初期段階の斯波氏の系譜

(問い) 「斯波家長は斯波高経の実子かどうか」という問題です。
 鎌倉時代、南北朝時代は実子と養子の区別が曖昧で、葛西氏の系図を考えていても苦しんでいます。
 赤松氏の場合、則村と範資は従兄弟であり、赤松茂則の子、家則と茂利の系統が交互に家督を継いだようです。則村は家則の子、範資は茂利の子であり、その後も範資の子孫から満祐や義村が家督となっています。
 
 斯波氏の場合も1305年生まれという高経と建武時代に活躍した家長とが親子というのは少し苦しいのではないかと思います。
 
 ここで斯波嫡流(足利尾張家)の系譜を考えると、「斯波家氏−宗家−宗氏−高経」とされますが、高経は、宗家の子である家貞の子と言われます。家長は宗氏の実子(或いは孫)で高経の後継に内定していたか、家貞の子で高経の弟だったのではないかと思います。
ただし建武時代の家長の職責の重さは高経以上とも思えるので弟よりも従弟と思えてしまいます。
 
 そもそも、足利尾張家は「家」字と「氏」字を通字に使用していました。宗氏の後は「高家」(足利家で「貞氏」「貞家」「高氏」は既に使用済み)と名乗るべきではないかとも思います。なぜ「高経」なんでしょうかね?
 家長の後継が氏経(高経の子)の子である詮経(義高)であり、「高経−家長−(氏経)−詮経」が予定されていたような気がします。

  (川部正武様より。04.4.28受け) 

 (樹童からのお答え)

1 お答えを考えるに当たっては、初期段階の斯波氏の系図を十分考えざるをえないように思われます。その際、小川信教授の大著『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館、昭和55年刊)、とくに「斯波氏の興起と分国の形成」という項目が参考になります。
足利尾張家の家督は、「斯波家氏(三郎、後に太郎)−宗家(尾張三郎)−宗氏(又三郎)−高経(尾張孫三郎)」と受け継がれたものとされますが、問題は『尊卑分脈』に宗氏の兄の位置にあげる「家貞」という人物の存在です。同書には家貞について、「尾張二郎(ただし、前田本に「三郎」)」と記しながら、「本名宗氏、早世」と記しますので、家貞と宗氏が同人とも受け取られます。
しかも、高経が1305年生まれで、元亨三年(1323)に弱冠十九歳で足利尾張家の家督を継いだとされますから、宗氏自体も早世であったことに違いありません。小川教授は、宗氏と家貞が同人だとみているようですが、私は川部様同様、家貞、宗氏の順の兄弟と考えます。「武衛系図」には、家貞に尾張又二郎、宗氏に尾張又三郎と記し、高経を宗氏の子にあげながら、家貞について「或いは高経の実父となす」と記すことも考慮されます。
 
2 次ぎに、斯波家長ですが、『太平記』には建武四年(1337)に「志和三郎」「志和弥三郎」と見え、その戦死が記されるだけですが、史料から見ていくと、更に重要な人物であったことが分かります。
すなわち、足利尊氏が建武二年(1335)に鎌倉で叛すると、斯波家長を奥州総大将としており、同年暮れには鎌倉入府しており、同四年三月には陸奥守に任じますが、北畠顕家が再び西上した際の十二月下旬には鎌倉を攻め杉本で斯波家長を敗死させています。上記の政治的地位に加え、「志和」は足利尾張家の領地のあった陸奥の紫波郡ですから、同家に頻出する「三郎」とともに、その家嫡的な存在であったと言えそうです。正しい呼称としては、建武四年正月某日付け「相馬胤頼着到状」(『相馬文書』)に見える「志和尾張弥三郎」というものと思われます。こうした事情から、『尊卑分脈』など斯波氏関係系図に高経の長子としてあげられるのも無理がないように思われます。

ところが、家長の生年について、講談社刊『日本人名大辞典』などが「武衛系図」に拠る1321年として、十七歳で鎌倉で討死したと記しますので、問題となります。この生年が正しければ、高経は僅か十七歳(満年齢だと十六歳)で家長という男子を持ったということになります。これは、年齢的にまずありえないのではないでしょうか。対比して考えると、足利惣領の尊氏は、高経と同年の生まれであり、その三男とされる将軍義詮は1330年の生まれです。義詮には二人の兄がいたとのことですが、おそらく1320年代の後半の生まれだろうと推されます。
尊氏謀反のとき、斯波氏では足利尾張右馬頭高経・舎弟式部大夫時家(後に家兼)が『太平記』巻14に見えますが、家長はこの時点では単に「志和三郎」ですから、高経・時家兄弟よりは年少であったとみられますが、一方、建武二年時点で家長が僅か十五歳ということは、職責から考えて過少年齢ではないかと思われます。そうすると、家長は高経・時家兄弟の弟か、同世代の従弟で、高経の猶子となったものとみられます。
さて、『尊卑分脈』には家長について、「陸奥守、孫二郎」と記されることに留意されます。家長には、「弥三郎」という呼称があったことは先に述べましたが、「孫二郎」がその誤記ではないと考えた場合(家長の子の詮経にも「孫二郎」と記される)、上記の家貞について記される「尾張二郎」の子に当たるのではないかとみられます。さらに、高経・時家兄弟との関係で、弟の場合はともに父が家貞で共通ですが、従兄弟の場合には、高経・時家兄弟の父が宗氏となるのではないかということになります。高経が孫三郎、時家が彦三郎、家長が弥三郎ということで、兄弟としても良さそうですし、家貞、宗氏の順で兄弟だとしたら、高経・時家兄弟と年齢が逆転するのも奇妙ではあります。
 
以上、現存の史料では限界があり迷うところではありますが、一応とりあえず、家貞の子が家長、宗氏の子が高経・時家兄弟としておきたいと考えております。この逆の組合せという可能性も残ります。その組合せのいずれにせよ、ご指摘の赤松則村と範資の関係に似てきます。すなわち、範資は従兄の赤松則村の長子として扱われたことについては、同意見です(拙稿「播州赤松氏の出自に関する一試論」、『姓氏と家紋』第50号所収)。
 
3 家長の子の詮経については、『尊卑分脈』に実子のように記しますが、上記の年齢からいっても養子の可能性はあり、「武衛系図」には斯波一族から養子という所伝が記されます。その場合、高経の次男とされる氏経の子ではないかという説もみましたが、氏経の長子たる義高と同人ということについては、私には分かりません。貴説は何か根拠があるのでしょうか、ご教示いただくと幸いです。
なお、高経の名前についても、私はよく分かりませんが、あるいは父(家貞でも宗氏でも)の母とされる式部大夫平時に由来しているのではないかとも思われます。すなわち、時は時の誤記ではないかと考えるわけです。北条時経については、北条義時の子に「小四郎時経」という者がいるとも伝え、また北条時房の子の式部大夫時広(時弘)に当たるのかも知れません。

  (04.5.2 掲上)

 (川部正武様よりの返事) 04.5.3受け 
  斯波家長については、当時は16歳での子ということや若い武士の名目的な役職就任(鎌倉時代末期の評定衆や北畠顕家など)はよくありましたが、斯波家長の陸奥守、鎌倉執事、奥州総大将はかなり重要で実務的な役割であり、10代前半で就任とは考えられないため、樹童様に御賛同戴き嬉しく思います。

  (04.5.5 掲上)


 (岩永様よりの信) 05.5.5受け

 斯波家長の議論大変楽しく、かつ興味深く拝見しました。
そもそも、斯波郡は足利義兼が大河兼任の乱の征討後、得たものとあります。
 斯波郡は義家以来の源氏の聖地ですから、足利氏の嫡流が支配してきたものと考えられます。泰氏は得宗との関係からその嫡を頼氏にしたが、斯波郡を廃嫡した家氏の所領としたものと考えられます。家氏は足利嫡家の頼氏、家時の後見役として、足利嫡家と同様の位階を持ち、名も得宗から一字を拝領しています。
 尊氏のころには、家氏の子孫は斯波郡を有する家長と尊氏の側近の高経とに分かれていたのでは?と考えた方がいいのでは。高経は足利の後見人として、家長は斯波郡を所領とする奥州の執事として。
 家長死後に、観応の乱により、高経の弟家兼が高経と袂を分かち、若狭から奥州に下ったのは確かですが、斯波郡には「斯波御所」と名乗る家がその後も存在しているのも事実です。この斯波御所と名乗るのは誰かを突き詰めるしかありませんが、家長の養子として高経が送り込んだ詮経なのかもしれません。
 斯波郡にもともと「家長家」があったと考えたい。  

 <樹童の感触>
1 斯波(志和)御所と呼ばれた高水寺(高清水)斯波氏の出自・系譜については、諸説異伝が多くあって、判別しにくい事情にありますが、天正十六年(1586)、斯波孫三郎詮直のときに南部信直の攻撃を受けて没落したという前提で、考えておきます。
2 この斯波御所に限らず、滅びた家の系譜探索はなかなか難しいものがあります。

  (05.5.22 掲上)



 (川部正武様よりの信) 05.9.7受け

 「斯波家長」の件で追加をいたします。
 
  小川信「足利一門守護発展史の研究」より
 「高経が足利の名字称し、斯波とは呼ばれないのに対して、・・・家長が『大将斯波殿』『志和尾張弥三郎殿』『斯波陸奥守殿』等と呼称されている」
 「『太平記』三七には、・・・当腹の三男 義将を寵愛する高経」
 
 「左近将監義高は、貞治二年八月二十四日を初見として多数の引付奉書を発給しており、また、
『師守記』貞治四年四月二十三日条に・・・頭人尾張将監詮将(修理大夫入道孫、左京大夫入道子)」
  左京大夫入道は氏経であり、詮将は系図上の詮経のことと思われます。
 
というわけで義高、詮将、詮経は同一人物と考えてよいと思われます。

  (05.9.10 掲上)

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