武蔵の江戸一族と柴崎氏の系譜

(問い) 鴨志田氏との関連で武蔵江戸氏、特に柴崎氏について調査しております。多摩鴨志田氏は調布市柴崎村に所領を有した柴崎氏の末流と伝えられている事情があるからです(「多摩鴨志田家考/鴨志田彬、『姓氏と家紋』第35号、昭和55年8月」)。
 こうした契機から、江戸氏系図を調べるうちに、同系図には混乱がみられ理解に苦しんでおります。すなわち、江戸氏流柴崎氏の始祖とされる重宗なる人物についてですが、@江戸太郎重長の七男とするものと、A畠山重忠の曾孫である彦太郎重長の五男とするものが系図に見えます。
 江戸太郎重長は頼朝と同時代の人で、その子息達である二郎親重、四郎重通、七郎重宗などは、吾妻鏡の頼朝上洛や奥州征伐の隋兵の中にみられますが、畠山氏流の彦太郎重長の子息とされる木田見氏重、丸子家重、六郷冬重、柴崎重宗、飯倉秀重および渋谷元重などの名は『吾妻鏡』には見られません。畠山彦太郎重長は、畠山重忠の乱で滅亡した重保の孫とされています。既に武蔵における支配権を失っていたであろう畠山氏が、木田見、丸子、六郷、柴崎、飯倉、渋谷などの広域に勢力を分派できた可能性は低いように思われ、その意味で、重宗は江戸太郎重長の子とするのが理解しやすいかと愚考しております。
 調布市柴崎村を領した柴崎氏の始祖重宗は江戸太郎重長の子とすべきか、少なくともそれよりも三世代下った畠山彦太郎重長の子とすべきかについて御教示いただけますと幸いです。また、この秩父氏流柴崎氏と神田明神神官を世襲している芝崎(柴崎氏)との間には何らかの関連についても御見解をいただけますと幸いです。
 
 常陸の鴨志田氏は平将門の後裔を称しています。那珂郡、旧勝田市(ひたちか市)の鴨志田氏は家に伝わる旧記(勝田市史通史編)の中で志田小太郎の末裔を称し、久慈郡の鴨志田氏は水府誌料のなかで式部少輔の祖先を信田氏としています。いずれも謡曲信太(田)の影響を色濃くうけている点で、相馬氏が将門との関連を主張する構図との共通性がみられます。謡曲信田成立の背景に東国における将門後裔の原伝承が有ったのかもしれません。鴨志田氏と将門との関連の間に江戸氏流柴崎氏を位置づけることで、以下のような1つの可能性も想定しています。
 すなわち、先生の秩父平氏と多治経明との関係についての論考にあるように、平将門の乱後に秩父に逃れた可能性のある秩父氏の祖、経明の末流と考えられる江戸氏の者(柴崎氏)と鴨志田氏の関連を想定すると、志田氏を名のる将門所縁の者が、多治経明の縁者らとともに常・総から武蔵(秩父)へ移住した可能性もあるかと考えております。この点については、旧勝田市の鴨志田氏の旧記で、鴨志田の苗字の起こりを、志田氏の者が何らかの理由で鴨という字を付加したとするものと関連があるのかもしれません。また、武蔵国都筑郡の鴨志田氏の鎮守社は甲神社とされており(緑区史通史編)、「甲」と「鴨」との関連性が「鴨志田」という苗字の起こりの事情を示唆しているのかもしれません。
 長文になりましたが、様々な可能性を想定しながら、調査研究を進めていこうかと考えております。

  (安部川様より。05.2.17受け)
 

 (樹童からのお答え)

1 江戸氏は、武蔵国豊島郡江戸郷(千代田区辺りが中心域)に起こり、平安末期から鎌倉期にかけて著しい活動を見せた武蔵の雄族であって、頼朝創業の時には武蔵棟梁、八国大福長者とまでいわれた有力武家ですが、室町期以降は衰えつつも扇谷上杉氏、小田原北条氏に属して存続しています。その後裔には、徳川綱吉将軍の時に立身出世して大名(武蔵喜多見一万石、後に二万石に加増)に列し側用人となったものの、大名になって六年後には除封となった喜多見若狭守重政を出しています。
江戸一族の鎌倉期以降の系図には多くの混乱が見られ、意外なくらい不分明なものとなっています。現存する良質の系図は管見に入っておらず、私自身、江戸一族の系図を分析・整理しようとは思ったことはなかったのですが、今回の問い合わせを契機に見直したのが、次に掲げる記事となります。
なお、萩原竜夫編『江戸氏の研究』(名著出版、1977年刊)や『江戸氏関係文書集』(千代田区史資料第1輯。千代田区史編纂室編、1957年刊)をまだ見ておらず、とりあえずまとめた段階なので、これら資料を見ることにより考え方が変化する場合もあります。また、『千代田区史』(1960年)及び『新編千代田区史』(1998年)にも、江戸氏についての記載があるとの情報があります。
 
2 江戸氏は、秩父下野権守重綱の子の江戸四郎重継を祖として、その子の江戸太郎重長のときに頼朝の時代を迎えます。重長は、当初、秩父一族の畠山重忠・河越重頼らとともに頼朝に味方した三浦氏を相模衣笠城に攻め落としましたが、ほどない治承四年(1180)十月に上記秩父一族とともに頼朝に降り、武蔵国諸雑事等に関して在庁官人・諸郡司らに沙汰する権限が与えられています。奥州征伐には一族とともに参加し、建久六年(1195)三月まで『東鑑』に活動が見えます。
江戸一族の活動は散発的に『東鑑』に見えますが、同書と「桓武平氏諸流系図」(中条家文書。以下「中条系図」という)、浅羽本「畠山系図」(以下、たんに「畠山系図」という)を基に系図を考えてみることにします。前者の系図は、武家平氏については比較的信頼がおけるものであり、後者は様々な混乱がありながら整理してみる価値がありそうな内容を含むものです。
この「畠山系図」には、江戸氏の系図部分が三個所(内容的には実質二個所。順にA,B,C個所とする)に現れており、柴崎五郎重宗は、江戸彦太郎重長(法名成仏)の子、江戸太郎重盛の弟としてB個所に見えます。注意すべきは、この江戸彦太郎重長(以下「重長☆」と記します)は頼朝時の江戸太郎重長(法名心仏)とは別人であり、名前の重長はなんらかの誤記があるかもしれないということです。また、重長☆が同系図では畠山重忠・重保父子の子孫に位置づけされても、これは、秩父平氏の惣領的な存在であった畠山重忠の跡をその滅亡後に江戸氏が承けたという主張であって、実際に血筋であったわけではありません。もっとも、畠山六郎重保の子として下野守重国(重長☆の父におかれる)等三人あげられますが、この記事は疑問が大きいものです。それでは、重長☆の系図上の位置づけをどう考えればよいのでしょうか。
そのためにも、江戸一族の系図を丁寧に再構成してみる必要があります。
 
3 まず、初期の江戸氏の人々を個別に検討してみます。
(1) 江戸次郎親重と三郎師重らの兄弟  
江戸次郎親重は、太郎重長の弟にあげられますが(畠山系図A,C個所)、一方、太郎重長の子(中条系図)ともされます。『東鑑』では、次郎親重は、江戸太郎重長らとともに文治五年(1189)の奥州征伐従軍者に見えており、「江戸太郎重長、同次郎親重、同四郎重通、同七郎重宗」という記事内容から見て、一緒に見える四郎重通・七郎重宗とともに江戸太郎重長の弟とするのが妥当だと考えられます(従って、太田亮博士『姓氏家系大辞典』787頁下段記事は誤り)。中条系図では、次郎親重以下に同三郎師重、同四郎重通、同六郎重政、同七郎□□(重宗としてよかろう)、同八郎重時をあげて、皆、重長の子におきますが、これは系線の引き違えで、重長の弟におかれることになります。
これらのうち、江戸七郎重宗は、『東鑑』には文治元年(1185)から建久六年(1195)にかけて四回登場しており、上記太郎重長の活動時期とほぼ合致しております。

そうすると、江戸三郎師重は、時代と地域から考えて、『平家物語』の木曽義仲最期のときに見える「武蔵国の住人御田郎師重という大力の剛の者」に当たるとしてよいとみられます。御田とは、武蔵国荏原郡御田郷、現在の港区三田を中心とする地域であって、江戸郷の南近隣にあり、中世の江戸が豊島郡を中心に荏原・葛飾両郡にも拡がったときには桜田郷らとともに包摂される地域で、三田、箕田、美田、弥陀とも書かれます。八郎は三郎の誤植としてよいでしょう。義仲は寿永三年(1184)一月に近江粟津で戦死しますが、御田師重はこのとき義仲軍を攻めて、巴御前により討ち取られたと記されます。これに符合するように、文治五年(1189)の奥州征伐従軍者のなかには見えておりません。
ちなみに、私の知己に「弥陀」さんがおられ、これまで苗字の来歴が知らなかったのですが、上記の御田師重の後裔にあたるのかもしれません。荏原郡弥陀郷という表記は、寛永二年(1625)十二月付けの秀忠将軍が旗本高木正長に同地を宛行させる文書に見えます。
 
(2) 太郎重長の諸子 
江戸太郎重長の子に太郎忠重がいたことは、中条系図・畠山系図A,C個所に見え、とくに問題がないと思われます。この者は、『東鑑』には元久二年(1205)六月の畠山重忠討伐軍の参加者に見えております。
その弟に次郎朝重を考えてよいのは、年代的に符合するからで、『東鑑』には正治二年(2000)六月条に江戸次郎朝重が見えます。畠山系図C個所には、太郎忠重の弟に江戸二郎朝重、重時、吉重、七郎重光(保。その子に長光も記す)があげられますから、この辺の系図は信頼できそうです。江戸七郎重保は『東鑑』宝治二年(1248)条に見え、同書建長二年(1250)条にはその子の江戸七郎太郎長元(長光の誤記か)が見えております。
C個所には、二郎朝重の子孫が六世代(実際には後記事情により五世代か)にわたって記載され、その内容もほぼ妥当だとみられますが、二郎朝重の子・太郎周重の孫にあげる孫太郎政重は、呼称と子孫の年代からみて、実際には太郎周重の長子とするのが妥当だと考えられます。孫太郎政重の子にあげる浅彦太郎重高は、「浅草」の誤記とみられ、豊島郡浅草に起る浅草氏の祖となります。貞和二年(1346)九月八日付けの文書では、石浜弥太郎政重、江戸次郎太郎重通の名が見えており、次いで同三年三月二四日付けの文書では、江戸重通代同重村(C個所では、政重の孫と記される)の名が見えますから、これらの者の名が見えるC個所系図は信頼性の高いことが分かります。石浜城は、浅草寺の東北近隣の待乳山にありました。
 
(3) 太郎忠重の諸子  太郎忠重の子として、中条系図には又太郎仲重しかあげませんが、『寛政系図』記載の喜多見氏系図では、その祖の重方を忠重の子におき、「江戸系図」では小野太郎重行も忠重の子におきますが、ともに疑問があります。重方については、世代的には忠重の孫くらいにおかれるのが妥当であるとともに、「四郎二郎」という呼称から「四郎という者の子の二郎」と考えられるからです(後述)。小野太郎重行についても、その子にあげる太郎重光が上記の七郎重光か七郎太郎長光にあたるのではないかとみられるからです。
なお、又太郎仲重の子として、中条系図は小太郎秋重・二郎重家・三郎重高・四郎重経・五郎重親をあげて、子の世代で記載を終えています。
 
4 江戸彦太郎重長☆の位置づけ
畠山系図B個所に拠ると、重長☆の子の世代に江戸太郎重盛、木田見次郎武重(「氏重」とも記すが、武重が妥当か)、丸子三郎家重、六郷(石浜)四郎冬重、柴崎五郎重宗、飯倉六郎秀重、渋谷七郎元重をあげており、江戸郷近隣の地名に因む多くの苗字を分出させます。これが事実なら、その有勢ぶりからみて重長☆は江戸本宗の人であったはずです。重長☆の法名成仏は、頼朝時の江戸太郎重長の法名心仏に似ており、その近親の直系卑属とみられ、しかも子孫の世代から遡って考えると、頼朝創業時の人の次の世代(主に承久頃に活動したとみられる)に当たるとみられます。「彦太郎」も太郎の子か孫太郎の子を表すものですから、太郎重長の子の太郎忠重に重長☆があたるとしてよさそうです。畠山重忠横死後に家督を受け継いだというB個所の譜註記事からみても、重忠討伐軍に参加した江戸太郎忠重に相応しいものです。
江戸太郎重盛については、『吾妻鏡人名索引』は『東鑑』仁治元年(1240)八月二日条の将軍家二所御参詣の随行記事に見える「江戸太郎」が重盛だと考えており、私もこれでよいと考えています。そうすると、重盛の父におかれる重長☆は、この意味でも太郎忠重に相応しいことになります。太郎重盛の兄弟になる者たちの活動時期も、同様に1240〜50代が主だったと考えられます。木田見氏については、木田見次郎入道成念の姉が熊谷氏に嫁いだことから両氏の間で所領相論が起きているが、文永十一年(1274)には長家は所領の半分を熊谷氏に渡さなければならなかった事件が起きております。木田見次郎入道成念とは、年代的に上記の武重に当たるものと思われますが、「成念」という法名が重長☆の法名「成仏」に通じるものとみられます。
 
さて、以上の事情から、江戸太郎重盛は中条系図に記す又太郎仲重に当たることになります。畠山系図B個所では、太郎重盛の子に「弘安比(1278〜88)」の重方をあげており、この辺は年代的には妥当であっても、又太郎仲重の諸子には重方に該当しそうな人物も見えません。重方の位置づけも微妙になってくるわけですが、その呼称「四郎二郎」が正しければ、重方は六郷(石浜)四郎冬重の子であったのが、伯父重盛(仲重)の家を継いだのかもしれません。現存資料からは事情は窺えませんが、弘安頃になんらかの事情で江戸宗家が絶えたことがあったのでしょう。
また、豊島郡江戸之内前嶋村に関して弘長元年(1261)十月二一日付けの平長重書状(越後関興寺文書)があります。この平長重も江戸氏で、江戸太郎重盛や又太郎仲重に当たった可能性があります。先に、『東鑑』建長二年(1250)条に江戸七郎太郎長元が見えることをあげましたが、江戸一族に「長」の字をもつ者の存在が想定されるからであり、長重と長元(長光)とは同世代の従兄弟であったとすると座りが良くなります。
 
5 重方の子孫は、南北朝期に足利尊氏に従って薩?山合戦に参加して軍功があり、また江戸遠江守高重は矢口渡しで新田義興を討ち取り足利氏に忠節を尽くしたとされます。『太平記』巻卅一及び卅三には江戸遠江守とその甥下野守が見えており、橘花郡稲毛荘(川崎市高津区)に所領を持っていたことも見えます。室町前期の応永二十七年には、熊野の御師が「武蔵国江戸氏書立」という文書で江戸一門を書き上げており、それに拠ると、六郷殿から始まり、蒲田、飯倉、目黒、渋谷、中野、阿佐谷、桜田、芝崎、小日向、石浜、牛島などの名が見られ、現在の二十三区内に一族が広く分布していたことが知られます。
室町中期以降では、江戸氏は関東公方、扇谷上杉氏さらに小田原北条氏などに仕えましたが、天文頃までには本居の江戸郷を退去した模様で、戦国期の江戸刑部少輔頼忠は多摩郡木田見に居たことが知られます。ただ、世代数がかなり多そうでもあり、刑部少輔頼忠は本来の木田見(喜多見、北見)氏であり、本宗の江戸氏の跡を継いでいた可能性も考えられるところです。
 
6 芝崎(柴崎)氏については、中世の具体的な系譜は知られません(下記を参照のこと)。豊島郡江戸郷のなかには、将門首塚や神田明神があった芝崎村(千代田区)が含まれていたので、芝崎氏は本来この地に起こり、多摩郡柴崎村(調布市柴崎町)へと展開したものではないかとみられます。
神田明神は、江戸にあった江戸明神(江戸天王、牛頭天王)にも通じており、芝崎村の鎮守社でしたから、もともと江戸一族の氏神社であったとみられます。同社の神主は代々芝崎氏が務めており、その出自は江戸一族とみられます。『舜旧記』には、神田大明神の祢宜平宮内大輔勝遠が慶長八年七月上洛して吉田神道の裁許状を受けたことが記されており、平姓を称していたことが知られます。
同社はいま祭神を大己貴神・少彦名神とされますが、これは後世の訛伝によるものとみられ、本来の祭神は素盞嗚神(さらに少彦名神)とするのがよいと考えられます。少彦名神は、関東の知々夫国造・伊豆国造などが奉斎した祖神であり、奉斎者の系譜にも関わるものといえます。
また、やはり知々夫国造の流れを汲む野与党多賀谷氏の後裔にも、柴崎氏があったとされます(『姓氏家系大辞典』)。江戸郷芝崎村には弘安四年(1281)四月以前から多賀谷氏の所領があったことが知られており、同四月十五日付けの平(多賀谷)重政所領譲状には、重政から松王丸の母に後家分として譲与されていますから、この系統の柴崎氏もあると思われます。重政は系譜には見えませんが、年代と名前からみて、多賀谷家政(五郎重光の養子で、実父は村山党の金子十郎家忠)の子で弥五郎重茂(『東鑑』1251〜58年に見える)の弟ではないかと推されます。

 (05.2.20 掲上)



 (江戸太郎様からのご教示) 05.2.26受け
 
平成4年刊行の『神田明神史考』に依れば、芝崎神主家の系譜は、1444-49頃の初代神主芝崎式部少輔−越後守−兵庫頭−越後守氏連−宮内大輔−宮内少輔勝吉−吉勝−吉連−好高−好寛−好全=好皓−好承−好善−好定(明治4年に神主制廃止)とあり、江戸氏との血縁関係は不明です。

 (これに関する樹童の補足記事)

  江戸期の柴崎(芝崎)氏についての動向は、次のようになっています。

1 慶長八年時の祢宜平宮内大輔勝遠は、年代的に宮内少輔勝吉の父の「宮内大輔」に当たると推されますが、その場合、その父の「越後守氏連」は「氏遠」が正しいのかもしれません。

2 芝崎家では、元禄頃の宮内少輔好高(享保十八年〔1733〕四月死去)以来、国学の大家荷田春満(東丸)の門人となり、江戸の中心的な存在として学問の場を供するなど国学振興に大きな役割を果たしました。その子の宮内大輔好寛、その弟豊後守好全までの三代約百年の間であり、豊後守好全の妻は春満の女直子でした。

3 
明治六年(1873)、政府の教部省(旧神祇省)が神田明神主柱の平将門を外して末社とし、少彦名命を奉れと言ってきて、この要求を受け入れなければ廃社にすると脅したので、翌七年、15代神主好定は、氏子の了解なしに将門を本殿から外し代わりに少彦名命を奉ったことで、氏子たちは柴崎神主を追放したという事件が起きています。
  現在、神田神社の祭神は大己貴命・少彦名命であり、関東大震災まで境内社として将門神社がありました。

 (05.2.27 掲上)

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