(市川氏系図に関する応答)

 (はっち様よりの来信 06.2.1受け)

  先日のメールで触れられなかった幾つかの点について、少々述べさせていただき、御論考の参考に供させていただきます。
 
  市川氏本家が代々神主を務めてきた甲斐市川の表門神社は式内社で、社伝では孝霊天皇二年の創建が伝わります。白河天皇の御宇・永保元年(1081)、白河天皇が御病悩の時、典薬が医術を尽くしたが一向によくならなかった。たまたま上洛していた当神社の神主が洛中で占いの名声があったので、御所に召し出され、神主が祈念したところ、天皇の御病悩が平癒した。これにより市川庄を神領に賜り、これにより市川明神と称し、また、空海筆の文殊画像を下賜されたので、市川文殊とも称した。という由緒があります。
  私は以上の由緒に鑑み、白河天皇が表門神社に市川庄を寄進して同神社神主家が実質的な市川庄の領主になった時点で、表門神社神主家が市川氏を称し、甲斐市川氏が成立したとみております。『新編武蔵風土記稿』にあるとおり、武蔵国比企郡田中村の市川家には系図が伝えられ、新羅三郎源義光の子息覚義を始祖とする系を伝えております。この系図の裏には「甲斐源氏市川家の系図被見の處、表出の由惣て相違之れ無し仍て件の如し 印 天文十二年卯三月 左京太夫信虎 印  飯富兵部少輔承之 花押」とあり、これは東大史料編纂所により裏書き・印・花押はすべて本物と鑑定されているので、当系図は天文十二年以前の成立であることが分かり、甲斐守護職の武田氏も、武蔵国比企郡の市川氏のこの系図を認めているので、覚義以後の系図の内容は信用してよいと考えます。
 
  武蔵国比企郡の市川氏の系図を参照しますと、覚義は甲斐国市川庄に来ていることになりますが、これは、兄刑部三郎義清が子息清光とともに甲斐市川庄に配流されたことと関係があると思います。覚義が甲斐市川庄に来た時、覚義が表門神社の市川氏の婿となり、覚義も市川別当を称したのでしょう。覚光は市川氏女と覚義との間の子と思われます。
  一方、比企郡市川氏の系図によれば、覚義は秩父次郎太夫重註:重の誤記)の婿とあります。おそらく次男倶義は秩父重の女との間にもうけた子と思われます。覚義が秩父氏とも姻戚関係にあったので、市川氏が武蔵国に進出することになったと考えます。そのことは、『曽我物語』“十番ぎりの事”に五郎が甲斐の市川党の別当太夫の次男、別当二郎定光に「わ殿は盗人よ、御坂・かた山・都留・坂東にこもりいて…」とあって、甲斐市川氏の勢力範囲が坂東、つまり具体的には武蔵国比企郡(倶義系市川氏)に及んでいたことを傍証しております。ですから、武蔵国比企郡の市川氏に関しては、甲斐市川氏の出自とみて間違い無いと私は考えます。
  さて、甲斐国の市川氏は覚義−覚光とつづきますが、次の行房は表門神社の市川氏女と刑部三郎義清との間の子で、はじめ清房と号し、市川氏をついで行房と号しました。この人が、『吾妻鏡』に出てくる市川別当行房です。行房が義清の子息であることは、一蓮寺または恵林寺蔵の武田氏の系図にありますので信用してよいと考えます。
  行房の子息は三人で、嫡男行重の系は「行重−行政−行照−行宗−行氏…」と続き、この系統が表門神社の神主家の筋です。行房の次男は曽我物語に出てきた別当次郎定光で、「定光−祐光−高光(掃部允)」で、この系統が信州の市川氏になっていった模様です。行房の三男は定房で伊勢村松に住し、子孫は村松氏を称しました。
 
  以上が、管見の史資料から伺える甲斐市川氏の系譜のあらましです。

  倶義系の市川氏からさらに上州市川氏(新田家臣祖裔記に見える新田義興の家臣市川五郎の長男太郎光重・次男藤次郎・三男藤三の系統、長男光重は世良田政義に属して信州浪合にて戦死しており、光重の子孫は現在の愛知県に流れた模様です。次男と三男は上州広沢に居住し、次男はさらに同国砥沢に転居して南牧市川氏の祖となり、その後また次男は黒川に転居し、子孫は武州半沢郡の民家に下りました)が分岐しました。
  このように、覚義以降の甲斐市川氏とその分流の動向はわかったのですが、覚義以前の甲斐市川氏の系譜・本姓がわからなかったので、樹童様に尋ねた次第です。
  樹童様御提示の甲斐市川氏=和邇部臣の一族との説は、現時点に於いて、それを否定する史料は出てきておらず、ほぼ妥当な説と考えております。樹童さまの御説、市川氏の出自を考える上で、大変参考になりました。
 
 <参考資料>
  @中倉茂氏・鈴木幹男氏共著「武家政権鎮護の寺があった」
  A武田光治氏他「市川一族」
  B『家系研究』(第38,39号)所収 市川香舟氏「市川一族大要(上)(中)」 
  C新田家臣祖裔記


 (樹童のコメント・問題提起など)

 市河(市川)氏について、様々なご教示ありがとうございました。上記ご提示により、多くの検討すべき点があきらかになってきたので、当方が気づいたことや問題意識をもったことについて、順不同であげさせていただきたいと思います。その検討に当たっては、上記市川香舟氏の論考「市川一族大要(上)(中)」が参考になりました。 
 
1 武田一族と市川一族との関係には、様々な混乱があること
 源義光の末男覚義については、『尊卑分脈』にはたんに「阿闍梨」と記し、その兄・平賀四郎盛義の末子にも覚義をあげて、「寺、号刑部卿阿闍梨。建仁三(注:1203年)七廿六被誅了」と記されます。源義光には刑部丞・刑部少輔と同書にみえるから、国史大系本の上註で指摘される二人の覚義は同人というのは妥当であろう(すなわち、義光の実子で、盛義の猶子か)、と考えられます。ただし、覚義が建仁三年の被誅殺というのは、年代が合わず、かつ『東鑑』にも見えず、疑問が大きいところです。『岩尾系図』(東大史料編纂所所蔵)には、覚義について、「三井寺阿闍梨、居金光院」とあって『尊卑分脈』の「寺」(近江の天台宗の三井寺園城寺のこと)と記すものと符合するものの、覚義が実際に甲斐に来て市川氏の祖(古族市川氏の婿とか猶子とされたか?)となったという所伝は、確認できません。『尊卑分脈』の記事の重要性からみても、また鎌倉期の市川氏が藤原姓を称していた点などからも、市川氏が源姓の僧覚義を先祖とすることには大きな疑問があるのかもしれません。
 また、武田清光の弟(刑部三郎義清と市川氏との間の子という)として、「清房」という者の市川氏の祖は、信頼できる系図には見えません。ご指摘の「行房が義清の子息であることは、一蓮寺または恵林寺蔵の武田氏の系図にあります」ということは、私は確認しておらず、他の武田氏系図からは、むしろ信用してよいのか疑問があります。
 ただ、「青木家譜系図」(中田憲信編『各家系譜』1所収)には、武田清光の弟・方原次郎師光の子の高光に「市川別当大夫、初名行光、居甲斐国八代郡市川」という記載があり、年代的にこの高光(行光)が源平動乱期の市川行房と同人ではないか(あるいは行房が清房と同人で行光がその子〔猶子〕か)と考えられます。覚光という人物が仮に実在であれば、その子孫が藤原姓の「光・房」を通字とした系統につながるように思われます。
 このように、市川氏が源姓を称したり、源姓の武田一族の市川氏が生じたのは、武田氏の祖・刑部三郎義清親子が甲斐市川庄に配流されたことと関係あったとみることには賛意を表します。武田一族の安田義定の子孫に市川氏が出たという系譜所伝(その子の志摩四郎忠義の子が市川義澄という)や同じく武田一族の秋山氏から市川氏がでたという所伝もあるとされますが、長い中世の期間を通じて、武田一族と市川氏との間で様々な通婚・所縁が生じて、武田一族から出た市川氏もあった可能性がありますが、真偽はわかりません。
 
2 市川本宗家
 行房の子の行重の後が表門神社の神主家となって本宗家とされたというのは、所伝のとおりかもしれませんが、行重はその号「別当五郎」からいって、「別当次郎行光(定光)」の弟とされるのが妥当ではないかとみられます。上記の市川香舟氏論考に拠りますと、市川三郷町上野の総本家の当主市川行治氏には所蔵の系譜があるとのことですが、香舟氏が紹介する系図には、譜註記事がまったく記載されていないので、検討のしようがないというところです。
 
○村松という氏
 村松氏については、和邇部姓富士氏の一族で駿河国安倍郡村松邑に起ったものもあり、甲斐の八代郡から起った武田一族と称する村松氏もあって、刑部三郎義清の後といい、市川同族でもありそうな感じも伝えています(『姓氏家系大辞典』第5,6項)。
 なお、「行房の三男は定房で伊勢村松に住」については、少なくとも「伊勢村松」というのは疑問だと考えられます。
 
3 武蔵の市川家系譜への様々な疑問
 『都幾川村史資料3』には、「市川家系図」が所載されるが、その解説には、「本系図の成立時期は不詳であり、内容の信憑性についても疑問があるが、都幾川村内に伝存する系図であり、また、源義賢の遺臣らが明覚郷などに土着して萩日吉神社の流鏑馬祭りを創始したという伝承を記したものなので、参考史料としてここに掲出した」と記されます。
 具体的な問題点としては、
 (1) 香舟氏が武蔵国比企郡に住んだ武蔵市川氏の総本家として掲げる系図には、通字と祐光の位置づけなどで疑問があります。
 (2) 戦国期の「光治−信治」には、まったく別系の系図が伝えられており、それに拠ると、甲斐の市川氏とは関係がなかったのではないかと考えられます。すなわち、『古代氏族系譜集成』779頁に所載の「武蔵の卜部」系図に見える「市川久治−市川俊治」は「光治−信治」の誤読とみられ、この系統は中臣連の祖・梨富命の子の兄勝命の後裔であって、室町前期くらいから「治」を通字として続いてきています。卜部権大夫直治の子の光治が甲斐の市川氏光景の猶養子となったことも可能性としてないわけではないでしょうが、違う地域であったことから、私には疑問のように感じます。
 (3) 同系図には源義賢の遺臣として、「七名八騎」があげられますが、これら七名の苗字・姓氏には大きな疑問があります。これに限らず、同系図の記事内容には、中世以降の俗伝が多く含まれており、武蔵市川氏の歴代の通称にも疑問が見られて、おそらく江戸前期くらいの時期に作成された偽書系図の疑いが強まります。比企郡の市川氏については、歴代の記事は信頼できる史料にまったく見えず、松山城主に仕えた以降からしか信頼できない可能性も考えられます。
 
 (06.2.4掲上、08.5.18追補)



 <その後のはっち様よりの来信> 06.2.06受け

 重ねて今回のご教示に対する私見を送らせていただき、今後の御検討の参考に供します。
 
(1) 武田一族と市川一族との関係に混乱があること
 これは確かにご指摘の通りです。覚義については園城寺伝記の中の清和源氏系図の覚義の項には「寺門刑部禅師、花林房。後金光院」とあり、同書同じく園城寺伝記にある金光院院主相伝次第事には「●覚義 最初院主−義慶−良遍…」とあり、同じく園城寺伝記の中にある源義光遺文の金光院聖跡事に「此仏閣者、新羅三郎之建立、覚義闍梨之住持也」とあり、尊卑分脈の記事を裏付けております。平賀盛義の子にも記載があるのは、ご指摘の通り、兄盛義の猶子となったことによるものでしょう。
  ただ、尊卑分脈にある没年月日は疑問で、武蔵国比企郡都幾川村田中の市川氏の過去帳では寿永元年十一月二十日の没が伝えられており、年代的にはこちらが事実に近いものと推定されます。源義光の遺文の「金光院聖跡事」(永久二年七月廿一日付け)の文中には、義光が金光院に灯明料として寄進した所領の一部を、覚義が処分して、覚義が置文を残して金光院を退出したような書きぶりの部分があり、それは事実と思われます。金光院を退出した覚義は、武蔵国比企郡都幾川の市川系図を参照すると、後に覚義は兄義清を頼り、甲斐市川庄に来たと思われ、表門神社の市川氏の聟となり、市川氏が白河天皇から下賜された“文殊画像”を安置し祀った文殊院(堂)の別当を務めたと思われます。
 比企郡の市川系図には覚義の長男として覚光が見え、覚義と同じく文殊院別当を称しているので、甲斐市川氏女と覚義の間の子と推定されるところです。さて、行房についてですが、「市川一族」の記事や見聞した資料によりますとよると、刑部三郎義清の子とも、黒源太清光の子ともされますが、御提示された青木家譜系図の記事を参照しますと、武田清光弟師光の子高光(初名行光)と同人とも考えられますね。高光は後に義清か清光の猶子となり清房に改名、さらに甲斐市川氏の名跡をついで行房と称した。上記の理由により、甲斐市川氏に源義光の系流の初期の甲斐源氏の氏人が聟となり猶子となった関係で、甲斐市川氏が源朝臣姓を称するに至ったと考えます。
 
(2) 市川本宗家については、行房以降は混乱はないので、ほぼ信用してよいと思いますが、それ全体の系流につきましての考察は、表門神社神主家の系図の公開を俟つものです。
 
(3)村松という氏
 これの典拠は「市川一族」によります。それによると市川別当行房の子に定房を載せ「伊勢村松に住す、子孫は甲州に帰りて、村松氏を号す」とあります。姓氏家系大辞典に載る武田氏族の村松氏はこの系と考えます。定房の伊勢住が事実なら、伊勢には市川姓が多いので、伊勢の市川氏の祖の可能性があるでしょう。
 
(4)武蔵市川家の系譜への疑問
 この武蔵国比企郡の市川氏は、所伝系譜では覚義が秩父次郎太夫重澄の聟となった縁で帯刀先生義賢の味方となり、義賢が悪源太義平に討たれた後、他の六名の義賢家臣とともに比企郡明覚郷とその周辺の郷士となったとされる家系で、この義賢の家臣と市川氏の子孫は、鎌倉時代より義賢の霊の鎮魂のため、近在の萩日吉神社に“やぶさめ”を奉納し、その行事は現在も続いています。 ですから、基本的には、武蔵国多摩郡のト部姓市川氏とは繋がりません。『古代氏族系譜集成』によりますと、多摩郡のト部姓市川氏が市川を称したの久治・俊治ですが、これを直ちに比企郡の戦国期の市川光治・信治と同人とするのはやや牽強付会にすぎると思います。もし同人ならば、系譜集成の当該事項の傍注に「イ本光治・イ本信治」とあるべきですが、それがないのは、やはり比企の光治・信治と多摩の久治・俊治は別人・別系で多摩ト部の市川と比企郡の市川は直接的な関係は見られないと考えます。実際は比企郡の市川氏がたまたまト部氏市川氏と同時代に治字を諱名の通字していたというのが、史実と考えます。
 蛇足ながら、比企郡市川氏の鎌倉期の系譜に見える祐光は、比企郡市川氏の過去帳には永仁五年二月五日の没が伝えられ、吾妻鑑等に見られる市川祐光とは同名異人と見るのが至当と考えます。
 以上ご参考までに。

 
 <樹童の感触(1)など>
 ご教示及び貴説提示を感謝します。
 当方の手元にあまり資料がないため、見解を示すまでには行きませんが、とりあえずいくつかの感触を記しておきます。
 
 (1)について
 覚義の尊卑分脈にある没年記事の「建仁三年(1203)七月二六日に被誅了」はたしかに疑問ですが、武蔵国比企郡都幾川村田中の市川氏の過去帳に見えるとされる寿永元年(1182)十一月二十日没も疑問がないわけではありません。というのは、 甥の大内義信の没年は不明も、『東鑑』の記事からいうと、建仁二年(1202)三月の源実朝元服の時には加冠役を務め、承元元年(1207)二月までには死没していますので、この関係だけからいうとそのようにも思われますが、父の義光の生没から考えると、疑問も出てきます。
 父の義光の生年は1045年で、大治二年(1127)に八三歳で死没していますから、覚義が父の五十歳の時の子供で、父と同様な長寿であっても、1076年が死亡時期となるからです。普通に考えると、1050ないし1060年代に死没したことになるのではないかということになります。覚義が市川氏の先祖となるという系図には疑問があり、その諸子も武田一族の系図には見られず、同様に疑問があります。
 
 (4)について
 『古代氏族系譜集成』の記載の基となった『百家系図稿』はくずした草書体で書かれているため、久と光、俊と信とは相互に誤読されやすい漢字となっています。
 ところで、市川信治の子の美作守忠治は、武州横見郡松山城主の上田能登守朝直(1494生〜1582没)に仕えたとされ、その子の志摩守治本は松山城で討死(秀吉の小田原北条氏征伐の時〔天正十八年・1590〕か)とされますので、市川信治が甲斐の武田信玄に仕えて天正三年(1575)に甲斐韮崎で戦死したという所伝に大きな疑問がでてくるわけです。市川氏は何時、武蔵に戻って上田氏に仕えたのでしょうか。武田勝頼の滅亡(1582)の前なのでしょうか。この辺に疑問が出てきます。

  なお、松山城主の上田氏は武蔵北部の有力武家で、扇谷上杉氏の家老をつとめた家であり、後に小田原北条氏に従った。その出自は謎ともされていたが、鈴木真年編『百家系図』巻53によると、武蔵七党の一、西党日奉姓の出であり、戦国末期では能登守(案独斎)朝直、その子の能登守(蔵人佐)長則、その弟の上野介朝広(憲定)の三代が活動した。天正十八年の小田原の陣では上野介朝広が小田原に籠城したが、その後の行動は不明となっている。
  上田氏の文献としては、『武蔵松山城主上田氏 : 戦国動乱二五〇年の軌跡』(梅沢太久夫著、さきたま出版会 , 2006.2)がある。同書では祖先部分の系譜は不明とされている。その内容は、「戦国期には常に戦略の最前線として、幾多の合戦の舞台となった松山城。その城主・上田氏の戦国史における位置付けやその本拠、また菩提寺過去帳に基づき一族の系譜について検証し、上田一族の250年を考究する。」とされる(都立中央図書館の説明文)。
 
 (06.4.17掲上、08.5.18、09.6.4追補)
 

  <その後の樹童の追補>

  古族市川氏の系譜

  八代郡の式内社の表門神社のごく近隣に矢作という地名が見え、その南西近隣には同郡式内社の弓削神社ともに市川三郷町域)が鎮座します。矢作・弓削という地名の組合せは、北九州の筑前・筑後や河内など物部と縁由の深い地域に見られるものであり、矢作部・弓削部と物部とは密接な同族関係にあります。
 表門神社の祭神は、諸説ありますが、全国の同じ神社名からみて、天孫族系の忌部の祖・天太玉命(布刀玉すなわち経津主神、天目一箇命であって、物部氏族の祖神でもある)とみられ、智恵の神「文殊」からはその物部同族の祖神・少彦名神に通じるものがあります。
 甲斐の都留・巨摩両郡の郡領として物部同族の矢作部連が史料(『三代実録』貞観十四年三月条など)に見えており、巨摩郡式内社に同名のウハト(宇波刀)神社があげられ、巨麻郡には市川郷が『和名抄』にあげられますから、これらウハト神社は経津主神を奉斎する矢作部連が祀った神社とみられます。
  このように考えていくと、市川文殊ともいわれる表門神社の祠官家の市川氏は、矢作部連の後裔に出たと考えるほうが妥当ではないかとも考え直しました。 
  (07.12.24 掲上)

 古代中世の当初の市河荘はかなり広大であったのが、この初期市河荘の中枢があったとみられる地域は鎌田荘となり、市河荘は南遷したという記事が地名辞典関係に見えます。すなわち、甲府市西南部の宮原町を中心とする地域から隣の昭和町や玉穂町(現中央市)にかけての地域に初期市河荘があったとされます。この甲府市宮原町には巨麻郡式内社の宇波刀神社の論社があり、鎌田の総社とされる事情があります。この地域におかれた宮原里には和爾部田があり、同里の隣には市河里があったと史料に見えます。
 同社の社伝によると、堀河天皇の寛治年中、新羅三郎義光の勧請といいますが、義光の勧請という点にまず疑問があります。巨麻郡式内社の宇波刀神社の論社には四社もあり、JR甲府駅の北方近隣の美咲に鎮座する御崎神社も無視しがたいところです。当社は「塚原村御崎明神」にあたるとされ、海神族の祖神たる大国主神・ 保食神などを祭神とする事情もあります。
  こうした地理などの諸事情からみると、和邇部と宇波刀神社、市河とのつながりが強いと思われます。やはり、市河一族は海神族の和邇部との関連が考えられると考え直したところです。
  (08.5.18 掲上)



 <その後のはっち様改め市川@武州荒木様よりの来信> 08.4.28受け

 先年は、市川氏について種々御貴見をお聞かせ戴き誠に有難うございました。
 その後の資料収集により、以前送りましたメールの内容に一応付加すべきことが出来ましたので、今後の参考のため、再度メールさせて戴く次第です。

1、市川別当行房の実系
 
 先年のメールでは、行房を武田冠者義清或いはその子黒源太清光の子息としましたが、愛知県蒲郡の郷土史研究家の方のホームページ「甲斐源氏と形原市川党」に掲載された系図によりますと、「義清−師光−行光−行房」とあり、行房の兄弟に貞光(定光)・行平・行氏を載せます。この系図の原資料は恐らく蒲郡の市川氏の所伝系図(参考に記せば形原神社の神主も市川姓)だと推定されますが、これは樹童様が先年示された青木家譜系図の記事と一致しますので、蒲郡の郷土史研究家の方が公表されているように、行房の実系は「○義清−師光(方原下司次郎)−高光(初名行光、市川別当太夫)−行房(市川別当、弟定光・行平・行氏)」と訂正致します。高光は恐らく比企郡の市川系図に見える覚義の子市川別当覚光の養子になり、甲斐市川氏を相続したと思われます。
 
 
2、比企郡市川氏の系図について
 
 去年(2007)十二月、比企郡ときがわ町の市川総本家の御当主よりご連絡を賜り、所伝の系図並びに霊会日鑑(過去帳)を拝見させて戴きました。
 系図を拝見しますと、冒頭から光治の項までは一筆で書かれており、次の信治から末尾までは書き継がれており、系図そのものは市川光治が執筆したものと見るのが至当と愚考します。系図の裏には「甲斐源氏市川家之系図遂披見之處表出之由惣相違無之仍而如件 印 天文十二年卯三月 印 左京大夫信虎 印 飯冨兵部少輔 承之 (花押)」と大書されており、この花押は東大史料編纂所の鑑定で本物と証明されております。また、光治の項には「依甲州館之催促比企郡七騎百八十人而成味方此時依館之命系図相改裏御判被成下」とあり、この系図の裏書きの事情を伝えております。以上の系図そのものの検討から、天文十二年(1584)をそれほど遡らない時期に市川光治が執筆し、甲斐武田家に仕官の際に提出し、武田家より比企市川氏の系図の内容に相違が無い旨の認証を得たものと愚考します。
  市川信治の子・市川忠治は市川香舟氏の発表された系図によりますと永禄十二年(1569)の死去が伝えられますが、比企郡の市川総本家の過去帳には市川忠治夫妻の戒名・没年月日の記載が無く、市川家の過去帳からは、没年月日等は不詳です。ただし、“天正庚寅松山合戦図”には市川美作守忠治・市川小平(市川香舟氏のご教示では市川信治氏の弟・市川昌治とのことでした)の両名が松山城惣曲輪の外に見え、市川忠治の嫡子市川志摩守治本(合戦図では治元と記載)が北曲輪の外に名前が見えており、系図の市川忠治の項には「市川美作守附植田能登守籠松山城軍敗後七騎共又成郷士」とあり忠治の孫市川吉本の項に「随祖父帰住明覚郷」ともありますので、没年月日は不明ですが、市川忠治の天正十八年(1590)以降の生存は間違いないです。
  少なくとも、系図その他の史料を見る限り、比企郡の市川氏は同郡内の馬場・横川・小林・加藤・伊藤・荻窪とともに源義賢の旧臣の家系伝承のある家で、現に鎌倉時代以来、萩日吉神社で行われる流鏑馬(埼玉県の文化財に指定)に上記の家々ととも参加しており、相当後世に市川を称した武蔵ト部姓の市川氏とは繋がらないものと愚考するものです


 <樹童の感触など>

1 種々のご教示等、ありがとうございました。
 その後は、殆ど検討をしておらず、新しい史料にもお目にかかっていない状況にありますので、さしたるコメントができず、繰り返しになる部分もありますが、次のように考えます。

 (1) 古社の神主家を務める家に、清和源氏や桓武平氏などいわゆる貴種の流れはまずないと思われます。 三河の形原でも神官を出しているのなら、ますますその感を強くします。

 (2) 武田家より得た認証が仮に本物であったとしても、それはその当時の認識であってそれが史実としても正しいと裏付けるものにはなりません。武田家において、厳密な系図管理をしていたかどうかも疑わしい事情にあります。市川光治が武蔵の比企から甲斐武田家に仕官したという事情は確認できるのかもしれませんが、なぜ武蔵に戻ったのかという事情や時期も不明だと思われます。
  武田家滅亡前に武蔵に帰ってきて、横見郡(後に比企郡)の松山城主上田能登守(朝直・長則親子がともに能登守を名乗る)に仕えたのは、本貫が武蔵であったことを意味するものと思われます。

 (3) 源義賢の旧臣の家系のなかに、同じ清和源氏一族がいたということも疑わしく、比企郡に旧臣の家が残ったとしても、おそらく元からの在地武士の流れとみるのが自然です。覚義から光治に至る系図の流れは具体的にどうなっているのでしょうか。

 (4) 武蔵国には多摩郡宮沢村(昭島市宮沢町)の御獄神社の神職にも市川氏がおりますが、比企郡の市川氏もこれと同族と考えられ、甲斐の市川氏とは別流と考えるのが自然です。多摩郡四ツ谷村にも市川氏がおり、市川別当太郎忠隅の後と伝えます。これら武蔵の市川氏は、ほとんど皆、同族ではないでしょうか。
  なお、御嶽神社は武蔵に多く、青梅市御嶽山の武蔵御嶽神社を本社的な位置におきますが、同社は多摩郡式内の大麻止乃豆乃天神社の有力な論社とされます。大麻止乃豆乃天神社とは中臣連の祖神の大麻止乃豆神すなわち武甕槌神を祀る社ですから、この市川氏は出自不詳とされますが、武蔵卜部の流れを汲むものとみられます。

  以上は、とりあえずの感触であり、さらにいろいろ勉強したいと思っております。

 (08.5.5 掲上、5.22追補)



 <市川@武州荒木様からの返信>  08.5.8受け
 
 以下、今回、樹童様提示の見解に就き、私見を記し、今後の参考に供するものです。
 
、樹童様のいうように、古社の神主職を務める家に、清和源氏や桓武平氏などの貴種の流れはまずないという見解に基本的には賛同するものです。ただし、甲斐市川氏の様に、甲斐の古族に甲斐源氏の系流の人物が婿入りして氏・姓を改姓する場合もあり、いくつかの“例外”もありうるものと考えられます。ちなみに、蒲郡の郷土史家のホームページに載る伝承では方原次郎師光の子には成光と行光があり、平家の圧力により成光は殺されたが、甲州にいた行光は難を逃れ市川党の一族として後、形原に住んだと言います。形原神社の市川氏ですが、形原神社略記によりますと「神職 大化二年より天正七年迄藤原氏、慶長十六年より市川氏現在に至る」とありますので、形原の市川氏が形原神社の神職に就いたのは近世初期に係るので、この場合は貴見にはあまり参考にはならないかも知れません。
 
、「本貫が武蔵…」について
 確かに、貴見は有力な御見解ですが、『曽我物語』に『つぎに甲斐国の住人に、市河党に、別当次郎、すすみ出て申けるは(中略)「是は甲斐国の住人市川党の別當太夫が次男、別当次郎定光」とぞこたえける。五郎ききて「わ殿は盗人よ。御坂・かた山・都留・坂東にこもりいて…(後略)』とあり、鎌倉初期の甲斐の市河(市川)氏が御坂・かた山(不明、あるいは形原の誤記?)・都留・坂東に勢力を張っていたことを書いており、坂東…つまり現在の関東地方の市川氏で鎌倉初期以前からの甲斐の市川氏との関係を伝承するのは比企郡ときがわ町の市川氏で、南北朝時代から上野国に新田義興に属した市川五郎(甘楽郡南牧村の市川氏は甲斐源氏奈古氏流との家伝がある)の系統の活動が見えます。
 『曽我物語』に見える甲斐市川氏の勢力が及んだ坂東とは、武州比企郡ならびに上州の市川氏を指した可能性が高く、もし、比企郡の市川氏の覚義後裔説が誤伝でも、源義賢に味方した比企郡の市川氏に関しては、平安時代後期に甲斐の古族の市川氏から分流した可能性も否定出来ないと推測しております。なお、比企郡ときがわ町の市川家の系図では、源義賢は秩父次郎太夫重ママ)の養子で、覚義も秩父次郎太夫重の聟であったことから、覚義は源義賢に味方したと記します。
 
、ときがわ町の市川氏の系図は活字本としては、既に“埼玉叢書”ならびに、“都幾川村史史料 3 古代・中世史料編”に系図部分のみ全文が収録・翻刻されております。但し、埼玉叢書本はやや注意が必要で、単純な誤字脱字や、編者による意図的な書き替えがあり、その点では都幾川村史資料本の方が原本に忠実です。ときがわ町の市川家の系図における覚義から光治に至る系図の流れと記述は、上記既刊本にて確認していただければ幸いです。
 
、武蔵国多摩郡の市川氏は宮沢村の市川氏も四ツ谷村の市川氏も同郡内ということもあり、同族の可能性もあるとの感触はありますね。多摩郡と比企郡の市川氏が同族の可能性が高いという樹童様の指摘に関しても、現時点では否定出来ないものですので、今後の資料発掘と研究に俟つことといたします。
 
 これからも、私も倦まず弛まず勉強してまいります。
 

 <樹童の感触>
  ご連絡・ご教示、ありがとうございます。
  いますぐ、ご教示の資料にあたることはできませんが、いずれそのうちに閲覧して、そのときに感触を示したいと思います。とりあえず、貴見を掲示するにとどめます。
   (08.5.14 掲上)

  その後、ご教示により「市川家系図」を見ましたが、源義賢の遺臣という七苗字の記事なども具体的に見て、これら関係の系譜記事には大きな疑問があると感じます。総じて、まずあり得ないような系譜記事だからです。
 旧臣七氏のうち、市川氏をのぞくと、@源頼光嫡流頼政の苗裔の馬場兵衛次郎源頼房兄弟、A信濃源氏満快の後の上野住人横川十郎大輔源義輔、B相模住人小林二郎太郎源義之、C藤原秀郷後裔の安房住人加藤内蔵助藤原貞明、D桓武平氏直方の後裔の伊豆住人伊藤小平太平直道、E相模住人で三浦の一党津久井荻野別流荻窪弥次郎平祐広、と記されますが、これら全てが信頼できる系譜ではありません。
  河内源氏の東国進出に伴いその部下になった諸氏が、東国の在地古来の土豪ではなく、こうした名門諸氏であったというのは極めて疑問なことです。市河覚義が秩父重隆の女婿になったという所伝も、この系図が伝えるのみで、秩父一族の系図にはまったく見えませんから、これも同様に疑わしいと思われます。

 「市川家系図」には、多くの疑問な記事があり、比企郡明覚郷にあった市川氏の活動が信頼できそうな史料にまったく見えないことから言って、戦国期より前の系図の記事は疑わしく思われます。市川家歴代の通称も、十郎、重兵衛・重左衛門・重右衛門くらいしか見えないのは不自然で疑問です。
  古伝にあったとは思われない俗伝(例えば、源頼義の子に伊予河野氏の祖・親清をあげたり、木曽義仲の子に朝比奈三郎義秀をあげたりすること)も、その系譜記事に見え、これらが流布した時代に作成されたことが窺われます。こうした伝承を市川光治が知っていたとも思われません。
  このほか、仔細に検討すればするほど、系図の後世偽作性が感じられ、現段階では、残念ながら、史料として用いられないという見方に傾かざるをえないところです。まだ検討はしていきたいと思いますが、とりあえずの感触です。

 三河には市川氏が多く、松平一族深溝家から出た市川氏も知られますが、これらも古族の後裔とみられ、宝飯郡の形原神社の旧神主に市川内匠、犬頭神社の旧社家に市川氏などが徳川時代の記録に出ていると太田亮博士が述べます(『姓氏家系大辞典』)。形原神社の神主に市川氏がなったのは江戸期からだという所伝もありますが、これら三河の市川氏が甲斐源氏から出た方原二郎師光の後裔だとする裏付けもありません。おそらく当地の古族、穂国造(海神族の流れを汲む丹波国造と同族)の一族の末流であって、甲斐の市川氏とは別族ではないかとみられます。
  このように見ていけば、三河、武蔵の市川氏は各々甲斐の市川氏とは別族ということになりますが、中世以前の系譜を失って、系譜の知られた他氏のものに系図を接続させる例は多くあります。ときがわ町の市川家には、系図に付随・関連するような古文書を伝えていないようであり、系図だけが単独に江戸期あたりに作られた可能性があります。この辺も奇異なもので、北信濃の市河氏に伝わる文書・系図と対比すれば、疑問が大きくなることも自ずと分かります(下の6を参照のこと)。

 市川氏については、実のところ、考えれば考えるほどよく分からなくなります。信濃の市河氏の系図が明確になれば解明の一端が分かるとは思うのですが、この系統が伝えた『市河文書』にあると思われる系図も、中野氏の跡を承けた市河重房から後のようであり、重房の先は不明です。

 『市河文書』についても触れておきます。(説明がなされる主なリンク

  信濃の市河氏については、高井郡志久見郷(現下水内郡栄村志久見一帯)を本拠地にして戦国期まで存続した。戦国期に武田信玄が信濃に進出すると、市川信房はその支配下に入って信越国境の北端を守ったが、武田氏の滅亡後は織田氏、次いで上杉氏に従い、慶長三年(1598)の秀吉による上杉景勝の会津移封に伴い、家臣団として米沢に移って祖先伝来の地・志久見を去った。このとき、伝来の「市河文書」を持参したが、これが明治に米沢在住の伊佐早謙氏に渡り、昭和には酒田市の本間家の所蔵となって、重文指定がなされた。
  同文書は平安時代末期の嘉応二年(1170)から戦国時代末期の永禄十二年(1569)の武田氏朱印定書までの146通まであり、東大史料編纂所にも写しがある。ところが、平安・鎌倉期の文書の大部分は中野氏関係の文書であり、以後は市河氏関係とされるから、「市河文書」によりその先祖が分かるわけでもない。また、この文書類のなかには、戦国の動乱期の文書が皆無であって、これが現在、北海道釧路市のご子孫の家から譲られた坂井氏のもとに市有形文化財として大切に保管されているとの報告がある。こちらには、武田晴信書状や藤原姓市川氏系図など47通の文書があるとされる。これら史料からみると、甲斐の市川氏が武田一族から出たという系譜は、後世の仮冒ということになる。

   (08.5.18〜21 掲上)



  <市川@武州荒木様からの再返信>  08.5.22受け

 種々、御見解を教示され、有難うございます。

  茂木和平氏著「埼玉苗字辞典 第一巻」によりますと埼玉県比企郡ときがわ町の市川氏に就きましては、以下の別の記述があります。

『一  蘇我氏の臣市川氏   蘇我稲目は宣化朝元年より欽明朝三十一年まで大臣として朝政を司る。比企郡平村(都幾川村)萩神社山王宮伝来書記に「舒明天皇御宇、正二位上曽我伊奈免大臣・舒明帝三十代の臣也。大臣は三芳野里に奉建立す。伊藤市川の両家伊奈免の諸臣にて、依之両家奉守者也」と見ゆ。舒明は欽明の誤りなり。百済族蘇我氏と同族の伝承であろう。風土記稿平村条に「山王社、村の鎮守なり。当社は帯刀先生義賢討れし後、その臣下の子孫なる田中村の市川氏、馬場村の馬場氏、瀬戸村の萩久保氏、腰越村の加藤等の先祖まつりて鎮守とせり。天福元年十一月二十六日始て神事を行ひしより今も流鏑馬をもて例祭となせり」と見ゆ。古代以来の土着者市川氏等は源義賢に従う。
二  清和源氏市川氏   比企郡田中村(都幾川村)に小名市ノ川あり、古代一(市)族の居住地なり。市川氏は当地方に多く存す。イチ条参照。但し、家伝に甲斐国巨摩郡市川郷より起こると云う。源義光の子覚義が義賢の臣では時代があわず。また、太平記の市川五郎も当家の人となっているが上州人である。田中村市川家系図に(以下略)』

  この様に、ときがわの市川氏については、系図とは別の伝承や資料も存するので、今後はご指摘を踏まえつつ、この点も視野に入れて、武蔵市川氏の出自を考えてみたいと思います。

 なお、ときがわの系図に関しては、実物を実見した感触は、後世の江戸時代の系図作者が作ったレベルの低い偽系図の類ではなく、光治迄は一筆書きながら、光治の子信治からは末尾まで、歴代が一代一代、ほぼ異筆で書き継いでおり、光治が作成しその子の信治の子孫が相続したものであることが分かりますので、戦国時代の光治が武田へ仕官する際に作成した系図であることは動かないものと判断しております。光治作成ならば俗名は数代前までは実名と判断してよいと愚考します。これは机上と頭の中のみでの検討ではなく、実物を実見した上での見解であることは申し添えております。
  同家の過去帳「霊會日鑑」も古い部分は一筆書き(系図の筆跡から宗本か)ですが、それ以降は書き継がれており、いわゆる偽作のあとは見えませんでした。長谷川順音氏著“自分のルーツが解る本”によると戒名は慶長年間に追贈されたものとのことで、過去帳もこの頃に作成されたものと見るのが至当と考えます。過去帳の性質から考えますと、古い時代の歴代の俗名は光治作成の系図に引きずられてはいるものの、全くの虚構とは考えられず、光治以降はもちろん、初代を源義光の子である覚義に比定しなければ、過去帳に見える寿永元年に亡くなったこの家の初代から光治に至るまでの歴代等の没年月日は史実を伝えている可能性を感触として感じております。

 曽我物語の甲斐市川党(市川氏)の勢力範囲を示す記述の中に見える“坂東”(関東地方)も気になるところですので、この点も、今後も研究していく所存です。


  <樹童の感触>
  いろいろな情報、ありがとうございます。

1 江戸期に作成された系図で、遡って記述されたものが、必ずしもレベルが低いとはいえませんが、問題となる「市川家系図」には、俗説が多く取り入れられていることが気になります。
2 同系図における「光」通字の部分にあっては、あるいは甲斐の市川氏の系図をなんらかの形で取り入れたことも考えられます。この辺は、甲斐市川氏の系図が分からないので、推測にとどまりますが。

  いずれにせよ、さらに多くの史料とも照合して検討を加えていく必要があることを感じています。

  (08.5.22 掲上)



 <市川@武州荒木様からの来信>  08.6.1受け

 先日は、掲示板上にてのご教示有難うございました。
 いわゆる市河文書で有名な北信濃市川氏の系図については、金井喜久一郎氏の「市河文書雑記−釧路 市川家の文書概観−」によりますと、「系図は『藤原姓市川氏系図』と題し、前半は中野氏の系図に結んで、市川重房を『市川三郎、左衛門尉、実中野一族也、旧領市川城、自是号市川氏、法名仏念』とし、以後市川氏歴代の系譜となっている」と述べられていて、この市川氏は藤原姓中野氏に系を繋いでいる様です。
 ただし、北信濃の市川氏の祖である市川三郎重房は、その重房という実名から、甲斐の市川別当行房・同別当五郎行重親子との系譜の繋がりが想定されるところで、承久記には、小笠原長清が承久の乱に海道軍に参加して上洛の折り、“小笠原一の郎等”として「市河新五郎」が見えます。この承久記に見える市河新五郎は、実名(諱)は不明ながら、その“新五郎”の名から市川別当五郎行重の子の一人であると推定され、この市河新五郎の子が市川三郎重房である可能性も高く、断定は出来ないものの「市川別当五郎行重−新五郎−三郎重房」という系譜が想定されるところです。
 
 もう一つ、鎌倉期の信濃に見える市川氏は市川別当行房の次男とされる市川別当次郎定光−左衛門尉祐光−掃部充高光で、子孫は代々武田氏に仕え、武田信玄の家臣市川七郎左衛門等長(市川梅印斎)がその族裔といいます(市川香舟氏「市川一族大要 (中)の記述による)。但し、高光から等長にいたる系譜が現在のところ不明ですので、定光〜高光のいわゆる“光”を通字とする系統の市川氏の系譜と、ときがわの市川氏の系図の中の光字を通字とするとの歴代の部分との関連は、現在のところは分かりません。今後の研究課題です。
 
 以上、ご参考になれば幸いです。
 
(08.6.14 掲上)


   上記に関連して、真野信治様からの寄稿もありますので、ご覧下さい。

   信濃の西条・夜交氏と市川氏の関係についても記事があります。

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