□ 薩隅の有馬氏と執印氏・伊作平氏 (問い) 私の家系関係で、次の四家のルーツを教えていただきたいのですが。 奥家.......鹿児島県加世田市又は川辺町の移住者(江戸時代) 有馬家......鹿児島県枕崎市(鹿籠)より江戸期に薩摩藩小林市に殿様と転封。家紋(有馬桐)
宮司家......鹿児島県新田神宮内にあり元々神主であったといいます。元の姓は何姓に近いのでしょか?(惟宗氏とか?)
若松家......鹿児島からの移住者
(奥みどり様より。04.11.18受け)
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(樹童からのお答え) 1 薩摩・大隅及び日向三州の中世武家の苗字については、鈴木真年翁関係の諸系図史料には殆ど見えず、私もこれらにあまり詳しくはありませんが、五味克夫氏の諸論考や川崎大十氏の諸業績に詳しく記載されるものがあり、とくに川崎氏には『「さつま」の姓氏』(高城書房、平成12.3.1刊)、『三州諸家系図纂』などの著作があります。それぞれに関連する諸氏がありますので、ともにご検討いただけたらと思います。
ここでは、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』や角川書店の『鹿児島県姓氏家系大辞典』等を踏まえて、活動が割合史料に見える薩隅の有馬氏を中心にとりあえず概略の記述をしておきますが、上記の書に併せて、具体的に検討いただければと思います。
2 薩隅に繁衍した有馬一族とその祖先の系譜
(1) 薩隅には多くの有馬氏の流れがあり、『鹿児島県姓氏家系大辞典』では21項にわたり、有馬氏の説明記事があります。具体的に著名な人物を見ると、幕末・明治期において寺田屋の変で誅殺された有馬新七(敬熙、また正義)や西郷隆盛とともに西南戦争に参加した有馬藤太(純雄)、海軍中将を経て男爵となった有馬新一(旧藩士有馬純晴の養嗣)などが活躍します。
以下に、その系譜と動向を概略的に記します。
(2) これら薩隅の有馬氏の多くは名前の通字を「純」として用いるため、それらが同族関係にあったのではないかとみられますが、明確な系図はなく、それぞれの家伝でも藤原純友後裔などの藤原姓、源姓(足利氏庶流とか村上源氏赤松庶流とか伝える)、平姓などマチマチであって、具体的な系譜検討はきわめて難解です。結論から先にいうと、各家の所伝自体が区々であっても、実際には肥前国高来郡有間邑(現長崎県南高来郡の南・北有馬町一帯)に起った平姓の有間(のち有馬)氏の族裔かと推されます。
(3)
有馬氏は、島原半島の有間邑に起った平姓の武家で、はじめ有間、のちに有馬と表記するようになりました。その存在は鎌倉中期には知られ、『東鑑』寛元四年(1246)三月十三日条の有間左衛門尉朝澄が見え、その所領について越中七郎左衛門次郎政員の訴を却下したと記されます。
深江文書には、その翌年の宝治元年(1247)に六月五日付けの高来郡東郷内深江浦地頭職の譲状には、先祖相伝の所領を深江入道蓮忍に譲り渡す者として左衛門尉平朝澄と記されますから、この当時、有間氏は平朝臣姓を名乗っていたことが分かります。さらに、建長六年(1254)四月四日付け文書にも同じ地頭職を「ありま右衛門」を名乗る沙弥蓮仏(左衛門尉平朝澄)が嫡子の平もちすみ(持澄で、上記深江入道蓮忍と同人か)に譲り与えています。この有間左衛門尉平朝澄は、有間を初めて名乗ったとされる経澄の子の友澄に比定されます。
(4) 有馬氏は戦国大名、幕藩大名となり、明治には華族に列しますが、その系譜では、同じく華族となった大村氏と同様に、承平の乱の藤原純友の後裔と称され、純友の六世孫たる幸澄の子に有馬経澄と大村忠澄の兄弟があったとされます。しかし、この系譜は明らかに仮冒があるとして、太田亮博士は、有馬氏については、『百練抄』や『長秋記』の元永二年(1119)十二月に備前守平正盛(清盛の祖父)に討たれたと記される肥前国藤津庄の平直澄の後裔たるべしと看破しています(詳しくは『姓氏家系大辞典』参照)。
平直澄は藤津庄司平清澄の子と分かりますが、その先の系譜は不明も、平姓が正しければ、藤津庄居住と併せ考えて、刀伊入寇のとき(1019年)に活躍した散位平為賢(常陸大掾一族の出で、平維幹の子)の子孫ではないかと推されます。なお、平姓が仮冒的に称したものであれば、古代葛津国造の末流で、大村直の同族と考えられます。
ところが、有馬新七家の系図では、遠祖は平正純といい、八幡太郎義家の安倍貞任征討のときに軍功があって摂津国有馬郡を賜ったので有馬を名乗り、その孫の純長のときに島津氏始祖の忠久に従い薩摩に移り、子孫代々繁衍したと伝えています(橋本実著『有馬新七』1944年刊)。いかに所伝が訛伝するのかの一例証でもあります。
(5) 有馬氏の動向では、鎌倉幕府の瓦解後に建武新政が開始されると、有間彦五郎入道蓮恵(実名不明)がかつて奪われた地頭職の回復を雑訴決断所に訴えでたものの、結局は退けられています。次ぎに、貞和六年(1350)、有間次郎三郎澄世が足利直冬について活動し、応永元年(1394)には南朝側についていること、また、有間鬼塚彦七郎澄明が文和三年(1354)九月から翌年十一月まで南朝側に付いているのが確認されるくらいといわれます。
総じて、南北朝期・室町期の有馬氏については史料がほとんど存在せず、その動向が分からないということです。それでも、次第に力をつけてきた有馬氏は大村氏と争い優位にあった模様であり、戦国初期の文明二年(1470)に、有馬貴純は大村家徳と争い(『北肥戦誌』)、同六年にも大村純尹と争ったとされますが、この辺の詳細な事情も知られません。その後も有馬氏は勢力を拡大し、貴純の孫の晴純のときに全盛時代を迎え、天文八年(1539)には有馬氏は肥前守護に就いていたことが知られます(『大館常興日記』七月三日条)。晴純の次男が大村丹後守純忠(純前の養嗣)であり、その甥がキリシタン大名として著名な有馬晴信です。
(6)
肥前の有馬氏が何時、どのような契機で薩隅に移遷したのかがまったく不明です。
鎌倉初期には、建久八年(1197)の「薩摩国図田帳」や「薩摩郡国人目録」などの史料に見るように、塩田太郎光澄や伊作和田八郎親純、益山太郎兼純、矢上左衛門尉盛純、長谷場鹿児島五郎家純などの有馬一族とみられる人々が日置郡・鹿児島郡などにあげられます。これら諸氏は、直澄の弟の遠澄の後裔ではないかとみられますが、有馬経澄の弟の澄則の子孫が薩摩にあるともいい、また、応永年間に有馬満純のときに大内義弘に敗れて薩摩に避難したという事件が起きて、そのどれが薩隅の有馬氏につながるのか不明です。
矢上・長谷場氏の系図は、南北朝頃に活動した肥前の有馬家澄に始まるという所伝もありますが、これは鎌倉初期には既に矢上・長谷場氏が見られることから疑問です。この「家澄」は、建久頃の上記長谷場鹿児島五郎家純とみるべきでしょう。また、両氏の祖先には「行純」という者がいたと言いますから、これが有馬新八家の祖先の行純と同人かもしれません。あるいは、有馬経澄の父とされる幸澄が「行純」に当たるのかもしれません。
『鹿児島県姓氏家系大辞典』では、矢上左衛門次郎高純から出たという有馬氏(第二項)、藤原姓長谷場氏流の有馬氏(第二、第三項)が記載されており、おそらく薩隅日の有馬氏は必ずしも同一系統ではなくとも、肥前有馬氏の庶流がいくつか南九州にあって、それぞれ有馬氏を名乗ったと言えるのかもしれません。
薩隅の有馬氏が史料に見えるのは、早いもので南北朝期であり、興国三年(1342)とみられる「御感綸旨所望輩注文」に谷山隆信の一族以下輩として、有馬治郎左衛門尉冬純・有馬左衛門三郎春純が見えますが、谷山隆信は、加世田別府を領して別府五郎と名乗った平忠明(阿多平権守忠景の弟)の五世孫であり、谷山郡司を世襲した家柄ですので、この有馬氏は加世田別府か谷山郡あたりに居たことが考えられます。
(7) 有馬氏には神職に就いた一族もあり、例えば揖宿郡山川町の南方神社(諏訪大明神)の社家であった有馬家がおり、その家系図に江戸時代の慶安二年(1649)に有馬純定が吉田家から神道裁可状を受けたことが知られます。また、同郡の枚聞神社(開聞町)の社司、同郡今和泉郷(指宿市)の中宮大明神や大隅国桑原郡国分郷小浜村(隼人町)の社司にも各々有馬氏があったとされますが、これら神職の有馬氏までみな同祖であったかどうかは不明です。
3 新田神宮祠官の執印氏など
宮司氏が川内市宮内町(旧高城郡五代邑)に鎮座する新田神社の関係者であったという所伝があるとのことなので、新田神宮祠官家について記します。新田神社は、一名を新田八幡宮、川内八幡宮ともいい、薩摩一ノ宮を称していました。ただ、薩摩の延喜式内社はわずか二社のみで、その二社は揖宿郡の枚聞神社と、出水(いずみ)市の加紫久利神社であって、新田神社は『六国史』にも登場していません。
(1)
新田神社の宮司に当たる「執印(しゅういん)」に、島津氏同族の惟宗氏が任命されたことから、薩摩守護島津氏と結びついたといわれます。蒙古襲来に当たっては、鎌倉幕府が全国の一ノ宮と国分寺に蒙古調伏の祈祷を命じましたが、島津氏が新田八幡を一ノ宮として幣帛を捧げ、蒙古の役の戦勝によって霊験あらたかということで、一ノ宮を称するようになったといわれます。
さて、この惟宗朝臣氏の系統から、新田八幡の長官である執印職兼五大院院主職に文治年間、鹿児島郡司の惟宗藤内康友が任命されています。これ以来、新田八幡の執印職は惟宗康友の子孫(長男康村〔康兼〕の系統)が世襲し、執印氏を名乗ります。建長頃の新田八幡の執印でもあった惟宗左衛門尉友成(康友の次男友久の子)は、弟の重兼(康秀。伯父康村の養嗣)に執印職を譲り※、自らは近隣の薩摩国分寺(同じ川内市内にある)を管掌する留守職兼天満寺別当職に就任しますが、その子孫が国分氏を名乗り、両氏ともにその地位を固めていきます。つまり薩摩一ノ宮新田八幡の執印氏と、薩摩国分寺の留守職国分氏、そして島津荘の領主(のち薩摩藩主)の島津氏は、いずれも惟宗朝臣氏の出で同族だということです。
※この関係は分かりにくいが、康兼の後家で、その弟友久の室となった迎阿から寛元元年(1243)、一期の後は三男康秀に譲り、康秀の所帯は友成子息に譲与するという条件で執印並びに五大院々主職を譲与されていると五味克夫氏が論考「薩摩の御家人について」で記述する。なお、「惟宗姓国分氏正統系譜」には、新田宮執印職康村の次ぎに迎阿(康村後家、執印職相伝)、その子に重兼(実は国分友久三男也、母迎阿、為康村後嗣)が記される。 (2) 新田八幡宮には執印に次ぐ権執印職を世襲した権執印氏がありました。宮里郷(川内市)の郷司職ももち、保延元年(1135)の下文に見える五大院政所正信の一族(孫か)とみられる紀六大夫正家が宮里郷司として建久八年の「薩摩国図田帳」に見えます。この氏は、はじめ宮里と名乗りましたが、正家の後となる宮里郷司家が宮里を、正家の兄・正貞の後が新田宮の権執印職・惣検校職、五大院の政所職・大検校職等を世襲して権執印を苗字とし、明治維新に至るまで永く連綿として権執印職を世襲したとのことです。紀朝臣姓といい、「正」を通字とした一族です。
権執印氏は鎌倉後期〜南北朝期頃の文書に見え、「永慶−妙慶−良暹−俊正」などが知られますが、後ろ二代の父子は南北朝初期に活動が見えます。宮里氏は、賀正のとき貞治元年(1362)に宮里城を攻略されて衰退・没落し、薩州島津家の家臣となり、出水郡出水郷(出水市)に移ったとされます。 その先祖の系譜は、山城の石清水八幡神主であった紀朝臣御豊を先祖とし、五大院政所正信の五代前に当たる紀兼信が薩摩に下向したと伝えます。しかし、系譜所伝には多少の疑問もあり、先祖の正信は、薩摩国南部の出水・高城・薩摩郡に繁衍した伴部姓(肥後南部の葦北国造一族)の武光〔武満〕氏などと同族の出であって、宮里紀三郎正任の養嗣になったともみられます。
また、宮里一族には甑島郡平良村の新田八幡神社の祠官となったものがあり、「嘉祥二年(ママ。実際は嘉承二年〔1107〕か嘉応二年〔1170〕)、水引郷新田宮の社司宮里壱岐・神体を奉じて来りて創建すと也」と『姓氏家系大辞典』ミヤサト条に記されます。 なお、島津一族にも宮里という苗字がありますが、ここでは記事を省略します。
(3) 『鹿児島県姓氏家系大辞典』には宮司氏は見えませんが、新田神宮内にあり元々神主であったという伝承があるということでしたら、上記の執印氏か権執印氏の一族後裔ではないかとみられます。いずれにせよ、所伝をもう少し詳しく検討する必要があります。ただ、新田宮は承安三年(1173)の炎上で記録が焼失したとのことで、それ以前のことを知るのは難しいようです。
4 伊作平氏の系譜
(1) 若松氏 薩摩には薩摩郡若松名(川内市)に起る若松氏、同国日置郡吉利郷(日吉町)の若松に起る若松氏がありますが、前者は伊作平氏の薩摩平次忠持(忠茂)の子の忠重が若松名を知行して若松四郎と名乗ったものです。忠重の兄弟には、薩摩忠弘、成松平次郎忠国、吉富領主忠澄、青木平九郎忠継が見えます。
薩摩平次忠持の曾祖父頴娃三郎忠永(忠長)は、平安末期頃の人で、そのすぐ下の弟は有名な阿多平四郎(平権守)忠景であって、平治元年(1159)に追討宣旨を蒙っております。伊作平氏は万寿年間に島津庄を開発した大宰大監平季基の後裔であり、薩摩南部で肥前平氏とかなり密接な通婚・猶子関係を重ねています。すなわち、忠永・忠景の姉妹には彼杵三郎久澄の妻となった女性がおり、その間に生まれた四郎重純(信純)は阿多忠景の女婿で養嗣となっています。平季基の祖父は伊作平次平朝臣貞時であり、この者が十世紀の後半に薩摩に下向したとされますが、おそらく下総介平良持(高望王の子)かその兄弟がその父ではないかと推されます。ただ、実際に桓武平氏かどうかには疑問も残りますので、〔補論〕薩摩平氏と南方神社について をご覧下さい。 この平姓若松氏の系は、その子の「忠永−彦太郎忠兼−彦三郎忠治」と続きます。若松名主忠永は、弘安六年(1283)に所領を嫡子忠兼に譲りますが、この二代目の彦太郎忠兼は、延時名瓦田村の地について、延時種忠(伊作平氏の薩摩一族成岡覚念の子で、大蔵姓延時種忠の養嗣)と訴訟したことが正和三年五月日の文書(延時成仏代種忠陳状)に見えます。この忠兼は元応元年(1319)に羽島・荒川の地(以上は串木野市)を国分二郎友貞に売却したものの、その五年後には羽島浦を友貞と争論をしています。
また、同様の地域から起った島津氏族の若松氏がおり、島津第四代の忠宗の弟の伊作彦三郎忠長の曾孫となる下野守久親は、室町前期の人で若松を領して若松氏を名乗りますが、その後は知られません。この系統は、本家伊作氏の家臣としてあったとのことです(『諸家大概』)。江戸期の薩摩郡山田郷(川内市)の地頭として、延宝二年(1674)の若松氏があり、正徳二年(1712)の若松彦兵衛が見えますので、これらは島津伊作一族とみられます。
(2) 奥氏 、江戸初期に島津氏に仕えた奥氏が数名(島津忠恒に仕えた小者の奥関助入道休安など)、史料に見えますが、それらは大身ではなく、奥氏としては有力な武家はいなかった模様です。また、日置郡松元町下直木の大西集落には、江戸期の奥門に由来する奥氏があるが、明治期に門名から奥氏を称したと思われるとあり、こうした記事が『鹿児島県姓氏家系大辞典』に見えます。島津氏の小者であった奥氏についても、その系譜等は不明です。
かつて鹿児島市の助役をつとめた加世田不二男氏の著作に『加世田系譜並びに文書』(1976年)という書があります(鹿児島県図書館などに所蔵)。そのなかに、加世田氏を中心に伊作平氏の系図がいくつか掲載されますが、「平姓加世田氏系図抜書」という系図には、上記の頴娃三郎忠長の子孫に奥氏があげられます。 それによると、忠長の子の頴娃太郎忠方の子に四子あり、上から頴娃三郎家近、忠保(号福本)、忠房(后忠純、号奥)、女子とされています。続けて、奥忠房の子に忠綱、その子に忠成・女子(猿渡氏室)、忠成の子に忠持まで系図に記載されますが、奥の苗字の地や歴代の事績については記載がありません。なお、別本の系図(「薩摩平氏略系図」)から考えますと、忠房はのち忠継(忠次)と名乗り、その妹の子の忠澄を養子にしたと記されますので、忠房と忠純(忠澄)とは別人と考えられます。 5 上記の記述は、概略を記しましたが、その背景や史料等については、宝賀会長の論考「鎮西平氏の流れ」(『旅とルーツ』第66〜68号所収)をご覧下さい。また、鹿児島県の郷土史は比較的充実しており、なかでも、伊作平氏や執印・権執印氏についてかなり詳しい記事のある『川内市史』や『鹿児島県史料集』などの郷土資料も参照してください。また、五味克夫氏の論考「薩摩の御家人について」(『鹿大史学』第6,7号、1958・59年)なども参考になります。
最後に、肥前の有馬氏についての概論を参考までにあげておきます。
(05.8.15 掲上、同8.16補訂) |
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