駿河伊達氏の後裔

(問い) 我が家の過去帳・親類書などによりますと、私は駿河伊達氏の伊達山城守景忠、及びその子・伊達與太夫景長の後裔となっていて、伊達山城守景忠と私までの関係はあきらかです。しかし残念ながら、伊達山城守景忠が、駿河伊達氏の系図の中でどこに位置するのかが、良くわかりません。もし伊達山城守景忠の系図中における存在場所をご存知ならば教えていただけませんでしょうか?あるいはインターネット上で調べる方法があるならば、その方法に関してご教示いただけませんでしょうか。

   (J伊達様より。05.2.7受け)


 (樹童からのお答え)

  ご質問には端的にお答えできないのですが、いま分かっていることを書きますと次のようなものです。
 
1 駿河伊達氏は、常陸介宗村の子、四郎左衛門尉為家に出ます。
その子孫の「右近将監景宗が祖であり、景宗は足利尊氏方で合戦し、その功績で駿河国有度郡の入江之庄(清水市域)の三沢小次郎の跡をもらい、代々知行したという。その後、景宗は今川範氏に、その子弥五郎範宗は今川泰範に仕えたが、子孫は遠州山名庄諸井郷を本領とした。」(以上は、当HPの伊達氏の記事を参照のこと)
 
弥五郎範宗は「山城守」を称号としており、山名郡諸井村で百五十貫文を知行した山城守景忠は、知行地と称号から見て、その嫡流的な存在だったかもしれません。
駿河伊達氏の系は、江戸期に幕臣、紀伊徳川家臣、美作津山松平家臣にあり、いま「駿河伊達氏系図」といわれる系図は、美作津山松平家臣の伊達家に伝わるものであり、東大史料編纂所にその謄写本(岡山県苫田郡津山町伊達直平蔵本、明治四十三年写了)があります。
その系図は綱吉将軍の頃の人、伊達平馬宗昌(下記宗信の孫)までの歴代があげられますが、範宗の後は「政宗−忠宗−親宗−吉宗−宗綱−宗定(仕越前忠直公)−宗重−宗綱……」とされ、「宗」を通字に用いない者が見えません。ただ、戦国末期頃に一部の世代欠落がある可能性もあります。
この美作津山藩の伊達氏は、もと越前福井の松平家に仕えた家柄で、福井藩祖松平三河守秀康(越前中納言)に仕えた与兵衛宗綱を祖としており、この者は「秀康ュ給帳」に七百石伊達与兵衛と見えます。その曾孫の与兵衛宗信(木曽金蔵義綱の実子で、生母実家を継ぐ)が松平光長・綱国に仕えたとあります(当時は越後高田藩)から、この者かその子辺りから津山藩士となるわけです。
 
2 紀伊徳川家臣の伊達家は、有名な外相陸奥宗光(伊達藤二郎宗広の六男)を出した家であり、その系図はあまり知られませんが、華族(明治27年に子爵、翌28年に伯爵)になったことで、大正八年頃までに宮内大臣ないし宮内省宗秩寮総裁にその家譜が呈出されており、現在宮内庁書陵部に所蔵の「続華族系譜」の第34冊に「陸奥家譜」として収められてあります。「続華族系譜」には、大久保春野(和邇部宿禰)、河野寿男(越智宿禰)、郷純造(大江朝臣)、児玉清雄(有道宿禰)、林清康(丹治真人)、山田繁栄(清原真人)などの華族について興味深い家譜が収められています。
私は、昭和61年にこの「陸奥家譜」を見ておりますが、当時、室町期以降の系譜にはあまり関心を持っていなかったため、右近将監景宗までしかメモしておりません。あるいは、この系図のほうに山城守景忠ないしその関係者が出てくる可能性があるかも知れません。
なお、「陸奥家譜」では駿河伊達氏が伊達嫡統のように記しています。すなわち、宗村の長子皇后宮為宗は承久合戦の時宇治川で戦死し、その子におかれる右衛門尉為家(兄為宗の跡継ぎということか)の後が陸奥家につながり、為宗の弟・蔵人大夫資宗が奥州伊達陸奥守祖と記されます。
 
3 宮内庁書陵部所蔵の系譜資料は、一般になかなか閲覧しがたいものですが、研究者には閲覧を許しております。閲覧要領は次のようになっておりますが、具体的には宮内庁書陵部図書課出納係(電話03-3213-1111内線439)のほうに閲覧方法を尋ねてみてください。書物によっては、現代の人々のプライバシーに関係するとして、閲覧が許されないものもあると思われます。
  
  http://www.kunaicho.go.jp/15/shoryoburiyoukisoku-2.pdf
 
また、和歌山の紀伊徳川家関係の資料にも、同藩家中の伊達氏の系図が見つかるかもしれません。その場合には、和歌山県立図書館に紀州藩士系譜などがあり、和歌山大学図書館真砂分館にも和歌山藩の旧蔵書があるとされます(『歴史資料保存機関総覧〔西日本〕』、1979年刊、山川出版社)。
   
 

 <伊達様よりの返事>
 インターネット上で「伊達山城守景忠」を調べたところ、「その子・伊達與太夫景長の子以降は幕臣として江戸にあった」となっています。我が家の過去帳によれば、それを裏付けるように「伊達與太夫景長は今川家から徳川家に仕え、戦傷・剃髪後医師となり、伊達本覚景長を名乗る。」とあり、さらに「その子・伊達本覚景次の時に江戸へ移住し、以降奥医師または小石川養生所医師として幕末まで勤務した」ことになっています。以上に、同過去帳の大略を記した次第です。
 

 <備考>
  『姓氏家系大辞典』にはダテ条21項に本覚景長の子の景元まで記して、「寛政系譜に見ゆ」とあります。また、同22項に記される武相の伊達氏で『新編武蔵国風土記』に記載の岩槻太田氏の家老伊達與兵衛房実の家系も、上記与兵衛宗綱の一族とみられますが、年代的に若干の混乱があるかもしれません。
 
  (05.2.11掲上)

 <ipanema様よりの情報>
1 05.2.16受信
 紀州伊達氏は、津山流の宗綱or宗定の子が、徳川頼宣に仕えた流れと、その又従兄弟にあたる子が仕えた2流があります。
 前者は途中さらに2流に別れ、分家筋が陸奥宗光に繋がります。又従兄弟を祖とする家は紀州藩の家老を務めています。
 陸奥宗光の伝記、紀州藩士の家譜を見たことがありますが、伊達景忠については記憶が薄れていてわかりません。
  (05.2.20掲上)

2 05.3.21受信
 以前、静岡と和歌山の図書館と文書館で採録した系図では、
 
(駿河伊達)忠宗-親宗-吉宗-宗綱(越前藩)
            弟:信宗  弟:宗勝-盛次-至盛-由一・・・
             (範宗?)    (紀州藩)    弟・盛政(陸奥宗光祖)
               |
              宗信(景信?)-信正-正勝(紀州藩家老家)・・・
 
という形が復元され、越前藩士と紀州藩士3家は追跡出来ましたが、関東流の景○については、全く痕跡がありません。小田原北条氏の家臣なので駿河伊達氏の一族と思われるのですが、謎のままです。
  (05.4.3掲上)

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