紀州根来衆の津田氏と津田出

(問い) 幕末の紀州藩士、陸軍少将津田出の系譜についての質問です。
  津田出は近代陸軍の基礎を築いたにも関わらず、病身かつ御三家の出身のため、明治政府では重用されることはありませんでしたが、中世の紀州には、日本における鉄砲の開祖・津田監物算長が居て、その子孫は紀州藩に仕えています。また、津田出の弟は監物正臣です。
  とすると、津田算長の祖先の通字である「正」、通称の「監物」は共通していますから、津田出は鉄砲の開祖・津田監物算長の子孫ということになるのでしょうか。
   (藤大納言様より、04.3.12受け)
 

 (樹童からのお答え)

1 津田出と正臣の兄弟
津田出(1832〜1905)は、幼名又太郎、号を芝山といい、幕末期から明治前期にかけて活躍した武士・官僚であり、徂徠学・蘭学を学び和歌山藩の小姓兼奥右筆組頭を務めましたが、藩主徳川茂承に登用されて幕末と明治初期の二度にわたり紀州藩の藩政改革を行い、明治二年(1869)になって和歌山藩大参事となり、世襲士族の禄制を廃止し、他藩に先んじ郡県制・徴兵制を実施しました。廃藩後、明治政府に呼ばれて明治四年大蔵少輔、次いで陸軍省に転じ陸軍少将、陸軍大輔、元老院議官などを歴任し、明治十年(1877)以降には刑法草案・治罪法草案・陸軍刑法の各審査委員を務めましたが、のち辞任して大農論を唱え、千葉県の原野開拓にあたっています。明治二三年(1890)には、貴族院議員ともなっています。「利生安民、天下弘済」をモットーとして行動し、維新三傑とあわせ四傑といわれる場合もあったとされるそうです。
その伝記については、嗣子である津田道太郎の編纂した『壷碑−津田出小伝』(1917刊)、井上右著『津田出の実行勤皇』(1943年刊)という書があり、これらに拠ると、その家系が楠氏に出たという所伝を持っていたとのことであり、貴問を肯定することになると思われます。
 
すなわち、前者の書に拠ると、関連する記述では、出の父・信徳(三郎右衛門)は家禄三百石を食んだ布衣以上の頭役であり、その祖先は楠氏から出ていると伝えられるとし(この部分は後者にも引用あり)、亀谷天尊による「芝山先生を憶う」という稿では、「先生の先祖は楠氏で、楠正儀は河内国交野郡、津田の城主であったので、其の後裔が津田を姓とし、祖先が紀州家に仕へ、先生に至るまでさのみ大身ではなかったが、先生は食禄三千石を喰み、紀州家の大老となられた」と記されます。
後者の書でも、前者を一部引用しながら、室町の末、河内から現在の那賀郡へ移住してきた津田氏の一統であるとあり、弟正臣に関しては、「その家系が楠氏に出づることを以て誇りとし、従って勤皇の精神に富み、実行勤皇党領袖として兄を助け、常に有志の間を奔走した」と記されます。
津田出の弟・正臣(1841〜96)は幼名橘次郎、長じて監物、号を香巌といい、病身の兄に代わって家督を継ぎましたが、幕末期は兄とともに天誅組討伐や藩政改革に活動し、維新の時は徴士となり、その後中弁、民部大烝を経て、明治四年(1871)には兄に代わって紀州へ行き、初代の和歌山県知事にあたる権|に就任しております。
こうした活動を見ると、兄弟ともなかなか優れた人物であったとみられますが、中央での活躍がやや乏しいため、事績などはあまり著名なものとなっていません。
 
2 津田監物算長と紀州根来衆
 (1) 津田監物算長という人物
紀州の津田氏は鉄砲術の開祖・津田監物算長(かずなが)で有名ですが、一族とともに戦国期根来衆として活動しました。算長は、鉄炮(火縄銃)伝来の情報を得ると直ちに種子島に赴き、鉄砲とその技術を畿内に伝えたことで有名です。この鉄砲が合戦の様式を代え、そののちの日本の歴史を大きく動かしたことは言うまでもありません。
津田監物算長は、天文十三(1544)年三月、種子島島主、種子島左近大夫時堯から得た鉄炮一丁を紀州根来へ持ち帰り、これを基に根来西坂本の芝辻鍛刀場・芝辻清右衛門妙西に複製を命じて、その翌年には紀州第一号の鉄炮が誕生したといわれます。算長は紀州と種子島との航路を開いた熊野船に乗って、それまでも種子島を幾度も訪れていたようで、中国語・ポルトガル語を解したといわれます。
監物算長は、紀州那賀郡小倉庄の吐前(和歌山市吐前)の城主であり、根来寺(和歌山県那賀郡岩出町根来)の僧兵衆であった根来衆の中心的な統率者であって、根来衆は紀州北部から和泉にかけて戦国期に大きな勢力を持ちました。津田算長の一族は、根来寺の境内に杉之坊と称する一堂を有したため、俗に杉之坊とも呼ばれました。監物算長の弟には根来寺の子院「杉之坊」の院主である津田明算(みょうさん)がおり、算長はこれに命じて根来衆の武装化を進めていきましたが、これが鉄炮傭兵集団・根来衆の発祥となります。
津田監物算長は世上に名高い砲術津田流の開祖となり、永禄十一年(1568。一にこの前年)十二月に六九歳で没し、算長の弟・杉之坊明算はこれに先立つ永禄元年(1558)に没したといわれます。
 
(2) 津田監物算長の家系−津田氏の先祖と一族
津田流砲術の祖津田監物算長は、楠木正成の三男であって河内守護などで主に南朝方で活動した楠木正儀(1384頃に五五歳で卒去と伝える)を祖としており、正儀の子で河内国交野郡津田(現大阪府枚方市津田)の城主、津田周防守正信の六代の孫と伝えられています。ところが、正信から算長に至る家系が必ずしもはっきりしません。正信の兄にあたる楠木四郎正秀の子孫で、大饗一族の出という系譜もありますが、「安楽川系図」という系図があって、どうも津田正信後裔とするこちらのほうが真系のようですが、私はその全容を見ておりません。
楠木正信は伊勢でも活動した人物の模様であり、応永十九年(1413)に伊勢国一身田で戦死したと管見に入っております。交野郡津田は、本来、楠木一族の本拠地南河内の千早赤坂村とはかなり離れていますが、この地にあった百済王氏一族の津田摂津守武信(一に昌隆)の子であった正信が、楠木正儀の猶子となったと伝えられます。なお、交野郡には、正信の直系はその後も残り、戦国後期、津田城に拠った津田正明は三好長慶次ぎに松永久秀に属し、一万石余を領しました。その子の主水頭正時は、信長軍の攻撃を受け落城し、秀吉に許されて旧領に戻りましたが、天正十年(1582)に山崎合戦に明智光秀に味方して、またまた浪人となったとされます。
 
この津田正信と算長との間の系図はよく分かりませんが、以下の津田監物・春行については、ネット上の情報等も踏まえて記しておきます。
和歌山県の那賀郡桃山町大字野田原の処垣内に大日堂がありますが、その境内に津田監物の墓と伝えられる五輪塔が建っています。当地の伝説によると、天正十三年(1585)三月、豊臣秀吉の根来攻めの時、落ち延びてきた津田監物は、高野街道と村道との分岐点近くで落命したとされます。その際、死期を覚悟した監物は、介抱した者に対して、津田姓の名乗りを許し、自分の墓所に埋めてほしいと言って、菊水の紋の付いた提灯と幟と刀剣を与えたといわれます。このときの刀剣は今も、同地に住む津田家に伝えられているとのことです。この伝説通りだと、「津田監物」とは、上記の活動時期からいえば、算長の子の世代ではないかとみられます。
ところが、この五輪塔の地輪部は、平成七年五月、現在地に移されて以来約七〇年ぶりに掘り起こされ、新たな事実が判明しました。地輪部に刻まれた文字から、卒年が「応永〇〇年」で、法名は「大忠一結泉」なる者の墓と判明しましたが、そうしますと、楠木正成の四代目(とすると、津田正信の子にあたるか)に当たる津田春行の墓であったことになります。
この津田春行とは、「安楽川系図」によると、名を知五郎、津田監物(小監物ともいう)と云い、従五位下とされています。具体的には、元中九年(1392)、本領交野郡ヲ知行シ、芝尾ニ一城ヲ築立、威勢国中ニ聞エ、松下、藤坂、長尾、津熊、大峰ニ新村ヲ開キ一族郎党ニ宛行ヒ、其勢近国ヲ麾ケ諸方之野武士等多ク心ヲ寄セ南朝再興之企、京都ニ漏レ聞疑ヲ請ケ、応永十二年(1405)、室町将軍義満之命ニ依而、紀伊国那賀郡ニ移リ小倉吐前ニ一城ヲ構エ小倉之荘八箇村、日根、大鳥合而、二万石ヲ領知シタ。応永二十九年(1422)三月卒葬ヲ阿良河、法号、大忠一結泉、紀州ノ津田家ノ元祖、とあるとのことです。
 
この事績を見ると、私には、津田正信と春行の事績が混同されているようにも思われますが、津田春行は十五世紀前葉に活動した人とみられます。春行から三代置いて、正信の五世孫にあたるのが津田監物算行であり、この者が監物算長の父となります。この辺は、世代・年代ともに問題がなさそうです。津田監物算行の子には、監物算長と根来杉之坊明算がおり、明算は一族とみられる根来杉之坊某(玄算か)の嗣子となっております。
次ぎに、監物算長の子には、監物(太郎左衛門)算正、津田自由斎(杉之坊照算のこと)及び津田四郎大夫有直がおり、砲術自由斎流の祖とされる津田自由斎は杉之坊明算の嗣子となって、近く荒川庄(安楽川とも書き、桃山町大字市場辺り)に住んでいたとされます。先祖のみならず、監物算正、その子も監物重長というように、通称「津田監物(監物丞)」は代々世襲されてきております。
織田信長は、津田太郎左衛門(監物算正)を、雑賀との和議成立後の天正五年(1577)三月に泉州日根郡佐野城(現泉佐野市旭町付近か)の定番とし、その添えとして杉之坊を配置し、雑賀衆への備えとされました(『信長公記』)。しかし、同十三年(1585)、小牧長久手合戦のとき徳川家康に味方したかどで秀吉の根来攻めとなり、津田氏の所領一万石は没収とされてしまい、その後は大納言豊臣秀長に仕え、その家の断絶後は秀吉・秀頼に仕えました。その子の監物重長は、増田長盛、浅野長政や小早川秀秋に仕え、小早川氏断絶の後は美濃加納城主松平飛騨守忠隆に仕え、その子の荘左衛門重信は小早川秀秋、富田修理大夫、松平摂津守忠政に仕え、その子を六郎左衛門算長といい、主家断絶の後に多病で仕えず、帰郷して那賀郡新荘村に住んで大庄屋を務めた、と『紀伊続風土記』に記されます。
監物重長の弟市兵衛の後、自由斎の後など津田一族が紀州にかなりあって、那賀郡重行村、市場村、神田村や名草郡松島村などに地士としてあったとされますから、これら津田監物重長の一族後裔が紀州徳川家の和歌山入府後のどの時点で徳川家に仕えたのか不明ですが、これらから津田出兄弟に至ったものとみられます。
 
 (3) 根来衆とその主な諸氏
紀州根来には、大治五年(1130)興教大師覚鑁が開基して、保延六年(1140)高野山内部の争いからこの地に移った根来寺(一乗山大伝法院)があります。同寺は真義真言宗の本山として、高野山金剛峰寺との抗争を続けるなか武装化を進め、戦国期には寺領数十万石を有すると称されて大大名的な存在であり、紀北・泉南の土豪との関係を深めて、領地守護のため根来衆と称される二万人ほどの僧兵がいました。同寺には杉之坊・岩室坊・泉識坊などの多数の子院があり、なかでも津田明算が率いる杉之坊、岩室坊清誉が率いた岩室坊の勢力が強かったといわれます。これらの根来衆のうちには紀北の雑賀衆とも関係が深いものがあり、また内部的に複雑であったようで、石山合戦時にも各勢力ごとの利害に応じて、織田方についたり、また本願寺方につくというように、雑賀衆を含めて複雑な動きをしていました。
根来の僧兵たちは、僧といっても髪を長く伸ばした総髪の姿であり、津田算長の上記施策により、根来衆は大量の鉄炮を所有していました。僧兵衆の棟梁格は西口の旗大将たる杉之坊と、東口の旗大将たる岩室坊・泉識坊の三人がいて、それぞれに数千人規模の僧兵を抱え僧坊ごとに独立した行動をとっていたわけです。泉識坊は雑賀の重鎮・土橋氏から院主を迎えており、雑賀衆と密接に繋がっていましたが、土橋氏は、紀州大田城が落城したとき、名草郡粟村に帰住しています。同氏は、越前国大野郡土橋から出た村上源氏と称しましたが、この系譜には疑問が大きいものとみられます。
 
傭兵集団としての根来衆は、小牧合戦の時家康に味方して豊臣秀吉の背後を脅かしたため、翌天正十三年(1585)の秀吉の紀州攻めを招くことになりました。同年三月二十三日、根来寺の大手口坂本城門、搦手口桃坂城門が秀吉軍のために敗北して、同寺は炎上し、滅亡の憂き目にあい、これをもって根来衆の終焉を迎えることになります。その際、根来衆を率いて秀吉勢に抵抗し戦死ないし自害した者に、杉之坊照算(上記のように監物算長の二男)や岩室坊勢誉などがおりました。根来衆の生き残りは、天正十三年に家康に召し出され「根来組」となって江戸幕府の鉄砲百人組を構成し、平時は大手三の門の警衛に総髪姿で当たりました。また、根来寺のほうは、慶長年間、浅野氏により再興されました。
岩村坊の系譜も挙げておきます。『萩藩諸家系譜』に記載の根来氏の系図に拠りますと、この氏も楠正儀の子孫とされます。すなわち、正儀の子の正祐は、紀州那賀郡竜門山の下、荊本邑(d賀郡岩出町大字荊本で、根来寺の南近隣)に住み田中庄を領して田中氏を名乗り、その嫡子正基は根来寺岩室坊院主となり、その弟の祐次は父正祐の家を継ぎ田中次郎左衛門と名乗りました。それ以降、田中氏では代々嫡子が岩室坊院主となり、次子が父の家を継ぐ形で系をつなげて、戦国期に至っています。田中祐次の四世孫が岩室坊勢誉(清誉)であり、その甥田中甚兵衛祐秀の子の岩室坊勢祐が関ヶ原合戦の際の縁で慶長五年毛利家の招きを受けてその家臣となり、根来を苗字としました。その弟の田中甚兵衛忠祐の子孫も連綿と続いたとされます。
一般の楠氏の系図には、田中・岩室坊の系図は見えませんから、この系譜には疑問もありますが、津田杉之坊、田中岩室坊がともに楠正儀の子孫と称したことは興味深いものです。楠氏が修験者らと密接な関係があったものとみられますので、おそらく、これら諸氏は楠一族と遠祖を同じくする熊野国造後裔ではなかったかと思われます。
 
また、根来衆の有力者に熊取寿明院、熊取大納言坊があり、後者は天正十三年の秀吉征討のとき、大鳥郡高井城に立て籠もったものの、福島正則軍に攻め落とされています。熊取大納言坊は小佐次盛重ともいい、この者の時に根来右京と改め、子孫は幕臣となり三千四百石の大身旗本として続いております。その出身地は泉南の日根郡熊取荘(現泉南郡熊取町)であり、根来右京盛重は天正十年、熊取町久保に鎮座の大森神社を再建しています。太田亮博士は実際には毛野一族の佐代公姓ではないかとみております。熊取荘には古代佐代公の後裔とみられる中氏がおり、同氏は根来寺成真院の氏人となり、子孫をその院主として送り込んでいますので、太田説はかなり妥当性が高いのではないかとみられます。同氏の系図では、藤原姓で「盛重−盛正−正縄−正国−正常」となっております。

以上、津田出に関連して根来衆まで話が及んでしまいました。

  (04.3.20 掲上)

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