無文元選禅師の足跡

(問い) 次の文書「了義寺本堂再建趣意書」に見える伊予守河野通村を、なんとか特定したいと考えております。土居氏であろうかとも推測しておりますが、私の知識ではよくわかりません。何らかの教示があれば、と思います。

 関係する資料をあげてみますと、
「系図纂要第十五」
稲葉氏 臼杵城主
河野通之・・・通兼
       稲葉七郎 稱林氏
       初爲伊與國石牛寺弟子好武背父意
       還俗而頼美濃國厚見郡椿洞村河野
       通利應仁年中初来美濃通利介於之
       屬土岐氏旗下以憚父通春改姓氏居
       稲葉山 後住清水

 上記文中の「石牛寺」は明らかに石手寺の誤記であり、応仁年中は椿洞河野氏伝承系図では応永の頃となっております。この「系図纂要」の系図では、系を通之につないであり、通兼以前は誤りであろうかと思います。
 しかし、この記述のみが気にかかります。椿洞河野氏自身が出自を正当化するために、このような系図書を作成してもらったのか、どうして記述されているのか理解に苦しみます。

   了義寺本堂再建趣意書(原文は、ひらがな部分がカタカナ)

抑々當寺は人皇九十五代後醍醐天皇第十一の皇子無文元選禅師
聖鑑国師の開基にして同第四の皇子成良親王応安四年堂宇伽藍
御建立にて瑞椿山了義寺と号せられたり
国師此地に聖体長養日夜怠り無く道俗を教化し賜へり
成良親王伊予守河野通村に命を下し国師守護の為此の地に住居
せしめ村名を椿洞と称せられたり
国師の丈室に常に異人来り師の道徳を慕て座右に随侍せるもの
あり是れ所謂る半僧坊にて火防神也
至徳元年子年国師通村を扈従として遠州奥山に移幢せられ
方廣寺を開基せり今に至て該裔孫河野氏なるもの聯綿たり
然れども星霜の久しき天正中了義寺は兵燹に罹り寺禄等殆んど
鳥有に帰す然る處霊松院第四世即岩大禅師聖鑑国師の遺風道徳
を追想し自の衣資を投じ信徒と協力し遂に貞享甲子の春一宇を
再興せり
爾来二百有餘年の今日堂宇大破に及びしも剰へ明治二十四年の
震害に罹り大に令法久住の道を失ふに至れり依て茲に一宇を
再建せんとするも元来無檀微禄の及ぶ處にあらず止を得ず這回
法類信徒の熟議を遂け住職の衣資を省略し信徒有志の助力を待
て再建せしことを誓ふ
庶幾は四方道俗予が素願をして成就なさしめ賜へ
     了義寺住職 東海文迪
               (明治30年代再建趣意書写し)

 この了義寺につきましては、方広寺の寺史と照らし合わせても合致し、史実であると確信しております。若干の疑問は、北朝土岐氏の支配地で、堂々と南朝の皇子が南朝系河野氏を使い、寺を建立したということです。当時の状況を理解し難い面もあります。
 また、河野氏伝承系図を信ずれば二十七町歩所有とありますので、余計わけがわかりません。しかし、現実に無住ではあれ現存しており、その道場といわれる寺も宗旨は変えても数ヶ寺あります。
 今のところ伊予からの史料も発見されていませんが、河野(土居?)通村の事跡として有りうることかどうか、ご教示下さい。
 
 なお、再建趣意書では、成良親王と記されていますが、「方広寺」寺史では、「応安年度宗良親王当村に来たり」と記されています。没年を考慮しますと、成良親王は宗良親王の誤記と思われます。
 (林 正啓様より 04.5.18受け)
 

 (樹童からのお答え)

1 お尋ねを解いていくためには、まず「了義寺本堂再建趣意書」の書かれた記事が史実かどうか、という文書の内容の信憑性を確かめなければならないと考えます。そして、内容については貴殿ご指摘のように、「成良親王」は興国五年(1344)に薨去したのに、応安年間(1368〜75)に活動するはずがありません。「後醍醐天皇第四の皇子」というのは、宗良親王といいますが、実際には第四皇子は宗良親王でも成良親王でもなかったようであり、静尊法親王(聖護院宮)とされそうです。史料は同時代性かそれに近いもの、根拠史料が正しいものを重視していくことだと思います。
また、宗良親王としても、美濃に応安四年(1371)、了義寺の堂宇伽藍を建立したということは疑問のように思われます。
 
2 美濃の了義寺や遠江の方広寺の開祖とされる無文元選禅師については、当時高名な臨済禅の高僧で後醍醐天皇の皇子だったと伝えます。その出家前の事績が不明であるので、同じ後醍醐天皇の皇子満良親王と同人ともされます。逆に、満良親王は人生の後半が不明確になっている事情があり、三河遠江あたりでは「無文元選禅師=満良親王」としている様々な所伝を伝えます。この問題をどう考えたらよいのでしょうか。
 
まず、無文元選禅師については、次の事績が伝えられます。
円明大師ともいい、生没年が1323〜90年。十八歳の時(興国元年、1340)に出家して建仁寺の明窓宗鑑に参じ、その三年後の興国四年(1343)に大陸の元に渡り温州福建の仰山大覚寺の古梅正友に参じた。正平十一年(1356)に帰朝し、京都岩倉に帰休庵を構えて居し、また美濃の武義庵を開いて両所を往還したが、後に井伊一族奥山六郎朝藤の後援をえて遠州井伊谷の奥山の方広寺の開基となった。このほか、三河の広沢寺、美濃の了義寺も開き、晩年は方広寺に帰った、とされます(『コンサイス人名辞典』などいくつかの人名辞典の記事による)。
 
次ぎに、満良親王については、生没年不詳であって、次のような事績が伝えられます。
延元三年(1338。一説にその前年ともいう)九月十一日、牧宮とともに四国土佐に渡り(『関城書裏書』)、興国元年(1340)正月に新田綿打入道とともに土佐の大高坂城の攻防に出てくる花園宮が該当するものとみられています。その同年か翌興国二年(1341)には、大高坂城は落城して土佐の南朝は勢力を失い、満良親王は西国へ逃れていったとされます。なお、牧宮は懐良親王ではないかとみられています。
 延元二年三月八日に征南将軍宮満良親王が御祈願した文中に「荏原郷内窪野部百貫ノ地御寄進ノコト」が記されております。
また、観応二・正平六年(1351)のころ周防にあって、令旨を発して諸将を招き、兵粮料所を宛行っている「常陸親王」も、満良親王である可能性があるともされます(『鎌倉・室町人名事典』など)。周防あたりには満良親王の足跡所伝があるようですが、私には確認はされず、なぜ常陸親王が満良親王に当たるのかは不審とも考えられるところです。
 
以上のように事績を対比させますと、興国元年(1340)の大高坂城落城以前は、満良親王が現れており、無文禅師の活動はやはり同年の出家以降となります。ただ、大高坂城落城が興国二年(1341)であれば、両者は別人となりますが、無文禅師の出家が興国三年(1342)という説もあって、話はなかなか厄介です。常陸親王についても、具体的に誰に該当するのかは納得いくような説明を見ておりません。もっとも、元徳三年(1331)入元という説もありますが、これはいかにも早過ぎるような気がします。
系図集などを見ますと、十九世紀中葉頃に飯田忠彦が編纂した『系図纂要』では、無文元選は、満良親王の出家後の姿であるとの説を記しております。また、中田憲信編の『皇胤志』でも、満良親王の後身が無文禅師であるとしており、延元元年(1336)十月に尾州波豆崎城に入り熱田大宮司摂津守昌能がこれを奉じたと記します。一方、両者を別人とするものもあり、太田亮博士は『姓氏家系大辞典』の冒頭部分に掲げる「皇室御系図」では、別人のように両者を掲げつつ、満良親王の記事に「貞治二年(1363)、河野伊予守を従へて、三河に御座せしと云ふ。或いは無文禅師と同人かと云ふ。」とあげます。こうなると、どれが正しい所伝なのか見極めがつきません。せめて、「常陸親王」の素性がもっと明確になるような史料はないものかと感じるところです。
 
そこで、現段階では一応、別人説を採っておきたいと思います。その主な理由としては、
(1)満良親王の母は中納言藤原宗親の女・親子(中納言典侍)で異論がないのに対し、無文禅師の母は亀山天皇皇女喜子内親王(昭慶門院)という説があること
(2)『皇胤志』には、満良親王の子として尚良王をあげ、「居尾張国知多郡、後於伊勢国山田而卒」と註記されていて、両者同人なら子を残したとは考え難いこと
(3)正平六年(1351)に大内弘世は、土佐国にいた(模様の?)後醍醐天皇の皇子「常陸親王」を周防山口に迎えて、南朝周防守護に補されたが、同国では南朝周防守護大内弘世と北朝周防守護大内(鷲頭)長弘が対立する形勢となっていたこと
というところです。
 
3 太田亮博士の「皇室御系図」であげる満良親王の記事に「貞治二年(1363)、河野伊予守を従へて、三河に御座せしと云ふ」とありますが、「河野伊予守」は誰にあたるのでしょうかという問題もあります。
  貴殿ご指摘のように、伊予の河野一族では得能・土居両氏の南朝方での活躍がよく知られます。そして、土居一族には、南朝方で名高い彦九郎通増について伊予権介に任じたと系図(予章記、土居系図等)にあり、その甥に彦五郎通村が見えますから、年代的に見て四国に暫時あった満良親王の従者に土居通村ないしその一族がいたことは割合自然であり、その者が伊予の守ないし介に任じたか号したことも多分にありうるかもしれません。
  しかし、河野・土居一族に関する諸系図を見ると、上記土居通村が三河ないしその周辺に来たことも、通村が伊予守であったことも、現在まで管見に入っていません。それは通村の周辺の者たちについても同様です。
 
4 以上を総括してみると、無文禅師が宗良親王の拠った井伊谷に方広寺を建てその地で寂したとしても、宗教家の活動と南朝武人の活動との区分はつけたほうが良さそうです。河野一族が後者に随従して活動したことはありえても、無文禅師と満良親王との区別もつけておいたほうが良いように思われます。
ただ、この問題は史料が乏しく、『国史大辞典』を含め多くの辞典類にあたりましたが、どれも似たような記事しかありませんでした。新たな史料が出てくれば、再考の余地は十分ありますが、今のところ、上記の線くらいしか言うことがありません。

  (04.5.23 掲上)

 <岸本愛彦様からのご教示> 03.5.23受け

 標記の件、私も南朝皇族について資料を収集しておりまして、御參考までに花園宮・常陸親王の資料をご提示いたします。
 
 花園宮が常陸親王であり後醍醐天皇の皇子である事は「正平六年七月卅日常陸親王御使等交名」(「毛利家文書」)に
  せんくわうの御こ四人
  (中略)
  はなそのゝミや  とさよりすハうへ御入りある
    いまハひたちのしんハうと申候也
とある事から確實と思はれます。この花園宮は樹童樣も書かれているやうに、延元三年九月十一日土佐に渡り、興國二年頃土佐を出た樣です。そして正平六年頃には周防にをり、常陸親王と稱し(私見ではこの頃常陸太守に任ぜられたと考えています)て現在確認されてゐるだけでも正平六年二月十日から同十年三月八日迄の四年間に卅六通の文書を發給しています(常陸親王についてのまとまった研究としては新井孝重氏の「興良・常陸親王考」(『獨協経済』第七十四号・平成十三年)があります。氏は常陸親王を常陸に在國してゐた護良親王の王子興良親王ではないかと推定されてをりますが)。ただ花園宮・常陸親王の諱が滿良であったかだうかは近世の系圖にその名があるのみで不明です。
 
 無文元選が後醍醐天皇の皇子であったかどうかは同時代資料が今の所無く、検討してをる所です。
 花園宮との關係は樹童樣同樣別人であると考えています。
理由としては花園宮・常陸親王は「正平六年七月卅日常陸親王御使等交名」(「毛利家文書」)の一文とその後の令旨發給にて延元三年から正平十年迄の活動が確認できる事が擧げられやうかと存じます。
 また、秋山英一『四國に於ける後醍醐天皇の諸皇子』にも滿良親王の項があり、常陸親王と同人とし、王子に石見宮がゐたという説を載せてゐます(私見では石見宮は護良親王の王子と考えていますが)。猶、本書は最後に吉田東伍の一文を擧げ無文元選との關係を否定してをります。
 
 以上、林樣の御質問の趣旨とは全然關係の無いものでございますが、御參考にして戴けたら幸ひです。
 猶、「延元二年三月八日に征南将軍宮満良親王が御祈願した文中に「荏原郷内窪野部百貫ノ地御寄進ノコト」が記されております。」との記述がございますが、この資料の出典を御教示戴きたくお願いします。



 (樹童からのお答え)

1  私は往々にして南北朝期以降の知識や検討が乏しい面もあって、中世後期の検討には苦労しております。
  今回、岸本様のご教示はきわめて納得できるもので、ご教示に感謝申し上げます。

2 お尋ねの出典は、松山市窪野町の正八幡神社にあるとのことですが、私自身は確認しておりません。

 (04.5.24掲上)

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