□ 関連して、北条早雲の出自について <ご質問者からの返信 1> 06.4.24受け 伊勢三郎義盛の出自及び政所伊勢氏の系譜について御教示して頂き有り難うございました。本件に関しては長い事疑問に感じていた所なので感謝しております。
ところで、政所伊勢一族から出た北条早雲の出自に関する論争についての所感を述べさせて貰います。
今でこそ、北条早雲の出自は備中伊勢氏の出であるのは常識となっていますが、ほんの少し前までは伊勢素浪人説が有力で、特に戦国史の大家・故桑田忠親氏が盛んに唱えていました。 しかし、江戸時代以前の良質的な資料には伊勢素浪人説を裏付ける物が見られず、唯一同説の根拠とされている関氏に宛てた文書も_小和田哲男氏等が述べておられる様に_、その内容は伊勢氏と関氏は同族であると言う範囲に止まる物で、早雲が伊勢の素浪人であると言う確証を得られる物ではありません。
寧ろ、備中伊勢氏の出である方が、良質的な資料に垣間見る事が出来ます。太田亮氏も『姓氏家系大辞典』で、_備中系とは断定してはいないものの_早雲の出自を政所伊勢一族の出であると断定しています。
しかし、小和田哲男氏等の研究成果にも係わらず、桑田忠親氏は死去するまで早雲の出自は伊勢素浪人であると言う説に固持していたのです。しかも、その理由と言うのは、早雲の肖像画は素浪人そのままと言う物です。
桑田忠親氏等に見られる北条早雲の出自に関する不毛な論争も又、我が国史学会の系譜に関する無頓着の病理を示しているのではないのでしょうか。樹童様のHPを見てそう思った次第です。尚、私には桑田忠親氏を貶め様とする意思は無い事を最後に記しておきます。
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(樹童からのお答え) 1 いわゆる北条早雲の出自について、つきつめた検討まではしておりませんが、その家臣団の構成や今川氏妻妾となった女性(北川殿で、今川氏親の生母)の存在などから見て、一介の素浪人であったとは考えにくいところです。
とくに、当初からの重臣大道寺氏が山城の土豪で山背国造につながる家系であったこと、三河(大草、石巻、富永)・遠江(上野)・美濃(遠山)などの土豪から出て足利将軍家に仕えた者たちから主な家臣諸氏が出ていること、政所執事伊勢一族からも小田原に行っていることなどの事情から、京伊勢氏というのは疑問としても、その一族庶流の備中伊勢氏の出というのは十分ありうることではないかと考えられます。備中から早雲に随行したという所伝の重臣笠原氏もおり、それを傍証するものではないかと思われます。
2 國學院大学名誉教授であった桑田忠親氏の主張の概要を示すものが雑誌『歴史と旅』昭和五五年(1980)九月号(第七巻第十号)に掲載されています。「伊勢平氏の出か北条早雲の系譜」という論考がそれであり、京都の名族伊勢氏の出とする頼山陽の所説(『日本外史』)をまず紹介し、これに対して、『足利時代史』を著された田中義成博士が小笠原文書の「北条宗瑞自筆書状」をもとに頼山陽の説を否定し、「早雲は、伊勢平氏の支族関氏の一族で、伊勢の出身だが、駿河に下向して、今川氏の食客となり、一躍して大名となった」と主張したと記述して、この田中説を支持されるものです。
つまり、「同じ平氏の出自でも、京都の名族伊勢氏の出ではなく、伊勢平氏の関氏の支族から出た素浪人だが、乱世に乗じ、実力一筋で伊豆・相模を切り取り、戦国大名に成り上がった、とする説」が田中説ということです。この田中説を「早雲素浪人説」として戦前から一貫して支持し続けてきたと説明します。たしかに、早雲の画像を引いて野武士の風貌であるとも説明しますが、実証史学者の立場から、根拠は小笠原文書の上記書状が基本にあります。
<私見>
さて、伊勢氏の一族と関氏の一族とは矛盾するものでしょうか。矛盾すると考えるのは、伊勢氏の系図を『尊卑分脈』所載の系図どおりで平氏名門の血統と考え、一方、関氏を伊勢の土豪とみるからだと思われますが、伊勢氏の先祖が不明で足利家中でもそれほど高い地位になかったこと、権門となったのは室町前期からだということが分かってくると、両氏ともに元はあまり差がなかったということになります。本文でも述べましたように、伊勢氏の現在に伝わる系譜所伝には疑問が大きく、むしろ伊勢氏が関氏の庶流の出であったのではないかと考えられます。このことを、先祖が伊勢国の関というところに居て関氏と称した、と早雲が表現したものとみられるのです。 桑田忠親氏は、「早雲自身が伊勢の関氏の一族であるととなえたことは、かれが京都の伊勢氏の出自であるということと何ら矛盾するものではない」という説明を消極的で曖昧薄弱な理由と評価されますが、上記のように考えれば、桑田氏の評価にむしろ疑問があるということでもあります。もっとも、「何ら矛盾するものではない」とする学究の説明・根拠がかなり曖昧、大雑把であったろうことは、その原文に当たっていないものの、多少とも推測されるところではありますが。 (06.4.25掲上) |
<ご質問者からの返信 2> 06.4.25受け 北条早雲の出自について御返答して頂き有り難うございました。 北条早雲の出自に関しては、既に御存知とは思われますが、新人物往来社刊・黒田基樹著『戦国 北条一族』に詳しい論考が述べられております。 併せて小田原北条氏の系譜について述べさせて貰います。こちらの方も既に御存知とは思いますが、早雲の孫で三代目当主・北条氏康の三男で上杉謙信の養子となった景虎は、元の名は氏秀と言い、謙信の養子になった時に景虎と改名したと嘗て唱えられていましたが、近年の研究では景虎と氏秀は別人である事が明らかにされています。 即ち、氏秀は氏康の養弟・綱成の次男で景虎が謙信の養子になった時は江戸に滞在していたの事です。 (06.4.25掲上) (追補)
『小田原北条記(北条五代記)』は十七世紀後葉頃の成立かとも考えられていますが、そのなかに伊勢氏及び北条氏の先祖について記述があります。本文と併せ、ご覧下さい。 1 史料性には疑問がないでもありませんが、その記事を一応紹介しておきますと、次のようなものです。 (1)
伊勢氏の先祖は平正度で、その子が左京亮季衡、その子が右京進盛光、その子が右兵衛尉盛行であり、盛行は平家没落の時、病気で都にとどまり、ほどなくして没したが、その子の盛長と摂津守恒平は頼朝に仕え、文治五年(1189)の奥州征伐の時に活躍した。盛長は京で院に参内して従四位下兵庫助に任じ伊勢に住んだが、鎌倉にも出仕した。
その三代のちの俊継が正応二年豊前守に任じ、はじめて伊勢を姓とし伊勢豊前守と名乗った。その後に伊勢守にも任じたが、その子の盛継が足利殿の縁者で元弘の乱の際に尊氏将軍の上洛に随行した。尊氏の夢のお告げにより、その若君の名付け親となり、これ以降将軍家の御子誕生の時に伊勢守の家を名付け親とされた。盛継の子の伊勢肥後守盛経は元弘合戦の時に手越河原で討死し、その弟の勘解由左衛門(貞継)が兄の功績により伊勢守に就任し、引付方の頭人となり、のちに政所執事となり、管領家に負けずに栄えた。
(2) 北条早雲の父は、貞継の玄孫の伊勢守貞親の弟・伊勢備中守貞藤である。
2 上記所伝には、多くの疑問があります。そうした事情をあげてみれば、次のようなものです。
a 平盛行については、『為房卿記』の康和五年(1103)十月二一日条に平貞光・平盛行が見えており、その八年後の天永二年十二月十六日条の『中右記』に見える右兵衛尉平成行(成と盛とは往々にして混同誤記される)も同人とみられます。祖父の季衡が1022生〜1081没と伝えられますから、盛行は十二世紀前葉頃に活動した人とみられます。その子とされる盛長も十二世紀中葉頃とみられますので、この親子が平家没落時とか頼朝に仕えたことは、年代的に考え難いところです。『東鑑』には、盛長や恒平が藤原泰衡討伐に参陣したことは見えません。
b 盛長から俊継に至る系図も、上記書や寛永・寛政呈譜では「盛長−頼宗−俊経−俊継」となっていますが、『尊卑分脈』では「盛長その弟頼宗−頼俊−俊経−俊継」となっていて歴代が微妙に異なります。
c 正応二年に豊前守に任じた俊継が伊勢氏の先祖かどうかの確認はできず、年代的に疑問が残ることは本文に記したところです。
d 盛継が足利殿の縁者ということや元弘の乱に際して尊氏に従ったことは、『太平記』などに見えません。
e 北条早雲が伊勢備中守貞藤の子というのも、疑問があるとされ、同じ伊勢一族でも備中の伊勢氏の出とされる説(備中守盛定の子の新九郎盛時が同人か)が有力です。江戸初期に、小瀬甫庵著の「太閣記」や今川氏の家譜「別本今川記」などに見えていますが、戦後に岡山大学の藤井駿(ふじい・すすむ)氏が「北條早雲と備中荏原荘」(「岡山大学法文学部学術紀要」第五号)という論考で、伊勢新九郎盛時が北條早雲であると発表しています。
(06.4.26掲上)
<ご質問者からの返信 3> 06.4.27受け
1 小田原北条氏に関連して、上杉謙信の後継候補 北条氏康の三男・上杉景虎の系譜と関連付けて、上杉謙信の家督を巡る問題についての所感を述べさせて貰います。
上杉謙信の養子には前述の景虎の他、甥の景勝、能登畠山氏出身の上条政繁の三人がおり、_幾つかの書物には_謙信は臨終の際に景勝を己の後継者として望んだとされています。しかし、謙信は実際には景虎を後継者として望んでいたと考えられます。
先ず第一の理由に挙げられるのが、謙信死後に起きた上杉氏の家督を巡る『御館の乱』に於ける両陣営の勢力図です。景勝の陣営には自らの出身である上田衆が主力であったのに対し、景虎の陣営には殆どの謙信譜代の家臣が付いていました。
第二に挙げられるのは、謙信の養父で前関東管領であった上杉憲政の動向です。憲政は景虎の実父である北条氏康に故郷を追われ、加えて我が子も殺されています。それにも係わらず、憲政は景虎と親しい関係を持ち、最終的には『御館の乱』で景虎に属し、運命を共にしています。いくら景虎が養孫であるとは言え、憲政の行動は変です。
以上の事から、謙信は景虎を己の後継者として望んでいたと考えられます。
2 北条早雲の周辺関係者
北条早雲は樹童様が仰せの通り、備中伊勢氏の出身で、伊勢盛時の後身ですが、さりとて京都伊勢氏とも無縁では無く、母方の血縁(早雲の母は政所執事伊勢貞親の姉妹)を通して深い繋がりを持っていました。
北条早雲の京都に於ける人間関係図には興味深い部分が多く見られ、上記の『戦国・北条一族』にはその辺りについて詳しく描かれています。
(樹童の感触)
1 後継者についての謙信の心裏はよく分かりませんし、判断すべき史料が残っていないなかで難しい話ですが、景虎という己の旧名を名乗らせたのは、なんらかの愛着があったのかもしれません。
2 加藤直臣編纂『雑家系図』の「伊勢系図」には、
(1)
伊勢盛定について、東山年中行事に伊勢備前守盛定、初め備中守という、貞藤が備中守と称するにより(備前守に)改めると記されます。また、その子の盛時について、写本分脈に八郎とあり、東山年中行事に伊勢新九郎盛時とあるは是か、と記されています。
(2) 北条系図に、長氏は、母が伊勢貞国女(すなわち貞親の姉妹)で相模二郎時行の五代の孫(長氏の父なら四代の孫)とあるが、直臣は不審としています。※
ほかに、早雲の母を京伊勢氏の出とする系図が管見に入っておらず、私には、「早雲の母は政所執事伊勢貞親の姉妹」というのは疑問のように思われます。 ※ 『諸系譜』巻29に「横井系図」が所収されており、そこでは「時行−時満(初行氏。住尾張海東郡蟹江)−時盛−行長(娶伊勢貞親妹)−長氏(初名盛時、氏茂。実伊勢備中守盛定男)」と記されている。時行に子孫があったことは疑わしいが、参考のために記しておく。 (06.4.28掲上、5.2追記)
3 ご指摘のように、黒田基樹著『戦国 北条一族』は好著だと思われますが、同書には、早雲の出自についてあまり詳しい記述がありません。そのうち、注目すべき記述をとりあげ、次に記しておきます。 (1) その13頁に、「近年における関係史料の発掘、実証研究の進展にともなって、現在においては、備中伊勢盛定の次男伊勢新九郎盛時の後身で、母は伊勢氏本宗家の伊勢貞国の娘で、貞親・貞藤らの甥にあたる、とする説がもっとも有力視されている(小和田哲男『後北条氏研究』他)。これに対して有力な反証がみられないことから、宗瑞の出自についてはこの説がほぼ確定的になっている」、そして家永遵嗣氏の研究によりさらに確実なものとされている、と記載があります。 ただ、早雲の母を京伊勢氏の出とする系図や文書で確実なものが管見に入っておらず、この点については留保ないし疑問視しておくほうが無難ではないかと考えられます。伊勢貞国の生年が応永五年(1398)とされますから、早雲がその孫にあたるとしたら、その34年後の生まれだというのは年齢的に不自然だとみられます。『北条五代記』巻二には、新九郎の母は尾張住人で、北条高時の末孫の横井掃部助※の娘とあり、宗瑞が韮山城主となったときに伊豆に居た横井の一族の桑原・田中などがこれに従ったという記事があります。この所伝のほうが自然なように思われます。 ※ なお、横井掃部助は、横井氏関係の系図を見ると、北条時行四世孫の横井掃部助時永に当たりそうであり(『尾藩諸家系譜』)、『百家系図稿』巻13所収の「横井系図」では、時永の娘として「伊勢備中守貞藤妻」があげられるが、年代的に考えると、時永の祖父たる横井平五郎時任のほうが妥当であろう。(その後、別の横井系図では、時任が至徳二年(1386)に横江村に移居したこと、その子の時利が応仁元年に浪遊したこと、さらにその子の時永が永正十六年(1519)九月に卒していることなどが記されており、また時任の通称が掃部助でもあったと記すものもあって、宗瑞の外祖父が横井氏であったという所伝が正しければ、その外祖父とは横井掃部助時任に比定するのが妥当だということになる。) また、この「横井系図」には、時行の子の北条小二郎行氏の孫に行長(北条新九郎長氏養父也)・時泰(田中。岡野祖)があげられる。 これら横井一族が北条時行の後裔かどうかに疑問があるのは、上記のとおり。上記『諸系譜』巻29所収の「横井系図」とも併せて、参考にされたい。 (2) その16頁に、宗瑞の実際の生年を康正二年(1456)とみて、これまで通説的に取られてきた享年八十八歳説に対し、疑問を提起しています。これは、通説の年齢から二十四歳下回るものですが、宗瑞の諸子の生年からみると、黒田説は妥当かもしれません。すなわち、長男の氏綱誕生が長享元年(1487)であり、これだと通説では宗瑞55歳のときの初子となり、次男の氏時がその二年後に生まれていること、さらにその後にも葛山氏広、幻庵などが生まれていることから見て、通説には年齢的に不自然さが出てきます。 黒田説が妥当な場合には、宗瑞は新九郎盛時とは別人となり、通称新九郎を共有する親子としたほうがよいものと考えられます。二四歳の差がある親子ということは自然ですし、長男の氏綱誕生が宗瑞32歳のときとなり、こちらも自然です。美濃の斎藤道三について、親子二代の業績が一代に圧縮されたと最近みられていますが(近江守護佐々木六角承禎の家臣平井定武等への書状などを根拠とする)、伊勢新九郎も実は二代(盛時と長氏)であったとすると、年齢的には納まりがよくなります。 かつて、なにかの系図で、八郎盛時の子に新九郎長氏をおくものを見た記憶がありますが、いろいろ探したところ、その出典は紀州南葵文庫原蔵の『八平氏並諸家系図』(大阪府立図書館所蔵の『諸家系図』)の第九冊と分かりました。 このように考えていくと、黒田説は後北条氏の起源について重大な問題提起をしていることが分かります。『八平氏並諸家系図』は、このほか平氏諸流についても、他見のない系譜を記載しておりますので、留意されるところです。 (3) 余談ですが、小説家の司馬遼太郎は、斎藤道三を『国盗り物語』で取り上げ、伊勢宗瑞を『箱根の坂』で取り上げていますが、後者を読売新聞連載中から楽しんで読んだものです。 なお、伊勢宗瑞の年譜は、次の無明子さんによる「歴史回廊」というHPで詳しく記載されており、その行動を考えるうえで参考になりますので、リンクを貼らせていただきました。 (06.6.12、6.17に追記) <川部 正武様より来信> 06.6.28受け 上記の記事を大変興味深く拝見いたしました。 伊勢盛時と北条氏綱、長綱らとの諱の不連続について違和感を覚えており、伊勢新九郎長氏という伝承を無視しなければいけないことにも疑問を持っていたので、とても心を動かされる指摘だと感じました。 そして早速「武将系譜辞典」にも反映させていただきました。 <追記1> ○伊勢宗瑞の年譜では、長享元年(1487)夏に、駿河の今川家に紛争再燃して新九郎が下向し、同年十一月九日、朝比奈氏らの応援で今川(小鹿)範満を討ち、今川龍王丸(氏親)を駿府城に迎えたとされ、この年に長子氏綱が生まれているが、『諸系譜』第十五冊所収の「大導寺系図」には、これに関連する記事があります。 すなわち、大導寺孫太郎重旨の譜に、「長享元年冬、従伊勢長氏入道早雲下向駿河国」と記されていることです。 (06.6.30に追記) ○伊勢の関氏の系図のなかに早雲庵宗瑞をあげるものがあり、それでは、関下野守盛信の子に盛時をあげ、その子に早雲庵宗瑞をあげるから、盛時の父の問題はあるが、盛時と早雲庵宗瑞とは親子でつなぐものといえよう。 (06.7.19に追記) ○『米良文書』には、長享二年(1488)九月二八日付けで、「盛時」が熊野那智山に駿河国長田荘内の土地を返還した寄進状があるとのことで、盛時と早雲庵宗瑞とが親子である場合、盛時は早雲庵宗瑞に同行して再度駿河へ行ったのかという問題もある。 (06.8.9に追記) <追記2> いまさらではあるが、下山治久氏の好著『北条早雲と家臣団』(1999年、有隣新書57。以下に「本書」とする)の記述を踏まえて、少し追加しておきたい。
下山氏は黒田基樹氏と共に小田原北条氏の関係文書を五千通超も収集され、それらを『戦国遺文・後北条氏編』全七巻に整理されており、そうした基礎のうえに本書が書かれているから、謎が多い初期北条氏についての研究ではたいへん堅実で示唆深い内容となっている。ただ、系譜的記述については疑問な個所もいくつかあり、例えば重臣の大道寺氏の出自などについてである。
1 本書のなかで、始祖である北条早雲(伊勢早雲庵宗瑞)の出自について解明されない一つの問題ととらえ、昭和五十年代以降、小和田哲男氏や家永遵嗣氏、黒田基樹氏らの研究成果や『静岡県史』通史編2中世や『小田原市史』通史編などを受けて、実名を伊勢新九郎盛時とし、備中伊勢氏の当主伊勢盛定の次男と判明したと記される。早雲庵宗瑞の年齢については、永享四年(1432)生年説では嫡男氏綱の生まれた年には早雲は五五歳となり高齢すぎると疑問をもち、「伊勢氏茂」と早雲庵宗瑞とは父子もしくは別人ではないかと当初考えたが、黒田基樹説により康正二年(1456)生年説(従って、享年六四歳説)を妥当とするものの、今川義忠と結婚した北川殿との関係については問題が残り、姉とも妹とも結論が出せないことを記されている。(かりに、上記のように、盛時・宗瑞(=氏茂)父子説をとった場合には、年代的に北川殿は叔母説ということになろう)
2 早雲庵宗瑞と盛時が同人だとすると、その動きはきわめて活動的である。本書の記述と年表によると、早雲庵宗瑞の駿河下向は長享元年(1487)の夏頃とされており、同年十一月には小鹿範満を滅ぼして今川家臣となり、その後まもなく駿河の興国寺城主となり、翌二年(1488)九月には駿河守護代として長田荘を熊野神社に返還している。ところが、延徳三年(1491)五月には京都で従兄弟の伊勢盛種の代理として伊勢新九郎が見え将軍足利義材の申次衆を務め、明応二年(1493)秋には宗瑞が伊豆に侵攻して足利茶々丸を討伐し、翌三年八月には遠江に侵攻している。
こうした駿河と京との往復を説明するため、下山氏は、延徳三年(1491)四月三日の堀越公方足利政知の死去の直後に早雲が京都に行き、同年八月に駿河に帰国するという慌ただしい行動を推定している。要は、上記「延徳三年(1491)五月」の記事の説明を無理に行っていると考えられる。このときの伊勢新九郎が宗瑞と別人であれば、まったく問題がないわけである。私は、長享元年(1487)の下向以降は、宗瑞は一貫して駿河にいたのではないかと考えている。いったん今川家に仕え興国寺城主となって以降、また京都に戻って将軍家申次衆を務める意義が見いだせないし、すぐまた駿河に戻るのも不自然な動きであろうと考えられる。
また、文明八年(1476)二月の今川家内紛の時に調停役として二〇歳ほどの宗瑞が京から駿河に下向して紛争を収めたとは、とても考えにくい。このときの調停収拾者の伊勢新九郎は、宗瑞の父のほうであろう。こう考えれば、おそらく四十代ほどの壮年であり、また今川義忠の正室北川殿の兄として、伊勢新九郎は十分任に堪えたのではなかろうか。このときの伊勢新九郎は、『長禄二年以来申次記』に文明十五年(1483)十月に備前守貞定( はママ)の息と見える伊勢新九郎盛時にあたるとみられる。
(06.9.30 掲上)
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