志布志の野辺氏と日向の日下部一族

(問い) HPの「桓武平氏概観」で野辺氏が出ていました。野辺氏は埼玉県岡部町の猪俣党小野氏の庶流と思われます。鎌倉期に北条氏の代官となり、宮崎県の串間市一円の地頭職を獲得したそうです。
 その後、島津氏の勢力に押され衰退しましたが、本家は、志布志町に落ち着きました。その志布志の野辺氏ですが、本系図は、平宗実(平重盛の七男)を養子として迎え、平姓に改姓したとされ、桓武平氏の系図となっています。また、我が家では、平家の正統家と言い伝えられてきており、代々、男子は盛の字を通字としています。始祖を平宗実とすると私で32代目になります。信憑性のほどや経緯を詳しく知りたいのですが、教えて頂けないでしょうか。

 (nobem様より。05.10.19受け)


 (樹童からのお答え)

 
 薩隅日の南九州三国に中世栄えた諸氏は、その祖先を飾ったり、系図を失ったなどの事情で、系図が世間によく知られる京都の貴紳や関東の名門武家に系譜仮冒をした例が多くあります。日向国志布志の名族野辺氏も、その例にあげられます。
 野辺氏関係の史料としては、『鹿児島県史料拾遺Y』に所収の五味克夫編「志布志・都城 野辺文書」がありますが、同じ五味氏による「日向国那珂郡司について−郡司文書、系図の紹介−」(『豊日史学』133号、1961年12月)や西岡虎之助「古代土豪の武士化とその荘園」(『荘園史の研究』下巻1、1956年)なども併せて参照してください。
 
 野辺氏は、その初見にあたるのが建武時の野辺六郎左衛門尉久盛であり、櫛間院地頭職となり、深川院を知行したと伝えます。『博多日記』にも、「野辺八郎(註:久邦か)の親父六郎左衛門尉」が起請文を書いたことの記事が見えます。
 久盛の子の野辺孫七(肥後守)盛忠は、建武五年(1338)七月七日付け日下部盛連着到状に見えており、さらにその子の野辺左衛門尉(山城守)盛房は初名を政範といい、貞和二年(1346)十二月付け飫肥北郷留守所奉事に深河院弁済使野辺政範と見えるなどに加え、その後の歴代も文書により活動が知られます。その子孫はのちに島津一族の北郷氏を頼んで活動した模様ですが、島津一族に属して長く続きました。
 その系図は、平重盛の子の宗実、その子の宗平に出ると称されますが、京都の平家一門宗実の子には宗平という者は存在せず、まったくの仮冒です。また、本貫地を武蔵国榛沢郡野辺郷として、猪俣党の出であって野辺六郎広兼の後であるからと小野朝臣姓も室町期に称しましたが、これも仮冒であって、武蔵七党の系図には薩隅日の野辺氏は見えません。
 
 さて、野辺氏の実系についてですが、日向には「盛」を通字とする日下部宿祢一族が繁衍しており、野辺氏の先祖に当たる盛綱・久盛の二代が「日下部氏系図」に見えることから、野辺氏もこの一族から出たものと考えられます。
 日向の日下部一族は、景行天皇後裔と称する諸県君の同族であり、妻万宮神主であった妻万大夫久仲を祖とします。久仲の子の久貞は、鳥羽院御宇の保安四年(1123)正月に在国司に補任され、文書に「権介日下部宿祢久貞」と見えます。この一族には、都万神社祠官長となった法亢(ホウガ)氏、海江田氏もありますが、久貞の後はその子「尚守−盛俊(那賀郡司)−右盛(那賀郡司)−光盛」と続いて、上記の盛綱は光盛の子におかれます。ただ、年代的に考えて、光盛と盛綱の間に「貞盛(一に員盛)−盛行」の二代を入れたほうがやや良さそうですが、あるいは貞盛は右盛の従兄弟になるかもしれません。那賀郡司であった右盛は、那賀南五郎と号しており、その子の権三郎光盛は承久の兵乱のときに勲功があったと伝えます。
 なお、那賀郡司職は右盛の兄弟である権四郎実盛の系統に継承されたようであり、実盛の四世孫(玄孫)には上記の建武五年七月七日付け着到状がある日下部盛連が系図に見えます。盛連は那賀郡司で那賀右衛門九郎といい、元弘以来貞治までの期間、足利方で活躍しており、足利直義公や高師直・畠山義顕等の感状が出されております。
 
 最後に、野辺一族をあげておきますと、上記のほか、次のような諸氏があります。
 近い一族としては深川、向江、北村、北方、南郷、二之方があり、このほか、平島、郡司、井上、吉野、岩切、弘原、嵐田、打橋などの諸氏が日下部系図に見えます。

  (05.10.24 掲上)

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