建鉾山の古代祭祀遺跡

(問い) 福島県西白河郡の「表郷村三森の古代祭祀遺跡」と巨石信仰との関わりはありますか。
 

 (樹童からのお答え)

1 建鉾山祭祀遺跡と都々古和気神社

阿武隈川支流の社川の流域となる西白河郡表郷村の東南部に標高四〇四Mの円錐形の山容の美しい小山があり、建鉾山(武鉾山、鉾立山、高野峯山、都々古山)と呼ばれて古来、神が鎮座する神奈備とされる信仰の山でした。この建鉾山の北側中腹(高木地区)と東方五百Mの山麓(三森地区)から多量の石製模造品などが出土し、昭和三三,三四年に国学院大学の亀井正道博士によって発掘調査がなされて、報告書『建鉾山』が刊行されています。また、小林清治氏の責任編集となる『図説 福島県の歴史』に分かり易く説明されています。
これらによれば、三森地区(三森字月桜)からは滑石製の子持勾玉・紡錘車・臼玉や土師器、鉄片など、高木地区からは滑石製の鏡・釧・勾玉・臼玉や青銅製儀鏡、鉄鉾、鉄剣、鉄刀、土師器などが出土していて、両地区の石製模造品の数は六千三百余点とされています。高木地区では五世紀中葉から祭祀が始まり全盛を迎え、三森地区ではこれを受け継いで、五世紀後半代に盛んに行われているとされ、「建鉾山北面頂上の巨岩(石神)・中腹の岩石露頭(磐座)を対象に始められた高木地区の祭祀から、東方山麓に移動して山を対象とした祭祀へ変化したのである」と『図説 福島県の歴史』に記されます。
同書では、さらに続けて、「この遺跡は古代祭祀遺跡として東北最古・最大であり、大和国家の勢力が東北に進出する際にまず到達した関門の地に営まれている」と記しますが、これは後の白河関に通じて、重要な指摘だと思われます。
 
総括すれば、建鉾山には山頂の「建鉾石」という立石を始めとして、中腹から国内最大規模級の岩石祭祀遺構を備えた古墳時代の祭祀遺跡があり、都々古和気神社が東側中腹に鎮座しています。同社の創祀については、社伝によると、日本武尊が陸奥遠征の際に地主神をこの都々古山の山頂に鉾を立て祭祀したとされており、学術的にも古代祭祀場であったことが上記の遺跡から立証されているということです。ただ、社伝が正しければ、祭祀はもっと早く四世紀中葉頃から始まっていたことになります。
都々古和気神社は白河郡式内の名神大社であり、現在、論社が三つあって、この西白河郡表郷村三森のほか、建鉾山の東南五キロほどにある棚倉町馬場の都々古別神社、その五キロほど南の同町八槻の都々古別神社であり、馬場と八槻の同名社は、ともに陸奥国一之宮とされ、明治にはともに国幣中社に列せられています。
馬場の旧社地が表郷村三森といわれるほか、馬場・八槻ともに「近津神社」とも呼ばれており、これらに加え茨城県大子町の近津神社という形で、久慈川に沿って「近津」と呼ばれる神社が三社存在していて近津三社と呼ばれ、その鎮座地から、馬場を上之宮、八槻を中之宮、茨城県大子町下野宮の近津神社*1を下之宮とされる場合もあります。この近津三社には、かって共通して実施されていた神事「御桝廻し」があったといわれます。そして、三森の神社と近津三社を考えると、これらが半円周*2の上にあってそのほぼ中心点には、この辺りの最高峰である八溝山(標高1022M)が位置します。
この山から発する八溝川(久慈川支流)に沿う形で、別のあげ方の「近津三社」があり、これら神社でも、藤原富得の夢に神が現われ、白羽の矢を授けて八溝山の悪鬼を退治したと社伝にあって、その創祀と八溝山との関係の深さを伝えます。八溝山の山頂にも白河郡式内の神社があって、八溝嶺神社と呼ばれ、その信仰圏はきわめて広く、かっては白河郡、那須郡及び旧依上・保内郷(もと白河郡、のちに常陸国に編入)であったといわれます。八溝山でも日本武尊の賊討伐伝承を社伝に残しています。
 
そうすると、都々古和気神社の創祀に関わる日本武尊の東征伝承は、無視しえないものとなると考えられます。この東征は北限が小田郡の黄金山神社辺りとみられて、産金地を求めて行ったものではないかと私はみておりますが、八溝山の産金は六国史に見えるところで、承和三年正月に従五位下勲十等八溝黄金神に封戸二烟を充てるとあります。また、表郷村でも、高木地区の西隣には金山という地を黄金川が流れるという形で、現在まで地名が残るように産金がありました。その意味で、建鉾山では高木地区のほうから祭祀が始まったのは自然だといえます。高木字向山にも都々古山神社が鎮座します。
都々古別神社及び 近津神社と「金」との結付きをあげてみると、前者が東白川郡矢祭町金沢に、後者の近津神社が茨城県久慈郡金砂郷町薬谷、千勝神社が日立市金沢町に鎮座しています。
八溝山に話を戻して、この山の周辺には同山にまつわる鬼神伝説が分布しており、若尾五雄氏は、これら鬼神(鬼退治)伝説が金鉱地帯に多く分布することを全国の様々な例をあげて指摘しています(『鬼伝説の研究』)。那須地方では、宣旨により当地の地頭須藤権守貞信が八溝の鬼神に向かい、不思議な老翁の加護でこれを退治したと伝えておりますが(「那須記」)、須藤権守貞信は古代那須国造の血を引く那須氏の祖先にあたります。
*1 八溝山から流れ出る八溝川に沿って近津神社が大子町には三社存在しており、字上野宮の近津神社を上宮とし、字町付の近津神社を中宮とし、字下野宮の近津神社を下宮として、ここでも保内の「近津三社」と呼ばれて八溝山の麓社群を構成していたと考えられる。
*2 馬場の旧社地が東南近隣の棚倉城址、八槻の旧社地が西南方の北山本と伝えると、とくに後者は半円とは言い難くなるが、北山本だとより八溝山に近くなる。
 
2 都々古和気神社の祭神と古代の奉斎者

いま馬場の上之宮も八槻の中之宮も、ともに祭神を味耜高彦根命としますが、大子町の下之宮たる近津神社ではこれを級長津彦命、面足(おもたる)命、惶根(かしこね)命としております。これら地域の上古時の支配者たる国造家とその祖先を考えると、祭神はむしろ下之宮のほうが妥当ではないかと考えられます。
味耜高彦根命は大己貴命の子として海神族の神とされますが、一方、級長津彦命は風神で鍛冶神天目一箇命に通じ、面足命と惶根命は連れ添って生まれた両神で、「第六天神」ともいわれ、合わせて少彦名神を示すことがあります。少彦名神は、金鉱を守護する金峰神・蔵王権現に通じることに留意したいものです。現在の八溝嶺神社の祭神は、大己貴命・事代主命とされていますが、八溝黄金神の名からいって、これも金峰神とみたほうが妥当だと思われます。さらに、近津は「事勝」のことであるとも言われますが、これも事勝國勝長狭命すなわち少彦名神に通じるものです。
 
さて、八槻の都々古別神社には、この地は磐城彦が勢力圏としていたという伝承があります。すなわち、同社別当大善院に伝わる『陸奥国風土記』逸文、八槻郷条には、この地には八土蜘蛛が居り、その族とともに要害の地に因って朝廷の命令に従わなかったが、とくに国造磐城彦が敗走した後は土蜘蛛が百姓を掠奪して止むことがなかったので、景行天皇は日本武尊に命じて征伐させたと記されます。しかも、同社の境内末社の主座に磐城国造神社があり、『都々古別神社由緒』などに拠ると、同社の神主は磐城国造の子孫である高野氏が世襲してきて、平安末期に断絶したとも伝えます。
この磐城国造と白河国造との関係はどう考えればよいのでしょうか。承和十五年五月紀に拠ると、白河郡大領外正七位上奈須直赤竜に阿倍陸奥臣姓を賜うという記事がありますから、白河国造は南隣の那須国造とも同族関係にあったとみられます。これに先立つ、神護景雲三年三月紀には、白川郡人外正七位上丈部子老に阿倍陸奥臣姓を賜っており、同月に磐城郡人丈部山際に於保(大)磐城臣姓、承和十五年五月紀には磐城団擬少毅陸奥丈部臣継島・権主政外従七位下丈部本成等に阿倍陸奥臣姓を賜ったと記され、承和十年十二月紀には那須郡大領外従六位下丈部益野の叙位が見えています。
 
「国造本紀」に拠ると、これら三国造は次のように記されます。
白河国造については、@成務天皇の時に設置、A塩伊乃己自直が初代で、その系譜は天降天由都彦命の十一世とされ、石城国造は@成務天皇時に設置、A建(一に坂)許侶命が初代とされ、那須国造は@景行天皇時に設置、A大臣命が初代で、建沼河命の孫とされています。この記事に拠りますと、白河国造は安芸国造・玉祖連同族、石城国造は茨城国造同族、那須国造は阿倍臣同族であって、三国造の系譜がまったく異なります。
しかし、実際には上記六国史記事に見るように、これら国造は関東北部から陸奥南部にかけての地域に繁衍した古族の後で、石城国造を中心として本姓を丈部とするという同族関係にあったものとみられます。おそらく国造設置の時期も「国造本紀」記載のものとは少し異なったものだとみられます。神社関係では、那須郡にも、近津神社が那須町大畑に、千勝神社が湯津上村湯津上に鎮座しています。那須郡にも磐城郡にも、温泉神社という式内社があります。
 
三国造の同族関係の推測を傍証する系図もあります。すなわち、中田憲信編の『諸系譜』巻十五所載の「那須直」系図には、天照大神を始祖として、その子天津彦根命、その子天目比止都祢命(天目一箇命のこと)と続けて、それ以降の十数代が系図に疑問がありますが、磐城国造磐木彦が見え、その子の古久美が崇神朝に奉仕して那須国造(の祖か?)と記されております。上記の白河郡領奈須直が白河国造の後であるならば、白河国造は那須国造から分かれたことになります。そうすると、白河国造の設置時期は成務朝より遅れたことになり、日本武尊が建鉾山に来たときは、白河国造はまだ当地には居らなかったことになります。上記系図に拠りますと、国造磐城彦は日本武尊よりかなり前の時代に活動したことにもなります。
また、上記系図には、天目比止都祢命と磐木彦との中間世代のなかに知加津彦命も見え、これが「千勝(近津)神」に当たるのではないかとも考えられます。そして、この神が「都々古(筒子)」ということであれば、ひょっとしたら「天目一箇命」の子(筒子は「箇」の子の転訛か?)ではなかったかとも推測されます。
千勝神社は常陸国鹿島郡(いま稲敷郡茎崎町泊崎に遷座)にもあり、その祠官家は千勝氏といい、一族が江戸山王社家となっています。その先祖は、天目一箇命の兄弟である天日鷲翔矢命(=少彦名神)ですが、少彦名神の子とみられる者のなかに伊豆国造などの祖天御桙命があって、諏訪神建御名方命とともに神武東遷に当たって、東国に逃れたとみられます。そのせいか、長野県諏訪地方あたりには千鹿頭神を祀る神社が多く見られ、諏訪眷属神とされています。いま千鹿頭神社と呼ばれる神社は諏訪市の豊田と有賀、松本市の千鹿頭山と里山辺、諏訪郡茅野町下河原、諏訪郡富士見町富士見の二社などにあり、近津神社は佐久市大字長土呂に見られます。
 
話がどんどん展開し、かなり長くなりましたので、この辺で一応、結論的にまとめておきますと、次のようなものになります。
(1) 建鉾山祭祀遺跡と都々古別神社とは一連のもので、日本武尊の東征に際して協力した当地の古族が創祀し、祭祀を続けたものとみられます。
(2) その古族とは、巨石信仰をもつ天孫族の出で天津彦根命の後裔氏族であり、神武東遷時に畿内を逃れて関東陸奥に遷した丈部氏族の一族であり、具体的には白河国造とその先祖とみられます。
(3) この一族は、元来社川が流れる表郷村(『和名抄』の屋代〔社〕郷)辺りに本拠地を置いてこの辺り一帯を勢力圏とし、近くの建鉾山を神奈備として陸奥と関東の境の「関」を押さえたものとみられます。表郷村域には二百基に近い古墳があるとされます。
(4) 「白河」も社川の美称だとみられます。この白河国造の守る関は、のち陸奥への主要道筋(奥州街道)が変わったことに伴い、建鉾山の西方八キロほどの地、現在の白河市旗宿字関森に移って有名な「白河の関」となりますが、ここも社川の上流に当たります。
(5) 白河関の傍らには、式内白河神社が鎮座します。同社の祭神はいま天太玉命、中筒男命とされますが、天太玉命は天目一箇命と同神であり、中筒男命は筒子神に通じるものではないかとみられます。
(6) いま多くの都々古別神社や近津神社では味耜高彦根命を祭神としますが、この神は丈部氏族の祖神の天津彦根命に該当しますので、実際には天津彦根命の転訛か天津彦根命の別名ではないかとみられます。

  (04.3.24 掲上)


 (参考) cas様からご提示の福島県石川町の同好誌『石川史談』15号(2002.7)に掲載された近藤進一氏の「御桝廻し」の一部です。

------ 本稿の目的は、現在の御桝廻しの紹介と「神幸記録帳」から御神幸の様子、御桝廻しとの関わり・変遷を調査することと、御桝廻しが地方史に果たした役割の考察を試みることである。
 
二 近津三社と御桝明神
 近津三社とは、東白川郡棚倉町字馬場の都々古和気神社、同町字八槻の都々古和気神社、そして茨城県大子町下野宮の近津神社の総称である。
 
 棚倉町の馬場と八槻の都々古和気神社は、両社ともに表郷村三森の古代祭祀遺跡をもつ建鉾山にまつわる縁起を伝えている。すなわち、馬場のそれは、日本武尊が「東夷」を征定したさい都々古和気神を初め建鉾山に祀り、後世坂上田村蘇呂が大同二年(八〇七)近世棚倉城創建の地に移したと伝えられている。
 
 八槻の縁起には、日本武尊が「東夷」征伐の祈り、八溝山の戦場に出現加勢の三神がかくれられたのが建鉾山であると伝えられ、そこから箭を放ち、それが看いた地を卜とし、箭者所=八槻の地に都々古和気神を祀り、のち源義家が近津大明神と改め、社殿を建立したと伝えられている。
 
 大子町の下野宮近津神社の縁起によると、藤原富得という者が八溝山の霊鬼を討った際、その守護として示現した神を祀ったのが下野宮近津神社である。その時、霊鬼を射た箭が奥州八槻に落ちたと伝えられている。
 
 このように八槻・下野宮両社の拘わりが伺えるのである。下野宮近津神社を吉田東伍著『大日本地名辞書』は延喜式神名帳白河郡七座の一座、石都々古和気神社であると述べて、石川町字下泉に座す石都々古和気神社に疑問を投じている。
 
 これら三社の信仰圏は、おおよそ西白河郡、石川郡、東白川郡の地域と茨城県大子町に及び、中世の高野郡の領域に附合し、馬場は北郷、八槻は南郷、下野宮は依上保それぞれの総鎮守として信仰を保ってきた。
 
馬場近津神社
 同社の地主神は、大国主命の子で農耕神として国土開発を成就した味鍬高彦根命である。そして相祭神として日本武尊を祭祀し、陸奥一宮と称している。
同社の主な祭りは、筋分祭(二月三日)・祈年祭(二月十七日)・例大祭(九月十一日)・新嘗祭(十一月二十三日)・大祓祭(六月三十日・十二月三十一目)等がある。
 なお同社には、別当の大普山不動院尊護寺の他、神主社家、さらに社僧を務めた上津寺が付属していた。
 
 近津神社の名称は、明治六年に国弊中社列格時大政宮符に「別」の文字を用いられていたので都々古別神社と称していたが、昭和二十一年緊急勅命によって宮国弊社廃止の通達により以前の都々古和気神社を用いている。
 
八槻近津神社
 同社の祭神は、馬場近津神社と同じ味鍬高彦根命と日本武尊を祭祀し、奥州一宮と称している。
 同社の主な祭りは、歳旦祭(一月一目)・節分祭(二月三日)・御田植祭 (旧一月六日)・祈年祭(三月一日)・新嘗祭(十一月二十三日)。そして八槻様と呼ばれ石川・岩瀬・西白河地方からも参詣者の集まる大祭=霜月大祭(旧十一月一五日)がある。
 
 なお同社の別当は変遷があり、別当の大善院が神主を兼帯していたが、実の神主高野氏の退転後に神主職となった左衛門太夫高盛が駒右先達から修験職を譲り受け、両職を兼帯し後の八機大書院が大きな勢力を振う基となった。さらに別当のほか馬場宮の上津寺に比する寺として如意輪寺があった。
 近津神社の名称は、明治十八年国弊中社に列せられた時都々古別神社とし、昭和二十一年に馬場宮と同じく都々古和気神社を用いている。
 
下野宮近津神社
 同社の祭神は、級長津彦命・面足命そして惶根命の三神を合祀している。この神社の祭神は、馬場宮・八槻宮の祭神とは異なるが共に農川研神としての性格を有している。
 同社の主な祭りは、追傑祭・御薗粥祭(一月十四・十五日)・夏至に行われる御田植祭(旧五月の中の目)・七日祭(十一月七日)等がある。
 
 下野宮の近津社は、同社の他、中野宮の近津社・上野宮の近津社を称して保内郷の近津三社としている。
 この大子町下野宮の地は、『大日本地名辞書』の説によると、弘仁二年(八一一)に設置された長有・高野の二駅の内、高野の地を棚倉と比定し、長有の地を下野宮と比定して、都々古和気神と石都々古和気神を両駅の鎮守であると述べている。
 この近津三社は、概説の神事の他に、かって三社に共通して実施されていた神事「御桝廻し」があった。しかし、この御桝廻しの神事は現在途絶えてしまったが、形態を変えて民俗行事として継承されているのである。
 
三 和桝廻しの現状
 御桝廻しの神事は、近津三社共通の神事であった。しかし、各とも近世頃まで隆衰を繰り返し、一部では再興を図り伝承に努めた。しかし、明治の初期頃にはその形態は失われていった。 --------------------
 

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