豊後斎藤氏の系譜    附.豊後の富来氏

(問い) 豊後斎藤氏について教えていただきたいと思います。
  丸山浩一氏の著書『姓氏苗字事典』の斎藤姓の解説によると他流の(利仁流以外の)斎藤氏として豊後斎藤氏が記載されています。
  どのような系統なのか興味が持たれます。太田亮博士の『姓氏家系大事典』によると豊後の斎藤氏は大友氏の重臣であったことが記載されていますが、詳しい系統についての記載は見られないようです。せいぜい立花氏の一族の中で斎藤姓を称した家があることは記載されているようですが、豊後斎藤氏の本流との関わりについては触れていないようです。
 常識的に考えて、豊後の斎藤氏はもともと相模辺りの小土豪で、大友氏の郎党として入国したのではないか、と思いますが、そのあたりの背景についても教えていただけたらと思います。

 (h-sait様より。04.4.5受け)


 (樹童からのお答え)

1  西国の斎藤氏は割合珍しいのですが、豊後の斎藤氏については、戦国後期の斎藤播磨守長実・左馬助(兵部大輔)鎮実親子が海部郡丹生庄(大分市東北部)を領し、大友氏の重臣として活動したことが知られます。
すなわち、斎藤長実は、大友義鑑に仕えてその加判衆を約二十年務めましたが、天文十九年(1550)のいわゆる二階崩れの際、義鑑が義鎮(入道宗麟)の廃嫡を計画したことに反対して誅殺されています。その義鑑が義鎮支持派の家臣により討たれると、大友氏家督を継いだ義鎮から、嫡子鎮実が父の旧領を安堵されました。鎮実は大友氏の肥後制覇のため活躍しますが、天正六年(1578)十一月中旬、島津氏と戦った日向の高城・耳川合戦で丹生衆を率いて参陣し戦死しました。鎮実の妹は高橋鎮種(入道紹運)に嫁して立花宗茂(立花鑑連入道道雪の養嗣)・民部少輔直次の兄弟を生んでいます。このほか、年代的に鎮実の弟ではないかとみられる斎藤道礫がおり、大友義統(宗麟の子)の側近として筑前筑後の反大友氏勢力との戦いに活動しました。
 
この一族で筑後の守護代として三潴郡荒木村に居たものがおり、「実」を通字として斎藤三河守、同加賀守隆実などがいたことは、『姓氏家系大辞典』に見えるところです。筑前にあった大友家臣の斎藤刑部少輔実治、斎藤安芸入道道柱もおそらく同族だとみられます。
これら斎藤一族については、ご指摘のように『姓氏家系大辞典』にも具体的な系譜の記述がなく、その系譜関係史料はこれまで管見に入っておりません。なお、同辞典に見える立花氏支流の斎藤氏では、立花治部少輔直世の玄孫の方加瀬親久、その曾孫斎藤平内純秀とあげますが、ご指摘のように斎藤本宗ではなく、上記斎藤一族となんらかの縁由により斎藤を名乗ったものではないかとみられます。
 
2  豊後斎藤一族を検討するため、本領とされる海部郡丹生庄を中心に見ていきたいと思います。中世の丹生庄は、大分市東部の大野川下流東岸にあり、現在の地名でいえば、丹生、久所、一木、宮河内、広内などの地域であったとされますが、この地に斎藤氏はあって、丹生氏などを寄子にもつ寄親としての地位にあったとされます。
丹生庄の斎藤氏が見える初見は、永享八年(1436)のことで、本庄新右衛門尉の跡十五貫分が斎藤著利に与えられています(永享8.9.28大友親綱知行預ケ状、大友史料八)。次ぎに、年未詳六月三日付の大友親繁安堵状案(大友史料十一)では、斎藤著利の一跡が子の綱実に、矢野長門守跡内の十五貫分が綱実の子の光鬼繁実に与えられています。その後の永正十六年(1519)頃とみられる斎藤兵部少輔(長実)の知行、上記天文十九年(1550)の長実没後の鎮実の相続、さらに天正十七年(1589)の斎藤猪介統実の知行(永富帯刀跡地の交替)も史料に見えております。
豊後斎藤一族の家督と思われる者は、大友本宗の諱の一字をもらい、通字の「実」と組み合わせて名乗ったことが知られます。すなわち、大友宗家の親、親、親、義、義、義の諱一字を斎藤氏の代表が持っていました。
 
通字の「実」に着目すれば、豊前国宇佐郡斎藤村(現宇佐郡院内町斎藤)に見える斎藤一族も、豊後の斎藤一族と同族だと考えられます。この斎藤村は、恵良川上流の山間部にありますが、年不詳九月五日の大友持直安堵状(富来文書)には、宇佐郡内斎藤上総介入道跡が富来彦三郎に安堵されています。斎藤氏は当地に居住し、初め大内氏、のちに大友氏に属したといわれ、永正八年(1511)の斎藤益実書状によれば、斎藤氏の先祖は宇佐郡の長寿寺に隣村大門村小河内の上下両屋敷を寄進したことが知られます。豊前では天文・永禄の頃、斎藤駿河守がいたことが知られます。
大友持直は義持将軍から諱を賜った大友本宗で、文安二年(1445)卒去とされますから、斎藤上総介入道が豊前豊後の斎藤一族のなかでは最も早い時期の人といえそうです。
 
3  大友氏の家臣団のなかでは、本庄氏、斎藤氏、津久見氏などがもともとの大友家臣であったようで、斎藤氏は「お下り衆」の子孫とされますから、大友氏の先祖が相模から鎮西に下ってきたとき、その近隣地域から随従したのだろうとみられます。
大友氏は、相模国大友郷(小田原市の東・西大友)を本貫とする左近将監能直(古庄能成の子で、中原親能の養子。生没は1172〜1222)が鎮西奉行及び筑後・豊後(豊前もともいう)の守護に任じて、その子孫も鎮西奉行や豊後守護などに任じたため、豊後を中心に勢力を築き上げたものです。初代の能直がまず庶子を豊後に下向させ、その孫となる三代頼泰が豊後守護・鎮西奉行として文永・弘安両役に際し、文永九年(1272)頃までに豊後に移住して土着したものであり、これら三代の間に東国から随従して下向したのが斎藤氏の先祖だったとみられます。

ところで、鎮西奉行の下の鎮西引付には二番に斎藤二郎左衛門尉が見られると『姓氏家系大辞典』に記すので、この斎藤一族が豊前・豊後に移った可能性も出てきます。しかし、私は通字の「実」に着目して、武蔵国幡羅郡長井荘の長井斎藤氏(すなわち斎藤別当実盛一族)関係者が大友能直ないし頼泰に随従して豊後に来住したのではないかと推しています。それは、相模には鎌倉初期において斎藤氏の存在を確認していない事情もあり、やはり元からの大友家臣とみられる本庄氏が、もとは長井荘近隣の武蔵国児玉郡に在ったのではないかとみられるからでもあります。ただ、現在までのところ、長井斎藤氏の系図にも本庄氏の系図にも、大友氏に随従して豊後へ下向した者を見出しておりません。
この辺が実際にボトルネックではありますが、上記の推定が正しい限り、豊後の斎藤氏もやはり利仁流の斎藤氏であって、別姓の斎藤氏とは言えないことになります。なお、豊後の斎藤氏を近藤国平(初代能直の再従兄弟)の子孫ではないかとする見解も見たことがありますが、これはどこに根拠があるのか不明です。
 
以上、あまり具体的な系譜資料がないなか、いろいろ推測を廻らしてみました。従って、豊後斎藤氏についての端的な系譜史料が出てきますと、上記の推測はおそらく雲散霧消するべき性格のものですが、それまでの繋ぎとして、一応考えられるところを試案として記述してみました。
 
  (04.4.11掲上)


 <質問者からの返答> 04.4.13受け
 ご見解を賜り誠にありがとうございます。興味深く読ませていただきました。
 ご指摘のように豊後斎藤氏の通字に「実」が多用されていることは、実盛一族とのつながりを想像させるものであり、同一族が相模に近い武蔵の豪族であったことを考え合わせると、豊後斎藤氏は長井斎藤氏の一族であるとみるのが自然なような気がします。そのことを証明する新資料の発見を期待したいと思います。
 ところで、前回の東北地方の斎藤姓でご教示いただいたことと今回の豊後斎藤氏に関するご見解とを合わせて考えてみると、斎藤姓は越前から起こった名字ですが、東北や九州などへの伝播は関東を経由して促進されたように感じられました。これまでは北国から東北に直接伝播していったように考えていましたが、むしろ関東に斎藤姓を称する(仮冒する)人々が多かったことが、東北などに斎藤姓が広まった一因ではないか、というように思われてきました。ただし、これはあくまでも憶測であり、科学的な根拠が見出せないことが残念です。斎藤姓の伝播についてより具体的な資料が見つかることを期待したいと思います。

 (04.4.19掲上)



 (補記)長井斎藤氏の系図
 長井斎藤氏の系図については、埼玉県大里郡妻沼町の歓喜院蔵の「長井系図」があり、『新編埼玉県史』別編4 年表・系図(平成三年発行)に収められています。同系図は、藤原氏の時長に始まり、斎藤別当実盛兄弟から詳しく記されていますが、豊後への分岐は知られません。
  『太平記』巻十九には、実盛の後の長井斎藤別当実永・舎弟豊後次郎の兄弟二人が見え、建武四年の北畠顕家の上洛軍に従い、足利方攻撃にあたり利根川の川渡りで忠死したことが記されていますが、「長井系図」には実盛の末子豊前八郎実忠の五世孫に実仲(弥八郎、小別当)・実季(豊後次郎)兄弟をあげており、『太平記』と同様な事績が記されています。
 実仲の後は、弟実季の嫡男大太郎実経が家を継いで、子孫を残すという内容になっており、かなり信憑性の高い系図といえそうです。

 (04.5.10掲上)


(豊後安東氏の安東隆治様より) 2004.8.30受信

 豊後斉藤氏の出自は、吾妻鏡にある「宮六{仗国平は長井斉藤別当実盛の外甥で、(実盛は平家に属し)平家滅亡の後、囚人となり、 始め上総権介廣常(平)に召し預けられ、廣常誅戮せらるるの後、 中原親能に預けらる。しかるに勇敢の誉あるによって、親能子細を申して能直に付せしむと云々。」とある。斉藤氏はこの宮六位兼仗国平に仕え、中原氏の幕下であった、と考えられる。そして、親能から能直に付けたのである。したがって、その後、斉藤氏は能直に随身したのである。
 吾妻鏡では、上記の記事に先立ち、「親能兼日に宮六{仗国平を招き、談じて云はく、今度能直戦場に赴くの初めなり。汝扶持を加へて合戦せしむべしていへり。よって国平固くその約を守り……これ(能直)を相具して阿津賀志山を越え、攻め戦ふの間、佐藤三郎秀員父子を討ち取りをはんぬ」とある(文治五年八月九日条)。能直が初陣であるので国平の家臣を加えて欲しいと頼み、これに国平が応え、安藤次を案内人に背後から攻撃する奇襲を考えたのである。
 その後、大友能直に仕えるようになっていったと考える。
 「鎮西奉行」として中原親能が豊後に下る。1195年であり、この時期に旧勢力が抵抗し、中原親能が平定したと考えられる。そして豊後の所領を大友能直に相続したのである。これの相続を裏付ける文書が存在している。これらを考えると、まだ治安に不安がある豊後に露払い的に中原親能が着任し、平定後に能直が守護として着任するという筋書きではないだろうか。
 それだけ、頼朝から擁護されていたと考えられる、能直が頼朝の落胤といわれる由縁ではないだろうか。その辺のことが、吾妻鏡にある「親能(中原)が猶子左近(大友)将監能直は、当時殊なる近仕として、常に御座右に候す。」とあるように頼朝のそばにいた。
 下り衆とは、大友家臣には、「御紋衆」・「下り衆」・「国人衆」などがあり、ほぼこの三者に分けられる。御紋衆は大友一族、下り衆は大友氏に従って下向したもの、国人衆は平安期以来の土着豪族から発展した武士団である。御紋衆には、帯刀氏・一万田氏・戸次氏・利根氏・立花氏・田北氏・吉弘氏などの諸氏がある。下り衆には、実相寺氏・小笠原氏・徳丸氏や大友氏同族の古庄氏・小田原氏があり、斉藤氏はこの「下り衆」と考えられます。また、奥州討伐で恩賞をもらい奥州の留まった一族も考えられます。

 (樹童よりの返事)

1 長井斎藤別当実盛の外甥とされる宮六{仗国平が、豊後斎藤氏の先祖だとする確認はとれていませんが、ありうる話ではないかと思われます。
  管見に入った資料では、斎藤氏は「下り衆」とされていましたので、能直ないし初期大友氏に随行して豊後に入ったことが考えられます。
2 宮六{仗国平は、能直とともに一連の奥州平定活動に関して『東鑑』に見えており、文治六年正月十三日条には、「古庄左近将監能直・宮六{仗国平以下、奥州に所領あるの輩、大略もって首途すと云々」、同年四月九日条に「古庄左近将監能直・宮六{仗国平等、今に奥州にあり」と記されています。国平は翌建久二年(1191)の十月に見えるのを最後に『東鑑』から姿を消しますが、その後及び子孫の消息は不明です。

 (04.9.5掲上)



 (川部正武からの問題提起) 05.10.8受け

  豊後斎藤氏について、私はかつて大分県史か何かで近藤国平の子孫と見たので無批判にそのように考えていました。
今は、豊後富来氏(紀姓)との関係を考えています。

  富来氏と豊後清原氏はどちらも清原房則の子孫を称していて、富来氏は、房則の養子・業恒の子孫(広澄・近澄系)であり、同族に紀姓芳賀氏(善澄系)がいます。

  清原房則=業恒−広澄=頼隆(近澄の子)・・・永井祐隆−祐安(中原師元養子)−富来実貞

  清原近澄の子孫には、他に斎藤氏や在藤氏があります。そして、永井、斎藤、在藤という名字は斎藤実盛の子孫にも見られます。豊後斎藤氏が宮六_仗国平(斎藤実盛外甥)であるならば、富来氏も「実」字を使っていることを考えると、同族の可能性も出てきます。



  (樹童からのお答え)

  最近、知見に入った事情も含めて、お答えしてみます。

1 宮六{仗国平の系譜

 宮六{仗国平の系譜について、『美濃国諸家系譜』所収の「斎藤系図」に長井斎藤別当実盛の甥と記されることが分かりました。それに拠ると、実盛の弟、斎藤三郎実員の子に国平(宮六{仗)をあげ、伯父実盛に属して、実盛死後源氏の囚人となり、上総介廣常に預けられ、廣常の死後に斎院次官親能に預けられ、文治五年己酉八月奥州藤原合戦で武功があったと記されます。そうすると、宮六{仗国平は、その苗字は斎藤であって、大友能直の再従兄弟の近藤七国平(矢古宇又太郎。近藤八国澄〔隆が妥当か〕の子)とは別人となります。
 この宮六{仗斎藤国平が中原親能に預けられ、国平の子孫が中原親能の養子大友能直かその子孫に仕えて豊後に下向したのが自然だと思われます。豊後斎藤氏は、その出自から「実」を通字としたことも自然です。なお、国平の父とされる斎藤三郎実員については、『保元物語』に武蔵の長井斎藤別当実盛の弟として三郎実員と見えます。

  その後に、また上掲の「長井系図」を確認してみますと、長井斎藤別当実盛の弟に実員をあげて、「豊前三郎」と記し、その子には「豊○」とだけ記す形となっている(国平の名はあげない)ことが分かった。「豊○」とは、名前ではなく、豊後斎藤の意味だったのかもしれない。
   (※の部分は、06.2.10追記)
 
2 豊後の富来氏と永井氏の系譜

 豊後斎藤氏と豊後富来氏(紀姓)との関連については、上文でも触れたところです。両者に通婚関係は生じた可能性はあるかもしれませんが、豊後国国崎郡富来邑より起った富来氏とは出自的には同族ではないと考えます。以下に、少し記します。
 富来氏は紀朝臣姓と称しましたが、貞観八年(?)に国崎郡司に補されたという紀朝臣継雄(貞観八年に豊後守に任ぜられた紀朝臣継雄とはおそらく別人)の後裔で、本姓は国前臣で国前国造の嫡統だったとみられます。その同族に溝部・柳迫・何松や志手などの諸氏があげられます。鎌倉前期の左馬允俊朝の長男が溝部太郎秀俊であり、その弟が富来氏の祖・富来次郎朝忠であって、その子の「秀忠−長忠−忠虎(忠政)」と続いて、忠虎の子が延元元年(1336)時に足利尊氏を出迎えた富来雅楽助(弥五郎)忠茂となります。
 
 豊後の国東半島には、同じ紀朝臣姓で紀朝臣諸雄の子孫という上田・永松・永井・野原などの諸氏があります。富来一族との関係は不明ですが、おそらく両一族は祖先を同じくする同族であったものとみられます。この一族は、紀季兼・季次親子の子孫で、「実」を通字とする者が多く見えますが、豊後斎藤氏との関係は管見に入っておりません。季次の妹は清原実恒の妻となり、延枝名に居て延枝氏の祖となる実吉を生みますが、この系統は清原姓を名乗りますが、本姓は膳伴宿祢であり、清原実恒の父は豊後権介膳伴宿祢元恒とされます。
 なお、『姓氏家系大辞典』には、富来条(4013頁)に「永松系図」を引いて記事がありますが、これはまったく信頼できない記事です。すなわち、同系図に「正五位下図書頭紀頼清の嫡男・祐安(永井刑部助、石見守、実は三田左衛門尉藤原元恒の男、建久七年、大友能直に従ひて豊後に下り、富来に居る。依りて富来左衛門尉と号す)−実継」と記されるとありますが、この記事は各種の系図を混合された信頼性のないものです。永井実継の父は永井刑部助実貞(一に実直)であり、この者は紀(?。清原?)祐安とは無関係です。上記のように、永井実貞の子孫に富来忠茂が出たわけでもありません。
 
  以上は、『大分県史料』の生地家系図・志手氏系図や『宇佐神宮史』史料編五に掲載の上田系図、『大分県史 古代篇U』、『大分県地方史』第45号所収の論考「国東地方の紀姓について」(永松照政、1967年)などに拠るものです。

 (05.10.30 掲上)

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