可能性を考えておきたいということです(この二流間の通婚・養子もあったと思われる)。
 
 同じような地域には、千葉頼胤あるいは葛西清信を祖と伝えるいわゆる千葉六家(長坂、百岡、伊刺、本吉、浜田、一関)もあり、磐井郡東山の長坂村に居住の長坂氏を本宗としていました。祖という頼胤等の系譜には疑問が多く、この系統の百岡、浜田などは千葉胤親を祖とするともいい、この辺に系譜の混乱が見られます。これら諸氏と薄衣氏との関係の実態も不明で、こちらの系統は実際に両総千葉一族から出たかどうかは疑問な部分が多々あります。奥州千葉党ともされる葛西重臣の柏山氏は、明らかに別族であって、称平姓の戸沢・雫石と同族で、当地の古族(上毛野胆沢公か)末流とみられる例もあるからです。
薄衣一族も含め、これら「千葉」諸氏は、天正十八年(1590)に葛西氏の滅亡、それに続く葛西大崎一揆で、殆どが滅亡か勢力を失っています。この事情が、千葉一族の系図に混乱を加えているとみられます。

  (04.7.19 掲上)



 (大阪在住の方よりの返信 1) 04.12.27受信

  奥州千葉氏についての情報どうも有難うございました。
  その後、色々調べてみましたが、奥州千葉氏の出自については、房総千葉氏は千葉氏でも、本家の流れでは無く、常胤以前の比較的早い一族から出た流れではないかと考えています。
  千葉介常胤以前の千葉一族には、原、粟飯原、臼井、海上が挙げられますが、これ等の一族は後に本家の上総介広常や千葉介常胤に敵対し、没落しています。かと言って絶滅させられたと言う訳でも無く、生き残った者は房総千葉氏に吸収され、家臣として存続しています。その内の誰かが奥州の地に代官として派遣され、それが奥州千葉氏になったのではないのでしょうか。

  特に私が注目しているのは、千葉常兼の息子常康から出た臼井氏です。と言いますのは、奥州千葉氏の中心的存在である薄衣氏の『薄衣』と言う姓は『臼井』に通じるからです。従って、奥州千葉氏が臼井氏の流れをくむ可能性が大いに考えられます。

  尚、樹童様は以前、『碓井貞光とその後裔』で福島県で栄えた『溝井氏』について論じておられましたが、もしかしたらこの『溝井氏』とも何か関係が有るのかもしれません。

  何れにしても、『臼井』と言う姓が奥州千葉氏の出自を解く鍵になるのでないかと私は考えているのですが...。

 (05.2.20 掲上)



 (大阪在住の方よりの返信 2) 05.4.16受信

 奥州千葉氏の出自については、その後も色々と調べてみたのですが、どうしても決め手に欠けます。そんな中、『上総・下総千葉一族』(丸井敬司著、新人物往来社2000年刊)に興味深い事が書かれていました。
 新渡戸稲造を出したとされる新渡部氏は、境平次郎常秀を祖とすると言い、同書では、宝治合戦の遺児達が成長して奥州に移ったのかもしれないと書かれていたのです。私は当初は参考までにと軽く考えていましたが、宝治以後の房総千葉氏の状況及び初期千葉一族の相続等を考慮に入れますと強ち誇張とは言えないのではないかと考えています。
 
 房総千葉氏は千葉介胤政の息子の代で、長男の小太郎成胤、次男の境平次郎常秀と大きく二流に分かれる事になります。そして常秀の息子上総介秀胤、その息子の時秀・政秀・泰秀・秀景及び秀胤の弟・埴生次郎時常は、宝治元年(1247)六月六日に一族の大須賀泰秀・東胤行の攻撃を受け滅亡します。この時、泰秀の1歳の遺児の母は東胤行の娘だったので、外祖父の胤行が一歳の秀胤の末子、政秀の五歳と三歳の遺児、そして時常の四歳の遺児と共に助命を懇願して認められ、引き取って育てた事が、『吾妻鏡』に記載されています。五人の遺児達はその後陸奥五戸庄に落とされたと言われ、宝治合戦後の千葉氏の状況を考えるとこの話は充分に有り得ます。
 と言いますのは、宝治合戦以前の房総千葉氏では、常秀流が嫡流で成胤流は寧ろ傍系だったと思われる節が有るからです。
 
 元々、房総千葉氏は、始祖の忠常が千葉小次郎と号して以降、その息子千葉介小次郎常将−千葉次郎大夫常長と嫡子は代々“次郎”と称しています。千葉氏は常長の息子の代に大きく発展しますが、惣領の座は次男の相馬小次郎常時が継承し、その後を弟の同五郎常晴が襲い、その息子上総介常澄−同八郎広常と至る事になります(注)
 一方、常時の兄・千葉大夫常兼の系統はその息子千葉介常重−同常胤と至りますが、こちらは寧ろ傍系で、頼朝挙兵の際に常胤の兵力が僅か六百騎だったのに対し、広常の兵力が二万騎だった事からそれが察せられます。これ等の事から初期千葉一族では、次男坊が重要視されていた事が伺い知る事が出来ます。
 この方針は惣領の座が広常から千葉常胤に移った後も継承され、常胤の次男の師常が先祖代々の下総・相馬郡を継承し、相馬小次郎と称している事からも分かります。
 以上の事を考えると境平次郎常秀の系統が嫡流であると見做す事が妥当です。常秀が祖父常胤から兄・成胤よりも多くの土地を継承し、そして上総介の地位を襲った事が何よりの証拠です。
 
 話は大きく脱線しましたが、これまで傍系だったのが宝治合戦の結果、惣領の座を得た成胤流が、常秀流に再び惣領の座を奪還されるのを恐れた結果、成長した常秀流の遺児達を陸奥・五戸庄に落とした可能性は大いにあり得ます。そして奥州に落とされた常秀流の遺児達から奥州千葉氏が生まれたのではないのでしょうか。これだと今までの疑問点が解決する事になります。 
 一般に奥州千葉氏の伝承では、房総の千葉一族が移ったとされるのが1230〜1300年頃とされており、常秀流の遺児達が成長した年齢を考えるとほぼ一致します。また、奥州千葉氏が常秀流の遺児達から出たとすると、奥州千葉氏の系譜が混乱している理由も、現存する房総・九州千葉氏の系譜から奥州千葉氏が見られない理由も分かるようになります。
 現存する房総・九州千葉氏の系譜の殆どは成胤流の関係者に拠って作成されたもので、当然、己の家を本家とする必要性に迫られます。その様な中で、奥州に落としたとされる常秀流の末裔達は目障りな存在以外に何者でしかなく、系図上から抹殺される必要が有った思います。下手するとこち等な方が本家であると言う印象を与えるからです。
 歴史上に実在した人物であるにも係わらず、政治的な意図に拠り系譜上から抹殺したと言う事実は、奥州千葉・葛西氏と関係を持った南部氏が、後世、南部守行の息子の金沢右京進家光(大浦・津軽氏の祖)を抹殺した事で証明されています。
 
 以上、私の意見を述べてみましたが、あくまで私的なもので、どうも決定的であるとは言えませんが、どのように考えますか。
 
(注)
 私は当初、相馬小次郎常時と上総氏の祖・相馬五郎常晴は同一人物であり、“時”の字は“晴”の字の間違いだと考えていました。
 ところが、諸系図を見ますと常時の後はその息子相馬六郎常高−佐賀次郎常範−同次郎常国−(以下省略)と続き、上総氏の系図と一致しない事から、両者は別人ではないかと考えています。現に『姓氏家系大事典』では両者を別人とし、常晴は成田左京進の養子になったとしています。
 そうしますと、千葉常長の跡を先ず、相馬常時が継ぎ、常時が早世したか何かで、弟の常晴が襲って相馬五郎と号して惣領の座に就いたのではないかと考えています。
 
 

 (樹童からのお答え)
 
1 新渡戸氏の系図

「参考諸家系図」等を見ると、新渡戸氏の祖は千葉介常胤の孫・堺(境)上総介常秀で、千葉氏を源流とすると称しています。文治五年(1189)に、常秀は源頼朝の奥州征伐に功績があり、下野国(現在の栃木県)「新渡戸、高岡、青谷」の三郷を賜り、そのうちの新渡戸(すなわち芳賀郡水戸部村で現栃木県芳賀郡二宮町水戸部)の地名に因んで、常陸介信盛(一に刑部丞貞綱のときといい、信盛の六代祖)ないしその養子左衛門佐盛頼(一族の元良成澄の子という)の時に新渡戸に改めたと伝えます。
中間の世代はほとんど事績が伝わらず、永享の乱で鎌倉公方足利持氏に味方して下野を追われて陸中に移住し、古くは葛西氏に属したといい、戦国末期の永禄八年(1565)三月に、新渡戸摂津守頼長は、柏山伊勢守明好(明吉)によって、その拠る伊沢郡の西根城を攻められ、頼長は討死しています。新渡戸氏は陸奥国和賀郡を勢力圏とした和賀薩摩守義忠の重臣として活動し、その孫の内膳正春治の時、慶長三年(1598)に南部信直に仕えて、陸奥国稗貫郡安野村(岩手県花巻市高松)に移り住みました。江戸期には、盛岡総本家をはじめとして盛岡二系と花巻五系(春治の子の常綱が家祖)に分れて南部氏に仕えますが、東京帝大教授・国際連盟事務次長にもなった新渡戸稲造の祖父傳(つとう。常澄)は花巻本家に生まれ、七戸藩の家老、大参事を務め、三本木(青森県十和田市)の開拓の功労者とされています。稲造は、自家の系譜も検討していたとされます。
 
さて、新渡戸氏の系譜には、中間が不明確であり、常秀(一に常親常親を常秀の子とするものもある)の後は「泰胤−常邑−常貞−貞綱……」という系図も伝えますが、堺常秀の子孫には泰胤以下が見えず(常秀の甥に千葉次郎泰胤があげられますが、それとの関係は不明)、不審であり、新渡戸摂津守頼長や春治に至る中間世代の数が多すぎるという問題点もあります。一伝に新渡戸氏は多田一族ともいわれ(『姓氏家系大辞典』)、また清和源氏でも河内守頼信の後裔ともいわれていて、諸説多く、なかでも多田一族説のほうが比較的自然なのかもしれません。
  新渡戸氏の先祖とされる刑部丞貞綱は、年代的に建武元年頃に陸奥で活動した多田木工助貞綱(南部八戸文書、建武元年四月十三日付文書に津軽に下向が記され、唐牛城に在城)と重複する可能性が大きそうです。また、春治の末子豊紹の家は多田を名乗って南部藩士にあるともいいます。
  なお、新渡戸氏が仕えた和賀氏・本堂氏の一族も清和源氏多田氏末流と称しましたが、和賀氏は武蔵七党の一、横山党から出た中条氏の後であり、その祖苅田平右衛門尉義季が和田義盛の猶子となって以降、平姓を称していました。
いずれにせよ、新渡戸氏が千葉一族に出たという系譜所伝には大きな疑問があります。従って、堺常秀の子孫が奥州に移って続いたという系譜には疑問があって、その取捨は慎重に考える必要があると思われます。

 
2 房総千葉氏一族の嫡宗など

この一族の嫡宗が代々“次郎”と称していたことは、偶々のことであり、この関係は「上総介広常の系譜と初期房総千葉一族の相続制」で記しましたので、ここでは基本的に重複を避けます。
ただ、簡単に記しておくと、
(1) (注)にもありますように、相馬小次郎常時と上総氏の祖・相馬五郎常晴は同一人物であり、相馬六郎常高は上総介常澄(一に常隆)と同人、佐賀次郎常範は木内太郎常範と同人であり、いずれも表記の差異にすぎません。「佐賀」は坂、坂井や堺・境に通じる苗字で(上総国山辺郡堺郷、現在の東金市丹尾に因む苗字か)、千葉・上総一族の嫡子関係者に比較的よく見られます。
 
(2) 千葉胤正の次男堺常秀の子の秀胤が幕府の評定衆を務めるなど有勢であったのは、常秀が上総介氏の遺領を受け継いだことに加え、秀胤の縁戚関係(妻が三浦泰村の妹)や、その兄・成胤の後になる千葉嫡宗に早世が相次いだ事情があげられると思われます。すなわち、成胤の子の胤綱、及びその跡を継いだ弟・時胤がともに早世し、時胤の後を受けた頼胤(1239〜75)がわずか三歳で千葉介家督となっていたことがあげられます。秀胤が滅ぼされた宝治元年(1247)当時では、おのずと秀胤が千葉一族を代表する立場にあったわけです。 

 
3 大浦・津軽氏の祖・金沢右京進家光の系譜

金沢右京亮家光は、大浦・津軽氏の祖で、津軽右京亮為信の六代祖先となりますが、その父は南部本宗の大膳大夫守行ではありません。八戸南部氏の第八代遠江守政光が鈴木真年翁関係史料(『百家系図』第34冊など)から金沢家光の父とされます。
  なお、津軽家文書には、永享六年十月二十三日付けの「金沢家光任右京亮口宣案」があり、同人の実在性は認めてよいものと思われます。

  (05.6.12 掲上)



 (大阪在住の方よりの返信 3) 05.6.24受信

  新渡部氏の系譜についてどうも有り難うございました。
 
 その中で境次郎常秀について、少し気になる所が、有ります。
「境=佐賀」の姓は千葉・上総一族の嫡子関係者に見られるとの事ですが、何故、常秀が兄の成胤を差し置いてこの姓を名乗っていたのかが気になります。そうで無くとも“境次郎常秀”と言う名には興味深い点が幾つか有ります。
元々、房総千葉一族の通字は“常”ですが、千葉介常胤の代で“胤”となります。これは、変更したというよりも、上総介広常一党からの独立を意味していた言う意味の方が強いと思われます。言うまでも無く、常胤系は傍系で、広常系の方が嫡流だったからです。
“胤”を通字とする房総武士団が形成される中で、胤正の息子のうち常秀だけが、“常”の字を用い、しかも房総千葉一族の嫡流を意味する「境=佐賀」の姓を用いていたのか大いに気になる所です。常秀には一族全体を統治する様、託されてたのでしょうか。事実、広常滅亡後には常秀は上総介の座を襲っていますが...。
 
 因みに常胤の息子達の方でも、次男の相馬次郎師常だけが、“胤”の字を用いず、“常”の字を用いていますが、師常の元の名はどうやら師胤だったと考えられます。相馬次郎と言う姓は、惣領の上総介広常が滅亡した後に相馬郡を継承した後に名乗った様で、ちょうどこの時に師胤から師常と改名したと思われます。
尚、相馬師常は一般に将門後裔の相馬氏の跡を継いだと言われていますが、これは疑わしく、実際は、常晴流相馬氏の跡を継いだと考えています。
 
 佐賀次郎常範は木内太郎常範と同一人物との事ですが、上総介常澄の長男は伊西新介常景であり、これだと長男が二人居る様な感じがするのですが...。
 

 (樹童からのお答え)

   上総介・千葉介一族で、通字として“常”を用いるか、“胤”を用いるかについては、なんらかの意味合いがあったのではないかと思われます。上総介広常跡を襲った境次郎常秀、一族伝来の所領相馬御厨に拠った相馬次郎師常については、貴見のとおりかもしれません。ただ、“常”“胤”以外の漢字を用いる庶子をどう考えるかなどとも併せ、どこまで端的に言えるかどうかは疑問もあります。
 
 「相馬師常は一般に将門後裔の相馬氏の跡を継いだと言われていますが、これは疑わしく、実際は、常晴流相馬氏の跡を継いだと考えています」という点も、概ねそうかもしれません。
すなわち、@平将門、その子将国−文国……として、常陸の信太氏→下総の相馬氏となり、相馬二郎師国の養嗣として小次郎師常をあげる系図には、信太氏の存在や将門直系が存続したという点に無理があり、A千葉常胤が上総介広常一族を相馬御厨から駆逐して、わが子師常をその跡に据え地主・地頭としたもの(養嗣の形で跡を継いだものではない)、とみられます。
実名の師常については、もとの名が何であったかについては諸伝があるようで、千葉氏関係の系図には、「胤常」「胤師」につくるものもあり、『源平盛衰記』には相馬次郎成胤と見え、『相馬日記』に「守谷に相馬小次郎師胤が城跡あり。千葉介常胤の三郎子(ママ)にて、……」と見えております。そのため、『東鑑』に拠って考えると、号は千葉次郎(小次郎)、相馬次郎とあり、名は師常がほとんどですが、文治四年三月十五日条には「千葉小次郎師胤」と見えますから、この頃まで師胤を名乗っていたのかもしれません。「徳島本」でも、師常について師胤という別名を表記しています。
なお、「師胤」という名は、師常の兄の新介胤正の子に千葉七郎師胤(神崎氏の祖)も見えており(「徳島本」では、この者を師常と表記)、また、相馬氏でも師常の四世孫で、奥州相馬の祖として彦次郎師胤がありますので、紛らわしいものがあります。 
 
 上総介常澄の長男が伊北新介常景であることに異存はありません。「桓武平氏諸流系図」では、常晴(上総在国分〔介の誤記〕)、その子の常澄(同介)、さらにその子の常景には、「同介、長寛年中為弟常茂被害」と註記があり、そのすぐ下の弟に常茂をあげて「印南次郎、為弟弘常被害」とありますから、こうした権力闘争からも上総介常澄の次男が常茂と知られます。その弟の「匝瑳三郎常成」も異論がなさそうです。
その下も、佐是(佐瀬)四郎禅師円阿(兄弟としない系図もある)・大椎五郎惟常・埴生六郎常益・天羽庄司秀常(季常・直胤とも)・介八郎広常(弘経)・相馬九郎常清・臼井十郎親常(十郎親胤と同人か)・時田与一太郎為常・金田小大夫頼次(康常。三浦義明女婿)などが見えますから、佐賀(木内)常範は上総介常澄の猶子であったことも考えられます。
常範の実系については、常澄の兄弟(おそらく兄か)として、長南(庁南)に住んで長南太郎重常・同次郎常家・木内三郎常範・潤野四郎盛常(後の二人は常澄の子とも伝える)の父となった者(実名は不明。常季か)が考えられます。常範は、佐賀次郎のほか多くの呼称を持っていたようで、「徳島本」には「木内太郎、小見九郎」と見え、他の系図には「木内三郎」とも記されてます。この辺の事情はよく分かりませんが、木内の苗字としては太郎あるいは三郎、小見の苗字では九郎、としてとりあえず解しておきます。

  (05.7.12 掲上)

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