□ 宇佐美氏の諸流 (問い) 近頃は紀州づいておりまして、今回は宇佐美氏について質問します。 宇佐美氏には伊豆−越後−紀州という大きな流れがありますが、詳細な系図がなく、越後時代については、(A説)琵琶島城主の宇佐美氏と神得氏は近い時代に兄弟から別れた、(B説)伊豆に残った宇佐美氏と琵琶島城主の神得氏は遠い時代に別れた、という2説があります。
戦国時代には、いずれにせよ伊豆の宇佐美氏は滅ぼされ、最後の祐興の弟:房(孝)忠が神得氏を継ぐ形で越後に宇佐美氏の血脈を残します。その子の定満は上杉謙信の偽軍師:宇佐美定行のモデルとも言われていますが、真相は不明です。
その後、子孫が紀州藩に仕えますが早くに血脈が絶え、将軍後継争いに敗れた紀州藩が其のイデオロギーを確立するために上杉軍学を採用し、「大関左助」という家臣に宇佐美定祐を名乗らせて宇佐美家を再興し、それに併せて大量の偽古文書を作らせ、恰も紀州藩が由緒正しき上杉軍学の嫡流のような、でっち上げ工作をしています。
この紀州:宇佐美氏の子孫には紀州:伊達家の養子になった者がおり、伊達宗広、陸奥宗光父子が、その子と孫にあたります。
というわけですが、初代の宇佐美祐政から戦国末期の定行までの系譜に関しては断片的で実態が良くわかりませんので、何らかの解明ができたらと思います。
(雑賀大納言より。04.7.15受け)
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(樹童からのお答え) 1 伊豆の宇佐美氏の出自
宇佐美氏については、伊豆国田方郡宇佐美に起った氏が著名ですが、系譜が十分に伝わらず、信頼できる史料に乏しい事情にあります。『保元物語』『東鑑』等に見ると、平安末期から宇佐美氏が現れますが、平姓と藤姓の二流があったようであり、また同人異名とみられる者もかなりいるようで、系譜はかなり複雑だといえます。
平姓としては、『保元物語』巻三、狩野(公藤)介茂光に随って為朝追討に当たる兵として宇佐美平太、同平次があげられ、これが『源平盛衰記』巻廿では宇佐美平太、弟の平六(次の誤記か)、平三資茂があげられます。一方、藤姓としては、『尊卑分脈』などの系図に工藤祐経の弟・宇佐美三郎祐茂があげられ、『東鑑』等で著名な人物ですので、一般に宇佐美氏この祐茂から出たものと記されます。
ところが、祐茂については位置づけに疑問もあり、太田亮博士は祐経と姻戚関係を有する人かとし、祐経の近親なれど弟というのは誤りかと考えられるとしています。その指摘では、宇佐美氏には平姓と藤姓(工藤の一族)の二流があって、この二つの流れを混淆したことが考えられるとされます。果たしてそうなのでしょうか。
前者の平姓の宇佐美氏とは、宇佐美平太政光・平次実政兄弟とその同族で、のち越後等に発展して大見氏を号するようになります。大見も田方郡の地名です。これは、やはり平姓を称する北条氏(鎌倉幕府執権)の同族とみられます。一方、藤姓の宇佐美氏は、工藤祐経の一族宇佐美三郎祐茂などですが、上記『源平盛衰記』巻二十には「宇佐美平太、弟の平六、平三資茂」と記されていて、「平三資茂」が「三郎助茂」と同人であれば、宇佐美平太らと兄弟に位置づけられます。『日向記』には、「祐経、叔父狩野介茂光(ママ。実際にはその子の宗茂か)・宇佐美三郎祐茂に阿属して鎌倉に下る」とあって、この記述では祐茂は祐経の叔父(ないし一族)とされているようでもあります。
しかし、『東鑑』では工藤一臈祐経に次いで同三郎祐茂をあげる記事が二か所(元暦元年八月八日条など)があり、工藤祐経が曽我兄弟に討たれたとき、宇佐美祐茂が頼朝に引き立てられており、それも祐経の近親故と思われます。これらの記事からいえば、祐茂は祐経の弟的な存在であって、一族の宇佐美氏を継いだとも考えられます。
また、『武家系図』には、「宇佐美、藤、本国伊豆、…、狩野四郎大夫家次男、平次祐光、称之」と記されており、この記述の「狩野四郎大夫家次」には疑問を留保してさておくと、年代的に平次祐光は祐茂の父くらいにみられそうです。工藤祐経自体が『曾我物語』では平姓を称している例もあります。もう一つ、『東鑑』の石橋山合戦の頼朝随行者の記事が参考になり、そこでは北条四郎を筆頭に、@宇佐美三郎助茂、A宇佐美平太政光、同平次実政、B大見平次家秀、と三個所に宇佐美・大見を名乗る武士が現れます。これだと、宇佐美三郎助茂は宇佐美平太政光・同平次実政兄弟とは別族のように受け取られますが、実は宇佐美平次実政と大見平次家秀とは同人であることが『東鑑』の記事を分析すると分かります。
前置きが長くなりましたが、総合的に考えて見ると、宇佐美氏に二流あるようにみえても、本来は同族であって、ともに平姓を称していたことになります。つまり、「平三資茂」が「三郎助茂」と同人であって、宇佐美平太らと兄弟に位置づけられるものと私は考えます。「平次」の実政と家秀とは同人であることを先に挙げましたが、「平太」の政光には家信・家光という名もあったようで、「平三」の助茂(祐茂)も家政と同人と考えられます。三兄弟の名をこのように考えれば、その父の名も助光(祐光)としてよさそうです。
なお、曽我兄弟の叔父にあたるものに宇佐美禅師がおり、兄弟の死後に遺骨を持ち帰って葬ったのが曽我の城前寺の起りと伝えられます。江戸期の大住郡曽屋村(秦野市)の宇佐八幡宮代々の神主に宇佐美氏があったことなども考え併せると、宇佐美氏も本来、平姓を称し「祐・助」を通字とした曽我一族の出ではないかと推されます。鎌倉北条氏も実態は曽我一族で、古代師長国造の末裔ではないかと推する次第です。陸奥の津軽には曽我氏同様、宇佐美平次実政の領地もあったとされます。
2 中世の伊豆宇佐美氏の系譜
宇佐美祐茂(助茂)は、頼朝の挙兵当初から参陣し、文治五年の奥州征伐やその翌年の頼朝上洛に随行しており、建暦二年(1212)には、常陸国那珂郡沙汰人の一人として地頭職を有していたことも知られます。その通称は三郎、のち右衛門尉で見えており、治承から建保四年(1216)七月の期間、『東鑑』に登場することからいって、工藤祐経と同時代の人だと考えられます。その子の左衛門尉祐政・与一左衛門尉祐村、孫の日向守(藤内左衛門尉)祐泰、さらに三郎兵衛尉祐明なども『東鑑』に登場します。嫡系は「祐政−祐泰−祐明」ではないかとみられます。
その後の宇佐美氏については、南北朝期には宇佐美摂津前司や宇佐美三河守(祐清か)、同三河三郎などが『太平記』に見え、室町期には足利公方家の直参でもあり、のち北条早雲によって滅ぼされますが、鎌倉中期以降の系譜は不明です。
史料に散発的に現れる宇佐美氏の者をあげていきますと、関東廂番で見える宇佐美三河守祐清、上杉宅間重能のもとで伊豆守護代を務めた同備前守祐禅、さらに摂津守祐辻が室町前期に見え、その後は「祐茂−祐時(政豊。仕将軍義政)−祐孝(仕山内顕定)−能登守貞興−左近大夫祐興」と続いたようであり(未確認)、延徳三年(1491)には伊豆守護代貞興・祐興親子のときに早雲により滅ぼされたとされます。なお、このとき工藤祐経系統の伊豆の伊東氏は伊東伊賀入道祐遠(祐経の九世孫。『太平記』に見える伊東大和八郎左衛門尉祐熈の四世孫)の時代で、北条早雲に仕えてその子孫は重臣として存続します。
3 越後の宇佐美氏と紀州藩士宇佐美家
伊豆宇佐美氏の一族で上杉氏に従って越後に入ったと称するものもあり、頸城郡琵琶島城(柏崎市元城町)の城主として続き、とくに宇佐美駿河守定満は上杉謙信に仕えて功績があった武将です。定満は、永禄七年(1564)に越後野尻池で長尾政景と舟遊び中、船が転覆して死んでおり、謀殺ともいわれますが、越後流軍学の祖宇佐美定行として祭り上げられたものです。
この後の宇佐美氏は、上杉家を浪人して佐々成政や小西行長に仕えた民部定勝、その子(一に弟)が民部勝行とされ、勝行の子あるいは甥の位置におかれるのが徳川頼宣・光貞に仕え越後流軍学を研究した宇佐美定祐(1634〜1713)です。近年、宇佐美家文書の調査が進むとともに、数多くの偽文書を含むことが知られるようになり、それとともに、その文書の一つに「本名宇佐美ニ相改メラレ申スベキ旨 仰セ付ケラレ候」と書かれており、頼宣に召し抱えられ上杉家軍学の体系化を進めていた「大関左助」なる藩士に対し、二代藩主光貞が宇佐美姓を名乗るよう命じた、とする内容が分かりました。この辺は、ご指摘の通りです。
さて、宇佐美駿河守定満以前の系図についても、不明なことが多いものです。一般に定満の父は房忠で、その父は越中守(藤三郎)孝忠とされ、孝忠は、伊豆の能登守定興の子であって寛正五年(1464)に死去した越後の宇佐美伊豆守定秀の跡に嗣として入ったと伝えますが、年代等で疑問があります。琵琶島城主・宇佐美房忠は、永正十年(1513)、守護・上杉定実や上条城主・上条定憲らに従って長尾為景に対して挙兵し、守護は小野城を拠点にしたものの翌年一月に落城、宇佐美房忠らは岩手城で抗戦したものの同年五月に落城して、房忠ら一族のほとんどが討ち死にしたとされます。孝忠のほうは、『鎌倉大草紙』に山内顕定の家臣として見えますから、年代的に祐孝とほぼ同じで、伊豆出自としたら、祐孝の兄弟くらいの位置づけとなります。おそらく、伊豆出自は疑問で、もとから越後にあった宇佐美同族ではないでしょうか。孝忠から定満までの世代も、やや少ないように思われます。
孝忠が継いだという伊豆守定秀より前も宇佐美氏があったことになりますが、この系譜も不明です。所伝では、左衛門尉満秀の弟・神徳左馬進祐益が応安元年(1368)に上杉龍命丸(越後上杉第三代房方)が鎌倉から越後入りをしたときに随行し、上杉下司となったと伝えますが、伊豆の宇佐美一族で左衛門尉満秀なる者がいたかどうかは不明です(神徳氏については、後述)。また、定秀には祐益の子という所伝もあるようですが、これも年代的に疑問です。
どうも、越後の宇佐美氏については根底から検討する必要があるようです。
4 越後に繁衍した平姓大見一族
鎌倉初期の宇佐美平太政光・平次実政兄弟の後は、越後に入って、大いに栄えます。平次実政(家秀)の子とみられる肥後守平実景は、蒲原郡白河荘(いまの北蒲原郡水原町・安田町一帯)に所領を持ち、この系統から安田、水原、山浦、下条などの諸氏を出します(『新潟県史』資料編四などを参照)。これら諸氏は戦国期まで続いて、上杉・長尾配下の武将を多く出します。
越後南部の頸城郡柿崎邑(柿崎町一帯)より起った柿崎氏も大見一族の後裔であり、上杉謙信の有力な部将で上杉二十五将の一人とされる柿崎和泉守景家を出しています。ところが、「米沢柿崎氏系図」では平維茂の後裔で越後の城一族の出自(城助国の弟「康篤」の後)とする系譜となっています(室岡博著『柿崎景家』)。しかし、その初期部分には明らかに仮冒があり、城一族の本拠地沼垂郡から越後国内に繁衍し、同じ平姓を称したことから附会したものと考えられます。
その具体的な系図としては、大見平次実政の兄・平太政光の子孫となります。上記柿崎系図では、平太政光は大見平太家信という名で現れますが、この辺りからほぼ信頼できるようになり、その子平二家親以下、光政、家常と続いて、家常の四世孫が柿崎但馬守俊家で、その曾孫が景家となっています。この柿崎氏歴代の名は史料に確認できませんが、大見一族の後裔であることは間違いないと考えられます。
なお、大隅の種子島の領主種子島(肥後)氏の祖である時信(信基)も平太家信の子ではないかとみられます。時信・信行兄弟は北条氏の被官として大隅に勢力を扶植し、当地に肥後・横川・財部などの諸氏を出しております。
さて、文和四年(1355)に上杉憲将が旗揚げしたことを記した村山文書ならびに村山系図に「御敵上椙武庫、宇佐美一族巳下去三月四日於佐味庄顕法寺城旗揚」とあって、越後宇佐美の初見であり、また柿崎氏が宇佐美氏の一族であったことを窺わせるとされます。宇佐美氏の居城、琵琶島城跡は柏崎市元城町にありますが、柿崎町の北隣が柏崎市ですから、頸城郡居住の大見一族が宇佐美・柿崎を名乗ったとみられます。大見一族では、通字に「家」を用いることが多いのですが、実、定、秀、政の字もよく用いられています。「秀」の字は、大見平二家秀とその子孫の安田氏に見え、永正頃の安田但馬守実秀・長秀親子があげられますから、上記「満秀」は安田氏なのかも知れません。「定」の通字も、伊豆の宇佐美一族には見えませんから、大見一族のものとみられます。
5 越後の大関氏等の系譜
越後の大関氏も系譜不詳ながら名族であり、古くは応永末期に古志郡栃尾大野城主、魚沼郡浦佐城主として大関氏が見えます。その子孫は、謙信様御分城持大将衆に大関阿波守(親信)が見えておりますが、「大関佐助」はこの一族であった可能性があります。そうすると、大関氏もなんらかの大見一族末流なのかもしれません。というのは、大見末流の水原平七郎満家の養嗣親憲は、浦佐城主大関親信の子で、初め大関弥七郎、のち水原常陸介と名乗っています。親憲は武田家と戦った川中島合戦で戦功をたて、大坂冬の陣でも活躍しました。大関親信の子には弥次郎親清、その子には康親が知られます。
これに関連して、謙信・景勝に仕えた上杉氏の重臣に河田氏がおり、河田伊豆守元親から知られます。なかでも河田豊前守長親はもと古志郡城主で、越中国新川郡松倉の城主となった有力部将であり、河田伊豆の二男は下条薩摩の養子となって下条駿河守忠親、三男は安田伯耆の養子となって安田筑前守与親を名乗ったと伝えます。下条・安田は上記大見一族であるうえに、河田氏自身が伊東祐親(工藤祐経の曾孫で、安積六郎祐長−坂木祐氏−川田次郎左衛門尉祐親か)の後裔と称していました。河田氏と大関氏は居住地が古志郡で、戦国期にはともに通字を「親」としている共通点があります。河田豊前守長親の出身地については近江守山とも伝えますが、河田一族の活動や養子関係を考えると肯けません。
工藤祐経の後裔には陸奥国(岩代)安積郡川田邑に起る上記川田氏もありますが、越後の河田氏はこれとは別流で、やはり大見一族の末流ではないでしょうか。先に記した下条・安田との養子関係は、その傍証ではないかと思われます。日頃から教示を受けている中世武家研究家川部正武氏は、HP『武将系譜辞典』のなかで上杉家臣団の大見氏族として宇佐美、柿崎、安田、水原、下条、河田の諸氏をあげておられますが、これは本件検討の際に気づいたもので、私としてもまったく同感です。
以上、伊豆及び越後の宇佐美氏とその一族について触れてきましたが、越後に根を張って行動してきたことが実感されます。それにもかかわらず、鈴木真年翁等の系図収集から漏れていることが惜しまれます。
(04.7.19 掲上) (雑賀大納言からのご連絡) 04.7.20受け
(樹童の追加検討) 1 いわゆる「越後流」軍学についての石岡久夫氏の記述(『国史大辞典』)では、次のように記されます。(石岡氏は『越後流兵法 〜謙信流兵法』〔新人物往来社・1967年〕の編者)
@宇佐美流は謙信の軍師宇佐美良勝から出た。
A良勝の孫良賢が家伝の兵法を伝え、寛永ごろ尾張にて神徳左馬助といい、神徳流と称し、 B江戸に出て宇佐美造酒正といい兵法を講じ、のち水戸藩主徳川頼房に仕え、謙信三徳流として同藩に残った。 C寛永八年(1631)辞任ののち和歌山藩主徳川頼宣に仕え、
Dその子定祐・孫祐冬から正矩・正純と続き、宇佐美流として紀州に残った。
E良賢の女婿隅田是勝が池田光政に仕え、岡山藩に続いたほかは、あまり他には伝流しなかった。 2 宇佐美定行(良勝)については、作られた軍師であるとしてその業績を否定する説が強い人物ですが、その系図は、子の良興(民部少輔)、孫の良賢(造酒正)とつづき、その後も定祐……正純と受け継がれて、紀伊藩のお抱え軍師として長い間にわたって重きをなしたとされます。良賢の長子には良永(のち大関勝祐に改名)という人物がいて、彼は父の良賢の他に畠山義里(式部少輔。義真の子)にも師事したとされています。
3 これら1,2を併せ考えると、次のように考えられます。
(1)
越後流軍学の「宇佐美」氏の先祖に良勝という人物がいたとしても、謙信の軍師でもないし、宇佐美定満に当たる者でもない。定満には良興という子はいない。
(2)
紀州藩に仕えた良賢の苗字は、神徳または大関であり、もとは宇佐美(越後大見一族)の庶流ではないかと考えられる。左衛門尉満秀の弟・神徳左馬進祐益が越後の宇佐美氏の祖となったという所伝も、越後流軍学の宇佐美氏の系譜造作の可能性が大きい。
(3) 左衛門尉満秀は、やはり伊豆宇佐美一族ではなく、越後大見一族の可能性が大きい。
ただし、以上の見解は、雑賀大納言殿ご教示の書を見ておりませんので、これらを含め別途の史料を見ることによって、見解を変更することもありえます。 (04.7.25掲上)
(雑賀大納言からの更なるご連絡) 04.10.8受け 以前、参考に挙げた資料を見ることが出来ました。
そこには、祐茂-祐政-祐秀-祐泰-祐明-安祐-祐辻(氏祐)-祐行=詮祐-満秀=満茂=持祐-教祐-勝祐-政豊という、足利尊氏以降、歴代の当主が将軍家の一字を頂戴するという名門である家系が記載されています。
又、満秀の弟である神徳祐益-方秀-房長-祐熙-定秀=孝忠 の流れも記載されています。
古文書による裏付けがないため真偽の程は不明ですが、ご参考までに。
(樹童より) 情報ありがとうございます。 私も、いまのところ、検討する資料を持ち合わせていませんが、とりあえずHPに掲上して、皆様のご検討を仰ぎたいと思います。 (04.10.9掲上)
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