(葛西氏の続) <川部正武様からの返信>
1 葛西氏系図についての応答の掲上についての返信 04.5.8受け
(1) オーソドックスに纏めて戴いたおかげで話がし易くなりました。とりあえず、記憶に頼りつつ、記述を続けさせてください。出典を記さず、記憶違いなどあるかと思いますが。
僕の問題提起として
に以下の文を挙げていたのですが、最初の質問文に書いておけばよかったと後悔しています。
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葛西氏の系図は2種類あります。
@仙台説:「清貞−良清−満良−満清」という系統で、受領名は伊豆・備前・陸奥・武蔵で、法名に「蓮」字です。
A盛岡説:「貞清−高清−詮清−満信」という系統で、受領名は壱岐・伯耆・因幡・遠江で、法名に「祐」字です。
B折衷説:「清貞=貞清」「良清=高清」「満良=詮清」というもので異名同人であるというもの。
ポイントは鎌倉時代後期の葛西三郎左衛門宗清です。
折衷説では仙台説の伊豆三郎兵衛清宗と盛岡説に見えない三郎左衛門宗清を同一人物とするようですが、これは明らかに別人でしょう。
正直言って、両説とも鎌倉時代の部分についてはあてになりません。盛岡説については宗清の位置付け(貞清の父か兄だと思われる)について、仙台説については清宗が清経の子かどうかについて、を解決する必要があります。
そして仙台説において重要なことは、江刺持重が葛西当主とされている点です。ここは養子関係の可能性が伺えます(葛西信重は葛西満清か誰かの養子になったために、父の持重が葛西当主と考えられてしまった等)。
そしてAの稙信の子・晴胤が@の晴重の養子となったことで両家の合併ができたと考えます。
Aでは多くの葛西家臣の養子となっているのに対し、@では江刺氏・末永氏くらいしか見当たらず、蓮昇(満良)の子の一人である富沢右馬助が法名に「道祐」を名乗っているなどの弱点があります。
Aの葛西満信は満良の子で詮清の養嗣子となった可能性も検討したいです。
結論としては、Aは嫡流であるが宗清の後、@の系統が惣領であったが、満清の早世後に、@の満信に惣領権が戻った可能性も考えます。
どっちにしろ、葛西晴胤の出自の解明が鍵になると思います。葛西晴胤は伊達稙宗の子という説もあり、そうなると葛西晴清と同一人物になります。
僕が気になるのは「晴胤」という諱が葛西当主のなかではかなり変わっている、ということです。
つまり葛西当主は「重」字か「清」字か(あるいは「信」字)を使用していたにもかかわらず晴胤の諱は突然変異です。要するに晴胤の前に「晴重」「晴清」の存在があるのは確実ではないかと思われます。
むしろ葛西稙清の存在の方が謎だと思います。
盛岡説の鍵となる葛西清信ですが、又太郎という仮名からすると葛西定広(清員の子)との関係を考えるべきではないでしょうか?
あまり関係ないけど葛西清重と清親らと歳が離れすぎではないですかね?
僕は今まであまり考慮されてこなかった豊島氏との関係を重視します。つまり葛西氏にとって豊島氏は嫡流筋であり、葛西惣領に豊島氏の血が入ることは十分ありえると思います。
豊島氏の系図を考えると葛西清員や定広らの位置付けが見えてきます。
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(2) 樹童様からのお答えをふまえて
@ 葛西清重の系譜関係について
豊島清光の嫡子かどうか?
おそらく豊島康清、有経、朝経らの弟にあたると思われます。
(有経、朝経間は親子説がありますが、おそらく弟・朝経を養子にしたのではないか?)
葛西清重は叔父の葛西重俊の養子という説もあり。
A 葛西清重の子
すなわち清親と元清の二系統あったのではないか?ということです。
葛西小三郎左衛門元清(光清)が(庶)長子ではないか?
壱岐三郎時清は清親の子と思われるが、元清の(養)子とするものもある。
おそらく元清の所領を受け継いだのではないか?
或いは元清の子で清親の養子となったのではないか。
姓氏家系大辞典の葛西1項に近い考えです。
安貞二年の三郎左衛門は、清親とは限らないので、保留しておきます。
B 葛西朝清は豊島氏出身か?
葛西朝清は豊島朝経の子で、葛西清重の養子になったという説があります。
壱岐六郎左衛門という名から清重の子(必ずしも実子ではない)としての扱いを受け、ある程度の所領を受け継いだと思われます。
豊島氏は葛西氏の嫡流筋であり、朝清は清重の実子よりも重い扱いを受けていても不思議ではないと思います。
C 葛西新左衛門清員について
伊豆太郎左衛門時員は清員の子孫と思いますが、僕は「豊島系図」にある、「清員−定広」という親子関係も重要ではないかと思います。すなわち葛西又太郎定広は清員の子であるということです。
そして、盛岡系の系図にしか登場しない、又太郎清信が実在するとしたら、定広との関係から考えるべきだと思います。
2 葛西氏と豊島氏 04.5.8受け
樹童様の考察を拝読しながら、加えて
の記述を参照しつつ、もう一度検討しました。
(1)
僕が当初考えていた葛西朝清と清親の関係は、盛岡系の系図の影響が大きかったことを痛感しました。
それから葛西清員については、清重の子という清時(時清のことか?)の子という説(豊島系図)と朝清の子、或いは清重の子(養子?)という説(奈良坂系図?)とがあり、清員の位置付けの検討が必要と思われます。
すなわち清員の子に定広があり(豊島系図)、時員もこの系統と考えると、重要性は高いと思います。
(2) 豊島氏を中心に葛西氏を見直すと、「豊島清光−豊島朝経−葛西朝清」と続き、
朝清の子には葛西清員の他、豊島朝房(豊島清房養子)、豊島泰清(豊島清経養子)、葛西朝重(奈良坂氏の祖)、葛西清氏(中村氏の祖)、薄衣清見(千葉一族に養子)、らがおり、葛西清員の子には定広、清高(豊島重信の父、宮城重中の祖父)というように、葛西朝清−清員の親子は豊島・葛西をつないでいます。
3 葛西定広 04.5.9受け
僕の方もいろいろ混乱していて、なかなか整理できません。
とりあえず、葛西又太郎定広の諱、仮名の奇妙さについて
「広」字は宮城系図では、葛西朝清の曾孫に宇多重広と宮城政広がいますが、葛西氏では見かけません。「定」字にいたっては葛西清重の法名・定蓮のみです。
又太郎という仮名は盛岡系葛西系図に登場する、千葉氏からの養子という又太郎清信に通じます。
一方で、豊島系図では定広は清員の子であり、仮に伊豆太郎左衛門時員と関係があるとすると、仙台系葛西系図の伊豆三郎兵衛清貞に通じる可能性がでてきます。
又太郎定広の解明こそ、最も重要ではないかと思います。
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<樹童の考え> 04.5.9現在
1 川部様が懸念されていました記述は、拝見した上で応答を記述したつもりです。まだ不十分だったのかもしれませんが。 2 葛西一族の系図の諸問題
@ 葛西清重の系譜関係……豊島清光の嫡子かどうか?
清重は呼称「三郎」のとおり、清光(清元)の三男であり、嫡子は豊島太郎有経(紀伊権守)であって、康清の存在は確認できません。朝経については、『東鑑』の記述等から考えると、「豊島右馬允朝経」(1180年条〜1201年条に見。年代的に見て、有経の弟か)と建仁三年に叡山堂衆との合戦で討死した「豊島太郎朝経」とは別人で(朝経両人のうち、どちらかに誤記ありか)、系図には異伝がありますが、「有経−朝経(後者のほう)」という親子(猶子も含めて)とするのが妥当だと思われます。
葛西清重には、叔父の葛西重俊(重高)の養子という所伝もありますが、重俊(重高)の存在が「桓武平氏諸流系図」(清重の父・清元の弟に豊島四郎俊経・平塚入道だけをあげる)や千葉一族の系図等に確認できず、むしろ疑問な所伝だと思われます。とにかく、葛西氏関係はその一族の出と称する諸氏に疑問な系図が多すぎますので、信頼できる系図を基礎において考えることが必要だと思われます。『源平盛衰記』には葛西三郎重俊と見えるそうですが。
A 葛西清重の子……清親と元清の二系統あったか?
清重の子に元清があったことは確認できません。葛西一族では、「元と光」が互いに誤用・誤記されているようなので、よく判別ができませんが、「元清」が伯耆四郎左衛門尉光清に当たる(葛西小三郎左衛門光清という表現は『東鑑』にないはずです)としたら、『東鑑』に見る限り、清重の子ではありえません。この辺は、盛岡系の葛西氏各種系図の疑問なところであって、三郎清重の長子は三郎左衛門尉清親とみるのが妥当で、熊野那智大社所蔵『米良文書』「笠井系図」の示すところです。
たしかに、『東鑑』では清親の明確な出現時期が遅く、御家人制研究会編『吾妻鏡人名索引』では、仁治二年(1241)三月の伯耆前司が最初としていますが、このときに「前司」ということは、受領名を名乗る前の時期があったはずで、それが安貞二年(1228)の二月から十月にかけて見える葛西三郎左衛門尉(たんに葛西左衛門尉とも見える)ではないかと考えられます。 B 葛西朝清は豊島氏出身か?
葛西朝清は豊島朝経の子で、葛西清重の養子になったという説には根拠がなく、信頼できません。
C 葛西新左衛門清員と定広との関係
「豊島系図」にある「清員−定広」という親子関係は疑問が大きいものです。葛西又太郎定広については、『米良文書』「笠井系図」に拠って清親(実質は太郎)の子の三郎太郎□清(□は欠字)の子とするのが「又太郎」の呼称に相応しいということです。清員が朝清の子であったとして、その長子であったことは確認できず、朝清は太郎ではないので、定広が清員の子であったとしても「又太郎」とはいえません。定広の命名が一族と離れた感がないわけではありませんが、父の三郎太郎□清の欠字「□」が定ないし広であれば、繋がりとしては問題がないと思われます。
なお、盛岡系の系図にしか登場しない又太郎清信は実在が確認できませんし、盛岡系の葛西氏が実在したとしても、四郎清時の後とみていますので、系統的に「又太郎」という呼称は疑問です。鎌倉期の葛西一族の系図を考えても、総じて「盛岡系の系図」は信頼できないことを前述しました。繰り返しますが、あまり信頼できない系図を基に議論するのは危険だと思われます(貴殿が朝清の子にあげる者たちも、清氏の例に見るように、清員以外は疑問ではないでしょうか)。
奥州千葉氏の系図は異説が多すぎて、疑問が多く、そもそも房総千葉一族の出かどうかも、私は疑問に思っています。ましてや、奥州千葉氏一族からの養子という必然性がまったくありません。葛西又太郎清信が千葉氏から入ったというのは、まずありえないことだと思われます。 3 「豊島系図」(豊島信明氏所蔵本)の疑問
『練馬区史』資料編1などで紹介される「豊島系図」については、鎌倉期の豊島・葛西両氏について系線の引き方などで疑問が多く、その記述をそのまま受け入れることについては避けたほうがよいと考えられます。そうした疑問な点を気づいた範囲であげてみますと、次のようなものがあります。
@ 「朝経−有経」と同系図では記しますが、朝経は有経の弟と子の双方について『東鑑』に記されていて、親子の場合は「有経−朝経」となることは、先に述べたところです。この場合、朝経は太郎朝綱に該当しようが、子の名前からみて、「朝経」のほうが妥当かとみられます。
A 「朝経−有経−経泰」と記し、平六経泰は『東鑑』建長三年(1251)条に見えて世代的には問題がないと考えられますが、「有経−朝経−経泰」とするのが妥当であるとみられます。豊島哲夫氏所蔵の府河系の「豊島家譜」では、まさにこの形で系をつなげております。また、「桓武平氏諸流系図」では、葛西清重の兄に左衛門尉有経、弟に笑田四郎有光・豊島六郎家員をあげるのみで、朝経の名は見えません。
B 時光も、『東鑑』仁治二年(1241)条に豊島又太郎時光と見えて、「朝経(朝綱)」の子に置くのが妥当とみられます。豊島小太郎も同書の建暦三年(1213)条及び仁治元年(1240)条に見えて、小太郎重勝と又太郎時光とが兄弟であることは、良さそうでもあります。ただ、呼称からみて疑問も残ります(その場合は、小太郎重勝の子が時光か)。
C 葛西一族については、清重の子に清時をおくこと、清時の子に清員をおくこと、又太郎定広と四郎太郎清高を兄弟とすること(各々の父が太郎と四郎となる矛盾が出てくる)、などの諸点はいずれも疑問が大きいとみられます。
D 系統を跨って養子に入った豊島小三郎宗朝の世代を比較すると、宗朝の実家系統の祖たる豊島太郎重信は葛西四郎重元の子におくのが妥当ではないかと考えられます。
重信の父に葛西四郎重元を考えるのは、(ア)重の字の共通、(イ)重信の子の孫四郎重冬が葛西四郎重元に通じること、という事情があるからです。豊島太郎重信については、明確に「葛西」となった朝清ないし時重の子孫とするよりは、父や兄弟が豊島とも葛西とも名乗る葛西四郎重元の子孫としたほうが流れがよく、朝清や時重の子孫は陸奥にあった可能性もあります。
(04.5.9 掲上) <川部正武様からの返信2−養子関係> 04.5.10受け 1 猶子関係
樹童様、拝見いたしました。
いわれる通りだと思いますが、鎌倉時代は所領相続のための猶子(養子)縁組が多く、庶流の後継には嫡流の子弟が猶子となることが多く見受けられます。
僕自身も葛西氏、豊島氏の系図は信用できない部分が多いことは充分承知しております。
しかし、猶子関係、伝領関係から捉え直すと、実は真実も存在するのではないか、という期待から玉石混交でも系図をとりあえず採り上げ、矛盾部分を順次削っていく、という方法をとっています。
その過程で樹童様の御教示が最も確実な材料ですが、樹童様に否定された部分にも猶子関係などがあるのではないか、と思いますのでもう一度、検討してみます。
2 盛岡系葛西系図について
初期(鎌倉時代)は信用できない部分が多いと思いますが、「葛西満信−西館重信−薄衣清胤(「薄衣状」の主?)」の三代といった諸氏の祖となる重要人物たちも架空の人物とお考えでしょうか?
盛岡藩士の葛西遺臣が皆で足並みそろえて系図を作ったという可能性もありますが、それにしては出来過ぎのような気もします。
樹童様は盛岡系葛西系図のどこあたりから信用できるとお考えでしょうか?
<これらに対する樹童の考え> 04.5.15現在
あまりお答えになりませんが、私見としては次のようなところです。
1 中世の養子・猶子関係はなかなか微妙であり、私としては所領・家督・祭祀などの相続を含めて、史料に確かめられるものを除くと、慎重に考えています。これをあまり緩やかに認めると、系譜仮冒に通じやすいものになると感じるからです。
2 盛岡系葛西系図については、鎌倉期の部分は基本的に信頼できないように感じます。ただ、時清の子に清時をおいて、清信(にあたる者)がその子におかれるとしたら、そこらから別系が始まったという可能性もあろうと思われます。「葛西満信−西館修理亮重信−彦五郎信輔−修理大膳信胤−本吉大膳重胤」という系や、清信の子に「又次郎信常」をおいて登米郡米谷祖とする系(ともに「中館系図」に見える)もあるようですから、清信の系統は登米郡にあったともみられます。
薄衣氏については奥州千葉一族とも称しているので、よく分かりませんが、『伊達世次考』には、明応八年(1499)に奥州磐井郡東山住人葛西一族薄衣美濃入道経連と見えて、これがいわゆる「薄衣状」といわれるものの記事ですから、これが正しければ、葛西一族ということになりますが。 西館重信の兄とされる持信の妻は、南部義行の娘とのことで、この女性の生年が1405年頃の生まれだという記事をどこかで見たことがあり、そうすると、「薄衣美濃入道経連」は薄衣清胤に当たるのかも知れませんし、「胤」は上記西館氏の名前にも通じるものがあります。 3 葛西晴胤については、難しい問題があるようです。『伊達族譜』の内族譜第4に掲げる葛西の系図では、伊達稙宗の七男で晴重の娘を配して嗣となし、天文十八年には従五位下左京大夫に叙任したと見えますが、紫桃正隆氏は、「葛西家に入嗣したとする伊達稙宗の子、幼名牛猿丸は、のちに晴清と名乗り、早世しているので、晴胤とは別人の可能性が強い」と指摘します(歴史読本臨時増刊『戦国大名家370出自総覧』)。 そうであれば、蓋然性が高そうなのは、先代三郎晴重の弟であって、それゆえ「又三郎」と名乗ったものかとも思いましたが、世代的には晴重の子の活動年代にあたります。川辺様がいわれる盛岡系の「稙信の子」という可能性(その場合、晴重の甥か)もあるのかもしれません。 葛西氏のなかで「晴」の名はやや違和感がありますが、晴重が大永二年(1522)に叙位任官したときに、ときの将軍義晴(将軍在位1521〜46)から偏諱をもらい、その晴を嗣子の晴清や晴胤が踏襲し、さらに晴信まで続いたのではないでしょうか。ただ、その前に将軍義稙の「稙」の諱をもらった者が葛西氏にいたかどうかについては、確認ができませんが、ありえたのかもしれません。 私は、室町期の葛西氏について、比較的に信頼して良いという史料を知りませんので、検討の基礎となる史料がない以上、的確で具体的な系図批判もできません。総じていえば、室町期に入ってからの葛西氏の系図は、石巻の宗家のほうも歴代の直系しか伝わらないため、世代数が多くて疑問があり、どうもよく分かりません。ご指摘の持重や信重の問題もそのなかに含まれそうです。 いずれにせよ、偽造系図的な色彩が強いものについて、ほかの史料や必然性がない状況では、検討が難しいものです。
(04.5.16 掲上。その後に09.11に表現などをなんどか追補) この続きを 葛西氏系譜の再考 として、09.11.14に掲上。 |
<豊島氏関係の参考文献> 1 杉山博編『豊島氏の研究』(関東武士研究叢書) 2 金本勝三郎「豊嶋氏考」、『姓氏と家紋』第37号(昭和58年6月) 武蔵の豊島氏と下総国相馬郡府河(布川)の豊島氏の系図を掲げ、絵島生島事件の絵島(豊島久俊の娘)の系まで説明されます。 (続く) 葛西氏系譜の再考 へ |
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