古代の橘関連の姓氏

(問い) 最近、兵庫県内に橘という苗字が多いことを知りました。
  これはなぜでしょうか?
 (熊本市在住のichiro様より。04.7.7受け)
 

 (樹童からのお答え)

1 いわゆる四大姓氏にもかぞえられるほどの大姓となった橘氏は、後宮の実力女官県犬養宿祢三千代が和銅元年(708)に長年の功績を讃えられて、杯に浮かぶ橘とともに橘宿祢姓を賜ったのが由来であり、その姓氏を美努王との間の子の諸兄・佐為兄弟が継いで、のちに朝臣姓と変わったものです。この辺の話はよく知られているので、いまさら言うものではありません。
ところで、古代の橘という姓氏には、これより早く橘を名乗ったものがあり、いずれも橘の実をわが国にもたらした田道間守(多遅摩毛理)の子孫と伝えています。この橘の諸姓が承和七年(840)十一月に一斉に「椿」姓に変えられています。『続後紀』同月条に、「勅す橘戸、蝮橘、橘連、伴橘連、橘守、橘等の六姓は橘朝臣と相渉る。宜しく椿戸、蝮椿、椿連、伴椿連、椿守、椿等を賜ふべし。自余も橘字を以て姓と為す類は、また椿を以て之に換へよ」と記されています。時は檀林皇后として名高い太皇太后橘朝臣嘉智子(786〜850)を母にもつ仁明天皇の御世であり、橘朝臣姓を憚って他の氏族には「橘」の文字を使わせないという勅令が出されたわけです。

  この時以降、正式な姓氏としては橘朝臣氏だけが「橘」を用いたわけですが、平安中期以降ではこれも乱れて、音が似通う「紀」と「橘」とが混淆したり、物部氏族の熊野国造や小千(越智)国造などの一族が橘朝臣姓を冒称したりということで、実際には由緒正しい橘朝臣姓ばかりではなかったものです。
従って、中世以降の苗字としてみれば、これら「橘」氏姓の末流があり、また別途の理由で苗字として「橘」を名乗ったもの(例えば、壱岐・対馬の中臣氏族)などがあります。このほかの橘苗字もあろうかと思われますが、詳細は不明です。
 
2 橘朝臣姓とは別の上記「橘六姓」についていえば、その居住地は史料からは必ずしも明確ではありません。例えば、平安前期の畿内の有力姓氏を収録した『姓氏録』には、左京諸蕃に橘守氏があげられるだけで、他の橘姓は見えません。橘守氏については、同書に「三宅連と同祖、天日桙命の後也」と記されます。正倉院天平宝字六年文書にも見え、少初位上橘守金弓が近江国犬上郡の人として記されます。また、常陸国久慈郡人の椿戸一族が『三代実録』貞観八年五月条に見えており、同郡権主政の宮成とその子門主らが知られます。近隣の茨城郡に立花郷がありますから、椿戸(橘戸)一族は本来、この地にあったのかもしれません。同様に考えれば、東国では武蔵国に橘樹(たちばな)郡橘樹郷、下総国海上郡橘郷がありますが、あるいはこれらの地の由来も橘戸一族に因むものかもしれません。
一方、西国ではなぜか伊予国にタチバナの地名が多く、『和名抄』には新居・越智・温泉の諸郡に立花郷が見られます。新居郡立花郷は『文徳実録』に神野郡橘里と見え、温泉郡の立花郷は『東大寺要録』に橘樹郷と見えますから、橘・立花・橘樹が相通じたことも知られるわけです。
 
3 「橘六姓」については、鈴木真年翁編の『百家系図稿』巻一所収の「椿系図」(『古代氏族系図集成』1660頁にも所載)に起源が見えております。それに拠ると、田道間守の玄孫(四世孫)の豊背古が仁徳朝に播磨飾磨御宅を造り三宅連(の祖)となるとあり、その弟・櫛佐田は蝮橘造、豊背古の子の赤磨理が橘戸、その子笠古が橘守、その甥宇利が橘連がそれぞれの祖とされています。この系図は、常陸の椿戸に伝わる系図であり、上記の椿戸宮成も見えて、利の弟・筑麻古の十一世孫とされています。
そうすると、これら橘・椿一族は三宅連の一族として播磨国飾磨御宅辺りに居住していたことが考えられます。この飾磨御宅については、『播磨国風土記』飾磨郡条に見えて仁徳朝に設けられたとあり、遺称地は姫路市飾磨区三宅とされますが、御宅(屯倉)の管理者についてはとくに記されません。
 
田道間守(多遅摩毛理)の先祖が天日桙命以来四,五代にわたって居住した但馬(多遅摩)の北部にも、豊岡市及び養父市に三宅の地名が残っており、やはり、三宅連、橘・椿一族が居住したことが考えられます。そのうち、豊岡市三宅には多遅摩毛理命を祭神とする式内社中嶋神社が鎮座します。三宅連については、『姓氏録』では右京諸蕃・摂津諸蕃に掲載されており、摂津は難波屯倉の管掌者ではないかとみられます。また、同国河辺郡に橘御園荘があり、橘氏が居たとのことですから、これも橘朝臣氏ではなく、橘・椿一族ではなかったかと推されます。
以上の分布を考えますと、三宅連及び橘・椿一族は、主に播磨から摂津・但馬にかけて居住したことが考えられるわけです。平安後期には播磨及び摂津に立花宿祢氏が見えますが(『大間書』に播磨国少掾立花宿祢恒末、『朝野群載』巻十一に摂津国人立花忠直)、この出自不明の立花宿祢氏はおそらく橘・椿一族の後裔ではないかと推されるものです。
このように考えていけば、兵庫県の地域に橘(立花)を苗字とするものがかなり多くあった(註)としても、納得できるものです。ただし、上記の検討は資料が乏しいなかのものですので、新たな資料が出てくれば、再検討の余地があることも付け加えておきます。

 (04.7.30 掲上)

(註) 質問者からのお話では、都道府県別の橘の苗字を名乗る人の割合を示したサイトによると、兵庫のその割合が高かったとのことです。
  次のHPを指すのかもしれません。
   「苗字館」の「橘」さんの分布
     ここでは、「立花」さんも兵庫県が多いとされています。

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