□ 吉見氏の系譜 (問い) 私は「吉見氏」について調べておりますが、何分素人なものですから、その範囲で手に出来る資料しか頼るものが有りません。そこで、吉見氏の次の諸点についてご教示ください。 @吉見氏の出自について
私は吉見氏の出自について、「源範頼の孫為頼は秀郷流吉見氏の養子となり、家督を相続した。石見吉見氏は元々秀郷流吉見氏の直系である。」と考えています。(従って能登吉見氏と石見吉見氏は同族だが、『尊卑文脈』に石見吉見氏が見えない)この点、ご意見をお聞かせください。
A能登吉見氏の後裔について
能登吉見氏の後裔の系図、特に三河移住後の吉見氏に関する系図資料について何かありましたらご教示ください。
(東京都在住の松本様より。04.4.25受け)
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(樹童からのお答え) 1 吉見氏については、大族のわりに系譜も含めてあまり目ぼしい史料は管見に入っておりません。主な系図関係史料をあげてみますと、@『尊卑文脈』、A『諸家系図纂』(『続群書類従』)所収「吉見氏系図」、B石見吉見氏関係系図、くらいであり、石見吉見氏の直系が滅びたほか、能登、武蔵、三河、伊勢などの吉見氏は没落したという事情があって、良質の史料が残らなかったものです。そうすると、誰が検討してもあまり変わらず、お答えはなかなか難しいものですが、以下は現段階での検討結果です。
2 吉見氏の起源
吉見氏関係の諸系図では、源平争乱期の武将の源範頼の孫にあたる二郎為頼を祖とし、武蔵国比企(横見)郡吉見庄に知行を持ち、その地に因んで吉見氏を称したとされます。範頼の次男・範円は、源範頼が害されたとき難を逃れ、母が比企禅尼(頼朝の乳母)の長女たる丹後内侍と安達盛長との間の娘であったので、比企禅尼の遺領・武州吉見を受け継ぎ、その子が二郎為頼だと伝えられています。
「吉見氏系図」記載の所伝では、建久四年(1193)八月に範頼生害のとき、嫡子は六歳で同じく生害し、二男・三男は四歳・二歳だったので、比企禅尼・丹後内侍が助命嘆願して出家させたが、これが範円・源昭の兄弟であり、比企のうち慈光山の別当となったが、範円の子が吉見二郎為頼であってこれが吉見先祖であると記されます。
しかし、これは信じられる所伝なのでしょうか。この所伝が正しいものであれば、始めて吉見を名乗った為頼は、その活動期が十二世紀の中葉頃となりますが、それ以前に吉見を名乗る武家の活動が『東鑑』や『承久記』に見えます。どうも系図所伝には疑問をもったほうが良さそうです。順を追って考えてみましょう。
源範頼は源義朝の六男で、遠州池田宿の遊女を母として同国蒲御厨で生まれていますから、その生年は三男頼朝の生年(1147)や五男で頼朝の同母弟希義の生年(1149・50頃か)よりは後で、七男阿野全成の生年(1153)よりは前ということになります。従って、一応、1151年頃の生まれとしておいて概ね妥当ではないかと思われます。その没年については、伊豆に配流となった建久四年(1193)八月中旬以降ですが(翌五年に討たれたという所伝もあるものの)、政治生命がこのとき終わったことは間違いありません。そうすると、享年は一応、四十三歳としておきましょう。石見吉見氏の系図では、建久四年八月二四日自尽年四十三と記すものがあり、これが妥当な所伝であることが分かります。
範頼の史料上の初見は『東鑑』養和元年(1181)閏二月ですが、その前年治承四年(1180)八月の頼朝挙兵直後には頼朝のもとに参陣したものと推測されます。こうした事情から、範頼が安達盛長の娘を妻としたのは、おそらく1180年代前半とみれば、その間に生まれた子供も範頼生害のときには十歳程度になっていた可能性はあります。また、範頼の頼朝軍参陣の時には三〇歳程度だったとみられますから、その当時、既に妻子があったことも考えられます。
一方、史料に見える吉見氏の初見は、『東鑑』文治三年(1187)十月十三日条の吉見次郎頼綱であり、このとき畠山重忠の伊勢の所領を充行われています。同人はその後も三回、同書に見えており、文治五年(1189)七月十日条では伊勢所領のその後の話し、同月十九日条では奥州征伐の兵員のなかにあげられ、建久六年(1195)三月十日条では頼朝将軍の東大寺供養の随兵のなかにあげられています。
さらに、承久三年(1221)の乱の際に宇治川の勢田合戦には関東方として「よしみの十らう、そのここじらう(吉見十郎、その子小次郎)」が参加しており、「よしみの十らう、くめばかりはのがれてけり。よしみが二十四になるを、かたにかけて」とも『承久記』に記されておりますので、その子小次郎が二四歳(すなわち1198年生まれ)であって、その父吉見十郎(「小次郎」の名前や発音の類似からして、おそらく「次郎」の誤記)が四十代後半くらい(〜五十代前半)ではないかと推されます。仮に、父親の吉見次郎が五十歳だとしたら、1172年の生まれとなります。
『東鑑』に見える吉見次郎頼綱も、『承久記』に見える吉見十郎も、年代的にみて同じ人物とみて良さそうです。その場合、「吉見次郎頼綱」の系譜はどう考えたらよいのでしょうか。勢田合戦の吉見小次郎については、年代的に上記の「二郎為頼」に比定してもよさそうです。
秀郷流藤原氏の小山一族に吉見氏が見えることが知られています。太田亮博士が『姓氏家系大辞典』ヨシミ条で記述するように、「結城系図」に小山政光の子に頼経をあげ、「吉見三郎、武州住人、但し養子也」と記され、「小山系図」にも「初名朝信、武蔵国吉見太郎頼茂の家督、母は頼茂の女」と記載されています。私は、これら吉見太郎頼茂、次郎頼綱、三郎頼経を兄弟として範頼の子に置く系図があったのではないかと推しております。吉見三郎頼経が、小山政光の養子で小山小四郎朝政・長沼五郎宗光・結城七郎朝光の義理の兄弟に当たるという系図を重視したいと考えます。結城朝光の母・八田局(網代尼ともいう。八田宗綱の女、宇都宮朝綱の姉妹)は頼朝の乳母の一人でもあるからです。吉見の地は小山一族の本拠とは離れていますから、これは吉見三郎頼経の父方から受け継いだ可能性があります。
文治五年(1189)七月十九日条に見える吉見次郎頼綱の配列にも留意されます。そこでは、小山兵衛尉朝政、同五郎宗光(長沼)、同七郎朝光(結城)、下河辺庄司行平の次ぎにあげられ、続いて南部次郎光行、平賀三郎朝信があげられます。小山三兄弟の後で、甲斐・信濃源氏の前という位置づけは、吉見次郎頼綱が源範頼の庶子だとしたら、それに相応しいものと言えそうです。『新編武蔵風土記』でも、「これ範頼の男にや、されど系譜には見えず」と記されます。
吉見次郎頼綱は、範頼が生害させられた後にも『東鑑』に見えます。すなわち、建久六年(1195)三月十日条の東大寺供養の随兵のなかに見えて、このときは小山左衛門尉(朝政)、平賀三郎(朝信)、南部三郎(光行)、小山五郎(長沼宗光)等のはるか後方にあげられておりますから、吉見二郎(頼綱)の位置づけが大幅に後退しています。二年前の範頼の事件が響いて、命は救われたものの御家人の位置づけが後退したといえそうです。
以上のように見ていくと、吉見庄は範頼のときに妻縁で既に所領となっていて、その庶子たちも同地に住んで吉見を名乗ったとするのが自然です。南北朝に現れる吉見氏も、その祖が『承久記』に見える吉見次郎・小次郎親子だとすると、為頼は吉見次郎頼綱の子とするほうが自然だと考えられます。範頼の子として僧になった範円がいたとしても、為頼は年齢的に頼綱の子とみられます。もっとも、範円と吉見次郎頼綱とを同人とする所伝もあるようで、この辺はよく分かりません。
3 石見吉見氏の系譜
石見吉見氏については、『諸家系図纂』所収「吉見氏系図」や石見吉見氏関係系図に見えますが、『尊卑文脈』には見えないようにも受け取られます。この問題を考えてみます。『分脈』が武蔵ないし能登の吉見氏に伝えられた系譜を採録したものと考えると、石見の一族が殆ど登場しない事情も分かります。
そもそも、石見吉見氏の系譜は能登の支族とされ、元寇に備え弘安五年(1282)十月に能登から石見に来て吉賀郡に遷住したといいますが、これを裏付ける史料はありません。同氏は津和野を本拠として戦国末期に至り、毛利家に仕えた嫡系は絶えたものの、吉川広家の子が跡に入って大野毛利氏として一門に列して近代に至っています。
上記「吉見氏系図」では、為頼の末子頼円を祖とし、その子「為忠−頼忠−頼行」と続いたとしますが、「按是統系有誤」と書き込まれ疑問視されています。それは、世代が合わないなどの事情があるからです。
『石見志』等には、頼行は永仁三年(1295)に津和野三本松城を築き、延慶二年(1309)に五九歳で卒去したと記しますが、こうした年代だと頼行は為頼の子か孫くらいにあたることになります。なおかつ、『分脈』には為頼の末子の九郎頼業に法名頼円と注することを考えると、しかも「頼業」「頼行」の音が共通であることを考え併せると、九郎頼業の後が石見吉見氏とみられます。すなわち、実際の「頼業」一代に対応するのが、頼円から始まりその子とされる「為忠−頼忠−頼行」までの計四代であったということであり、例えば頼行の弟に掲げる「頼挙」は、「横田系図」の記事を見ると能登の頼隆に対応することが分かります。
『分脈』には頼業の子として、頼直(越前守、吉見孫九郎)・頼茂(吉見十郎)の二人を記載しますが、石見吉見氏では頼行の子に頼直(大蔵大輔)・頼重(左近将監)や長幸(高津与次、法名道性)などを伝えます。高津与次長幸は南朝の忠臣として名高く、建武三年(1336)に後醍醐天皇方に呼応して石見国美濃郡高津の小山城に立て籠もったが攻められて降伏し、暦応四年(1341)には再び高津城を北朝軍の上野頼兼に攻められて敗死しています。頼直の後が石見吉見氏の嫡統となります。
4 能登と三河等諸国の吉見氏
能登の吉見氏は南北朝初期には同国守護として見えます。吉見氏は鎌倉時代の後期頃までに口能登へ入部し、邑知潟西南の平野部に定着して所領を拡大し、鎌倉末期には口能登で有力な武士団に成長した模様です。南北朝争乱が始まると、能登の吉見頼隆(七郎、三河守、右馬頭)は尊氏側で活動し(『梅松論』)、一族の吉見円忠・範景親子も同様で伊勢吉見氏の祖といわれます。
能登守護としては、吉見宗寂(実名比定は不明も、頼為か)が建武三年(1336)七月に見え、同年八月には吉見頼顕(孫三郎・右馬助)が、同年末には吉見頼隆の名前が見えます。十年ほど続いた守護頼隆(一時越中守護も兼任)の跡を子の氏頼(掃部助・三河守・右馬頭・道源入道)が継いでいます。氏頼の守護期間については、桃井盛義の守護期間(貞和五年〔1350〕頃)が途中に入りますが、貞和四年(1349)十月頃から康暦元年(1379)頃までに及びました。
吉見頼隆の系譜には、諸伝あります。『諸家系図纂』では孫三郎頼有の子で孫三郎頼継の弟、『分脈』では孫三郎頼有の弟、史料には頼顕(孫三郎頼有の弟の頼為の子)の兄弟という記述もあるようです。この辺については、孫三郎頼有・孫三郎頼継親子は武蔵の吉見氏の系統とみられますので、能登の吉見氏は頼為の系統で、頼顕と頼隆は兄弟とするのが妥当なように思われます。
頼隆の後の能登吉見氏は氏頼−詮頼と続きますが、その後の系譜が明確ではありません。あるいは『諸家系図纂』「吉見氏系図」に氏頼の弟にあげて『分脈』に見えない右馬頭義顕が氏頼と同人かも知れません。「吉見氏系図」には右馬頭義顕の後が三,四代記されております。頼隆以降、「右馬頭」を名乗る者が能登吉見氏に多く見えるからです。詮頼の子の成義は備後に分かれて清田氏の祖となったともいいます。
三河の吉見氏については、「吉見氏系図」に氏頼の子に定頼(三河守、従五位下)をあげて三州住と記載しますが、『分脈』には見えず、定頼の子孫も記されませんので、これ以上は不明です。このほか、武蔵吉見氏から分かれた因幡吉見氏もありました。
(04.5.3 掲上) |
<松本一樹様からの返事> 04.5.3受け やはり吉見氏の研究にとってのネックは残存史料の乏しさのようですね。僅かな史料から推測は出来ても、その域を出ず、といったところでしょうか。三河の吉見氏の子孫は三河出身の大名家の家臣に散見出来るので、その辺りに埋もれた「吉見系図」があるのでは、と期待もしております。 さて、私の質問内容はすこし簡単に書き過ぎたようで、その考えに至った理由等も併せて提示するべきでした。上記のような状況は理解していますので、推測の域は出ないのですが、貴殿のご意見も参考にした、私見を述べさせてください。(少々長いのでメモ帳(テキストファイル)にまとめました。添付) 尚、この考えに至るには、「紀州藩士吉見家」の家譜の記述が大いにヒントを与えてくれました。(この家譜は「南紀実記」だったか忘れましたが、紀伊徳川家の記録をまとめた書物に載っております。) 今後も地道に研究を進めていきたいと思います。またお世話になるかもしれませんが、その節は宜しくお願い致します。 添付ファイルに記載の部分 1)範頼流吉見氏の起源
私が範頼流吉見氏の起源に秀郷流吉見氏が関係しているのではないか、と考えたきっかけは、
A.萩藩閥閲録所収の吉見家譜で吉見為頼と吉見頼綱の混同がみられること
B.秀郷流吉見氏の初代朝信が「二郎」を称しており、吉見頼綱と同一人物ではないかと考えられること
C.比企氏の乱で滅びた比企氏が、範頼の子孫が吉見氏として存続するのに重要であったのかという疑問(比企禅尼との関連で)
の三点に着目したことでした。
そして調査を進めるうちに、紀州藩士吉見家(弓道家吉見経武の家です。)の家譜に面白い記述があることを知ったのです。要約すれば、「吉見家は元々藤原姓で秀郷の子孫であるが、祖為頼は実は範圓の子で、源範頼の孫であり、吉見三郎頼経の養子となって吉見家を相続した。孫頼有の代に祖父実方の源姓に戻した・・・」
というものです。勿論この系図のみで結論付けられるとは思いませんが、他の史料に無い具体的な記述だけに、非常に興味深いものと思われます。また、吉見三郎頼経という人物が「結城系図」と一致する点も見逃せません。
こうすると、範頼の子孫が吉見氏として存続出来たのは比企氏の庇護ではなく、小山氏の影響力であったと考えられます。範頼自体、当初は小山朝政の統率下に置かれており、その後地位を確立すると、小山氏は常に範頼の指揮下にありましたから、元々範頼と小山氏の関わりは深いのです。
2)吉見為頼の系図上の位置付け
現段階では、やはり吉見為頼は源範頼の孫であり、範圓の子という位置付けで良いと思います。その理由は、次の三点です。
A.吉見孫太郎義世の謀反についての記事が「保暦間記」に見えますが、義世について「三河守範頼四代孫」と明記していること。
B.為頼の初名は「為範」、嫡子義春の初名は「範義」或いは「範宗」であり、範頼以来「範」を通字としていること。(為頼の弟も尊範)
C.上記紀州藩士吉見家家譜の記述
吉見頼綱との関係は今後も考えてみたいと思います。
3)吉見太郎頼茂・吉見次郎頼綱・吉見三郎頼経の関係
私もこの三人についていろいろ考えていました。この系統の元は、武蔵国吉見庄を発祥とする更に別系統の吉見氏ではないでしょうか。
太郎頼茂については一族でも、頼綱・頼経の一世代前という気がします。(小山系図の、「吉見太郎頼茂の家督、母は頼茂の女」という記述は理解に苦しみます。
頼茂の娘が小山政光に嫁ぎ、朝信を生んだのでしょうか?朝信は吉見頼茂の家督を嗣いで吉見氏になったのでしょうか?)
次郎頼綱・三郎頼経は同一人物かとも考えました。小山系図には朝信を「吉見二郎」としているものもあり、吾妻鑑の記載から吉見次郎頼綱と朝信が同一人物と思われたからです。小山氏の猶子となったのが頼綱か頼経かは別にして、一応私は両人を別人と考えます。(兄弟というよりは親子の可能性?)源範頼との関係は貴殿の見解を参考に今後も考えていきたいと思います。ただ私としては吉見頼綱は範頼と同世代の人物とみています。尚、何に依ったかは不明ですが、「萩藩閥閲録」の吉見家譜の記載では(この為頼の事歴は頼綱のものでしょう)頼綱は建仁元年(1201)卒となっています。為頼を範圓の子と考える私としては、ここで頼綱と為頼の親子関係を否定するものです。
尚、承久記にみえる「吉見十郎・小次郎父子」ですが、この二人も頼綱とは一族だと思います。
以上、(1)−(3)の結論として、現段階の私見では「吉見氏は源範頼の後裔で、その孫為頼が吉見三郎頼経の養子となり吉見氏を称するようになった」ということになります。
4)石見吉見氏の出自
貴殿の見解を興味深く拝見しました。というのは、以前私も同様に考えていたからです。理由もほぼ同じです。更に言えば、頼円の子為忠は改名して「頼茂」ともいったと「萩藩閥閲録」にあります。まさに為頼の末子頼業の子「頼茂」に当たりそうです。すると石見吉見氏は能登吉見氏の庶族で、初めから独立していたように見せる為に系図上の作為を行った、となるでしょうか。
ただこの説だと、頼業の法名「頼円」と頼行の法名「義全」が異なります。また、頼忠の弟頼治、頼行の弟義清、頼繁の位置付けに困ります。(頼繁は澄川氏の祖で澄川系図では頼忠の養子となっています。子繁次が延文3年(1359)に71歳で没しており、年代的に澄川系図の方が正しいと思われます。)頼挙については別に考えがありますが省きます。(横田氏は実際に能登吉見氏の一族だと思います。)
また、初めから独立していた様に見せる為に系図の作為を行ったとして、結局為頼に繋いではあまり意味が無いような気がします。貴殿の見解を拝見して、この説も有力説として私の中に再浮上してきたような感じです。
私が「石見吉見氏は秀郷流吉見氏の直系」(直系という言葉は養子ではなく実際の子孫という意味で使用)としたのは、「萩藩閥閲録」の家譜に根拠があります。つまり為頼の事歴が実は吉見頼綱の事歴であることが一見して判るからです。為頼を頼綱と置き換えると、その子頼円が和田合戦に参加したとする記載も納得でき、以後頼行(1250生まれ)までの世代を全て認めても年代的な齟齬はなくなると考えたのです。頼円は還俗して「式部四郎頼国」といったとあります。或いは次郎頼綱の子が三郎頼経であり、その弟が四郎頼国という可能性を考えています。
次郎頼綱と三郎頼経が兄弟か親子かは別として、何れにしても石見吉見氏は能登吉見氏と同族でもこの時点で分かれることになるのです。
5)「尊卑文脈」の吉見系図
「紀州藩士吉見家家譜」の記載によれば、能登吉見氏は頼有の代に「源姓」に戻したことになります。背景として足利氏との関連が考えられます。鎌倉末期吉見氏はいち早く足利氏の与党となったと考えられますから、「源姓」となることに意味はあったと思います。従って「尊卑文脈」には源範頼を祖とし、為頼に始まる吉見系図が収載され、その前に分かれていた石見吉見氏は当然現れない、ということになります。
石見吉見氏としては時流に乗って「源姓」となる為に、その系図を為頼に繋いだ結果、系図上の世代の混乱及び頼綱と為頼の混同を招いているものと思います。
(全体を通して)
以上のことはあくまで推測の域です。いろいろな方にご意見を参考にし、研究を続けたいと思います。今後は能登吉見氏と石見吉見氏の家臣等にも目を向け史料を探してゆきたいと考えています。
(樹童の考え) 1 吉見氏関係の史料は乏しいものですから、ご指摘の和歌山藩士の系譜なども含めて総合的に考えていくことが必要と考えています。
ただ、吉見荘が小山一族の領地や分布とは離れていて、吉見氏の名前に多く見える範・頼・為は秀郷流藤原氏にはあまり見ない文字なので、やはり別系とするほうがよさそうに感じます。
2 石見の吉見氏については、その系譜が難解なこともあってか、『国史大辞典』では何ら言及がありません。その所伝や残存史料から考えますと、能登から分岐したものとみるのが自然であり、能登吉見と別系というのは疑問に思われます。
石見吉見氏関係の現存する系譜や史料(「萩藩閥閲録」も含めて)は、初期部分は疑問なものが多いようで、これを論拠に考えていくのは混乱するだけではないかと感じます。例えば、東大史料編纂所に「吉見系図」(毛利彦次郎家)が所蔵されていますが、範頼の子に範国をおき、「或頼綱二郎、初出家範円阿闍梨、為範頼嗣子時吉見二郎範国、又入法号範元禅師」と註記し、その子の為頼について、「吉見二郎、実範頼二男、兄範国後入法時為嗣子譲領知奉仕下向能登国、建仁元年卒、法名道応頼覚」、その子の頼国に「或頼業、式部允、母小山朝政女、法名頼円、初僧良円法師、後称吉見式部允」、さらにその子の頼茂に「式部二郎、初為忠」と記して以下に続けます。「萩藩閥閲録」の巻六毛利伊勢の項目でも、為頼は建久五年(1194)に安田義定を討ち、正治二年(1200)に武田有義を討ったなど、明らかに『東鑑』と異なる記事を記します。
これら石見吉見氏の初期部分については、岡部忠夫氏が『津和野町史』などもあげつつ『萩藩諸家系譜』で疑問が多いことを指摘しております。
以上を通じて、吉見氏系図には混乱した難解な部分が多いのですが、多くの史料と整合性が取れるよう考えていきたいと考えています。
(04.5.4掲上) |
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