甲斐の市川(市河)氏

(問い)現在、市川氏の出自について調べていますが、貴会のHPによると、甲斐国西八代郡市川庄の市川氏は和邇部氏を出自とするとありましたが、本当でしょうか?
 甲斐国八代郡の市川氏の本家は現在の市川三郷町に所在する表門神社(御崎明神・市川文殊)の神主を代々務めております。ただし、平安時代末期に新羅三郎源義光の子息覚義・刑部三郎源義清の子息清房が婿入りしてますので、現在は源姓を称しているようです。管見の資料では、覚義以前の甲斐国八代郡市川庄の市川氏の先祖が分からないので、ご教示いただければと思います。

 (はっち様より。06.1.12受け)
 

 (樹童からのお答え)

 甲斐国八代郡(『和名抄』時は巨麻郡)市川郷の大族市河(市川)氏は、その系譜が複雑であって、橘姓・源姓・藤原姓とも称しており、一概に答えにくいものがあります。おそらく実系としては甲斐の古族の末裔ではないかと推され、市川本家が表門神社の神主を世襲するというのも、その現れではないかと思われます。
 
 族人を史料で見ると、『東鑑』治承四年(1180)八月には市河別当行房が鎌倉方として見え、建仁二年(1202)〜建暦二年(1212)条には市河別当五郎行重、承久元年(1219)条には市河左衛門尉祐光が見えます。また、『曾我物語』には市河別当行房の子に別当次郎行光(定光)が見えます。さらに、『東鑑』寛元二年(1244)八月条には市河掃部允高光法師(法名見西)、その旧妻で市川氏女藤原氏が見えますから、鎌倉期には市河氏は藤原姓を称していたことが知られます。これらの記事から推定される系図としては、「行房―行光(またの名が定光。その弟に行重)―祐光―高光(祐光の弟か子か)」と考えられるところです。
  この「光」を通字とする系統は戦国期まで続いた模様で、天正十年(1582)に主家武田氏の滅亡後に徳川氏に仕えたと見える市河家光(七郎左衛門尉、備後守、以清斎元松)はその流れの可能性があります。
 
 現在に伝わる市川氏の系図所伝では、新羅三郎源義光を祖とする市川氏は、義光の子、武田義清の弟である市川別当刑部卿阿闍梨覚義を祖にするとしています。覚義は、甲斐国市川に居住して御崎明神別当となり、その長男覚光は甲斐国市川寺の別当となり、次男倶義は覚義とともに武蔵国比企郡明覚郷に住した、と伝えます。
また、倶義の後は、諸義−光義、その弟十郎右衛門喬義であって、その後は「喬義−直義−祐光−教光」といい(注:この系図には疑問がある)、市正教光にいたって、元弘二年、新田義貞に属して鎌倉攻めに参加し、由比浜の戦いに戦死した。その子の五郎忠光は義貞の子新田義興に従ったが、延文三年(1358)、鎌倉公方の執事畠山国清の謀略にはまった義興は、矢口の渡しにおいて江戸遠江守・竹沢右京亮らに討ちとられた。このとき、市川忠光も一緒に戦死したといい(『太平記』巻33には矢口の渡しでの「市河五郎」の討死が見える)、弟の十郎正光は幼かったため甲斐国にあって市川氏を継いだ、と伝えられます。
上記系図所伝は、『新編武蔵風土記稿』の比企郡田中村(現ときがわ町)の市川氏条に主として依拠しますが、この記事では源姓という市川氏と古来からの市河氏との系図が混同されている模様であり、阿闍梨覚義が古族市河氏の猶子となって市河荘に居住し市河(市川)を名乗ったことは仮に史実であったとしても、源姓(通字は義か)と古族の流れ(通字は光・房)が中世に併存した蓋然性が高いようです。残念ながら、甲斐の市河氏については、良質の系図が管見に入っておらず、他の事情から系譜・出自を十分慎重に検討する必要があります。
 
 (なお、上記『風土記稿』では、戦国期、市川重左衛門(伊賀守)光治は武田信虎の幕下となり、その子・重左衛門(伊賀守)信治は武田信玄より偏諱を受けたが、信治は天正三年、韮崎で戦死したとされる。信治の子忠治は、武蔵国横見郡松山の城主上田能登守に属し、その子・治本は松山城で戦死し、以後その子孫は武士を捨てて、帰農したと伝える。しかし、戦国期の光治以下は、武蔵国多摩郡田中村の市川氏であって、甲斐の市川氏とは別族(武蔵卜部の末流)の可能性が大きい。同国宮澤村御獄社の神職市川氏の同族であろう。)
 
 古代の市川郷が現表門神社あたりだとするとき、その地名から見ると、近くに式内社の弓削神社や曽根・矢作の地名、一宮浅間神社・芦川の地名があって、前者の地名からは物部系とも、後者の地名からは和珥系ともみられます。
次に、表門神社は「ウハト」と読まれますが、同名の式内社は甲斐に二社、美濃に一社、陸奥に一社あげられます。いずれも祭神は明確ではなく、甲斐の巨摩郡の宇波刀神社は諏訪神建御名方命を、八代郡のは天照大御神・倉稻魂命を、陸奥の栗原郡の表刀神社は天布刀玉命(天太玉命)を祭神とすると伝えますが、同名社の本来の祭神については皆同じと考えられます。
  その場合、一つの可能性として、海神族系の神ではないかとみられます。ウハトは一般に「上処」と解されており(『古代地名語源辞典』など)、美濃の安八郡という猿田彦神を祀る白髭神社の分布が多い海神族居住地にも、式内社の宇波刀神社があることに留意されます。
また、「御崎明神」だと、猿田彦神(紀伊の日高郡式内社や岡山市の御崎神社)、三海神の一である表筒男命・上津少童命(鹿児島県肝属郡や青森県八戸市の御崎神社)ということで、これまた海神族の色彩が強くなります。越後国蒲原郡式内の青海神社の神主家が市川を名乗りますが、これは海神族青海首の後裔とされます(『姓氏家系大辞典』)。一方、文殊だと智慧を司る菩薩であって少彦名神にも通じるものがあり、この場合は物部系かその同族に近くなります。
以下は、海神族系という前提で記事を書いていますが、最近(07.12頃)に見直して、物部同族かとみたほうが良さそうだということにもなりましたので、関係記事の応答の後尾に追補しました。しかし、これもさらに調べていくうち再考の必要性を感じ、かえって分からなくなりますが、いまはやはり当初の考えのほうでよいかとも思っています。市川氏は、このようにたいへん難解な系譜をもちます。

 甲斐あたりの海神族の分布はあまり分かりませんが、南隣の駿河には和邇部(丸部)臣が繁衍して、富士宮の浅間大社を奉斎したことが知られ、駿河・甲斐には同名の神社が多く、富士川の上流域にあたる市川郷あたりにも浅間神社(西八代郡市川三郷町高田 に鎮座)がありました。富士宮宮司の和邇部一族が中世、甲斐の都留郡の宮下・大和田・河口、福地(古くは巨摩郡)などにあったことが系図に見えますが、現在の南都留郡河口湖町河口にも浅間神社があります。古代でも、巨摩郡栗原郷の戸主に丸部千万呂が正倉院文書に見えます。
 
 甲斐の市河〔市川〕氏には、源姓・藤原姓のほか、橘姓とも称したものがあって、ますます混乱しますが、鎌倉後期までに信濃国高井郡に遷住した信州の市河氏もあって、こちらも十分に検討する必要があります。
 
甲斐の市河高光が信濃国船山郷に領地をもっていたことから、信濃の市河一族も甲斐の同族と知られますが、高井郡中野御牧の豪族中野氏(秀郷流藤原姓)の領地を乗っ取った模様です。具体的には、市河高光とほぼ同世代の市河重房は、文永九年(1272)に中野忠能(源頼家将軍の寵臣中野五郎藤原能成の子)の一人娘を後妻とし、子の無かった忠能にその子盛房を猶子として入れ、重房・盛房は共謀して忠能のもうひとりの猶子・中野仲能らと激しい相続争いを繰りひろげ、次第に同郡の中野西条・志久見郷を蚕食していった、とされます。
甲斐の行房の子孫にあたる(案ずるに行重の子か孫)とみられる三郎左衛門尉重房の子が左衛門三郎盛房とし、盛房の子に六郎刑部大輔助房・物部八郎経房・西条九郎大炊助倫房・市河十郎左衛門尉経助・志賀又三郎助高らの兄弟がおり、この兄弟は元弘・建武の頃に新田義貞ついで足利尊氏に属した。信濃の本宗助房の後は頼房−義房と続いた、とされます。また、西条倫房の子孫は、「親房−英房−弘房−光房……」と続いて米沢藩上杉家中にあり、上杉家文書のなかに西条氏系図もあります。
 上記のように、信濃市河の一族には物部、志賀が見えますから、志賀を重視し、和珥系に物部首もある事情も考えて、和珥系ではないかとみたわけです。鈴木真年翁は藤原朝臣姓のなかに甲斐の市河をあげていますが、藤原姓は他氏族からの冒姓例が多いもので、必ずしもそのまま正しいとは限りません。
 
6 市河氏をめぐる状況は以上のようなものですが、現存の資料から総合的に考えると、甲斐の古族の末流で、その古族とは和邇部臣とみるのが蓋然性が高いといえそうです。なお、甲斐の市川文殊の神主家は、行重の後といい、その子の「行政−行照−行宗−行氏……」と続いて現在に至るといいますが、系図の詳細が知られないので、あまりコメントしがたいところです。
※物部同族とみる立場も捨てがたく、こちらに傾いて書いた場合の次の応答の後尾までご覧下さい
 
  (06.2.1 掲上、同2.3追加、07.12.24及び08.5.18に追補)
 
 上記を踏まえた 市川氏系図に関する応答 がありますので、併せてご覧下さい。
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