葛西一族の系図

(問い) 葛西氏の系図には仙台系と盛岡系の二種類あるのは有名ですが、僕は二者択一ではなく、両系並存していた、と考えています。
 そして今まであまり注目されていませんが、豊島氏との関係を重視すべきだと思っています。特に鎌倉時代初期の葛西壱岐六郎左衛門朝清、及び葛西壱岐新左衛門清員が鍵になると思います。そして葛西清重と清親の親子関係も疑っています。
 未だ整理できていませんが一応試案ということで
 これら葛西氏関係の系図について、御意見を伺えればと思います。
  (川部正武様より。04.5.3受け)

 (樹童からのお答え)

 葛西氏の本宗家の系図を中心に多くの混乱があるのは確かであり、葛西氏本宗が滅びたこと、葛西氏の家臣諸氏が葛西一族に系譜を附合させた可能性があることなどの原因が考えられます。これに加え、『岩手県史』(盛岡系)と『宮城県史』(仙台系)の記述の差異が混乱を助長したとみられます。しかし、葛西氏ほどの大族になりますと、鎌倉期の最も基本的な史料である『東鑑』に一族がかなり登場していますし、その他の史料にも具体的に現れる葛西一族がおりますので、これら関係史料を基礎に葛西一族の動向をみていけば、おのずと原型的な系図は出てくるのではないかと私は考えます。ただ、総じて史料が足りず、一応の推測にとどまるので、さらに新資料が出てくれば、再考の余地は十分あると思われます。
ただ、今回貴殿の問題提起を受けて、関係史料や文献を当たってみたところ、いわゆる著名な学究といわれる人の著作にも、誤りが散見していることが分かり、愕然とした事情もあります。
 
葛西氏の概観をまず記しますと、下総国葛西御厨に起った称平姓秩父一族であり、豊島氏から分かれています。その本宗は、鎌倉後期ごろには陸奥国牡鹿郡の石巻に遷った模様で、戦国後期には寺池(宮城県登米市登米町寺池)に本拠を移しましたが、秀吉軍に敗北するまで陸奥の雄族として栄えました。一般に、源頼朝にその挙兵以降従い源平合戦・奥州征伐に活躍して奥州惣奉行に任ぜられた葛西三郎(右兵衛尉)清重を家祖としますが、秩父武基の弟・武恒を祖とするこの系統は清重の数代前から豊島と並んで葛西の苗字も併用していたことも考えられます。
 
 葛西清重は、建保七年(1219)正月までに壱岐守に任じ、承久三年(1221)の承久の変に際しては宿老の「壱岐入道」(清重が出家して壱岐入道定蓮)は上洛を免ぜられて鎌倉におり、貞応三(1224)年閏7月1日、執権職をめぐる確執の中で、北条政子は泰時邸に三浦義村や「壱岐入道」等を招きます。これが『東鑑』の記事としては清重の活動の最後に現れるものとされますが、寛喜二年(1230)正月四日の将軍家供奉に見える壱岐前司は葛西清重のことではないかと私には考えられます。その後、同書の建長二年(1250)三月条には「葛西壱岐入道跡」が見えますから、この頃までには清重は死去しており、暦仁元年(1238)九月十四日に七十七歳で死去したという所伝(「盛岡葛西系図」)は概ね妥当(嘉承三年〔1237〕説もある)なのかも知れません。
清重は「弓箭ノ道」に優れた武者であったとされ(『沙石集』第六巻)、文治五年(1189)七月の奥州合戦のときは、父の豊島権守清光(清元)、弟の葛西十郎(実名は清宣か)とともに従軍し、翌六年(1190)二月の大河兼任の乱に際しても従軍しています。建仁三年(1203)十月条に叡山の堂衆により討ち取られたと見える葛西四郎重元も、清重の弟とみられます。
 
 葛西清重の子としては、熊野那智大社所蔵の『米良文書』のうち「笠井系図」に嫡子伯耆前司、二男伊豆守、三男沢七郎左衛門尉、四男葛西河内守重村があげられており、これらが各々順に清親、朝清、時重、重村(清秀)に当たるものと考えられます。この四名の名は、『続群書類従』所収の「千葉上総系図」にも同じく記されており、桓武平氏の系譜のなかでは比較的信頼性が高いとみられる「桓武平氏諸流系図」(越後の三浦和田氏の惣領家中条氏に伝わるもので、『中条町史』等に所載)にも同じく見られます。ただ、後者の諸流系図には、重光の名も清重の子のなかに入れて長男の位置におきますが、重光は弟(上記の葛西四郎重元にあたることは譜註記事から明らか)であり、その譜註記事も清親の記事との間で混乱があります。

  清親は『東鑑』には仁治二年(1241)三月に伯耆前司と見え、宝治元年(1247)十二月に葛西伯耆前司と見えるまで同書に現れますが、途中、寛元二年(1244)八月には伯耆前司清親と見えております(寛元三年八月条の伯耆前司清はおそらく誤記)。しかし、これは清親が壮年になってからの現れ方で、それ以前に葛西三郎左衛門尉あるいは葛西左衛門尉として安貞二年(1228)二月〜十月に現れる人物が清親にあたるのではないかと考えられます*1。なお、寛元元年(1243)七月十七日条の葛西三郎左衛門尉は清親の息子か伯耆前司との重出ではないかとみられます。
次ぎに、朝清は寛元二年(1244)八月から正嘉二年(1258)三月まで『東鑑』に見え、壱岐六郎左衛門尉あるいは壱岐六郎左衛門尉朝清と記されます。「笠井系図」により、後に伊豆守になったことが知られますし、建治元年(1275)の京都六条八幡宮の造営注文写には「葛西伊豆前司」(年代からみて、「跡」が欠落か)と見えます。『東鑑』には、仁治二年(1241)正月の射的の射手として「葛西六郎」が見えますが、これも朝清とみられます。その二八年も前の建暦三年(1213)の和田合戦のときにも「葛西六郎」が見えますが、御家人制研究会編の『吾妻鏡人名索引』では、この二つの「葛西六郎」を別人として扱っています。これが正しければ、建暦三年のほうは清重の弟に当たりそうですが、この辺は判断材料がありません。
 更に時重は、壱岐七郎左衛門尉時重として建長二年(1250)五月〜康元元年(1256)六月まで同書に見え、途中の建長三年(1251)正月には単に葛西七郎時重と見えます。朝清及び時重は、「壱岐」の通称から見て清重の子であり、年代的に見て伯耆前司清親の弟であることは問題ないと思われます。
  時重は、陸中磐井郡黒沢邑から起こった黒沢氏の祖と称されますが(「笠井系図」の井沢は伊沢郡に因るものか)、管見に入ったところでは、その子に宮野弾正重国と孫次郎清国(町野氏の祖)が見えます。

『六条八幡宮造営用途注文』(『北区史』資料編古代中世)によれば、建治元(1275)年5月、京都六条八幡宮の新宮用途のため、七十貫を負担している「葛西伯耆前司跡」と記されますから、この時点で清親は既に死去していることが分かり、所領を引き継いだ人物(後記のように三郎左衛門尉時清か)が担当したと思わます。他に、「葛西伊豆前司」「同壱岐七郎左衛門入道跡」「同河内前司跡」「同三郎太郎跡」とありますが、各々朝清、時重、重村、□清(□は欠字。清親の長男)とみられます。
 河内守重村の子としては、葛西河内四郎左衛門尉友村があり、その子に平氏女と丸子八郎清友(弘安三年の葛西八郎清基と同人か)があったことは、上記「笠井系図」に見えます(系線では、平氏女と丸子清友は友村の弟妹におくが、記事からは子女とするのが妥当)。武蔵国丸子に清重が領地を賜ったことは、『東鑑』治承四年(1180)の記事に見えます。

*1 『吾妻鏡人名索引』(御家人制研究会編、吉川弘文館刊)では、安貞二年(1228)二月以降に現れる葛西三郎左衛門尉を清重の事績として整理するが、この時点では壱岐前司、壱岐入道となっており、疑問が大きい。太田亮博士『姓氏家系大辞典』の記述のほうが妥当である。この辺の話は後ろでも記述する。
 
4 清親の子としては、三郎太郎□清、伯耆三郎左衛門尉時清、伯耆四郎左衛門尉光清が考えられます。
三郎太郎□清は、『米良文書』のうち「笠井系図」に「西三郎(ママ。「葛」の脱漏ありか)」の子で、小三郎左衛門平光清の兄と見えます。その子に「又太郎兵衛」を記しますが、これが『東鑑』寛元三年(1245)八月十六日の八幡宮放生会に際して行われた競馬の五番に出場した「葛西又太郎」であろうと推されます。葛西又太郎はその後、正嘉二年(1258)正月、文応元年(1260)十一月にも見えており、文応元年時には葛西又太郎定ママ。定広か)と記されます。三郎太郎□清は、清親の長子であったにもかかわらず任官もしないうちに早世して、清親の嗣子としては、その弟の時清があげられたものとみられます。又太郎兵衛の子孫は続き、「笠井系図」にはその子(欠字が多いが、前後の関係から左衛門三郎安重か)の子に彦三郎清安、その子に三郎太郎行貞まであげられています。
 
次ぎに時清は、当初は壱岐三郎時清と見え(文暦二年〔1235〕六月)、のちに嘉禎三年(1237)六月には「壱岐小三郎左衛門尉時清」と見えますが、父清親が伯耆守になった後の建長四年(1252)四月には伯耆三郎左衛門尉時清と変わり*2、その四年後の建長八年(1256)年六月の放生会供奉人決定の際にも「伯耆三郎左衛門尉」が見えます。上記「笠井系図」には光清の子として新左衛門尉時清があげられますが、これは系線の引誤りではないでしょうか。
その弟の光清は、宝治四年(1248)八月に伯耆四郎左衛門尉光清と見えてから、弘長三年(1263)七月十三日条まで『東鑑』に現れます。その子に清氏がおり、同日条には光清の子息五郎清氏と見え、同年八月にも伯耆左衛門五郎清氏と見えます。上記「笠井系図」には葛西伯耆四郎左衛門五郎清氏、その子彦五郎重勝が正応五年(1292)在判で見えます。
また、建長三年(1251)八月十五日条に見える葛西壱岐新左衛門尉清員は、世代と称号から考えると朝清の子ではないかと推されます*3。その前年の建長二年八月十五日条には葛西新左衛門尉清時と見えるのも、清員の誤字ではないかとみられます。

 *2  時清の位置づけについては、「壱岐小三郎左衛門尉」→「伯耆三郎左衛門尉」という呼称の変化から見て、清親の子であり、その嗣子で本宗家督となったことは疑いないが、なぜか清親の弟に置くものが多く、不思議に思っていた。清親の弟とするのは、関東武士研究叢書『葛西氏の研究』(名著出版刊、1998)の編者で同書のなかで「鎌倉時代の葛西氏」を著した入間田宣夫東北大教授の誤解にすぎず、これに依拠したものが多いようだと感じる。
なお、同書所収の今野慶信氏の論考「鎌倉御家人葛西氏について」では、時清について正当な位置づけをされている。『石巻の歴史』第六巻・特別史編の第三章で、葛西氏の系譜をとりあげる石田悦夫氏の見解でも、清親の子で、清経の父におかれている。

*3 清員については、必ず信拠のおける系図ではないが、朝清の子にあげるものも見られる。
 
5 時清の子としては、清経、清時があげられます*4
清経は、建長四年(1252)十一月の将軍家御出供奉に伯耆左衛門三郎清経と見えるのを初出に、同八年(1256)八月の放生会供奉人として伯耆新左衛門尉清経が見えており、また『香取文書』には文永八年(1271)十二月十日の香取神社仮殿正神殿遷宮の惣奉行として葛西伯耆前司入道経蓮が見えます。  
清時は、建長四年(1252)四月に伯耆左衛門四郎清時と見えます。

*4 清経、清時については誤解が散見する。すなわち、清経を清親の子としたり、清時を時清と混同する例であり、これらは上記の時清の位置づけ同様、当時の武士の呼称、とくに「新」「小」の使い方の誤解に起因している。太田亮博士も、時清と清時とを混同している。
 
かなりクダクダと書いてしまいましたが、この辺りをきちんと整理しておくことが問題解決のために重要であり、以上で『東鑑』に見える葛西一族を殆ど記したことになります。こうして鎌倉期の葛西一族を見てきただけで、いわゆる「盛岡系」の葛西氏系図が疑問なことが分かります。
 
6 清経以降の鎌倉期の葛西本宗をみれば、清経の子は葛西系図では宗清(清宗)とされており、その子が南北朝期に南朝方で活躍した清貞とされております。葛西三郎平宗清は、弘安七年(1284)十二月九日に新日吉の小五月会で流鏑馬を披露したと『勘仲記』にあります。正応元年(1288)七月九日付の『中尊寺文書』「関東下知状」の中には「葛西三郎左衛門尉宗清」「惣領宗清代」という名前が見えており、平泉毛越寺・中尊寺と葛西宗清との争論の裁決をした下知状ですので、宗清が「惣領」であったことが分かります。

  次ぎに、「香取社造営次第案」(『香取文書』所収)に拠りますと、元徳二年(1330)六月に遷宮を担当したのは、葛西伊豆三郎兵衛尉清貞であり、清貞の父が葛西伊豆入道明蓮であり、親父伊豆入道が相論間、遷宮が延引されたと記されます。「葛西伊豆守清宗入道明蓮」は、香取神宮の文書や京都の寺社造営など他の文献にも現れておりますが、葛西三郎左衛門尉宗清との関係が不明です。両者が同人とみれば、系図上の問題はないのですが、そうは言い切れない事情(次ぎにあげる@A)があり、悩ましいところです。
すなわち、@正応元年(1288)に「惣領」である「葛西三郎左衛門尉宗清」が中尊寺・毛越寺を相手に論争をしていますが、その際、葛西伊豆太郎左衛門尉時員・葛西彦三郎親清も宗清とともに争ったとされるからです。
 葛西伊豆太郎左衛門尉時員・葛西彦三郎親清ともに葛西一族の系図には見えませんが、年代と呼称から見て、時員は伊豆守朝清の子孫で、前出の新左衛門尉清員の子(あるいは孫)ではないか、彦三郎親清は前出の彦三郎清安と同人ではないかと私は推しています。
また、A中尊寺蔵の永仁二年(1294)執達状の宛名が「壱岐守殿」となっており、これも葛西三郎左衛門尉宗清を指すものと解されます。
そうすると、時清と清時とが別人であったように、宗清と清宗とは別人であった可能性が大きいものと考えられます。壱岐守宗清と伊豆守清宗とはほぼ同時代人ではないかとみられますが、別人と考えるわけです*5。その場合、伊豆守清宗の位置づけをどう考えるかということになりますが、この頃には葛西本宗家が確立していたのではないかとみられますので、現段階では、伊豆守清宗は伊豆守朝清の子孫ではなく、壱岐守宗清の弟くらいの位置におくほうが比較的自然ではないかと考えています(あるいは、朝清の子孫の伊豆守清宗が本宗の壱岐守宗清の跡を承けたものか。「伊豆」を重視して、こう考えれば、盛岡系の系図の歴代に朝清があげられる事情にもつながるかもしれない)。

*5 宗清と清宗とを別人に考える説は、管見に入ったものでは、ネット上のHP「千葉一族」くらいである。しかし、このHPの記事では、清宗を宗清の次の家督としながら、「葛西六郎左衛門尉朝清の子(ママ)か」と記しており、これは年代的にも疑問が大きい。あるいは「子」というのは「子孫か」とする意であったか。
 
7 南北朝期の葛西氏については、葛西三郎兵衛尉清貞の活躍が知られます。
早くは葛西三郎兵衛尉が『太平記』巻三の元弘元年(1331)の笠置軍事に北条方として見えますが、鎌倉幕府滅亡後は南朝方として活躍します。『白河結城文書』の延元三年(1338)十一月十一日付け「沙弥宗心書状」のなかに「葛西清貞兄弟以下一族、随分致忠之由令申間、度々被感仰畢」と記されます。それより二年前の延元元年(1336)正月に、北畠顕家軍に従って京都神楽岡で討死し新田義貞と見間違えられた「葛西江判官三郎左衛門」がおります(『梅松論』)。
小林清治氏は、「清宗(また宗清とも)は元弘の乱に幕府軍として上洛し、のち後醍醐天皇方に転じ建武三年〔1336〕京都神楽岡に戦死した」と記述しますが(『国史大辞典』)、『香取神宮文書』には既に元徳二年(1330)六月遷宮の際、葛西伊豆三郎兵衛尉清貞とその親父伊豆入道として見えますので、「葛西江判官三郎左衛門」が清宗のはずがなく、この記述は誤りと考えられます。『梅松論』の記事に疑問があるとも感じられます。江刺郡の江刺氏は葛西氏の配下にあり、葛西の族とも千葉の族ともいわれますから、「江判官」は「江刺判官」(渋江説もある)の誤記ないし誤脱ではないかとも思われます。 
葛西清貞は、北畠顕信を助け奥羽各地で戦い多賀国府の奪還に活躍し、興国六年(1345)には和賀・滴石の諸氏とともに斯波郡の北朝方と戦った形跡がありますが、その後の消息は知られません。観応元年(1350)に死去したと伝えます。この頃から葛西氏は北朝方に転じたことが石巻地方に残る板碑の記年号から推されるといいます。

このように史料に現れる葛西清貞ですら、「盛岡系」の葛西氏系図に見えません。鎌倉期の系図については、「仙台系」系図のほうが妥当だとみられます。その後の室町期の葛西本宗については、『余目記録』などの各種史料に照らしてみる必要があります。「仙台系」が良いか「盛岡系」が良いかは難しい面もあるのですが、後者のほうが妥当だという見解もみられますから、「盛岡系」にあげられる歴代もかなり有力であったのでしょう。ただ、「盛岡系」系図には、朝清が清親の先代家督として見えますが、これも上述した朝清の位置づけからみて大きな疑問があります。紫桃正隆氏は、「両系の当主は異名同一人の可能性が強い」と評価しますが、両系統の名前にどこに共通性があるのか極めて疑問です(卒去年月日の酷似はあるので、別途の事情ありか)。
  葛西氏は室町・戦国期には石巻と寺池という二系統に分裂していた模様でもあります。あるいは、鎌倉中期の清経・清時兄弟の時に二系統となって、前者の後が宗家で石巻におり、後者の後が分家で寺池にあって、それが最後の当主晴信の祖父晴重の代ころに合一となり、その頃から寺池に本拠を置いたのかもしれません。石巻から寺池に遷ったのが天文五年(1536)という所伝(龍源寺蔵「小野寺系図」)もありますが、これに否定的な説もあり、この辺も難しいところです。
  『歴名土代』の従五位下条には坂東葛西三郎晴重があげられ、大永二年(1522)十月に左京大夫となったことが記されています。

  最後の当主・葛西晴信は秀吉の小田原攻めに遅参して天正十八年(1590)に所領没収となりますが、その弟といわれる右衛門尉胤重の子の式部大夫重俊(流斎)の子孫は、伊達氏に仕えて、仙台と宇和島に残りました。
 右衛門尉胤重を晴信の弟とすることに疑問な見解(石田悦夫氏)もあるが、胤重の生年(1532年頃)と命名から、晴胤の子とするのが妥当とみられるが、晴信の兄だったかもしれない。

  (04.5.7 掲上、後に若干追補)



  その後にも川部様との応答が続いてありますので、(続き) をご覧下さい。

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