□ 摂津・近江等の萱野氏 (問い) 摂津(箕面市萱野)出身の萱野三平は、赤穂義士の討ち入りに参加できずに自害したことが知られていますが、同じく摂津の萱野出身という萱野兄弟は会津藩と土佐藩に仕えて各々家老筋となり、会津系の最後の当主:萱野権兵衛は戊辰戦争の責任を取り自害、その甥の三渕忠彦は初代の最高裁長官になっています。また、土佐系の萱野氏も、明治期の自由民権運動に名を残しています。 さて、歴史の中にそれなりに名を残した萱野氏ですが、萱野に残った萱野氏の通字は「重」、新天地を求めた萱野氏の通字は「長」ですが、この二流の萱野氏は同族なのでしょうか?
巷間で江戸時代以前の萱野氏系図を目にしたことがないため、確認が出来ません。ご存知でしたら、ご教示ください。
(fifa様より。04.4.11受け)
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(樹童からのお答え) 1 萱野氏について、まず主な記事を記しておきます。
(1) 摂津の萱野氏 『姓氏家系大辞典』に見えており、赤穂義士の萱野三平で著名です。萱野三平重実は、戯曲『仮名手本忠臣蔵』の早野勘平のモデルとされますが、萱野郷芝村の出身で、父重利が仕えた大島阿波守義全の推挙で浅野内匠頭長矩に小姓として仕えたものの、主君仇討ちに参加することを父に止められ、忠と孝との板挟みとなって元禄十五年(1702)に自害しました、享年28歳。萱野三平は涓泉と号した俳人でもあった。その墓誌銘に家系が記されており、先祖以来、豊島郡萱野郷(現箕面市南部の萱野)に居住し、鎌倉期頃よりこの地域一帯を領しましたが、清和源氏土岐一族の後裔とする系譜所伝を記します。この辺は系譜仮冒があるとみられます。
摂津の萱野氏としては、萱野・長谷両郷を領した恒次がおり、その後裔大隅守恒時が荒木村重に属しましたが、村重が滅びて領地を失い、その孫の恒産が美濃の大島氏に仕え、その後は「恒重−重利−重通」と続き仕えて、重利の次弟が三平重実とされます。この一族は、戦国末までは通字を「恒」として、江戸期になってから「重」としていたことが分かります。
(2) 近江の萱野氏 愛知郡萱野村に起った佐々木一族とされますが、その子孫は紀伊国伊都郡清水村にあり、『紀伊続風土記』(仁井田好古等編、天保十年〔1839〕)には清水村地士萱野孫四郎の条に、江州佐々木義秀の一族萱野左大夫が豊太閤に仕えて肥前名護屋に在陣し、その子十郎兵衛秀光が故あって伊都郡に居住し、その子を孫左衛門義澄といい、その後裔が孫四郎と伝えます。たしかに、秀吉の馬廻に萱野左大夫・萱野弥三左衛門がおりますが、その事績・系譜等は確認できません。また、「江州佐々木義秀」なる者は『江源武鑑』に見えますが、沢田源内が捏造した佐々木屋形三代のうちで、この名前が出るだけで、記事自体が信用できないと思われます。
(3) 会津藩家老の萱野氏 萱野権兵衛長修(ながはる)は、小太郎長祐の子で、会津藩主松平容保に仕え、容保が京都守護職として京都在勤中、国家老として藩政を取り仕切りました。戊辰戦争で会津の戦いの後、萱野権兵衛は戦いの責任を進んで一身に引き受け、藩主父子の助命嘆願のうえ、明治二年五月、割腹自刃しました、享年四二歳。その子の長正・寛四郎は父の罪を憚って母の旧姓「郡(こおり)」を名乗りましたが、郡寛四郎は日本郵船会社に入り、日本人として最初の欧州航路の船長をつとめ、大正二年(1913)には中国の革命家孫文の日本への亡命を助けました。
萱野権兵衛には隆衡という弟がおり、やはり萱野姓をはばかり、三淵を名乗りますが、その子が三淵忠彦で、太平洋戦争後、初代の最高裁判所長官となりました。また、郡寛四郎の妻・登美(石渡栄次郎の娘)の甥に石渡荘太郎がおり、大蔵次官、蔵相、書記官長、貴族院議員、宮内相を歴任し、敗戦前後の混乱に対処しました。石渡荘太郎の弟・慎五郎は三淵忠彦の長女を妻に迎えています。
会津の萱野家の祖が浪々中、会津松平家の祖・保科正之により召し出されたとされます。すなわち、その始祖は萱野権兵衛長則と称し、加藤孫六嘉明の上級家臣として会津に移りましたが、嘉明の嫡子明成が石見に大幅減封された時に浪人し、会津藩主として入府した保科正之に召しかかえられたものです。長則は寛文六年(1666)に八十余歳で没しています。
(4) 土佐の萱野氏 土佐藩士萱野氏が会津系の始祖権兵衛の兄弟を祖とすることは、まだ確認しておりませんが、土佐出身の大陸浪人に萱野長知がおり、孫文の辛亥革命を援助したことで知られます。萱野長知は、高知共立学校に学び、明治二十年代、民権壮士として活動後、上海に渡り、孫文の思想に共鳴し中国革命の渦中に身を投じたものです。会津・土佐とも「長」を通字とした萱野氏がいたことが分かります。
(5) 肥後の萱野氏 肥後熊本藩士にも萱野氏がおり、 萱野隠斎が開祖となって萱野流茶道を始めています。これは、江戸初期に成立した熊本古流三家の一とされます。
2 これら萱野氏はどのような系譜関係になっているのかについては、具体的な系図が管見に入っていませんので、実際よく分かりません。明治期に多くの系図を収集した鈴木真年・中田憲信関係の系図史料集にも殆ど見えません。ここで「殆ど」と表現したのは、『百家系図』第四七冊に「萱野系図」が記載されるものの、内容は前掲の『紀伊続風土記』の記事をあげたものにすぎないからです。近藤安太郎氏は、萱野氏には佐々木氏族というものと多田氏族というものがあり、萱野権兵衛の家系は前者であろうと記しています(『系図研究の基礎知識』第三巻2060頁)。
そこで、私なりの検討を加えてみます。
(1)
会津と土佐の萱野氏が通字を「長」とし、摂津の萱野氏がそれを「恒」「重」としていたところからみて、別流ではないかと推されます。
(2)
始祖萱野権兵衛兄弟が仕えた加藤嘉明及び山内一豊は、尾張辺りの出身で信長・秀吉の部下であったことを考えると、萱野権兵衛兄弟の出身地は摂津よりも近江のほうが妥当ではないかとみられます。その意味で、紀伊国伊都郡の萱野氏が秀吉の馬廻を務めた萱野左大夫の後裔で、近江佐々木一族と伝えることは自然です。ただし、具体的に佐々木一族からどのように分かれたのかは不明です。
(3)
肥後の萱野氏については、藩主細川氏が山城西郊の長岡に居た流れであるので、山城土豪が家臣となった例もかなりあった事情があり、摂津北部にあった萱野氏の系統ではないかとも推されます。ただ、益城郡萱野邑(現下益城郡中央町大字萱野)があるので、この地に起った可能性もあるようにも考えられます。
(4)
摂津国豊島郡萱野村にあった萱野氏については、少し史料が残っています。
『大阪府の地名』に拠りますと、鎌倉期の近衛家領・春日社領萱野郷は萱野庄と呼ばれる場合もありましたが、鎌倉末期から建武頃にかけて同郷下司に源義持がおり、悪党化して近隣に対して濫妨を行った記録があります。源義持は通称「萱野河原」といわれ、建武年間に出家して沙弥覚浄(掃部助入道)と号し、その弟の宰相房義明とともに濫妨を行っています。源義持の嫡子に義任がおり、その後継者とみられる源義隆がいて、文和四年(1355)の源義隆名田寄進状の端裏書に「カヤノゝ掃部助殿」と記されています。
このように、鎌倉末期〜室町初期に源姓を称する萱野氏がいたことが知られますが、その具体的な系譜は知られず、清和源氏という確認もできません。おそらくこの後裔が萱野三平の家系ではないかとみられますが、土岐一族の「萱津」とは明白に異なることは太田亮博士の指摘するところです。
以上を総括してみますと、暫定的な答えではありますが、摂津萱野に残った萱野氏、会津・土佐に赴いた萱野氏という二流の萱野氏は同族ではないとみるほうが自然なように思われます。
(04.4.18 掲上) |
<fifa様よりの返答>(04.4.18受け) 貴考証、拝見致しました。 通字が異なるため、三平家と両家老家(この二家が兄弟という件については、高知市民図書館から刊行されている、萱野長知の伝記及び歴史春秋社から刊行されている会津藩士の系図集に記載されています)は別系統の可能性もあると思っていましたが、後者については家老家でありながら戦国末期以前の系譜については全く言及がなく、ただルーツが摂津萱野とだけあったので、もしや、と思い疑問を投げかけた次第です。 熊本藩に仕えた萱野氏については、 http://www.geocities.jp/shin_shindoh/06-ka.htm で言及されていますが、これも江戸時代初期からしか判りません。 (04.4.19 掲上) |
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