(葛西氏の続々)

              葛西氏系譜の再考
 
1 再考の意義
 葛西氏の系譜については、しばらく検討をしてこなかった事情にあったが、最近、別途に示唆と刺激を受けることがあり、これまでの関係資料と森谷一仁氏の『葛西史疑』なども再読して、新たな目で再検討を加えたのが本考である。また、改めて入間田宣夫編『葛西氏の研究』や石田悦夫氏の『石巻の歴史』第六巻における葛西氏系譜の検討も考慮した。
  ここまでに本HPで記述してきた葛西氏の考察を、基本的に踏まえたうえでここで記述するが、前の部分も関連して若干修補した個所もあるので、この「再考」部分だけではなく、最初からトータルで読み直しいただくよう、お願いするものでもある。
 
 (1) 最初に、森谷一仁氏の『葛西史疑』について少しご紹介すると、著者の森谷氏は、宮城県の本吉郡本吉町(最近、気仙沼市へ編入)の助役・同町町議を経て、町誌の編纂委員兼執筆者をつとめられた関係で、葛西氏・熊谷氏をはじめ地域資料に詳しく、これらを整理してまとめたのが本書であって、昭和五七年(1982)に刊行された。難解な葛西氏系譜に切り込もうとする意欲的な労作であり、地元関係者ならではの記事や資料(巻末などに掲載)もあって興味深いものがある。
 当書の主旨を私なりに整理すると、
@ 葛西氏には石巻系と登米(寺池)系の二系統があって、これを一系統としてとらえてきたところに、これまでの葛西氏系図の混乱があった、
A 鎌倉期には石巻系が陸奥葛西領の太守であったが(ただし、鎌倉期中に登米在城)、足利幕府が成立すると、南朝側の石巻系は無視されて、登米系の葛西高清に本領安堵がされ、この系統が奥七郡の太守となり戦国期まで続いた。
B 葛西氏の系図としては、高野山にある葛西氏創建の五大院に伝えられた系図(「高野山五大院系図」。後述)が由緒古くて正しく、この流れをひく所謂「盛岡系の系図」のほうが内容が妥当であって、「平姓葛西氏之系図」(仙台藩士の葛西藤右衛門重常が1675年に藩に提出)など所謂「仙台系の系図」は、ある意図により後世に作られた感がある。
 
 これに対して、葛西氏の系譜を研究された大槻文彦博士は、仙台系を採って盛岡系を排斥しており(上記の石田悦夫氏も同様)、また、『国史大辞典』で葛西氏の項を執筆された小林清治氏も、主に仙台系の立場でおられる事情にある。このほか、学説が多数であればそれでよいわけではないが、管見に入っている限りでは、簡単な紹介記事などを含めて葛西氏に関する記事では、豊田武著『家系』の葛西氏、『日本史総覧(V中世二)』武家系図の大石直正氏編の葛西氏をはじめとして、仙台系を採る記事が圧倒的な大半ではなかろうか。
 
 (2) 系譜に二系統の所伝があるものについて、これを無理に一系統だけとしてとらえることには問題があるものもあり、この辺の事情は美濃の森氏の系譜検討でも痛感したところである。とくに利害関係のない筆者としては、冷静・合理的に是々非々の検討をしていくことが必要となるが、その場合、できるだけ信頼性の高い諸史料を基礎に考えていくこととなる。
 具体的な系譜分析の資料としては、『東鑑』の関係記事と、保存状況や記事内容から見て鎌倉末期頃までに作成された系図とみられる(正応五年〔1292〕の写しという)、熊野那智大社所蔵『米良文書』に所収の「笠井系図」(活字本としては、『新編埼玉県史.別編4』1991年の136〜138頁に所載。ただし、若干の誤読もあるか)を基礎にして、鎌倉時代の命名法(通称・通字)、具体的な活動時期などを念頭において、関係者の系譜関係を総合的に考えてみようとするものである。なお、ここでは南北朝期ごろまでの検討を主としており、室町期については、一応現在の所感を記しておくが、まだ検討不足の気味がないでもなく、別途機会と資料があれば更に検討をすることにしたいということでもある。
 
 (3) 葛西氏創建といわれる紀州高野山の五大院には、「陸奥国平姓葛西氏之系図」という系図が伝来されていたようだが、明治期の火災による焼失したものか、現存していないと森谷氏がいう。その写本という「平姓葛西系図」(石井正吉写本。森谷氏は、これを「五大院系図」という)が葛西雅氏の所蔵としてあり、その抄録が「五大院葛西系図(抄録)」(以下、本考では、抄録のほうしか見ていないので、「五大院系図」という表現でこれに言及する)として『葛西史疑』の巻末に資料として収められる。これと同種のものに「盛岡葛西氏系図」があって、元禄年間に作成されたと伝え、『岩手県史』が詳しく紹介する(以上が盛岡系の葛西系図といわれるものであり、これらに対して、「龍源寺本葛西系図」や「仙台葛西家々譜書上控」が仙台系といわれる)。
 「平姓葛西系図」を森谷氏は葛西氏研究の基本として考えるが、実際に「平姓葛西系図」が「高野山五大院系図」と同じような内容であったかどうかの確認がされるのだろうか。また、仮に、それが戦国時代後期以降の製作であれば、その時点までの脚色・訛伝が織り込まれていて、原型から変わっている可能性が多分にある。現存する、まとまった葛西氏系図の中で最古だということと、史実がその記事どおりだということとは、まったく別物であることに注意したい。中世でも室町期や近世の江戸期に作成・編纂された系図には多くの問題点があることが多く、信頼できる史料との的確な照合が欠かせない。現実に、同書掲載の「五大院系図」には、後世の脚色とみられる点がいくつかあり、「盛岡葛西氏系図」と同様に、元禄年間より前の成立を考えるのは無理があるのではなかろうか。とても「最古」とはいい難いということでもある。
 これら盛岡系の葛西氏系図には、『東鑑』の記事と符合しない点も数多く、千葉一族とのいくつかの養子縁組み等々、不審な点もまた多くあるので、この系図に依拠することについて、大きな危惧を感じる。同系図が信頼できそうになる記事を含むようになるのは、おそらく南北朝期の葛西高清以降ではないかと思われるが、それらの鎌倉・室町期での通称などについても疑問も感じる。
 これら疑問が盛岡系の系図には数多くあって、おそらくこのために、大槻文彦博士は、史実に合わないとして岩手系の系図を排斥したものであろう。阿部猛等編『戦国人名事典』も、基本的に仙台系の系図を踏まえた記事となっている。太田亮博士については、盛岡系の系図を見たかどうかは不明であるが、大槻博士の編纂した系譜を中心に『姓氏家系大辞典』を記述しており、盛岡系の系図の内容についてはまったく言及していないという事情がある。石田悦夫氏の記事も、ほぼ同様であろう。
 奥州で戦国期に勢力拡張を続けた伊達氏が、近隣の有力武家に養嗣を送り込んだ例が多く見られるが、葛西氏については送り込み先が、牡鹿郡石巻のほうの葛西氏であって(それが様々な記事や通称などから肯けることができるが)、送り込まれた者が伊達成宗の次男の宗清ということであれば(この辺は森谷氏も認めるが、宗清の後が不明とされる)、この時点では石巻系統のほうが葛西嫡家であったとみるのが自然であろう。
 最初に掲げた森谷氏の見解について、結論的なものを先にいえば、@では、室町期の並立については賛意、Aにはかなり大きな疑問を持つ(反対に大きく傾く)、Bは反対、というのが私見である。
 
2 鎌倉時代を中心とする葛西氏の系譜の問題点
 以下は、幾つかの問題点について、個別に取り上げて検討を加える(多少とも、これまでのHPの記事と重複もあるが)。葛西氏の系譜には、時清と清時、清宗と宗清、清貞と貞清など、似かよった名前の組合せがいくつかあり、これら殆どが同一人とみられてきた面があるが、『東鑑』など関係資料を見る限り、むしろ皆それぞれが別人と考えたほうがよいとみられる。ただし、貞清については、その実在性が確認されていないが。
 改めて葛西一族の系図を検討してみたところ、葛西氏の系図としては『群書類従』(含続群書)に収録されておらず(群書の「笠井系図」は周防笠井氏主体で内容的に疑問が多く、続群書所収の「千葉上総系図」には初期葛西氏部分が少し見える程度)、明治期に鈴木真年・中田憲信が収集した系図のなかにもいっさい見えないという、きわめて特異な形で多種多様に奥州地域にのみ伝わったという事情もあって、種々考えても判別が困難な事態が現出している。葛西氏関係の各種所伝も、「対馬守武治」という人物など総じて後世の脚色が多いようである。葛西氏については裏付史料が乏しいという制約が大きくのしかかっている。
 
 (1) 葛西氏の起源
 葛西氏が下総国葛飾郡葛西荘の地名に因んだことは違いないが(盛岡系では、「印旛郡」とするのは不審)、家祖は誰だったのかという問題点がある。宮内庁書陵部所蔵の『中興武家諸系図』では、右衛門尉武常(清重の四代祖)が葛西を名乗ったと記されるから、武総に出てきた秩父一族がそのころから葛西荘に関与するようになり、豊島の苗字を主にしつつも葛西をも併用して名乗った可能性があるとみている。だから、葛西清重の兄弟あたりでも、豊島だったり葛西であったりと、苗字表記が分かれたものであろう。
 「五大院系図」が、一般に葛西初祖とされる清重を葛西三郎重高の養嗣とし、葛西重高は千葉介常胤の弟で、千葉介常重の三男とする記事を載せるが、千葉氏一族の多く系図には重高(あるいは重俊)の名はまったく見えず、葛西氏が千葉一族から出たという証拠もない。この重高が保元二年に陸奥権守になって下向し平泉に居したというのも、史実ではない。『源平盛衰記』では葛西三郎重俊の名が見えるというが、この辺はそれほど信頼性のある記事とも思われない。
 「五大院系図」を含む盛岡系の系図が、清重の父を豊島又太郎(右馬允)常清とし、その長子を清光とするが(この場合、清光は清重の長兄となる)、常清の表記も『東鑑』などには見えないし、清重の父は清光とされるのが妥当であろう。清重の法名も、盛岡系では清真あるいは賢清とするが、定蓮が正しいと大槻博士も指摘する。『東鑑』には「壱岐入道定蓮」と見える(貞応元年〔1222〕五月廿四日条)。この辺から始まって、盛岡系の系図には様々に疑問が多い。
 なお、葛西清重が奥州惣奉行になったからといって、最初から本家が奥州に土着したのではなく、派遣した代官を奥州におき、本家一族は下総にあって鎌倉にも居を構えていたとみられている。
 
 (2) 鎌倉期の盛岡系系図についての多数かつ大きな疑問
 盛岡系の系図の問題点は、この始祖の辺りから始まるとともに、葛西清重の子弟についても様々な混乱が大きくて、古くから伝えられた系図であって、原型に近いものだとはとても思われない事情にある。葛西清重の長子が「元清」とするのも『東鑑』に見えないなど、史料に裏付けがない人名が盛岡系には多く登場する。『東鑑』に伯耆三郎左衛門尉清経と見えるものを、五郎清経として下総の岩渕氏に入嗣したとするのも疑問が大きく、この入嗣も『東鑑』の記事からは窺われない。仙台系がいうように、清経を葛西氏歴代家督と考えたほうが「三郎左衛門尉」という名乗りからしても自然である。盛岡系の系図では、鎌倉期の歴代が法名に「清」「西」「祐」などの字を法則性なく用いるのは、仙台系のいう清重の入道定蓮以来の戦国期までの「蓮」の使用とも異なって不審である。南北朝期の清貞の法名も円蓮であった。
 森谷氏も、盛岡系の系図では、朝清を清重の次の葛西第二代として清親の父におくことや、朝清・清親・清時の生没年について疑問が大きいことを認めて記述するが、これらを含めて、鎌倉期の盛岡系の系図は疑問だらけである。葛西歴代の生没年代の若干の調整などで済む話ではない。盛岡系に見える歴代の記事は、『東鑑』の記事とまったく相反するものである。また、時清と清時とを混同しているほか、「清信−貞清」という建武期の高清の先代におかれる二人も、史料に見えない事情にあり、清信の「刑部大輔」という称号にも奇異の念がある。「貞清−高清」という命名も、北条得宗の偏諱に因んだようで、疑問を感じる。
 清信が千葉頼胤の子であって、もとの名を胤信というのも、関東の千葉氏の系図にはまったく見えず、他氏から養嗣をとる事情も理解できない。おそらく、養嗣が多い江戸期の風潮を反映し、葛西氏の有力家臣団を構成する奥州千葉一族との関係を踏まえたものか。清信の通称も「又太郎」と伝えるが、左衛門四郎清時の子にはありえない通称であり(長子なら、「四郎太郎」か、たんに「太郎」)、これに限らず、盛岡系の系図に見える通称についても、総じて法則性がまったくない。鎌倉期の葛西一族で通称が「又太郎」な者は、確たるのは定広だけであるが、盛岡系には室町期の歴代にも「又太郎」を名乗る者(詮清、満清)が見える。
 清信には六子があって、長坂・百岡・江刺・本吉・浜田・一関に分れ、のちの葛西氏家臣団の骨格となる奥州千葉系諸氏の元となったと『葛西盛衰記』にいうが、奥州千葉一族の系は総じて信用しがたいものでもある。
 
 (3) 室町期の仙台系系図に疑問があるのか
 仙台系の室町前期の系図に見える清貞の子からの二代、すなわち「七代良清−八代満良」については、後世の作りだした架空の人物だと森谷氏は主張するが(満良の子が九代満清で、これは存在を認める)、葛西三郎満良の弟に津軽の柏山勝方に遷住してその子孫が津軽に繁衍した四郎大夫清宗(葛西木庭袋氏の祖)がおり(『奥南盛風記』)、満清の弟に支流富沢氏の祖となった右馬助(法名道祐)がいたと伝えるから、後世の作り物だとは考えられない事情もある。石田悦夫氏の『石巻の歴史』第六巻での葛西氏系譜の検討でも、「良清、満良」は、「多福院の古碑群に登場するのであまり異論はないであろう」と記す。
 仙台系でも、武蔵守清貞から陸奥守満重までの室町時代前半の期間における歴代の世系は、確認しがたいが、現伝は、世代数がやや多い点と兄弟をほとんど伝えない点などで、傍系相続などの可能性も考えられる。この辺は史料が乏しく、判断が難しいが、盛岡系でもこの時期はほぼ同様なところがある。
 
 (4) 石巻・寺池につながる両系統の流れ
 葛西氏は、長男の清親系統は当初、下総にあり、次男朝清の系統が陸奥にあったとみられている。陸奥にあった系統は次男伊豆守朝清の後とされ、本国関東の系統が伯耆守清親の後とされる。この両系統の流れを推定してみると、次のようなものだったか。
 伯耆守清親の系統では、その後孫が奥州に遷ったのか、それはどのような流れだったかという点については不明であるが、次のように考えられなくはない。すなわち、(ア)本宗家の家督歴代は、@清重の後は、その子「A伯耆前司清親−B伯耆三郎左衛門尉時清−C伯耆左衛門三郎清経−D三郎左衛門尉宗清」であって、宗清の後はとりあえず不明としておいて、(イ)総武の支流(所在地は不明)は、「B伯耆三郎左衛門尉時清−C左衛門四郎清時−D四郎太郎清高」であり、清高の子が建武頃に陸奥で馬籠攻めの活動が見える高清(世代としてはE)ではないかと推され、その後が登米郡寺池の葛西氏となったとみられる。高清が「八郎左衛門尉、因幡守」と伝えられるから、これは葛西嫡流の通称・受領名ではなかった。「盛岡葛西系図」には、「高清以来子孫在国」とあり、この頃から奥州に遷ったのかもしれない。
 登米郡にあった高清の建武期の活動があって、この子孫の系統が寺池に残ったことになる。康永二年(北朝年号で、南朝は興国四年。1343)、焼失した平泉中尊寺の再建にあたり、梵鐘を寄進した大檀那二人のうち、当国大将沙弥義慶(北朝の探題石堂義房)と並ぶ左近将監平親家が鐘銘に見える。この平親家が高清の次男であったとされるから、登米の葛西氏がかなりの勢威をもったことはわかる。
 親家が石巻葛西氏の祖だという所伝には肯けず、子孫に持信とか、政信が伝えられるようだから、むしろ寺池葛西氏の歴代に入るべき者とみるのが自然であり、「寺池葛西家系図」に見える葛西四郎重信(重清〔=高清〕の子におかれる)にあたるか。親家には、「清員−清高−親信−親家」という系譜所伝もあるとされる(豊田武著『家系』)。清高の子が高清ではないかと先に推定してみたが、親信が高清と同人であれば、系譜が符合する。寺池葛西氏では、政信が四郎信勝、晴胤が四郎高信、親信が平四郎、ともいう(川部正武氏に拠る)ようだから、寺池系統は「四郎」の通称を歴代がもったようであり、鎌倉期の「左衛門四郎清時−四郎太郎清高」の流れをひいていたのではなかろうか。ともあれ、寺池の葛西氏の系図も、「五大院系図」に見る形のものだけではなかったことに留意したい。
 
 次男朝清の系統は、もとから奥州牡鹿郡石巻にあって、A朝清の子の「B新左衛門尉清員−C伊豆太郎左衛門尉時員−D伊豆守清宗−E伊豆三郎兵衛(武蔵守)清貞」(時員と伊豆守清宗との間は、一つの可能性であることに注意)とみられ、その後が石巻にあった奥州の葛西宗家であったのだろう。森谷氏は、「A朝清−伯耆守清常−伯耆守信重−壱岐守宗清−E武蔵守清貞」とみるが、「壱岐守宗清」は葛西本宗であるほか、いくつかの疑問があり、以下で述べることとする。
 朝清の「伊豆守」は、熊野那智大社所蔵「笠井系図」に見えているが、盛岡系では「壱岐守」としてしか見えない。朝清の後裔という奈良坂氏に伝わる「平姓奈良坂氏系図」では、朝清を「清重二男、葛西三郎左衛門尉、従五位下、因幡守、奥州一方探題、仁治元年十月二日卒五八歳」として生没年を1183〜1240とするが、『東鑑』記事では1240年の後の正嘉二年(1258)三月まで活動が見えるし、称号も「三郎左衛門尉」ではなく、六郎左衛門尉であった。奈良坂氏系図には、朝清の子に清常・朝重の二人(後者が奈良坂氏の祖という)をあげるが、この辺も裏付けがない。
 清員は桃生郡の深谷・笹町の祖ともいう(盛岡系の系図)から、奥州に在ったことが考えられ、名前と活動年代からは伊豆太郎左衛門尉時員の父にふさわしい。清員の通称「壱岐新左衛門尉、新左衛門尉」は、『東鑑』の建長三年(1251)の八月・十一月条に見えるが、その当時に、朝清は「壱岐六郎左衛門尉」と同書に見えるから、両者が親子にふさわしい通称であったことも分かる。
 ところで、伊豆守清宗が三郎左衛門尉宗清の跡を継いだかどうかは不明である。『太平記』に唯一みえる葛西氏の者が、巻三の笠置攻めの北条軍に見える「葛西三郎兵衛尉」であり、これが上記の清貞に当たるとみられる。「三郎」も「兵衛尉」も清重に見えるものであって、それ故、葛西宗家の家督だとしたら、三郎左衛門尉宗清の後は(伊豆守清宗を経て)清貞につながるものか。三郎左衛門尉宗清と伊豆守清宗とが本人だとしたら、それはそれで自然ではあるが、「伊豆守」の受領名に奇異な感があるので、別人だとしたら、両者の関係は兄弟くらいか一族ということなのか、ここら辺りは判断がつきにくい。
 ともあれ、南北朝期に入ると、葛西氏の主体が奥州に在って、南朝方で活動したのは確かである。陸奥国司北畠顕家に従って軍功があった葛西清貞兄弟以下一族が『白河文書』の延元三年(1338)沙弥宗心状にも見えて著名である(清貞と同世代とみられる高清も、当初は同様な行動だったか)。ただ、石巻の葛西氏がずーっと南朝方であったわけではなく、「興国年間(1340〜1346)を境に石巻地方の葛西氏は北朝に転じたことが、同地の数多い板碑の紀年号から類推できる」と紫桃正隆氏が指摘する(『歴史読本』臨時増刊84-3)。
 なお、永和元年(1375)九月十三日付けの「正法寺文書」(江刺郡黒石村)の江刺上下・伊沢・磐井三郡頭陀再願書之事には、その頃、葛西清泰がいたとある。清泰は清貞の弟で江刺氏の祖だとあげる系図もあったようで、これは川部正武氏が記載する。
 
 (5) 戦国期の葛西氏歴代
 石巻葛西氏の流れのなかで、十五世紀後半には、応仁文明頃の当主・陸奥守満重(1483年没と伝える)の跡に伊達家から武蔵守宗清(成宗〔1435〜87?〕の子)が養嗣で入って、寺池の葛西壱岐守政信と争った。『余目記録』によれば、宗清は遅くとも永正十一年(1514)までには武蔵守に任官したとされる。
  宗清の次代(その子?)の陸奥守晴重が「歴名土代」の大永二年(1522)に叙位任官記事が見えており、この頃に石巻・寺池の両系統が合一した模様である。晴重(1469〜1533?)は、別名を重信ともいうから、寺池系の政信の子から石巻系の宗清の跡に入った者か。石田悦夫氏は、晴重の初名を重清として宗清の嫡子とする。重清の晴重への改名は、『盛岡浜田文書』等によって確認できると述べる。この辺りにも混乱がある。
  晴重がその嗣子として伊達家から迎えたのが晴清(牛猿丸)であり、これが早世したので、晴重の跡を高信が継いで名を左京大夫晴胤(1493〜1551)と改めて家督となった。晴胤は、年代的には晴重の次の世代だが、子かどうかの確認ができない。植信の子ともいうが、植信は晴重の実兄で寺池の先代か。この晴胤が、最後の当主の晴信の父であるが、晴信は兄・親信(義重)が五年ほどの家督であったのを承けたものである。
 このように、応仁頃以降の戦国期の葛西氏の歴代については、「満重、宗清、晴重、晴胤、親信、晴信」の順で家督を承けたとみられ、この辺はほぼ異説がなくなる。ただ、具体的な親族関係は、上に見たように複雑難解であり、上記も一応の推論である(一応、五世代で六人というところか)。
 武蔵守宗清以降についての上記の見方は、阿部猛等編『戦国人名事典』の見方とほぼ合致すると思われる。
 
 『伊達族譜』には、伊達成宗の次子・宗清について、「葛西三郎、武蔵守従四位下、葛西ノ主・陸奥守平満重、養フヲ以テ嗣トナス、法名誠蓮」と記されており、「三郎、武蔵守」とも「三郎兵衛尉、武蔵守、円蓮」であった清貞の嫡系後裔にふさわしい通称・受領名・法名である。『余目旧記』にも永正十一年(1514)に武蔵守宗清が見える。
また、伊達晴宗の弟の晴胤については、「義晴公、晴ノ字ヲ賜フ、小字ハ牛猿、葛西三郎、左京大夫従四位下、葛西ノ主・陸奥守平晴重、娘ヲ配シメ嗣トナス、法名健蓮可梁」と記事があり、ここでも、「三郎」が葛西家宗家の嫡子につけられる通称であり、法名に先祖清重定蓮以来の「蓮」が用いられたことが分かる。伊達牛猿丸が成人して名乗った名前が晴清なのか晴胤なのかは、所伝が異なるが、最近では晴清説のほうが強いか。
 
3 一応のまとめ
 以上に見てきたように、室町期には登米郡寺池にも葛西氏があったが、本宗は鎌倉期以来の石巻であって、本宗家が寺池に遷って両系統が合一するまで、二つの系統で並立した事情にあったとみられる。ただ、主に寺池系の人々が伝えたとみられる「五大院系図」など盛岡系の葛西氏系図は、少なくとも鎌倉期の部分は、『東鑑』や信頼できる史料と照らしてきわめて疑問が大きく、大槻文彦博士や太田亮博士がみたように、葛西氏の系図は仙台系を主に考えねばならないと確認される。また、室町期の系図でも諸伝あって、「五大院系図」をそのまま信拠はできないことに注意したい。
 盛岡系の葛西氏系図は、葛西氏滅亡後に南部藩に仕えた葛西正兵衛(庄兵衛晴勝?)の後裔が元禄年間に作成したといわれるが、正兵衛が滅亡時の葛西当主・晴信の子という所伝自体が疑わしい。その出自が葛西一族の出であったことは確かであったとしても、葛西本宗家が秀吉の奥州仕置き、葛西大崎一揆と続くなかで滅亡し、系譜史料が散失した状況のもとで、肝腎な『東鑑』記事さえ甚だしく無視した系図を作り上げたものだから、藩政時代から偽物扱いにされたり、大槻博士が検討のうえ、これを排斥したのも理の当然であった。研究大家の説をそのまま受け入れて踏襲するつもりがないが、上記で見た森谷氏の分析は『東鑑』記事を軽視しすぎるし、一族・歴代の称号・法名などについての整合性の顧慮もほとんどないというものであった。盛岡系の系図と内容が通じる所謂「五大院系図」が疑問なこともまた、明らかである。森谷氏に限らず、「五大院系図」の記事内容や、これに関する所伝についても、無批判に受け入れる傾向が多少とも見られるようだが、近世に作成・編纂された系図に対しての吟味が足りないと思われる。
 ここに検討したように、私の再検討の結果が森谷氏の意図とはまったく逆となったが(従って、森谷氏の著書に見える推定記事の多くに疑問がある)、大槻博士の説を全面的に支持するものでもない。室町期には葛西氏の系統が二つあって、この事情を踏まえて葛西氏系図を検討せねばならないという基本的な趣旨は、十分了解とするところである。

    (09.11.14 掲上、12.12追補)
                          


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