真野信治様による市川氏の系図の検討)

  かつて市川氏について調べた経緯がありまして、いくつか気になる点をまとめてみました、ということで、次の来信がありました。(09.4.27受け)

市川氏の関し、過去に調べた実績をもとに、いくつか気のついた点をご報告したいと思います。 

1.従来より認識されている主な市川氏と都幾川村「市川家系図」について

市川氏に関し、清和源氏流に絞った場合、特に『甲斐国志』の記述を中心にピックアップしてみますと、大きく以下の3流になると考えられています。

@秋山光朝後裔・・・・・

    →市川昌忠(備後守?)(以清斎?)、梅隠斎等(義)長など

 A安田義定後裔・・・・・

     →市川源吾義国、和泉義信など

 B奈古義行後裔・・・・・

→市川満久、右馬助信治、五郎兵衛真親など

このうち、安田系市川氏は佐久在住史家の市川武治氏のご研究によりその存在は確からしいと考えます。『千曲之真砂』卷8「荒山城の項」に義定から志摩忠義−市川義澄に至り初めて市川姓を称した経緯など、その後も詳細の記述があり、『甲斐国志』にも断片的にその記述があります。その系統かはともかく、戦国期まで続いた甲斐源氏系の一族として確実でしょう。但し、義定没落後の二、三代は多分南部郷あたりに雌伏していたのではないかと市川氏は考えておられます。

@とBについては全くといっていいほど史料がなく、判断のしようがありません。

ここで、はっち様の調査された「都幾川村市川家系図」の件になりますが、わたしもかなり以前に確認しました。当時はあまり記憶がなく、漠然となぜ甲斐ではなく武蔵に移住したのかとの疑問を持ったぐらいでした。

ただ、先生のご指摘の系図上の覚義没年につき、やはり無理な点があると考え、再度調べました。(尊卑分脈には建仁三年被誅とあり、もともと疑問の大きい人物ではありました。)

2.覚義という人物について

覚義は、『尊卑分脈』には義光の第七子、或は盛義の子という位置づけです。はっち様が調べられた『園城寺伝記』にもかなりの情報があります。さらに詳しく、『新羅明神記』、『寺門伝記補録』または松前藩が編集した『新羅之記録』を見てみると、覚義について以下の気になる記述を見つけることが出来るようです。

@「以嫡男金光院刑部阿闍梨覚義・・・」

A「任厳父命令長男出家名覚義為三井學侶」

B「補曰覚義新羅三郎義光長子初花林房後金光院十巻・・・」

また、義光臨終時に長男で園城寺僧侶の覚義、次男の進士廷尉義業を呼び資財の処分についてなど話をしたとの記録も載っているようです。

一目してわかりますが、これらの記録に従えば覚義は「嫡男」、佐竹氏の祖となった義業は二男とあります。系図上では僧籍ゆえに最後尾におかれたのでしょうか?(系図作成上ではよくある事です。)義業の生年が一般的史料(佐竹氏系図他)には1077年(承暦元年)、覚義は必然的にそれ以前の生まれと言うことになり、また本来刑部三郎(三男)と称している義清の生年は一説には1075年(承保二年)、覚義・義清の関係が同様に兄・弟であればさらに1075年以前となります。いずれにしろ、長子であれば都幾川村系図の覚義の没年(寿永元年)は年代的にありえないことでしょう。しかも先生ご指摘のように仮に長子ではなく、父義光50歳、60歳くらいの晩年の子でも厳しいと思います。したがって、覚義の生年が1077年以降ではないと仮定すると、ア)秩父重隆の女婿であったこと、イ)源義賢の郎党の一人であったこと、ウ)武蔵国への進出した経緯、など系図中の記事については年代的(空間的)疑問が大きく残ります。覚義が107074年ごろの生まれとして、義賢事件はちょうどその孫の世代ほどではないでしょうか?

また、覚義の甲斐國下向に関しては『新編武蔵国風土記』に「園城寺から甲斐平塩寺の主僧になって・・・」とあるようですが、山梨県側の史料には覚義の記載が一切ありませんので、残念ながら、この「都幾川村市川家系図」中の初期部分(覚義〜直義あたりまで)は問題ありと言わざるを得ません。しかし、6代祐光、7代教光あたり以降は行房・行光・定光系と関係がありそうに思います。 

3.北信濃の市川氏について

はっち様はこの系統の市川重房と義光系の別当行房を同系統であろうとその繋がりの可能性を強調しておられましたが、山梨大学の服部治則教授の下記論文にはまた別な調査結果が発表されております。(宝賀先生も市川重房が中野家へ子の盛房を猶子として入れその後激しい相続争いを繰り広げたと言われている部分です

・「近世初頭武士団における親族関係(九)」 『山梨大学教育学部研究報告』24

この中で武田家臣:西条(にしじょう)治部少輔の出自調査で収集された『米沢市萬用山東源寺檀家西条家先祖書系譜』によれば、題材になっている西条治部少輔は「藤原秀郷より十代の後胤中野太郎兼真より出る。兼真は信州高井郡中野平(現:中野市)に住し、始めて中野氏を称し、その後三世三郎左衛門尉重房に至って同国市川(現:下高井郡野沢温泉村)に移り市川氏を姓とした。重房の子を左衛門三郎盛房といい、盛房の嫡子は左衛門六郎助房で市川氏を続けるが、盛房三男の九郎倫房が論功あって、埴科郡西条の地頭職を賜って西条大炊助と称した。」とあります。以下は西条氏のその後の経緯の記述のため割愛しますが、因みにいわゆる「市川文書」中にある市川藤若を治部少輔信房であるとし、重房の後世代としておられます。

したがって、この文書(系図)に信憑性が置ければですが、重房は本来中野一族(直系)であり、市川庄に移った時点から市川姓を名乗ったわけで、少なくとも清和源氏系といわれる市川別当行房に繋げるのは現時点では難しいと思われます。(史料の信憑性については、武士団系譜研究の大家であられる服部先生の見立てですので確かだと思います。)それと重房が甲斐市川氏(別当行房)の後裔であれば、何の縁があって信州高井群の中野一族に接近したのか、そのいきさつが不明です。ただ、先生が言われるように市川高光が船山郷を領していた関係から、というケースも考えられますが、その船山郷領有とういのはどの史料からの情報でしょうか?はっち様の調査では行房系の関係地としては甲斐と伊勢のみをあげておられます。やはり行房系(市川高光を含む)一族の活動範囲は甲斐中心であったと思います。 

4.覚義の他の子について

 覚義の子であると思われる覚光・倶義記載の系図が上記のように武蔵国にて存在しているわけですが、覚義に別に、頼圓・頼儀という子があったという系図も存在します。ただ、かなり前に調べた資料であり、申し訳ありません。どの史料(系図集)から収集したものか、多分『百家系図稿』か『本朝武家諸姓分脈系図』のどちらかであり、その中の「曽根氏系図」だと思います。すなわち覚義の子に上記のごとく「頼圓」があり、市川太郎別当・文殊院律師・民部卿と称しています。さらにその子の頼尊は実は曽根禅師厳尊の子であり、頼圓の養子となったようです。頼尊の子は頼秀(別当太郎)でその弟に頼行(小三郎)とあります。この頼行は奈古三郎行信の養子となっています。わかりやすく図に表すと別添系図の通りです。

この頼圓とは覚義のことなのでしょうか?もう一度その文献を調べる必要があります。さらにこの系図もご多分に漏れず、五代後に五郎忠国が矢口の渡しで討死とあります。(市川氏関係の系図は必ず新田義興の郎党であった市川五郎を載せてますがそれぞれ名前が相違しています。)

とりあえず、為参考にと記しましたが、この系図が曾根氏に関連しており、曾根氏と同等に頼尊以降何代か続いていますが、どの程度の信頼が置ける文献なのかわかりません。ただ、市川氏・曾根氏・奈古氏はそれぞれの領した地域が近く、同族以上に親交があったと思われますので、あながち仮冒系図とも考えられずご紹介しました。先生には既にご存知であれば、逆にこの系図の詳細を知りたいところです。 

以上長くなりましたが、市川氏関係の過去の調べものを再確認してみた次第であります。

  (09.4.29掲上)


 (樹童のコメント・感触など)

 市川氏について、様々なご教示・整理をいただきありがとうございました。

 ところで、服部治則教授の論文における西条氏の系譜紹介は、やや不完全なものと考えられますので、それに関する点について知見を述べます。
 
  信濃の西条・夜交氏と市川氏
 
 もともと頼家将軍の側近として『東鑑』に見える中野五郎能成という武家の系譜に興味がありましたので、かつて米沢市で上杉文書のなかにある西条氏など上杉家臣諸氏の系譜をメモしてきたことがあります。
 まず、西条氏の系譜を記しますと、この系統は秀郷流藤原氏と伝えており、足利・小山の一族に出ます。『尊卑分脈』藤成孫には、その祖先が「兼助−兼成」の二代しか見えず、兼助の位置づけも、@鎮守府将軍兼光の子とも、A孫(頼行の子)ともあげられますが、@のほうが詳しく、兼助については「渕名上野介、左衛門尉」、兼成については「吾妻権守」と譜註があります。兼助は、頼行の子の兼行(足利祖)・武行(小山祖)らとともに義家に従軍して陸奥に戦うと伝えますから、その活動時期が知られます。
 吾妻権守兼成の子が吾妻冠者兼経ですが、ここから以降は『分脈』には見えません。西条氏の系譜では、吾妻冠者兼経の子が兼真で、これが信濃国高井郡中野に住んで中野太郎と名乗ります。次に、中野兼真とは三世孫の三郎左衛門尉重房との関係ですが、その系譜は「中野弥太郎兼光−中野又太郎重成−市川重房」と続きます。市川重房以降は、貴記事のとおりです。
 
 ところで、上杉家臣となった西条氏の同族に夜交(よまぜ)氏があり、その系譜も伝えられます。これは西条氏の系譜よりも詳しいもので、例えば、吾妻冠者兼経の弟に兼能(有間介大夫。渋河・河嶋の祖)・兼定があり、中野弥太郎兼光の弟に中野次郎兼弘があり、この次郎兼弘の後がおおいに栄えます。その子には、新野五郎景弘・中村六郎弘忠・吾妻八郎助弘・中野四郎助光・常岩十郎弘安がおります。夜交氏は、高井郡夜交郷に起こり、中野四郎助光の子の中野四郎太郎助能の後裔となります。
 中野五郎能成は、夜交氏の系譜には見えませんが、吾妻八郎助弘の子とも中野四郎助光の子の中野四郎助信の子とも伝えます。『信濃勤王史攷』には藤原助広の子におき、その子の次郎忠能の娘ケサ御前の婿が市川重房と記されます。
 
 夜交氏の系譜によると、中野弥太郎兼光の子は某として実名をあげず、「中野彦太郎於信州為敵生害」と註され、その子孫をあげません。この某が上記の「中野又太郎重成」に当たるともみられますが、『信濃勤王史攷』には中野五郎能成の子の太郎みつなり(光成か)の子が中野又太郎重成その子が泰重とあげられます。
 このように書くと、中野氏と西条氏との系譜のつながりに問題があることが分かります。要は、信濃の市川氏は、本来は藤姓の中野一族とは別族であって、姻戚関係からこの一族の系図に入り込んだということです

 (09.4.29掲上)
 

  <市川香舟氏のご逝去>

  論考「市川一族大要」などを著作され、市川氏の系譜研究につとめられた市川香舟(本名長谷川順音)氏が平成21年1月13日、ご逝去されました。

  市川さんは、家系研究協議会の理事でもあり、また同会の歌の作詞者でもあって、家系研究に尽力されました。そのご功績を讃え、かつ、衷心よりご冥福をお祈りいたします。
(09.4.29 掲上)



 <市川@武州荒木様からの来信>09.5.8受
 
 本日、貴ホームページにて、真野信治様のご研究を拝しまして、取り急ぎですが、私の感触を述べることに致しました。
 
 真野様の挙げられた覚義の子孫に関する史料は、残念ながら未収集でしたので、もし、早い時期にこれを得ていれば、樹童様のホームページを汚さずに済んだのにと後悔しております。
 
 ときがわの市川系図では覚義を「市川別当文殊院阿闍梨民部卿源覚義」とし、過去帳では「市川別当民部卿」とも記します。真野様も言及された園城寺伝記や新羅之記録等の史料では、覚義は「刑部禅師・花林房」等と“刑部”を冠しているのに、なぜときがわの市川系図では覚義が「民部卿」なのだろうかと、疑問点に感じておりました。しかして、真野様がご提示された系図における覚義の子供の頼圓の注に「市川太郎別当・文殊院律師・民部卿」とあり、その謎が解けました。少なくとも、ときがわの市川家の系図・過去帳に見える初代の「市川別当民部卿」は、覚義ではなく、その子供とされる頼圓であったろう感じました。後世の系図作成時に覚義・頼圓親子の正確な記録が残っておらず、いわば欠落した伝承によったため、頼圓が欠落し、系図において頼圓の事績に当てる部分を覚義に宛て、あの様な記述になったものと思われます。史実として、ときがわを始めとする比企郡ないし埼玉県の市川氏が覚義の子供の頼圓の子孫か否かはわかりませんが。少なくとも、真野様ご提示の史料により、覚義の子孫にも市川氏は存在するらしいこと。ときがわの市川氏の系図の初期部分は覚義系とされる流れの市川氏の影響があること、ときがわの市川氏の系図ならびに過去帳の覚義に宛てられた「民部卿」は実は頼圓であることらしいということで、少なくとも「民部卿」の名称の謎は解けました。
 
 なお埼玉県の市川氏が甲斐の出自である場合、何故に北武蔵に?との疑問点が出ますが、当時、源氏惣領の源為義と嫡男義朝が対立しており、『山梨県史』などによりますと、甲斐の在地武士には源為義に付いた者もいた模様で、源氏庶子系の一族の影響下にあった甲斐市川一族の一部も、その流れで源為義が関東に於ける勢力回復のために送り込んだ源義賢に味方したのではないかと愚考しております。
 
 樹童様・真野様におかれては、今後とも、ご指導・ご鞭撻・史料のご紹介の程、お願い申し上げます。
 
 本掲示板で、市川姓研究の大恩師である市川香舟先生のご逝去を知りました。
 私の市川姓研究の手解きは全く市川先生のご指導によるものでした。私も、在野の立場であり、未熟な人間ですが、全くの微力ながら、先生のご研究の成果を踏まえつつ、皆様のご指導も仰ぎながら埼玉県の市川姓の研究を続けてまいる所存です。
 私も、大変僭越でございますが、この場をお借りして市川香舟先生の御冥福を心よりお祈り申し上げます。
  (09.5.8 掲上)


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