奥羽の斎藤氏

(問い) 東北地方の斎藤姓に関して、次の二点について尋ねたいと思います。
 まず、太田亮博士の『姓氏家系大事典』に山形の斎藤氏として、田川郡清川村に巨族があることが指摘されていますが、詳しい系統などの記載が見当たりません。何か情報などをお持ちでしたらご教示願います。
 また、東北六県に斎藤姓は多いのですが、中でも山形県が比較的多く、岩手県が格段に少ないという傾向があるようです。このような差異は何に起因するものでしょうか?

 

 (樹童からのお答え)

1 斎藤氏は越前に起った利仁流藤原氏と称するものが主流ですが、奥羽から九州まで全国的に広く分布しており、地域によって同じ齋藤でもかなり異流が多いようです。概覧的には太田亮博士の『姓氏家系大辞典』にまとめられます。
東北地方には、どの県でも齋藤という苗字が多いのですが、その殆ど全部について具体的な姓氏につながるような系譜が不明であり、中世末までの活躍も殆ど見られません。角川書店刊の『岩手県姓氏歴史人物大辞典』『宮城県姓氏家系大辞典』を見ると、斎藤姓の項目が多くあげられています。しかし、それらも戦国期に遡るのがせいぜいで、室町中期以前に遡る系譜はほとんどありません。そうすると、明治になってから付けられた苗字も相当多いという可能性もあり、そのため、ご質問にはいまのところ殆どお答えできません。総じて、明確には言いがたいものの、多くは利仁流藤原氏とは異なるのではないかと推測されます。
これに限らず、奥羽には佐藤、安藤、遠藤など□藤という苗字が多く見えますが、これら□藤も、出自が明確な工藤(陸奥)・武藤(出羽)・首藤(陸奥)・後藤など一部特定のものを除くと、関東・北陸以西のそれぞれの対応苗字とは異なる系譜であって、実際には藤原朝臣姓の出自ではないものとみられます。
 
2 羽前の田川郡庄内清川村に居住した斎藤氏は、幕末の志士清川(清河)八郎を出したことで著名です。清川八郎は、庄内藩郷士で酒造業の齋藤治兵衛豪寿の子として生まれ、幼名を斎藤元司といい、長じて生地に因み清川八郎正明と言いました。江戸で東条一堂の塾に入門、安積艮斎に師事し、剣は千葉周作門下でした。浪士組を作る事を幕府に提案し、上洛して活動をしましたが、近藤勇らと分裂して江戸に戻ったところ、攘夷実行を企てたという理由で文久三年(1863)四月に江戸で暗殺されました。享年34歳。
この斎藤氏の系譜も不明ですが、最上氏配下であった斎藤氏と何らかの関係があったのではないかと推測されます。
 
3 『姓氏家系大辞典』では奥羽の斎藤氏として、会津、羽前、陸中、陸前及び磐城などの地域の斎藤氏が挙げられますが、各々その先祖に遡るほどの系統的な記述が同書にはありません。
管見に入ったところで、中央の斎藤氏との関係を示す系図をもっていたのは、海軍大将・朝鮮総督・首相などを務めた齋藤実(1858生〜1936没)の家系くらいです。斎藤実の家は岩手県の水沢藩(伊達家臣の留守氏が藩主)の藩士であり、齋藤軍記(耕平)高庸の子として胆沢郡水沢に生まれ、幼名を富五郎といいました。『子爵斎藤実伝』第一巻記載の系図には、竹田齋藤の支流で、祖先は鎌倉幕府崩壊のときに陸奥に遷住したと記されます。この系図は、明治四十年に実子爵が自ら記して宮内大臣宛進達したものに基づくとされます。
 
斎藤実の家系概略を同書によって記しますと、次のようなものです。
利仁将軍の子の叙用は斎宮頭となって斎藤氏の始祖とされますが、その五世孫の竹田四郎頼基の子孫一族から鎌倉幕府(鎌倉、六波羅)の奉行人を多く出します。頼基の孫の基重は平安末期頃の人であり、その四世孫八郎左衛門尉基氏その猶子彦四郎基緒までは『尊卑分脈』に見えます。斎藤彦四郎基緒は正慶二年(1333)に六波羅が陥落した時、北条方で討死にしましたが、その弟の又四郎基長は同年の鎌倉陥落後奥州に赴き陸前宮城郡高森の留守氏の配下となり、同郡岩切邑に居住しました。これが、齋藤実家の初祖で、斎藤氏代々が留守氏の配下として活動しまし、明治に至っております。
基長以下は『尊卑分脈』には見えませんが、ほぼ信頼して良さそうです。基長の子の左衛門尉・対馬守基季は留守氏の大家老を務め、その十世孫右馬允高基のとき江戸初期に当たります。その十世孫が実の父たる軍記高庸でした。明治の版籍奉還の時、斎藤軍記の家格はかなり高く、留守一家五人、準御一家三人、壱番着座一人、二番着座、一番坐御召出、二番坐御召出、……と家格の高い順で続くうち、二番着座十人のうち六番目に挙げられています(『留守家惣臣録』)。同家中には、ほかにも斎藤氏が見えており、一番坐御召出に斎藤陽之助、二番坐御召出に斎藤英大夫が挙げられます。
 
 
4 陸奥の斎藤氏のうち、社家もいくつか見え、『姓氏家系大辞典』では、陸中盛岡新山堂の旧社司は斎藤淡路守といい、信夫郡神名帳には正八幡宮社人斎藤市正があげられると記しますが、これらは利仁流斎藤氏ではないとみられます。また、常陸国久慈郡の式内社静神社の長官を斎藤氏といい、古代倭文部の末裔とみられます。この斎藤氏からも幕末の志士斎藤監物一徳を出しましたが、この者は桜田門外の変に参加しています。
 
 以上に見るように、陸奥・出羽の斎藤といっても、地域・系統により種々ありますので、個別に家系の検討が必要なことが実感されます。

  (04.3.20 掲上)
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