伊勢俊継とその一族

(問い)HPをいつも拝見しております。 
 政所執事伊勢氏の系譜についてご見解を伺いたいので、メールを出します。
 
 『新編岡崎市史20(総集編)』によると、『滝山寺縁起』に伊勢前司藤原俊継がおり、伊勢氏の先祖とありますが、伊勢前司藤原俊継及び、その父の肥前々司藤原俊経について見解を賜れればと思います。 

 
 
 (川部正武様より 11.1.4受け)

 (樹童からのお答え)

 室町期の政所執事伊勢氏の先祖の系譜について、史料が乏しいため、難解な面が多く、先に伊勢三郎義盛に関連して出自が桓武平氏ではない疑いについて記述したところですが、最近分かってきたことも含めて 伊勢俊継とその一族 について追補的に記してみましたので、なんらかのご参考になりましたら、幸いです。(以下は、である体
 
 平安中期の十世紀末・十一世紀初頭頃に伊勢国造の後裔一族が官人として活動していたことは、槙野広造氏の編纂した『平安人名辞典−長保二年−』からも分かる。同書で見ると、長徳二年(996)正月25日の『大間書』の記事に正六位上伊勢朝臣延清が上総掾に任じており、ほぼ同じ頃にその一族とみられる伊勢利延・伊勢利永(両者は命名からすると兄弟ではないか)も史料に見える。伊勢利延のほうは長保二年(1000)に相撲人で見え(『権記』)、利永のほうは長徳二年の右獄に囚監の強盗犯と記される(『西宮記』)。伊勢国造一族がこのように官人で残っていたことが知られる。
 これら一族の流れから、桓武平氏流の伊勢平氏に系譜を仮冒したものも出たと思われるが、京都で中下級官人として続いた家もあったとみられる。
 湯川敏治氏は、その著『戦国期公家社会と荘園経済』(続群書類従完成会、2005年)のなかで中世後期の摂関近衛家の家族構成と家産経済の考察を行っているが、近衛家の家政機構のうちの下家司として伊勢盛富とその子の盛寛・盛顕兄弟が公家の日記に現れるとする。すなわち、『言国卿記』文明十年(1478)二月二八日条に近衛家の「下ケイシモリ富」(下家司盛富)が見え、その子の盛寛が小野細川松明料の公文職を継いだが、『元長卿記』永正五年(1508)には「伊勢弥五郎」宛の安堵状も見えるとし、もう一人の息子の盛顕は『後法興院記』長享二年(1488)十二月一日条に近衛家政所に補せられたと見えると指摘する。
 
 肥前々司藤原俊経・伊勢前司藤原俊継親子については、中世の記録では、子の俊継の補任のみが見える。東大史料編纂所の「中世記録人名索引データベース」に拠ると、次ぎに掲げる表のように見える。

  
 俊継は、はじめ藤原姓で見え、『経俊卿記』の宝治元年(1247)十一月七日条には右衛門尉とあるが、同書のその翌十二月十二日条には平姓で修理進で見える。これが、伊勢氏の系図に俊継について「始号伊勢平氏」あるいは「寄天照太神託宣、謂伊勢平氏」と見えることに符合する。この四二年後の正応二年(1289)には『勘仲記』正月十三日条に豊前守平俊継が見えるが、これは『尊卑分脈』桓武平氏の俊継についての尻付記事と符合する。『経俊卿記』及び『勘仲記』に見える俊継は同人としてよく、その場合、衛門府の武官から累進して豊前守まで昇ったと知られ、その過程で藤原姓から平姓に改めたことも知られる。ただし、その後に「伊勢守従五位上」まで昇進したかどうかは、確認する史料がほかにない(正応二年の28年後の文保元年〔1317〕の俊継は明らかに別人)。『滝山寺縁起』に伊勢前司藤原俊継と見えるのであれば、これは『尊卑分脈』記事と符合する。
 また、俊経については、『尊卑分脈』に「肥後守」あるいは「肥前守」と見えるから、『滝山寺縁起』の「肥前々司藤原俊経」と符合する。ほかの中世史料には、これに該当する「俊経」は見られない。
 なお、俊経・俊継について、『尊卑分脈』に見える藤原朝臣姓の人々すべてに当たっても、「俊」の文字を通字とする一族が少ないうえ、これらの者の活動年代や官職等が明らかに伊勢氏一族とは異なる。「俊経・俊継」が親子ないし兄弟で現れるのも同書にはない。従って、『勘仲記』には俊継が藤原姓で見えても、『経俊卿記』の上記記事を考え併せると、これが他氏からの冒姓であった可能性が大きい。その場合、もとの姓氏が伊勢朝臣であった可能性が考えられる。
 
 滝山寺は、愛知県岡崎市滝町山籠にある天台宗の寺院で、松平氏に縁があって隣に三代将軍徳川家光が創建した滝山東照宮があることでも有名である。三河国額田郡には鎌倉期に足利一族の所領があったことから、南北朝時代には滝山寺が足利尊氏の庇護を受けたことも知られる。
 『滝山寺縁起』には、肥前々司藤原俊経(法名願仏)の弟・相模法橋円辰とその子の大進法眼増恵も滝山寺僧侶として見えており、この滝山寺を介して藤原俊経が足利氏の被官となったことも考えられる。伊勢氏の先祖俊経に関しては、足利義兼に仕えたという所伝もあり、同縁起には俊経が暦仁元年(1238)五月十三日に京都東山一切経の谷で死去とされ、ほぼ承久頃の人であるとみられる。『尊卑分脈』には、俊経の弟として僧円辰があげられている。
 こうしてみると、俊経・円辰兄弟の父親の世代が鎌倉初期の頼朝将軍の頃に活動したことも推される。
 
 『尊卑分脈』桓武平氏の伊勢平氏では、永保元年(1081)に六十歳で死去した平季衡(清盛の曾祖父正衡の兄)の子孫として伊勢氏があったと記載し、その系図は、「平季衡−帯刀長盛光−右兵衛尉盛行−伊勢守頼宗−帯刀・兵庫頭頼俊−俊経」とされる。これらのうち、盛行は十二世紀の前葉に史料に見えており(『為房卿記』康和五年〔1103〕十月二一日条に平貞光・平盛行とある。『中右記』天永二年〔1111〕十二月十六日条の右兵衛尉平成行も同人であろう)、存在が確認される。
 盛行の次の二代である頼宗・頼俊は史料からは確認できないから、この辺に系図上の仮冒・接続という問題があるかもしれない。頼宗・頼俊は兄弟として盛行の子の盛長の子におく系図や、頼俊・俊経を兄弟として頼宗の子におく系図もあって、この辺に異伝も見られることに留意したい。ただ、世代的には、頼宗は清盛と同じく保元・平治頃に活動した人、頼俊は頼朝と同じく鎌倉初期頃の人として、符合はしている。
 
<とりあえずの結論>
 以上のように見ていくと、武家伊勢氏の系譜は、俊経の父の頼俊あたりからほぼ信頼されるものと考えられる。その実系は、本来は伊勢国造の末流で伊勢朝臣姓であったとみられ、中下級の官人として続いていたが、鎌倉中期頃までは藤原姓を冒し、さらに桓武平氏を称するようになったとみられる。
 そして、中央の記録には見えない伊勢氏の起源に関して、『滝山寺縁起』は貴重な所伝を遺したと考えられる。
 
 (2011.1.10 掲上)

    (応答板トップへ戻る)   
   ホームへ     古代史トップへ    系譜部トップへ   ようこそへ