□ 橘姓の苗字 (問い) 橘氏について質問です。 1.HP掲載の「橘氏概観」を見ると、確実な橘朝臣の苗字として17,8個の苗字を挙げてありますが、奈良時代から現在までの間、「橘」の苗字を名乗り続けた後裔はいないのでしょうか?
2.橘朝臣の苗字が上記の苗字だけだとすると、橘氏の子孫はかなりの家が絶家したと解釈すべきでしょうか?
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(樹童からのお答え) 1 姓氏と苗字との関係でいえば、平安中・後期頃から苗字が現れますが、それが同族(同姓氏)の他家と区別する家族集団の意味で使われたこともあり、地方の武士階級で一族が多い氏ほどその出現が顕著であったと言えそうです。その意味で、地方の武士を出さず、平安中期以降は中央の公家としても栄えなかった橘氏は、あまり苗字を生み出す必要性に乏しく、実際にも殆ど苗字を出さなかったものです。公家でも藤原朝臣・源朝臣などの有力者が家号を持つようになる鎌倉後期頃に至っても、苗字ないし家号を持たない橘朝臣姓の下級官人が散見します。
橘朝臣氏の公卿は、十世紀後半以降には絶えて、その氏爵推挙は橘氏是定となった藤原氏長者に委ねられた次第でもあります。それでも細々と橘氏の官人は血脈を伝え、中央の堂上公家としては、二系統見えます。このうち、以実流の家(家号は武者小路)は室町前期頃で断絶してしまい、残る一家が以実の兄・以長の子孫で室町前期頃から「薄(すすき)」を名乗りましたが、この家も十六世紀後葉には断絶しました。この薄家の最後の二代は、参議以緒が実は唐橋家菅原在数の子であり、次代の左衛門督以継(諸光)が山科家藤原言継の子ですから、この時点で既に橘氏の血脈は絶えていたことになります。下級官人たる賛者の八木氏は、『地下家伝』に薄以継の子の定基を始祖と伝えますが、その真偽は不明です。
これ以外の橘氏の公家系統は没落したか断絶したかであり、『歴名土代』にも薄家以外の者はあまり見えません。同書には中世に従五位下の官位以上に叙せられた官人が記載されますが、総勢十五名の橘姓のうち、薄家が四名であり、明らかに冒姓の橘正虎(楠木正成の後裔と称したから、熊野国造後裔)以外の十名は具体的系譜が不明です。 この十名について、もう少し詳しく述べれば、二条殿御侍の小木氏と名前の「光」からその一族ではないかとみられる石井氏の一群合計三名、沼間を苗字とする隆清とその一族ではないかともみられる「清」を名前にする一群合計三名(延命院玄朔の子とされる典薬助親清も含む)、姉小路神明神主の豊父のほか、まるで手がかりのなさそうな経眞(後述)、時重、通任があげられます。 以上を総括していえば、室町期以降の下級官人の家には、実際に橘氏の後裔に当たるものがあったかもしれませんが、系譜等が明確には知られておりませんし、橘を苗字とした家も管見に入っておりません。 2 地方豪族で橘朝臣姓を名乗るものはいくつかあり、例えば河内の楠木正成の一族や伊予出身の橘遠保の後裔諸氏(小鹿島、渋江の一族)などがよく知られておりますが、これらは姓氏ないし系譜を仮冒したものであり、実際には中央の橘朝臣の出自ではありません。その他の地方武士も殆ど全てが仮冒であり、信濃の鷹野・井出一族や橘曙覧を出した越前の田辺・井出など系譜の疑問点は枚挙の暇もありません。ただ、これら諸氏が何故、橘氏を称したのかという事情は不明です。
なお、対馬の下県郡の太祝詞神社宮司に橘氏があり、壱岐の豪族にも橘氏がおり、これらの「橘」は苗字ですが、系譜としては壱岐・対馬ノト部の後裔ではないかとみられ、この一族と称する諸氏が両島に見られます。
(04.3.30 掲上) 引き続いての質問ですが、
(樹童からのお答え) 1 京都市右京区梅津前田町に鎮座の梅宮大社は、古くからの橘氏の氏神ですが、はじめ左大臣諸兄の母・橘三千代が相楽郡に遷し、さらに檀林皇后橘嘉智子(嵯峨皇后)が現在地に奉斎したと伝えています。延喜の式内名神大社に列しており、その祭日には必ず橘氏五位一人を奉幣使としましたが、橘氏が衰微ののちは、藤原氏の長者が橘氏是定となりその家より幣帛神馬を奉献することとなりました。同社も、平安末期には衰えていき、治承元年(1177)には橘以政(上記以長の子で、薄家の祖先)が本社の修理供物が法のようにはならないとして、備中の庄地及び左馬寮社領の押妨を訴えています。
こうした経緯は知られるのですが、何時の時点から神主家が橘氏一族であったのかはよく分かりません。梅宮大社の本来の主神たる酒解神の正体が不明であるという事情も、難解さを増しております。
2 梅宮神主の橋本氏が橘諸兄公の後裔と称したことは知られますが、その系譜はやはり不明です。江戸時代に橋本氏の肥後守経亮があり、学深く有職歌学に優れ、橘窓、梅窓等と号したとされ、『桂女由緒』に梅宮神主橋本肥後守と見えると太田亮博士が『姓氏家系大辞典』に記します。
橋本氏の先祖に当たる中世の人物も不明ですが、中世の中級官人を記載する山科言継編纂の『歴名土代』には、文亀三年(1503)十月に従五位下に叙せられた橘経眞という者が見えており、「経」が通字だとすると肥後守経亮の先祖かも知れません。そうすると、橋本氏が橘姓であったことはほぼ確実となりますが、系譜不明につき断定はできません。
3 上北面を始め江戸期の下級官人の系譜は『地下家伝』に記載がありますが、同書を見ればお分かりのように、そこで称される姓氏はかなり便宜的のようであり、かつ、中世以前に遡る系譜は殆ど記載がありません。そのうえ、橋本氏については、京・山城にはいくつもの家・流れがあり、『姓氏家系大辞典』には堂上公家の西園寺流橋本家のほか、大炊御門家諸大夫、北野天神社家、石清水八幡祠官、仁和寺坊官などの橋本氏をあげており、上北面橋本氏の出自もこれら橋本氏とどのような関係にあるのか不明です。こうした事情で、現段階では不明としてしかお答えできません。
橘氏の坊官についていえば、『続群書類従』所収の「坊官系図」に1家見えて、その系譜は大納言好古の長子大和守為政の後裔に出たものです。為政の五世孫に下総守正遠(この者を楠木正成の祖先とするのは誤り)がおり、その子式部大夫遠範の子が梶井宮坊官で法眼となった最玄であって、これが坊官の祖とされます。その五世孫に安芸法眼任尋がおり、南朝に参じたとされますが、仁和寺坊官の橋本氏はこの一族に出たのかも知れません。上北面や梅宮の橋本氏が仁和寺坊官の橋本氏とどのような関係にあったのかも不明です。 以上、現段階では不明なお答えしかできませんが、多くの史料に当たり着実に検討を進めていくことしか解明の途がないようです。
(04.4.2掲上)
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