□ 伊勢三郎義盛と政所執事伊勢氏の系譜 (問い) 源義経の家臣に伊勢三郎義盛が居ますが、この者の出自には様々な説が有り、定かではありません。山賊の出自とも、神主の義連の息子とも、称魚名流藤姓河島盛俊の息子とも言われてますが、最後の河島盛俊の息子と言う説が一番信憑性が高いと思われます。 合わせて、称季衡流平姓伊勢氏の出自についてお尋ねします。平姓伊勢氏は室町時代に幕府の政所執事を務め、戦国時代には小田原北條氏を輩出した事で知られ、樹童様は『桓武平氏概説』の項にて、多くの称平姓武家が仮冒である中で数少ない桓武平氏の出自である氏族だと述べておられます。しかし、初期平姓伊勢氏の系譜には分からない事が多く、尚且つ「俊」の名を課した者が多い事からして、桓武平氏と言うのは後世の仮冒で、実は伊勢三郎義盛と同じ藤姓河島一族の出ではないのでしょうか。
現に、同じく室町幕府の重鎮であった上杉氏、赤松氏、京極氏はそれぞれ藤原氏、村上源氏、宇多源氏の出自と仮冒していますが...。
(大阪在住の方より、06.2.07受け) |
(樹童からのお答え) 1 貴信で本件問題点を指摘されるまで、ほとんど検討をしたことがなかったものですが、調べてみると、興味深い事情も浮かび上がってきて、着眼の良さには敬服します。伊勢三郎義盛の出自にせよ、政所執事伊勢氏の初期段階の系譜にせよ、資料が乏しいなか、なかなか確実なことは分かりませんが、心証としてはご指摘のような内容に傾くものがあります。
以下に、現段階での調査をふまえたとりあえずの見解をあげますが、新資料が出てきたら変更や手直しの可能性もありますことをお含み置き下さい。
2 伊勢三郎義盛の出自など 源義経の家臣の伊勢三郎義盛は、義経四天王の一人といわれますが、『東鑑』に伊勢三郎能盛と見えて、伝説の多い義経家臣たちのなかでは実在の人物とされます。義経との出会いなどの行動やその出自については、『義経記』に記事がありますが、これは物語としてかなりの潤色などがあるようで、必ずしも信頼できず、十分な検討を要するものと思われます。
伊勢三郎義盛の事績としては、源義経の鞍馬から奥州下向の途中に配流地と伝える上野国板鼻(荒蒔郷)で家人になったとのことで、屋島合戦のおり阿波の有力武士田口教能を降伏させたり、寿永四年(1185)三月の壇ノ浦合戦で平家の総帥平宗盛親子を捕虜としたりと、めざましい活躍を見せますが、文治元年(1185)十一月に源義経が頼朝に追われて京から鎮西への逃亡のおりには摂津の大物浦(だいもつのうら)から船出して難破した後の消息は不明となります。義経一行と分かれて伊勢に帰郷し、同二年(1186)七月に鎌倉幕府の伊勢守護山内首藤経俊の追討により鈴鹿山で自害し、同月25日に梟首されたというのが妥当のようです。これと違い、『義経記』では奥州平泉まで同行し、義経の最期まで一緒であったとされますが、このへんは伊勢で最期という記事に従うのが妥当のようです。
さて、その出自は、『義経記』では、伊勢国二見の浦の人で「伊勢のかんらい義連(よしつら)」と言う伊勢神宮の神主が父であって、義経の父義朝に目をかけてもらっていたのが、京の清水寺で無礼事件を起こして上野に流され、そこで義盛が生まれたとされますが、この経緯はどうでしょうか。「かんらい」は草書体の誤読で、本来は「わたらい(度会)」でしょうが、地元の所伝ではこれと違います。
すなわち、伊勢三郎義盛は、三重郡司川島二郎俊盛の子として三重郡福村(現菰野町福村)で生まれたと伝えます。川島氏は藤原姓山蔭流で、山蔭の七世孫俊宗の子ないし孫(この場合には中間に俊貫が入るという)に俊盛があたるとのことですが、『尊卑分脈』に見えない藤原俊宗の子や孫に川島氏をおくことは疑問が大きいものです。
伊勢には、その後にも川島氏が残ったということで、川島村(現四日市市川島町)の西福寺には、伊勢三郎義盛(ないし父・俊盛)の墓と伝えるものがあり、『保曾井物語』には文明年間(1469)に河島永保・永時父子の居城・川島城があったとされます。伊勢三郎義盛の子孫に河島五郎義晴がおり、川島はその名前に因むともいわれています。川島町あたりは平安時代に伊勢神宮領であったと伝えられており、伊勢神宮の神主にも関係があります。
そうすると、三郎義盛がなぜ伊勢を名乗ったかという事情が不明なまま残ります。これも含め、謎の多い人物ですから、現存の史料ではこれ以上は解明が無理な感じがあります。
3 政所執事伊勢氏の系譜 (1)
室町期には伊勢貞継以来、嫡流は代々政所執事・御厩別当を世襲し伊勢守となり、一族に将軍に近侍する御番衆を出した伊勢氏は名門であり、武家故実に詳しく、江戸期でも将軍家光に召し出されて幕臣となり礼法・有職故実の家として続きました。その系譜は、桓武平氏の末流として平正度の三男季衡から出たとされ、『尊卑分脈』には十六世紀中葉の伊勢貞良までの歴代系譜が掲載されています。私自身、これまで具体的な検討を加えたことがなかったのですが、それもこうした系譜に疑問を投げかける論考や書籍が管見に入らなかった事情にあります。
ところが、ご指摘を受けて検討してみますと、たしかに疑問点が多々出てきました。伊勢氏の系図としては、上記『尊卑分脈』所載の系図のほか、寛永・寛政の両呈譜や加藤直臣編纂の『雑家系図』(内閣文庫所蔵)に所収の「伊勢系図」などがあります。それらが、歴代の名前やその親族関係が微妙に異なり、しかも上記両呈譜には、伊勢守となりその官職名に拠りこれより伊勢と名乗ったという先祖の俊継に「天照大神の託宣に寄り伊勢平氏と謂う」という記事があるのです。これでは、本来は桓武平氏ではなかったと自ら認めて伝えていることになります。
さらに追求すると、室町期には歴代将軍家の乳父として親密な間柄を誇った家としては、その由来が不明なのです。だいたい、何時、伊勢氏が足利氏に仕えるようになったかもまったく不明です。上記俊継の父とされる俊経について、頼朝の頃の足利上総介義兼(?〜1199没。妻が北条政子の妹)に仕えたという所伝もありますが、十三世紀後葉頃とみられる「足利氏所領奉行注文」(倉持文書)には、足利氏の家臣団諸氏のなかに伊勢一族の名はまったく出てきませんから、この辺は疑問も留保しておくところです。鎌倉期の足利氏の所領は、陸奥・下野・上総・三河など十七か国に散在したとみられますが、その中に伊勢はあげられていませんから、伊勢氏の先祖と足利氏の接点も不明です。
(2) 史料に初見の伊勢氏としては、尊氏の父・貞氏が上総守護のときの嘉暦四年(1329)に、貞氏の代官として伊勢九郎宗継があげられる(金沢文庫古文書)という事実がありますが、この者は現存する伊勢氏の系図には見えません。『尊卑分脈』などに見える伊勢氏の系図も、初期段階の「季衡−盛光−盛行」の三代は史料に見えますが、盛行の子とされる盛長・頼宗兄弟以降が史料に裏づけがありません。頼宗の孫ないし子とされる俊経以下が伊勢氏の一族とうけとられそうですが、これらのなかで鎌倉期の人々についてその系譜や任官記事を裏付けるものもありません。
俊経の子の俊継について、『尊卑分脈』では「正応二年(1289)任豊前守同日叙従五下」と記載され、たしかに『勘仲記』の同年の記事には平俊継についてそうした記事がありますが、この俊継が伊勢氏の先祖とするには年代が多少合わない感もあります。俊継の伊勢守任官の記事も、これを裏付ける史料は管見に入っておりません。『東鑑』に見るように、鎌倉期に伊勢を通称に用いるのは、主として二階堂一族なのです。
なお、俊継の兄に式部大夫俊盛が系図に見えますが、川島俊盛とは別人であることは年代的に言うまでもありません。
(3)
『太平記』になると、足利氏の活動につれて伊勢氏一族が見えてきます。巻二四の康永四年(1345)八月二九日の天竜寺供養に将軍尊氏に随行する伊勢勘解由左衛門尉が見え、次に巻二七の貞和五年(1349)八月十二日の足利直義と高師直との争いにおいては伊勢勘解由左衛門尉が執事師直方に加わったのが見えます。この伊勢勘解由左衛門尉は、1379年に政所執事となった伊勢貞継(1309生〜1391没)のことで、伊勢氏の系図によると、尊氏の父・貞氏の烏帽子子とされます。
次に、同書巻三二に伊勢左衛門太郎(教経か経久か)、巻四十の貞治六年(1367)三月に伊勢七郎左衛門尉貞行(貞継の子の貞信の誤記か)が見えます。
『尊卑分脈』には貞継の兄(実際には伯父か)にあげる八郎左衛門尉肥前守盛経が手越河原で討死したと記事に見えますが、『桜雲記』にも直義方の肥前守盛経入道戦死とあるとのことで、この辺りから伊勢氏一族の活動が明らかになります。八郎盛経の弟にあげられる左衛門尉頼継は、子に九郎左衛門尉宗貞がいるという事情も併せ考えて、上記の九郎宗継に当たりそうでもあります。『尊卑分脈』には貞継の子の貞信の右横に「実頼継子也」という譜註がありますが、これは本来、十郎貞継(初名時貞)に掛けられたものとみられます。
(4)
こうして見ていくと、伊勢氏の本来の姓氏・苗字がなんであったのか、その系譜がどうなっていたのかが分からなくなりました。おそらく、盛経の父で左衛門尉・八郎と見える盛継のあたりくらいからしか、伊勢氏の先祖は分からないということになります(伊勢氏の先祖に「俊」を通字とした時期があったかどうかは確認できません)。不思議なことに、伊勢氏は室町期でも、伊勢国に所領や地縁をほとんど持ちません。どうして足利氏と縁ができたのでしょうか。
ここから先はかなりの推測ですが、足利家人には梶原・長・三浦など鎌倉幕府の御家人一族庶流がかなりあることから考えると、伊勢は本来の苗字(すなわち姓氏でもあるか)であって、一族の関氏(伊勢が本貫で、「盛」を通字とする)が幕府に仕えて、その庶流が鎌倉後期になって足利氏に仕えた可能性もあるのではないかとみられます。
小田原北条氏の初代・伊勢新九郎長氏早雲庵宗瑞(北条早雲)がその自筆書状(『小笠原文書』)で、「先祖は伊勢国の関にいたので、関氏と称した」と記していることに注目されるところです。北条早雲の出自については、諸説ありますが、政所執事の伊勢一族の出とみる説が有力であって、そのなかでも京都出自説・備中出自説があるものの、後者の幕府申次衆の伊勢新九郎盛時と同人とする説が比較的妥当なようです。
伊勢の関氏は、伊勢平氏の関和泉守信兼(季衡の兄・貞季の曾孫)の族裔とされますから、その場合はれっきとした桓武平氏なのですが、あるいは信兼の一族がまったく滅んで、古族からの流れを汲む関一族に代わっていたのかもしれません。所伝では、伊勢の関氏は南北朝期に鎌倉から伊勢に戻ったとありますから、これが信じられるとすれば、鎌倉中・後期に関一族の初期段階で分れた伊勢氏が伊勢に縁が薄いのも自然です。
4 古代の伊勢国造の後裔 (1) 伊勢国造は中臣連の初期分岐であって、初め伊勢直を姓氏とし、のちに中臣伊勢連、中臣伊勢宿祢、中臣伊勢朝臣、伊勢朝臣という姓氏に変わりましたが、平安中期以降はまったくといっていいくらい史料に見えません。これは、太田亮博士も指摘するように、他姓(主として桓武平氏か)を仮冒したことによるものと思われます。
伊勢国造の本拠地については、史料や古墳などの事情からみて、伊勢北部の三重・河曲・鈴鹿郡(現在の四日市市・鈴鹿市)あたり、三滝川・鈴鹿川流域にあったとみられますが、斎藤忠博士も、古代の伊勢国は「三重県鈴鹿郡に国府村あり、伊勢国の北部、鈴鹿川の流域の地帯」にあったと考えています(『古墳文化と古代国家』)。
史料では、『小右記』長徳二年十月の三重郡大領として中臣伊勢常海、『平安遺文』(4−1416)には、康和元年(1099)十月の三重郡司として中臣伊勢宿祢(欠名も、同年〔承徳三年〕の別史料から「良平」か)が見えますから、古墳分布などと合致します。
上記地域には、伊勢国造一族の中跡(ナカト)直が河曲郡中跡郷にあったほか、中臣氏族の大鹿首や川俣県造も勢力を持っていました。河曲郡の延喜式内の奈加等神社(鈴鹿市一ノ宮町)に関して、由緒の一説には、雄略天皇二三年に伊勢国造高雄束命が勅を奉じて創建し、中跡直廣幡が宣旨より初代の祭主となったと伝えます。また、現在は桑名神社に合祀の中臣神社(桑名市本町)は桑名郡の式内社で、神武天皇時の功神で伊勢国造の遠祖天日別命を祀るから、桑名郡あたりまで伊勢国造の領域であったのかもしれません。
伊勢中部には和珥氏族の飯高県造一族、南部には度会神主・荒木田神主などが居りましたから、こうした配置から考えてもおのずと伊勢国造の領域は伊勢北部に落ち着きます。 (2) これら伊勢北部の地に平安後期以降栄えたのがいわゆる伊勢平氏と呼ばれる一族です。そのなかには、正しく桓武平氏の流れもあったとしても、主家の姓氏を仮冒したものもかなりいたと思われますので、確実なところを押さえて、考えていく必要があります。あるいは、庄田・富田・関(信兼一族)など確実なものは除外して、あとは全てに疑いの目を向けたほうがよいのかもしれません。
(3)
以上に記してきたことを踏まえて、実系がそうした古代伊勢国造の後裔ではないかとみられるものを敢えてあげてみますと、次のような一族ではないかと推されます。
@『尊卑分脈』で貞季・季衡兄弟の弟にあげる貞衡の後裔としてあげる桑名九郎良平の流れで、「平」を通字とする三重・大和一族。
三重郡司の中臣伊勢宿祢良平の族裔と推されます。ただし、桑名には桑名首の後裔も含まれていそうで、この辺の混合があるのかも知れません。
A伊勢三郎義盛の一族。
父が三重郡司といい、関係地が古代伊勢国造の領域にありますので、名乗りの伊勢も出自の姓氏によるものと考えられます。
B政所執事の伊勢氏も可能性あり。
伊勢氏の実際の出自が室町・戦国期の鈴鹿・河曲郡に勢威をもった関一族の鎌倉期分岐だとすると、関一族も同様に考えられるのかもしれません。
C三重郡阿倉川に居住した舘(たて、たち)一族。
舘氏は源平争乱期に見える舘太郎貞康、同十郎貞景が著名で、平貞盛末流の伊勢平氏と称されますが、系図が多種多様なうえ、平貞盛の郎等にすでに舘氏が見えており、古代豪族の末裔とみられます。舘貞康には、伊勢氏と同様に平季衡の曾孫・頼宗の子とする系譜所伝(「浄覚寺系譜」)があり、通字が「貞」であって、しかも、応永年間に伊勢貞純(ママ)が舘貞康の子孫を代官として阿倉川に置いたという所伝もあって、これが正しいときは伊勢氏が三重郡に所領を持っていた可能性があります。
なお、元久元年(1204)の三日平氏の乱のとき、三重郡日永の楯三郎が立て籠もったこともあり、この楯は舘と同じか。 D中臣姓(天武朝の右大臣中臣金連の後裔と称)で京都の吉田神社の祠官鈴鹿氏。
天平神護年間に山城国に来住と伝えるが、金連の後裔というのが疑問が大きい上、なぜ鈴鹿を名乗るのか不審です。 貴信を踏まえて検討してみたところ、私としても思いがけない結論を導き出したことになります。足利氏と縁の深い室町幕府の名族の上杉氏・高氏に系譜仮冒がみられることは、かつて別稿で指摘しましたが、伊勢氏にもそれがあった可能性が高いことに驚いた次第です。
なお、これらの関係で新しい史料が出てくれば、再検討して結論が変わるかもしれませんが、その辺もお断りしておきます。
(06.4.24掲上)
その後、ご教示等をうけて、伊勢氏についての掲示もありますので、次の記事もご覧下さい。 伊勢俊継とその一族 |
※ 上記の応答に関連して、 北条早雲の出自について の応答がありますので、併せてご覧下さい。 |
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